母が死んだ。
言葉にすれば、たったそれだけの事。
あの日を境に、俺と兄の路は真っ二つに割れた。
俺は内心、兄バージルを詰っていた。母を失ったという事実に、理由を設けたかったのだろう。
非力な人間、伴侶がそれであると知りつつも家を空けた父、母を守れなかった自身……
半分魔の血が流れるというのに、襲撃してきた悪魔共と渡り合う事さえもままならなかった。
そんな現実を受け止められる程、当時の俺達は大人じゃない。
怒れるバージルは弱者である事を恥じ、家を出た。
残された俺は独り、ただなんとなく生きた。
人間だって人間に殺される事もある、あれは事故だった……と、人の世に縋って。
酒に煙草に女、ギャンブルにアウトドアにレイトショウ。人間の娯楽は果ても無い。
特に力を欲したつもりも無いが、日に日に背筋を駆け巡る歪な電流が強くなっていく。
それを持て余している事を薄々感じ始め、発散方法として悪魔を狩り始めた。
大した矜持も無く、俺は目についた悪魔を掃除していた、フローリングの埃みたいに。
暫くしてから、兄と再会した。
俺が開業しようと事務所を借りた、ちょうど矢先の頃だ。
魔道を選んだ兄は、以前にも増して偏屈そうな面構えになっていた。
魔界への道を開く、たったそれだけの為に近所にぶっとい塔をおっ建てたもんだから、流石の俺もムカついた。
あの男と剣を交わし合い、次第にそれが楽しみになって……
元々口数の少ない、無愛想な奴だった。それが、喧嘩の時はいつも饒舌で。
昔と変わらない気質に、原因はどうあれ俺は夢中になった。
人とか悪魔とかどうでも良かった俺には、久々の兄弟喧嘩が嬉しかった。
お前もそうだろう? と、俺の投げる視線に……兄は首を振る。
可笑しいよな、双子だってのに。
まるで親父(スパーダ)の性質が、分離して注がれたみたいな。
結局バージルは魔界に残り、人である事を棄てた。
俺や母と父の、家族の思い出さえも棄てたに等しい。
そんなに親父の故郷が好かったか? 俺は……自分の生まれ育った世界が、故郷だと思っている。
兄にもそうであると、頷いて欲しかった。ただ、説得する術も言葉も、俺には無かった。
母を殺した連中と同格に成り下がるのか、と罵ってやりたくもあったが。
それなら俺達の父は何なのか、という話になる。
俺がこんなに日なたを好きなのは、兄からそういった性質を全て吸い取って生まれたからじゃないのか。
などと、お伽話みたいな事まで考えた。
それが本当なら、兄にとっては魔界の方が心地好くて当然なのだ。
人界にヒトとして暮らせ、なんて……俺のエゴでしかない。
だから、あそこで説得出来ず引き留められなかったのは、摂理に適う流れだった。
諦めもついた頃、そうとは知らずに兄を討った。
既に形が違った事もあるが、相手の残骸と共に零れ落ちたアミュレットを見て、暫し呆然としたのを憶えている。
前回の逢瀬が今生の別れと信じていた俺にとって、それはある種の終止符だった。
兄を利用した悪魔も滅ぼした、仇は討った、その筈なのに。燻り続け、未だに消えない。
「スパーダの後継者が受け継ぐ証だ」と、アミュレットを胸に抱く兄。
発さなかっただけで、口の中では母の形見とも唱えていたかもしれない。
意地っ張りめ。
アイツは素直じゃないから……責任感が強いから……自尊心が路を硬くする。
分厚い壁に遮られた通路、崩れ落ちる心配はないが内から外は見えないらしい。
其処を歩む事が贖罪とでもいうかの如く、険しい顔をして黙々と進む兄。
その後ろを追うようにして、今では新しい影が見える。
癖の強い黒髪と黒いタトゥーの少年が、俺の兄を辿る様にして……ああ、あれは人修羅だ。
「……バージル!」
時折見る夢。
「……ヤシロ!」
俺が叫んでも、振り返らない二人。
魔界の口が、地獄への入口みたいにぽっかりと口を開けて待っている。
あの堅牢な路は、煮え立つ其処に直通で。
見ていられなくなった俺が目を逸らし、いつも醒める。
Close To The Edge
「考え事?」
トリッシュの声が、冷水みたく俺の脳内を洗っていった。
「ああ……」
「そう、考え無しに行動する貴方がアンニュイなのは珍しいわ。でもね、せめて非戦闘時にしてくれないかしら」
「人生は常にバトルだろ?」
トリッシュの弾丸でトドメを刺された獲物から、俺の得物を抜く。
そうだ、俺の一撃では仕留められなかった。単独行動なら、反撃の一発でも喰らっていた所だろう。
