陀羅尼

 
下に纏わりつく、湿った感触に泣きたくなる。
暗い部屋に、また独り取り残されていた。
以前此処で彼に侵入したのは、我というのに。
その瞬間も、今の瞬間も、まるで自身が削られている様だった。

あの後、残滓の絡む指に舌を踊らせて
畳の上の布団で拭き取る様にしたライドウ。
喘いだ唇の隙間からの、あの淫靡な呼吸も形を潜めて
いつもの平然とした、暗闇の篭る唇に還っていた。
背中の弾を、哂いながら、その指先で抉ってくる。
我の漏らす呻きに、その唇は嬉しげに歪む。
耳元で、囁かれた言の葉。
 「天國の門を、人修羅はきっとくぐれぬよ…」
それの意味する事を、解き解せぬまま我は混迷する。
 「堕天使の唾液まみれだからさぁ…クッ、ククク」
抉り取った弾を畳に放り捨て、ライドウが先刻と同じ様に舌で舐める。
 「さりとて…君に唾、つけられても…癪だ」
その眼が、汚物でも見る様なそれに変わる。
同じ姿の我にも、あの様な眼が出来るのか、と、微量に不安が過ぎる。
ゆるりと離れていくライドウが、廊下に置いておいたのだろうか
開けた角鞄から何かを引き抜き、我に投げつける。
学帽のつばに当たり、背けた頬に擦れながら傍に落ちた。
 「それ、先日の時計のお礼に…君にあげるよ」
やや分厚いその本に、視線も一緒に落とした。
 「読まずとも構わないよ…?それ以上呵責に苛まれたく無いのならね」
挑発するかの如く、微笑んで我を見下す。
 「しかし雷堂よ、君は本当の家族に会いたかったのだろう…?」
云い放ち、高らかな哂いと共に消えた。
黒外套を翻して、だらしの無い我には既に目もくれず。



「…ぐっ」
抜かれた弾痕から迸る血が、凍る身体を融かしていく。
ずるりと、腰に力を入れると横に傾れ込んだ。
左右に天地がくる視界を、先刻の本が覆う。
(これは、何なのだ…)
まるで禁書の様な云いぶりだった。
それに指を伸ばそうとして、はっとする。
(そんな場合か)
伸ばした指を畳に沿わせて押していく。
持ち上がった身体の気怠さは、間違い無く下半身から来ている。
一瞬眩暈を感じて、背後の窓に背をぶつけた。
「…矢代君」
呼吸の代わりに一足早く口をついて出た。
顔を洗いに、と云っていたのに、その洗面部屋にはライドウが居た。
(君は、一体何処に)
気持ち悪い股座を無視して、下へと駆け下りた。
階段の数段おきに、赤い斑点が彩る。
撃たれた際に散った自身の血と知るのに、数秒かかった。
「業斗、無事か?」
封じられるままの開かずの洗面部屋、その扉のノブに一瞬指を接触させた。
奔る痛み等は特に無い…それを確認して両の掌で握り締める。
「  」
掌から伝わる魔力の形を、知る言霊に当て嵌める。
悪魔との交渉よりも楽なその術を、ヤタガラスで教わった通りに生かす。
「   …完了」
扉の向こうから、カシャカシャと金属音が響いてくる。
掌で包むドアノブが、魔力を失い普通の金属と化した。
それを捻って押し開ければ、脱衣籠に入って此方を睨みつける翡翠の眼が在った。
『遅い…!今の解呪、五秒も掛かったぞ!?チッ、腑抜けおって』
「そんなに掛かったか?」
足下に転がるイッポンダタラの打ちつけた歪な楔を跨いで、入り込む。
『あの十四代目め、出て行く際にちゃっかりと悪魔だけ管に戻して行きおったわ』
吐き捨てて啼く業斗を、物も云わずに抱き上げ、籠外に下ろす。
『雷堂?何だお前…』
いぶかしむ黒猫が先刻まで居座っていた、その籠に学生服の上を放った。
たて続けにシャツも、赤く染まった肩口から剥がす様にして脱ぎ捨てる。
『おい、濡らした布巾を当ててディアでもしてもらえば良いだろうが』
「すぐ浴びてすぐ向かう」
『何処へだ…』
「人修羅の処へ」
そう云えば、最早呆れで何も云えないのだろうか…
『大方、あの十四代目の手筈でおびき出されでもしたのだろう』
「業斗、席を外せ」
下の衣に指を掛け、制止したまま業斗に訴える。
『…今更お前の裸を見て減るものでも有るのか?フン』
小馬鹿にした様に嗤って、我の傍を通過し、ギシギシと揺れる扉を抜けていく。
「…すまぬ」
その小動物の小さな背に謝罪すれば、振り返らずに返される。
『こういう時、畜生の器だと鼻が利いて困るな』
「!!」
その台詞に即座に身を乗り出し、思わず力強く扉を閉めた。
(ばれていた―…!!)
恥と焦りが一気に身体を占拠していき、肩の熱さは消え失せた。
下の着衣を取り掃って、白い一枚布をするすると解けば
だらしなくお漏らしした、赤子みたいな気分になる。
その恥の塊を片手に、浴室に飛び込んでシャワーコックを目一杯捻る。
「はあ…っ」
ばたばたと煩い音が響き、そういえば、と学帽を脱いだ。
肩の傷を抉る様に流れ伝う水は、排水溝まで下半身の滓と混ざり落ちる。
鮮やかな赤が、股で色を濁されるを見て、妙な気分になる。
…辱められたのは、どっちだ?
おかしい、身体を曝け出していたのは向こうだというのに…
あの手に、意識がやられてしまったのだろうか…
(愛しい悪魔の御手)
身体を、降り注ぐ冷たい水に…斬り刻まれていく様だ…
意識が鮮明になると同時に、ライドウの手首が脳裏にくっきり浮かんでくる。
どうしてあれを付けた?
そもそも、彼は我と同じく所詮人間…再生はせぬ。
人形みたく付け替えが自由に出来る訳ですら無い。
嫌がらせにしては、あまりに身を殺いでいる。
“僕はね、必要に応じて着けただけだよ…”
(本当か?ライドウ…紺野よ)
そんな、まるで着物を纏うかの如くさらりと述べる姿…
我の眼を浅ましいと哂うライドウに、怒りと親近感が湧く。
互いの見たくない部分を見せ合うかの様だ。
(嗚呼、だから…反目し合うのか)
だから、憎い様でいて…酷く…辛いのか。