「何を考えてた?」
「お喋りで発散されるような内容じゃねえぞ、つつき回されると余計に気が散る」
「バージルの事、それとも置いてきたヒトシュラの事?」
「デリカシー無えよな、お前」
トリッシュは口の端をクイと吊り上げてから、モデル歩きの様にして先陣をきった。
流石に見知った空間だからか、その足取りに迷いは見えない。
「この島から脱出した時は木っ端微塵に見えたけど、案外足場が残ってるものね」
「悪魔も残ってる、しつこい汚れみたいにな」
「フフッ」
ただ、うろつく悪魔共が……以前と違う。フォルトゥナで幾度かやりあった、天使っぽい連中に似ている。
《帰天》したは良いが、行き場を失い此処に屯していた……そんな所だろうか。
「でも貴方、割と真剣な問題でしょう。バージルはともかく、ヒトシュラは貴方無しでこれからどうするの。まさかネロの所にずっと住まわせるつもり?」
「ハハ、いくらなんでも……俺だってそんな事は避けるぜ。ネロの坊やに魔界まで追いかけられて、とっちめられそうだからな」
「そういえば、あの子の飼い主がお邪魔してたわよね。彼が勝手に連れ帰ってくれる算段?」
「さあな、ヤシロが拒まなきゃそうなるだろ」
「投げやりね、引き留めたくせに」
「俺は寝床を提供してた……そんだけさ」
アマラ転輪鼓の影で、いつも縮こまって寝ていたアイツ。
ショッピングモールの近い部屋であれば、かつて商品だった衣料品を持ち出して、それ等に包まっていた。
しかし坑道や深界の途中には、そんなモノ見当たらないワケで。いっそ毛布代わりに、毛足の長い悪魔をスカウトしたらどうだ? と薦めてみたが……結局それをしなかった。プライドが許さなかったんだろう。もしかしたら俺さえ見ていなけりゃ、モフモフとした悪魔をクッションに寝ていたかもしれない。
天輪鼓の部屋はいつも空気が冷えている。俺が直接寒いと感じるワケじゃないが、人間の部分でそう感じ取っていた。
「おい、風邪ひきそうだなお前」
回復の泉で戦いの汚れをさっぱりと落としたヤシロを、靴先でこづく。これからまさに入眠する所だったのか、壁に背を預けていたアイツは不機嫌を隠しもしない声音で。
「ひけない事、知ってるくせに」
と云い放ち、瞼を下ろした。
俺は傍に腰を下ろして、銃のエボニーとアイボリーのメンテを始める。時折、パーツからチラリと視線をズラしてヤシロの方を見れば、アイツは薄目で俺の手先を眺めていて……微かに響く金属音に、どこかうっとりとしている様だった。無音よりは、何か音が有った方が眠れるのかもしれないな。時計の秒針や、遠くの梟の声、同室者の寝息、心音。
……ひとしきり作業を終え、伸びをして振り向けば。さっと目を瞑り、さも眠っていましたといった素振りのヤシロ。俺の動体視力を舐めるなよ、バッチリこっちを眺めていただろうが。
鼻で笑いながらコートを脱いで、その寒そうな身体に被せてやる。すると、弾かれたようにパチッと金色が光り、上体を起こして抗議してくるんだ。
「寒くないから要らない」
「俺だって寒くないぞ、でも半裸で寝てるお前を見てると寒いんだよなぁ」
「俺を視界に入れず寝れば良いだけでしょう」
「まあそうかもしれんが……それとも何だ、コートから加齢臭でもするか? ン?」
「や、そんな事は云ってない! その……」
ヤシロは何やら口ごもり、コートを突き返してくる手がゆっくり膝上に落ちた。
「……俺だって同じなんだ。ダンテのいつも着てる上着が無い、それだけでそっちこそ、寒そうに見えるから」
そう、互いに“見える”だけなんだ。ブフを喰らってる時の様な、そういったダメージの冷えでは無い。
「じゃあ、俺が着ているべき、そう云うんだな?」
「ああ」
云われた通り、目の前で再び袖を通す。そんでコートを纏ったまま、ヤシロをぐい、と引きずり込んだ。
「ちょ、っと待て……」
「これならどっちも寒く見えねえから、イイだろ」
「子供じゃあるまいし、恥ずかしいだろ……こんな」
でも俺の腕から逃げないもんだから、そのまま壁に寄りかかる。最初は強張っていたヤシロも、ウトウトするにつれて柔らかくなっていく。コートの裾をその脚に引っ掛けてやると軽く身を捩って、やがて寝息が聞こえてきた。
互いに半魔、別に睡眠は必須じゃない。片方は起きていた方が堅実だろう、いくらこの空間が安全だってな。
でも、その時は俺も寝ちまった。あの穏やかな寝息につられた、多分。
ベッドだって、寝る対象が自分に載ってる方が落ち着くだろう、そういうもんだ。それからは何度か、俺が寝床になってやった。
アイツが回復しきらず一時的に逃げ込んだ時も、友を殺して沈む時も。そういう時は包んでやっても震え続けるもんだから、軽く背中を撫でてやるんだ。ガキの頃、俺が母親にしてもらったのと同じ様な手つきで。
すると、ゆっくりと深く息を吐いたヤシロが、仄かに光る。黒を縁取るラインが、代わりに呼吸するかの様に。輝く色に反して、温かに感じるんだ。コートの内に、思わず隠す様に包み込みたくなる。
「大丈夫だからな」とか、ガラにも無く気休めの言葉をかけてやって。何がどう大丈夫なのか俺自身にも分からないまま、眠りに就く。
目覚めた時には、いつも整然と構えるアイツが……俺を安堵させたから。
なんとかなる、そんな気持ちでいたかった。
「また考え事?」
今度は苦笑すらしないトリッシュ、いい加減呆れたのかもしれない。
「いいや、寝てた」
「まあそれはビックリだわ、夢見はどう?」
「サイテーだな」
こんな処に居るからだろう、今まさに地獄に真っ逆さま、といったシチュエーションだ。
空間の揺らぎが、落下速度も歪曲させる。横でトリッシュの金髪が、さらさらと水に溶ける絵具の様に広がった。
「なかなか着地しないわね」
「痩せたんじゃないのか、良かったな」
「あのねえダンテ、落下速度に重量は関係無いのよ」
「数式云うなよ、また寝ちまうぜ」
島の中央部から降りていく、夢に見る地獄への入口さながらの坩堝。
ついさっき交戦した天使共の羽根が、嵐に吹き上げられる落葉の如く舞う。上を見上げれば、もう地上の光は見えない。
「さあ、何が出迎えてくれるのかしら。貴方の予想はバージル……ネロアンジェロな訳? それとも再び甦った魔帝?」
「それを確かめに来たんじゃねえか」
「後者の可能性は低いと思うけどね、私の身体が疼かないもの」
トリッシュは元々魔帝のしもべであり、ネロアンジェロはバージルの成れの果て。魔帝もネロアンジェロも、どちらも俺が倒した……
フォルトゥナの海岸に流れ着いたネロアンジェロの破片は人間達に悪用され、バージルの愛刀《閻魔刀》も今ではネロ坊やの物。
でもきっと、閻魔刀は俺よりネロが持つに相応しい。バージルの忘れ形見同士、お似合いだ。
「兄貴の残りカスがまだ有るなら、拾ってやろうと思っただけさ」
「拾ってどうするのよ」
「さあ……こないだ拾った分は事務所に置いてあるぞ。デスクの一番下の抽斗、あそこ使ってないからな」
「何処かの国みたく部屋に祭壇でも作って、祀っておけば?」
「ハハ、んな事したらリベリオンが拗ねるだろ。こないだなんてコミック誌の上に寝かせたらキレてた」
既に憤慨しているのか、背中で喚く煩い剣。こいつとは長い付き合いだ、家族がバラけて俺独りになった頃も世話になった。
親父と契約したのか、魂を捧げて武器になったのか……詳細は知らないが、魔具である事は確かだ。
物体という形に納まること自体、俺なら御免だが。一体どういった感覚なんだろうな? ヒトと違い、核(しんぞう)よりも魂に依存するのが悪魔だ。それなら半人半魔の俺はどうなる、人間の要素は契約を妨害しないのか?
だが、バージルの破片から魔的な無機物が生み出されたとあれば可能性は有る。俺もいつかソレをやられたら、魔具モドキにでもされて扱き使われるのかね。それならゴツくてイカした大剣になりたいもんだ、オブジェにしてもクールな感じの。
「ねえダンテ、貴方が私だけを連れて来た理由、なんとなく分かったんだけど」
「デートとか抜かしたら鼻で笑ってやる」
「悪い予感でもするのかしら」
「ビンゴ」
ようやく地面に着いた、ブーツのソールが水音を立てる。ぬかるみの中、所々に木の根が張り巡らされた様な足場。脈打つ壁は赤色が目に痛い、見ているこっちがつられて血圧上がりそうな。
「おいおい、見覚えがあるぞトリッシュ」
グローブの甲で軽く叩くと、衝撃音を吸った壁がぐにゃりと波打った。
そうだ、ボルテクス界に在ったアマラの路と似ている。まさかあそこと繋がったのか?
「この趣味の悪さはいかにも悪魔的だけど、どちら様の界隈?」
「いや待て、俺の気のせいかもしれない……お前の云う通り、悪魔の根城にゃよくあるインテリアデザインだ」
それに、アマラの世界なら、どうしてネロアンジェロの気配が?