替えの学生服を纏い、未だ濡れる髪をさくりと横に撫ぜつけた。
『風邪をこじらせても自己責任だぞ、お前』
業斗の叱咤に一瞥くれてから、大太刀を担いだ。
「心配無用…そこまで軟では無い」
綺麗な綿糸の眼帯で、右眼を覆う。
一瞬姿見に見えた金色の眼に、恋しい想いが躍動する。
「我は往くぞ……業斗よ、貴方は如何する?」
学帽を被り、外套に身を包むと、傍の業斗にそう掛けた。
『道中に屑悪魔が蔓延るを無視せぬか、監視に追く』
「ふ、成程…」
『俺とて人修羅を野放しにするつもりは無い…だが役目は果たせ』
相変わらずの師に、烏の重みを改めて実感しつつ階段を下る。
「貴方は、焦がれた事は今まで皆無か?」
『フン、俺の知る記憶の中には無い』
「知らぬ記憶が有るのか?」
『永く生きれば忘れる事もあるだろうさ、今のお前は熱病を患っているだけだ』
ハッキリと云われ、やはり病気なのかと自身を顧みた。
でも…どうして、心地好い。
この感情に揺さ振られる日々の、狂おしくも生々しい感覚。
違和感を突き抜けた先の、確信。
其処に君が居る。



『雷堂様!』

銀楼閣を発つと同時に放ってあった、偵察帰りのパワーが舞い降りてきた。
暗闇に灰白い翼が浮かび上がり、我に跪く。
『見つけました、先導させて頂きます』
「そうか、引き続き宜しく願おう」
『はっ』
無骨な体躯で前を滑空していく天使の後姿。
太刀を背に担いでそれを足早に追う。
道中に悪魔は視えなかったが、しかし別のものが視界に映る。
(気に中てられたか…)
我とてこの異界と融合している様な気は苦手だ。
陰の澱みが、人の心を蝕む…
ゆらりと徘徊する街人を見て、傍を駆ける業斗に零す。
「烏は人手が足りなかったか?」
『いいや、手際が悪いだけだ、司令塔が無ければ正に烏合の衆よ』
暗に、我に指揮を執れと云っている。
(人掃けが足りぬ、酷い様なら保護しろ)
頭で念じて、口の中では言挙げる。
胸のホルスター裏から、白いそれを取り出して放つ。
魔力でやや光るそれは、方々へと幾つか飛び立つ。
同じ印で結ばれた烏の遣いの匂いを嗅ぎ取って、飛ぶのだ。
『お前の人使いも、なかなか堂々としてきたな?』
にしゃりと猫笑いで業斗が云う。
「…我自身の為だ」
駆けつつ、そうとだけ返した。
気に中てられ、我を見失っている人間…それが一番怖い。
彼等に悪魔は、基本視えないのだ…
なので、悪魔と交戦する我は、憑かれている異常者に見える訳だ。
だからといって、ヤタガラスという機関の説明をする訳にもいかぬ。
そう…任務遂行中に、襲い来るのは悪魔だけでは無かった…
今まで、どれだけ罵られたろう。
どれだけ、石を投げられたろう。
(嗚呼、早く君に会いたい)
過去の痛ましいそれらを、業斗が述べた如し“知らぬ記憶”としたかった。
そう、疎まれて傀儡と成るこれまでとは、違う。
君を想い、君の事を考え動く…生きた我の記憶しか要らぬ………