俺の血を磁石の様に引き寄せるそれが、足取りを軽くさせる。背後のトリッシュが俺に注意を促す、いつかの母親みたいな声で。それを聞かずに突っ走って、よく転んでたっけな。で、痛がってる俺は鼻で笑われるんだ、既に先へと進んでいるバージルに……
「居るな、懐かしい匂いがする」
通路を抜け、空間が開けた。脈動する根が壁から床から、一面に張り巡らされたホール。
これは……やはり違う、以前足を踏み入れた魔界とも別だ。まるで真っ赤で巨大なヤドリギが寄生したかのような、そんな印象を受けた。しかし、これが俺の知る魔界だろうがアマラだろうが、どのみち通行止めにしなきゃならねえ。
背のリベリオンに問う、さっきからジリジリと俺の血を騒がせるモノの正体は何かと。するとこいつは『お前が興奮し過ぎて紛れている、同一の気配など読めるわけも無い』とか抜かしやがった。これは要約だけどな。
全く、肝心な所でアテにならない。ま、これくらいが適切な指導者の形かもしれない。放任されてる方が気楽と思いつつ、俺自身が世話焼きという事に最近気付いた……お人好しというか、過保護というのか。そんな俺のエゴよりは、この魔具の方が幾分マシかもしれない。
「まあいいさ、訊くだけ無駄だった、何であろうと突っ込む予定だ」
特に返事もしないリベリオンの柄を、グローブの指先に捉える。空気がいよいよピリピリしてきやがった、後ろのトリッシュが臨戦態勢に入っている証拠だ。
「なあ其処の御老人、御無沙汰……だよな?」
ぬかるむ湿原の中央、唐突に始まるタイル床。洒落たマホガニーの小ぶりなテーブル、その傍には立体幾何学って感じのスタンドランプが仄めいて。豪奢な織柄の壁には点々と四角が連なる、それは上等な絵画の為にある様なフォトフレーム。不思議なピントの写真達が目を惹く、モノクロ写真に薄くセロファンをかざした様な……おぼろげな、非現実的に見える色彩。
「此処、座っても良いんだろ?」
車椅子の老紳士の向かい、テーブルを挟んだ形で着座した。どうやら人食い椅子では無いらしい、そうだったところで俺が逆に喰い殺してやる。
「なあウェルカムドリンクは無いのか? まぁ、俺も出さなかったしな……いいぜ、お気遣いなく」
俺はリベリオンを脇に担いだままだが、老紳士は強張りのひとつも見せやしない。
ああ、この見透かす様なツラ……そうだよな、依頼を請けたあの時も、なんとなく嫌な感じはしていた。
「あの喪服美人はどうした、セクハラでもして逃げられたか?」
煽り小首を傾げついでに、壁の写真を眺めた。視線で舐めた先、ガチリと引っ掛かる。パーカ姿の少年……隠し撮りにも気付かぬ、無防備なその顔。それを見た途端、胸の中で燻っていた所が燃え立つ。一瞬羽が伸びそうになったが、ぐっと堪えた。
「それじゃ、ちゃちゃっとビジネスの話に入るか……今回は俺が客、で良いんだろ?」
老紳士は杖の頭を真黒い爪先で引っ掻き、口の端を吊り上げる。肯定だな、そういう事にしておけ。
さっきからギリギリ触れないでいた事を、即行ぶつける。
「其処のマントルピース近くに有る甲冑、良いセンスしてるなあ……ん?」
薄っすらと微笑むだけの相手に、痺れを切らしそうだ。だが、恐らくそれで良い。
コイツはルシファー……自ら手を下すなんざ滅多に無いのだろうから、こっちから仕掛ける他無い。そして互いに知れているであろう《直接干渉出来ない》という事実。俺の攻撃はコイツに届かず、コイツの攻撃は俺を破壊しきれない。住む世界が違うからか……互いの防壁を突破する有効手段が乏しい。戦り合った事も無いのに、肌が理解していた。雑魚相手なら、そんなのお構いなしで拳一発KOだってのに。
「アレ、譲って欲しいんだけど、おいくらかね?」
黒い甲冑に親指を向け示す、ルシファーはだんまり。
「というかだな、アレは俺の身内なのさ。こういう場合、普通無償だよな?」
無言状態からやがてくつくつと笑いだし、肩にかかる彩度の低いブロンドが艶めいた。
「解かってやがるな? いいかこの際だから云っておく、他人の家庭事情知った上でそういう陰険な事するの、相当悪趣味だぞ」
「それが悪魔の生態だ」
テーブル上の、やりかけのチェス盤をカツカツと弄り出しやがった。引っ繰り返してやろうか、この舞台ごと。
「おっ、ちゃんと喋れるじゃねえか爺さん、まだボケるにゃ早いよな。ところでアンタ、何の目的で此処に居る?」
「クリスマスプレゼントは受け取らなかったのかね」
「あぁあぁ、あれこそ最低最悪の趣味だったなぁ! もしかして、あの中身と引き換え……とか云わねえだろうな? そもそもアンタがあの形で寄越したんじゃないのか? 自分をバラしてラッピングなんてクレイジーな真似、アイツには出来ないと思うがどうなんだ?」