眼前の天使が振り返り、脇に退く。
白い景色の中に、君が居た…確かに。
だが。
「どう…した、これは」
駆け寄り、人修羅の横たわる身体の傍へと屈み込む。
「矢代っ!矢代君…!!」
揺らすにも、身体を見る限り、節々を斬られている…
僅かに無難と思われる腕を握り、声で鼓膜を揺らす。
微かに開いていた眼が、くわりと見開かれた。
「ライドウ!!」
途端、叫び上体を動かしたが、すぐに白い絨毯に落ち着く。
角が雪を抉り、それに眉根を顰める彼。
それを指でさすってやりつつ、なるべくやんわりと問う。
「…今呼んだのは、我か?それとも…其処の彼か?」
我の片眼の視線を読んだ君が、それに自らの金の眼を沿わせる。
「あ…」
白い雪に微かに埋もれた、我の分身が其処に居た。
人修羅が、首だけ反らして彼を見つめている。
我はさする指を放し、立ち上がるとライドウに歩み寄った。
背後から業斗の鳴き声がする。
『おい、あまり不用意に近付くな』
それを背中で聞き流して、片膝を着いて指を差し伸べる。
黒い立襟から覗く白い首に、ゆっくりと押し当てる…
ゆっくりとだが、確かに脈打つ鼓動。
それにどこか落胆の様な、安堵の様な、混沌とした感想を抱く。
「矢代君、安心して良い…死んではおらぬ」
前のめりに崩れたのだろうか、吐かれた血の上に倒れていたライドウ。
人修羅が、それでも繰り返す。
「ライドウ、生きてる?本当に?本当ですか?」
「ああ、間違い無い」
「あああありえない、あの男が、勝手にくたばるなんて、そんな」
震えて、その眼は右往左往して焦点を合していない。
そのあまりに狼狽した姿に、肩を寄せて抱き起こしてやる。
「ほら、見ろ……息づいているだろう?な?」
ライドウが見える様に、身体を傷付けぬようゆっくりと。
「し、死ぬかも知れない…あのままだと」
「葛葉一門はそう容易く死なぬ」
「あいつ勝手に血ぃ吐いてたんですよ!?おかしい!どう考えても異常だ!!」
ガクガクと震えはいっそう増し、それが雪の所為では無いと知る。
そんな人修羅を、外套で包む。
「君こそ、このまま居れば身体をおかしくする」
「ど、どうしよう、どうしよう雷堂さん、どうすれば…俺っ」
片眼だけしか見えぬのに、その表情が痛ましい程に悲壮だ。
「あ、あぁ…あいつが死んだら、人間の俺が死ぬのに!!!!」
動く腕で、我の腕に縋りついて来る。
「まだ死なれちゃ困る!!ルシファーの足下にも到達していないのに…そんな、困る」
「落ち着け、矢代君…」
「それにあいつを殺すのは俺なのにっ、何勝手にくたばろうとしてんだよおぉッ!!」
立てられる指が、鬱血しそうな程に我の腕に喰いこんでくる。
それを食い縛り、我は人修羅の肩を更に抱き寄せた。
そうしたかった。しなければ、我の存在を認識してすらもらえぬ気がした。
「矢代君、だから、死んでおらぬ…そう先刻から云っている!」
「ら、雷堂さん、助けて」
「…何?」
「助けて、俺を助けて」
立てられていた指が、這い上がってきて、縋る、乞う様に。

「あの男を生かして、俺を助けて下さい…」

震えて、我の胸元に顔を埋めつつ君が呻いた…
その言葉に、我は内で熱を持つ。
「…我に、そちらの葛葉ライドウを、看ろ…と?」
そう、胸元の君に、問い質す。
「浅ましい…頼みとは、解って、ます」
「…」
「でも、今…死なれたら、困る…」
絞り出す声音の真意は、何処に起因する?

嗚呼、右眼が…熱い。

「っ」

引き剥がした人修羅の頬を、思い切り強かに叩いた。
その身が雪に落ちる前に、前髪を鷲掴み、頬に我の掌をあてがう。
「…ぁ」
「矢代君…それは君がヒトとして生きたい為か?」
あてがった掌を、ゆるりと離す。
「それとも…あのライドウに生きて欲しいからか?」
その二択を与えて、君に選択させる。
苦悶の表情を浮かべて、かちかちと歯を鳴らす君。
「ぉ…れの…俺自身の…欲の為…で、す…」
「ライドウと居たい欲求か?」
冷たく返して、離した掌を振りかぶって、打ち付けんとする。
びくりと跳ねた人修羅が、叫んだ。
「違うっ!!俺の利己的な、俺の為だけの理由です!!!!」
叫ぶ彼の頬、寸前で掌を止める。
その止めた掌を、先刻打った頬にゆるゆると撫ぜつけて…再確認する。
「何故我に乞う…?」
「い…今…俺が縋れるのは…雷堂さんしか…いないからっ」
その言葉に、愉悦が込み上げる。
「どれだけ残酷な依頼をしているか…理解はしているのか」
「ライドウの為…なんかじゃ無い!本当に…本当です!!」
その訴えに、掴んでいた髪を離して、雪に横たえた。
上から、外套で隠す様に覆いかぶさる。
向こうに居る業斗と一瞬眼が合った。驚いた眼を…していた。
「ら、雷堂さ、ん」
「では、聞こう……今、此処で、我と契りを結ぶを交換条件にすれば如何に?」
途端、強張る君の肢体。
『戯けた事を!ぬかせ雷堂!!』
憤怒の業斗に、腰からすかさず抜き取った銃口を向けた。
引き攣る師の表情。
「業斗…我の銃の腕…承知だろう」
『…』
「威嚇のつもりが…当たってしまうやも知れぬ…な」
『…お前』
業斗からの滲む妖気が霞んだのを確認し、我に跨られる君に向き直る。
「どうなのだ、矢代君…」
「ぁ、ぁ…っ」
動かぬ身体は、彼に致命的な状態を与えている。
それを知っての上で、当然…我は組み敷いている…
震える君に、云わせたくて。
「で、も…俺を…人間にする為には」
「其処のライドウの様に、君を殺す様に扱う事はせぬが?」
「ルシファーが」
「紺野夜より我が強くなれば済むのだろう?」
もう、云い淀む事が無くなったのか…人修羅が、その眼を歪ませる。
「…それなら…契約を拒む…理由は、ありません」
そう云う声は、確かに震えている。
「そうか…良いのだな」
白々しい己の、嬉々とした声が醜い。
「…は、い……」
「願い上げてくれぬのか?矢代君…?」
ゆったり微笑んで、泣き出しそうな君を見下ろす、絶景。
その唇が、禁断の言葉を口にするかの様に、紡いだ。
「お、俺の主人に成って下さい…十四代目葛葉雷堂様」
「ライドウとは如何にして結んだ?」
「な、中に…」
察しがついていて、明かすを嫌がる君に問う。
紅潮した頬は、暴露の恥か、彼とのそれを思い出しての上気か。
「そうか…では、同じ様に致そうか?」
「!!ま、待ってくれ、雷堂さん、俺、こんな形は――ッ」
いよいよ眼を潤ませる君の、少し赤く腫れた頬に、そっと接吻する。
その痩せた身体と雪の間に腕を通して、抱き上げた。
しどろもどろにうろたえる人修羅を立てた膝で支えて、号令する。
「パワー、治癒しろ」
脇に控えていた天使が、少し進み出て翼を広げる。
腕の中の人修羅が、淡く光った。
「腱だけだ、事足りるだろう…どうだ?」
そう確認すれば、未だに焦りの表情で我を見上げた。
「雷堂…さん…なに、どういう」
「ふ、先刻のは冗談に過ぎぬ……我から強制する契りは交わさぬ」
「な…」
「痛くして大変申し訳無かった、矢代君…」
そう云って、君に微笑む我は…あまりに愚かしい。
一見優しい言葉は、酷い矛盾を孕んでいる。
それくらい、解っている。
「立てるか?」
「は、はい」
微妙な顔で、我から飛び立つ君。腕が寂しくなる。
「では、ライドウは我が背負う…申し訳無いが、君は追従してくれ」
「!お、俺が…」
「完治するまで、君は大人しくしているべきだ」
違う、本当は、君の肌が彼に触れるのを良しとしない、それだけ。
それなら、我が背を明け渡す方がマシだ。
外套を人修羅に纏わせて、ライドウに寄り…その身体を背に移す。
同じ体躯というのに、やや軽く感じる…丁度、影一枚分軽い、そんな感じだった。
唇の鮮烈な赤は、きっと吐いた血が凝固していない為だ。
「では、往こうか…矢代君」
「何処に、ですか」
「業魔殿だ…その方が都合良いだろう?烏の総本山より…」
はっとして、人修羅は頷いた。
平行世界は知らぬが、此方の業魔殿は烏との接点が薄い。
我と同じ姿の書生を運んだところで、大騒ぎしないだろう。
歩き出す我を、黒猫の翡翠の眼がねめつけるように睨む。
『俺に銃口を向ける冗談とは、随分お前も悪戯好きになったものだな』
「…すまなかった」
『その背中…せいぜい嫉妬の焔で焦がさぬ様にな!ハッ』
我に向けるその言葉と眼は、侮蔑とも哀れみとも取れる。
傍の人修羅は、バツが悪そうに業斗から視線を逸らした。