ナイトの駒が盤を鳴らした瞬間、あの懐かしい波動が全身を震わせた。俺はリベリオンを片手に構え、座っていた椅子を片足で背後に蹴り飛ばす。
リベリオンに喰い込み、噛み砕かんばかりの冴え冴えとした黒いナイト。俺の目の前で、甲冑の亡霊が一歩後退する。どうやらこっちに喰らわせた一撃に手応えを感じなかったらしい、正しい判断だ。
「ははぁ、流石に本物にゃ及ばんな」
トリッシュは手を出さない、代わりにルシファーを警戒してくれているだろう。
俺は思う存分、バージルの残骸であるネロアンジェロの残骸を相手出来るってワケだ。
「お前も随分扱き使われてるな、え、兄弟? ちいっと破片がありゃ培養出来るとは、悪魔も随分テクノロジー化してんな」
本物の打ち込んでくる刀とは、大違いだ。確かに気は同じ匂いと色をしているのだが、パワーが別人の様で。
この弱い騎士が兄で無い事に安堵し、同時に兄でない事に虚しさを覚える。折角いやらしい角度で攻めて来るのに、単純に力負けしていたら意味が無い。人間同士ならテクニックが勝る事も、悪魔の血が入れば圧倒した方の勝利だ。
「安心しな……俺は、晒し者にゃしねえ、今度こそ眠らせてやる、バージル……」
兄の余韻を心の何処かで愉しみながら、そろそろ終わりにしようとスティンガーの構えを取る。
ほら見ろ、俺がこの構えをしてるってのに、これがチャンスだとも理解していない。
「合言葉、云えるか?」
案の定、無言の騎士。ネロアンジェロの時と同じく、俺が誰かも判らないんだろうな。やはりあそこに魂は無い、基本的なオーラと太刀筋をトレースした、騎士の玩具に過ぎない。あれはバージルじゃないんだ。
「……じゃあな」
ルシファーとの距離を確認しつつ、俺は重心を低くして突っ込んだ。一撃で仕留める、そのつもりだった。
だが、トリッシュが俺の名を呼ぶ声に一瞬踏み止まる。振り向くより先に熱気を感じ、床を蹴って甲冑騎士を飛び越えた。転がっていた椅子が轟々と燃え、俺のさっきまで居た場所には……パーカ姿の、写真の少年が……
「ヤシロ」
何の感情も無く、ただそいつがクヌギヤシロだから、口が唱えた。転がっていた椅子が炭になる為に、キナ臭いアピールを始める。そんな空気の中、見つめ合う。写真と違うのは、なまっ白い肌に思い切りタトゥーが浮かび上がっている点。
さっきの炎、明らかに俺に向かって放たれていた。
「お前独りで来た……ワケねえよな」
コートの端が焦げていたので、軽く払った。
視界の隅でトリッシュが、ヤシロの背後に回るべきかルシファーの方へ回るべきかを迷う様が見えた。俺がやられる心配はしていないだろう、もしかしたら「面白いのはどっちかしら」なんて思っているかもしれない。
「……独りじゃない、後で数名来ると思う」
「ほお、思うっつーのは何だ、そういう取り決めじゃないのか」
「必要以上に巻き込む気は無い、俺がそう判断して……分断してもらった」
「ハッ、そこの堕天使にか?」
俺の思うに、レディと……気が向いてりゃネロも来てるな。バージル関連となりゃ、多少興味が有る筈だ。
あいつ等は充分強い、分断ってのが構造的なものでなくルシファーの手下共なら、ほんの少ししか足止めされないだろう。
「ダンテ、子守りは一人で出来るの?」
「とりあえず黙っててくれトリッシュ、二人で話がしたい」
「はいはい、子供の喧嘩に親は口出し無用……ってね」
そうは云いつつも、触れたらバチリと来そうなくらい神経を鋭くしているトリッシュ。ま、その方が俺も助かる。
リベリオンの柄を指先に遊ばせ、クルクルと宙を斬りながら質問を考えた。
「ヤシロ、お前は今正気か? いっつもイヨマンテ……だったか? アレ飲んでるから、混乱はしていないと思っているが」
「ああ……正気……」
「何で疑問形っぽいんだ、ん?」
ピタ、と掌に止めたリベリオンを担ぎ、一歩二歩と歩み寄る。一瞬肩を揺らしたヤシロだが、それ以上は後退しない様子。
「俺は、俺は……貴方を殺すっ」
唐突に吐き出されたヤシロの台詞に、一瞬呆然としちまったが。反芻すれば何やら可笑しくて、俺はソールを床に数回叩きつけながら爆笑した。
「おいおい少年、今更どうした? マントラの入口で最初にボコされた事、ようやく腸が煮えくり返ってきたか? 随分とタイムラグ激しいな」
「本気だ!」
「なんだ、俺を仕留めりゃ金一封か、はたまた人間にして貰えるってか? 何処の人魚姫様だよ」
あの寸劇に、シビアな批評を飛ばしてたお前。こうなる展開、既に視えていたって事か。そりゃテンションも落ちるだろうな、でもアンデルセンは許してやれよ。
「俺を殺しに来たって割には、窮屈そうな箱で来たじゃないか。サプライズのつもりだったか?」