あのまま、結べば良かったのか?
いいや、彼からあの言葉が聞けたのだ、それだけで良いだろう。
そんな訳有るか、その肉も喰らいたいに決まっている!

あの、人修羅を叩いた瞬間…
偽りの無い、怒りを彼にぶつけていた。
あの男を、我の影を助けろ、と云う君に…苛立った。
我が救うのは、結局君を通り越して、彼なのだ。
君は、如いては自身の為になると云うが…それは結果論だ。
そんな残酷な君を、叩いて、組み敷いて…
そうして君の出した答え…
我がライドウの代わりになる、という事を云ったのに…
君は契りを受け入れたのだ。

つまり

ライドウを生かす理由は、其処に無いという事だ。
人修羅は…ライドウの利用価値を他者に見出したのにも関わらず
ライドウを生かそうとした、のだ…

沸々と、黒い欲望が這い上がる。
雪の白さが、この心の澱みを再認識させてくれる。
傍を歩く人修羅の横顔を、左眼で見た。
(生かした、この背の男を、君は最後には殺すのか?)
嗚呼…狡い猾い
背の貴殿よ、聞こえているのか?この憎しみの鼓動が。
人修羅に救われる特権、殺される特権。
我にも与えて欲しい。
いいや、我にだけ与えて欲しい。

肌蹴た彼の着物は、我の見繕った藍色。
知らぬ内に、汚される君が憎い。
それを着せたのは我なのに…
それなら、我に破かせて欲しい。
君との、知らぬ記憶を作りたくない。
君と居なければ、我は存在している気に、もう…成れぬのに。
「あの、雷堂さん」
君が、綺麗な横顔のまま呟く。
「御免なさい、俺が未だ弱いから…狡猾なそいつは、まだ必要なんだ」
君の声は、消え入りそうだった。
我は、背に感じる責め苦と裏腹に、微笑んだ。

「君が望むのなら、これで構わぬ」

嘘だ嘘だ虚像だ、この世界と同じで虚だらけだ。

本当は、頬を叩いた瞬間、支配の感覚に溺れて!!
組み敷いた瞬間、本当に繋がりたくて!!
今の瞬間は、背中の影を振り掃いたくて!!

君の望みは我の望みと違うのに!!!!

だというに、この、痛い記憶すらも…
君を含めば甘くなる…我に今を与えてくれる…
それが教えで、それが真理で
今となっては、この虚構世界における唯一の…

「功刀矢代」

真名全てを唱えれば、君がその眼をこちらに向ける。
突然の呼び声に戸惑いつつも、呼ばれる現状に憂う君が判る。
「なんでしょうか」
「いいや、口にしてみた、それだけだ」
人修羅…“功刀矢代”…
我の心で鳴り止まぬ陀羅尼…

もう、君の記憶だけ在れば良い…

陀羅尼・了
* あとがき*

結局憎きライドウを助ける選択をした雷堂。
酷いお願いをする人修羅、思わず暴力に走った雷堂。
個人的には、叩いて鷲掴みにしてやんわり微笑み問う…そんな雷堂がお気に入りです。