「……もう、そんな事は話したって、無意味だ……」
「一応俺にだって、聴く耳は有るんだがな」
「それとも、“また”殺せないのか、貴方は」
人修羅の吐き出した、引っ掛かる言葉。俺の脳裏に引っ掛かる記憶の中で、お前の首に引っ掛かる剣先……
「そんなに殺して欲しいのなら、今度こそお見舞いしてやる」
挑発に乗った俺を見たヤシロが……人修羅が、どこか苦し気な嘲弄をする。
俺はもう、半分くらい聴いていなかった、聴く耳持つと云った直後なのに。まるで受け取りたくない言葉は、翻訳処理されないかのように。
「クク……僅かな欠片をもとにした所為か、多少小ぶりな甲冑だったが……人修羅には丁度良いだろう」
未だ安穏と着座するルシファーが、杖で床を数回鳴らす。それを合図にしたか、人修羅が傍らの甲冑騎士を徐に撫でると……途端、それがガチャガチャと崩れ出す。再び破片となった甲冑は、静電気に遊ばれる羽の様に、人修羅の黒いタトゥーに吸い付き始めた。
一瞬、人修羅が甲冑に喰われたんじゃないかと……脳が勝手に判断して、俺は焦った。辛うじて、そんなリアクションは避けたが。
チラチラと、赤黒い縁取りが暗く輝いている。黒檀の如き艶が、甲冑のソレかタトゥーのソレか見分けもつかない。垂れ下がりつつ前方に食い込むようなツノが頭の両側に生えていて、ネロアンジェロを彷彿とさせた。有機的な鎧を纏ったそのシルエットは、デビルトリガーを引いた俺にも似ている。
「……ハッ、もうワンサイズ下だろ?」
俺はリベリオンの切っ先を向け、クイクイと下方を示した。
人修羅は何か云いかけた素振りで一瞬静止し、次の瞬間には跳び込んできた。甲冑を纏ってるにしては速い。ただ、俺の眼では指先の動きまで鮮明に視える。
幻影の剣を放つかと警戒したが、どうやらそういう小細工は出来ないらしい。ああ、ベオウルフか……バージルの得意とした魔具での戦い方が、投影されている。純粋な肉弾技であり、火力重視だ。魔弾もノーコン気味だったコイツには、この戦い方がベストなんだろう。
「おお、中身入ってる方がやっぱ強いモンだな」
繰り出されるパンチをリベリオンで防ぐと、手元から『毀れる、刃で受けるな』とクレームが飛んだ。
仕方なしに樋で受け止めりゃ、俺の手が少し痺れる。何度か続けてりゃ『同じ場所で受けるな、折れるぞ』とまたもやクレーム。
「うるせえな、後で直すんだから良いだろ」
口やかましいリベリオンを背に預け、俺は二歩の助走で相手後方へと宙返りした。ひねりを加えつつエボニー&アイボリーを構え、着地前から射撃を開始。試しに脚を狙ってみたが、ダンスのひとつもしちゃくれねえ。人修羅本来の再生能力も手伝ってか、致命傷には程遠い。俺は鼻を鳴らしつつ、地に這い蹲る。
「なるほど、硬い装甲が武器になりゃ都合が良いこった」
魔力を籠めてから、背のリベリオンを投てきの要領で放り投げた。我ながらお見事、人修羅の右脛にザックリと突き刺さる。
咄嗟に引き抜こうとする奴の腕を避け、リベリオンの柄頭に銃弾をガツンと撃ち込む。弾丸の圧が甲冑を貫通させたか、人修羅が軽く喘いだ。懐かしい血の臭いがして、俺の脳髄にもガツンとキた。
間髪入れず、サイドのツノを狙う。アイツはリベリオンを引き抜こうとやや屈んでいたから、左ツノが狙い易い。其処にまずは一発、すると衝撃に首が振れるから項のツノが丸見えになる、其処にもう一発。やっぱり項のソレが弱いのか、頭のツノとは比較にならないくらいに吠えてくれた。
「ハハッ、事務所で家事ばっかやってたから鈍ってるだろ。鎧よりエプロン着た方が強いんじゃねえのか」
寝転がり肩肘ついて、ヘラヘラ笑って挑発する。案の定、キレた人修羅はリベリオンも抜かずに突っ込んで来た。
ただしさっきとは違い、俺の目前に到達する前に、地を蹴り跳び上がった。ああ、月輪脚か、高速ローリングからのカカト落とし。思った瞬間には打ち下ろされていたが、俺だってまんまと喰らう筈もなく体を逃す。その技は兄貴の時で予習済みだ。
「おっと!」
ああ、ちょっとばかしミスったな。人修羅の脛を貫通したままのリベリオンを、目測に入れ損なっていた。
剣圧が俺の肌を裂き、地面を陥没させた人修羅の攻撃でコートがわあっと揺れた。直撃は免れたが……肩から鳩尾にかけて、ぱっくりと裂けた痕が確認出来る。一瞬痛いだけなので、こうして着衣を確認しないと何処をやられたのかもイマイチ判断出来ない。
「なかなかやるもんだ、ただお前……その鎧の中は血の海じゃないのか、ん?」
既に二人して場所を転々とし、あのハリボテじみたインテリアコーナーから遠ざかっていた。
攻撃後からずっと体勢を低く保つ人修羅が、俺を無言のまま睨み続ける。
「大丈夫か?」と声をかけたが、あいつの代わりにリベリオンが『さっさと引き抜いてくれ』と返事した。
お前に訊いてねえよ、と相槌しながら詰め寄る。そんな俺に合わせる様に、そろそろと姿勢を起こしていく人修羅。
「さあ、そろそろお開きだ。愉しいっちゃ愉しいが、お前は壁の花で居た方がお似合いだ」
踏んでも曲げても立ち直ろうとする負けん気は良いが、そういうお前で愉しめるのは俺が《悪魔》の時だけだ。半人半魔のジレンマは、お前こそ知る所だろう。高揚は波の様に満ちては、直後引いていく。
《人間》の俺は、ただ純粋に咲いていてくれと願う。お前の肌に黒いタトゥーが巡らされていようが、それもお前の一部に過ぎない。そういう種類の花が嫌いなヤツには、云わせておけば良いさ。俺はそういう花が好きだ。じっとしていた方がいい、目を付けた奴に刈り取っていかれちまう、その魂ごと。
「……だって」
甲冑が隔てるのか、単なる疲れか、くぐもった声音の人修羅が呻いた。
「悪魔に成り下がる俺を許さないって、貴方が云ったじゃないか……」
「今まさにお前は、あのジジイの眷属になろうとしてるんだぞ、違うのか」
「俺はっ……――」
まだ戦闘中なのに、言葉の途中で背後を見やる人修羅。何だ、ルシファーが居たら話せない事でもあるってのか? あの堕天使なら、確かに地獄耳だろうがな。
と……人修羅が逸らした目線を戻さず、一瞬でリベリオンを引き抜いた。マズった、ちょっと近いぞ。
こちらに放たれたリベリオンの柄をキャッチしたが、脇腹が裂けてコートに穴が開いた。
「眼を頼りにしない方が、コントロール良いじゃないか!」
ヒュウ、と口笛を鳴らし、帰って来たリベリオンで目の前を数回引っ掻く。既に間合いを詰めていた人修羅は、やや窮屈そうに俺の斬撃を躱す。その身の翻しを反動にして、グイと引き絞られた腕。
ああ、強力なパンチが来るな、と推測した。リベリオンはご機嫌斜めなので、自らの掌で受けようと構える。衝撃緩和の為に一歩退き、膝を柔らかくして腰を落とす。
「うわっ」
俺の後退が読めなかったのか、つんのめっている人修羅。馬鹿にするつもりも無いが、思わず口許が綻ぶ。
それでもタダでは転ばないと、地面に両の手を着くと同時に炎を発してきた。舐める様に俺の脚へと這い上がり、縋って来る火炎。
「あっついな、でもお前は寒そうだ」
俺は燃え始めたコートをバサリと脱いで、ブティックのフィッターさながらの動きで人修羅に羽織らせる。魔力放出後の硬直状態に陥っていたんだろう、まんまと炎ごと被っていた。自らの手を離れた火は、舞い戻るとダメージになる。
「はあ、はあ、俺は……寒くない」
甲冑の背を赤く滲ませつつ、払い除けたコートの色だけを引き摺る人修羅。
「寒くないんだ、ダンテ」
「だろうな、風邪だってひかない。だから、その甲冑さっさと脱いじまえよ」
「貴方を殺すまで脱げない」
「またまた、つまらんジョークだぜ……こんな茶番はさっさと終わらせて、帰ってピザでも注文するかな」
心の中でトリガーをひいた、実際楽しくもなんともない展開だったので、俺の身体も心に従って魔人化してくれた。人修羅の前でこの姿をしっかりと見せるのは、初めてだった気がする。
まじまじと鏡で確認した事は無いが、首から下を見るだけでも自分がおぞましく厳つい外見に変化したとは知れる。体表はごわごわと分厚い、まるで鱗の様なもので。籠手をはめた腕に見えるが、これも己の肉体の一部。コートを着ているワケでも無いのに、脚の後ろに広がり覆う影……翼が寝ている時の形態だ。裏地には、角度によって玉虫色に反射する幾何学的な紋様が刻まれている。自身のタトゥーさえ許せなかった人修羅にとって、この見目は生理的嫌悪が有るだろう。
「どうだ、今のお前とほぼペアルックだろ?」
笑いかけてやったが、どうやら俺のジョークも相当つまらなかったらしい。
人修羅はノーコメントのまま俺の顔をじっと、射貫く様に睨んでいる。その視線に肌が焦げる錯覚を抱き、自らの頬を撫でてみた。頬からこめかみの更に先まで、ひと続きになった金属の如し表皮。これなら表情を気にする事もねえな、バケモノの面だ。
「ちゃんと避けろよ!」
たじろぐ人修羅をよそに、俺は魔力を解き放ったスティンガーをぶちかます。ただし、台詞の通りお前は標的じゃない。
ギリギリで体軸を捻った人修羅を通過し、その向こうに居座る堕天使へと一直線。
想定内だが、俺の刃はルシファーの喉に食い込んだだけに終わる。周囲のインテリアやハリボテは、全て圧で吹っ飛んでいた。
「俺はあんたにダメージを与えられない、あんたも俺に喰らわせる事が出来ない……」
グリグリと皺がれた喉仏を苛めてみるが、フッと笑ったルシファーの吐息は苦しさの欠片も感じられない。
「だから、どっちの世界の悪魔でも無いあいつに……俺を殺らせようとしたのか、ん?」
まだ《完全なる悪魔》では無い人修羅に。
世界の色に染まらぬ魔物は、ヒエラルキーを逸脱し易い。護られない代わりに、破る事も出来る。危うい自由が、あの若い半魔には有る。俺の様なハーフとも違う、急ごしらえの半魔だ。
「俺を邪魔者扱いするのは勝手だが、それなら手前の手でやれよ。あいつはお前の駒じゃねえんだよジジイ。後ろからジロジロ眺めんな」
「それが出来ぬから、武器を使ったまでだ。それに……貴様はアレの何なのかね、始めはハンターとターゲットだった筈だが」
珍しく口を開けばそんな問いか。俺がどう答えた所で、肯定も否定もしないくせにな。
杖を撫でるまま、振り被る気配さえ無いルシファーに、俺はリベリオンを突き立てたまま吐き捨てた。
「……保護者だ」
声も無く嗤う堕天使に、俺は沸々と黒い怒りが込み上げてくる。
差向けておきながら、何が可笑しい。俺にとって、人修羅が大事な事を知るからこそ寄越したんだろう。
「だから俺は、あいつと腹を割って話し合う権利が有る……あんたにはお引き取り願いたいね」
「割った胎から、マガタマでも取り上げてやるのかね」
まさかの返しに、あの痛々しい光景が甦る。マフラー悪魔を巻き込んで、自殺しかけた人修羅の涙が脳裏に輝く。苦くも大切な思い出を、ベタベタと手垢で汚された気分だ。
許す事など出来ず、無駄と分かっていても切っ先を押し込んだ。
「ふふ……構わんさ。悪魔狩人よ、後はアレの好きにさせよう」
リベリオンの食い込む乾いた喉元が、血色と瑞々しさに溢れてくる。皺の影は淡くなり、透き通る様な肌と波打つブロンドが神々しい姿に成った。三対の羽を広げ、美しい天使の形で澄ますルシファーが宙に飛び立つ。
「それほど介入を厭うならば、二人きりで過ごすが良い」
周辺に散った残骸が、再び壁の様に組み上がる。俺の背後まで駆けて来た人修羅が、そのハリボテに囲まれる。当然、俺も同じ様に閉じ込められたって事だ。
天井が塞がる直前、ルシファーが薄く笑いながら飛び去るのが見えた。
シンと静まり返る空間……薄く物陰は確認出来るものの、不都合が多い。
「全く、さっき自分が居た時は四方を塞いじゃいなかったろうがよ、あの堕天使」
文句を云いつつも、ウロウロしてみる。人修羅は常に間合いを取りつつ、俺を警戒していた。
「ほら、そこの机の上に燭台が有るから、火ぃ点けろよ」
呼び掛けてみると、暫くしてから赤く空気が揺らめいた。燭台は見覚えの有る形状をしている、多分コレは……ルシファーが俺に最初寄越したメノラーと同じ形。
「嫌味なヤローだ」
人修羅はまだ甲冑を脱いでいない、あの地底湖みたいな色をしたタトゥーの光を見たかったのに。夜空よりも暗い海の奥底、ひっそりと輝く生物の様な。
「おい、さっさと脱げよソレ。新しい服なら買ってやるよ……次の仕事が入ったら、だけどな」
揺れる灯が、甲冑の刺々しいシルエットを壁まで引き延ばす。
人修羅の気配は、さっきよりも落ち着いて其処に居る。ネロ・アンジェロとは分離しているようだった。そうでなくちゃ困る、形だけは半分兄貴の様なものだから、見ているだけで俺が落ち着かないんだ。
「それとも、脱がせてもらうのが趣味か?」
だんまりの人修羅にズカズカと近付く。俺は既に普段の姿へと戻っているんだ、そこまで警戒してくれるなよ。
フルフェイスの兜とはいえ、目元は窓が有る。俺は少し腰を屈めて、目線を同じ位置に合わせた。隙間の暗がりで金色がチラチラと瞬く、切れかけのネオンの様に。
ゆっくり兜の角を掴み、真上へと引き上げる。フツフツと何か千切れる音がしたが、一刻も早くツラを拝みたくて聴こえないフリをした。多少融合する部分があったのか、それでも微かに引っ掛かる。あの癖毛が見えてくる程には持ち上がったので、俺は兜を燭台の横に置いた。眉間に皺を作った人修羅の頬には、赤いラインが光っていて。それはマガツヒっぽいが、滴る血の様にも見える。浮き出た血管がドクドクと脈打ち、模様替えしていたタトゥーが肌を滑る。引っぺがされた途端、元のトライバルに戻ろうとしているのか。
「……馬鹿だな、何をそんなヤケ起こしてんだ?」
しっとり濡れた前髪を摘んで、天辺に向かって撫でつけてやる。ふわりと香った血と汗の匂いは、甘い。
微かに滲む汗、眼から滲む涙に、人間を感じる。薄く開いた唇が震えているのも、そこから発される声音が引き攣っているのも、すべて……ヒトの要素を前面に出してくる、お前らしさが有った。
「ダンテ」
「おう」
「殺ってみろって云われてたけど、やっぱり無理だ」
「ハナからそんなつもり無かっただろ」
「ダンテ」
「何だ」
「俺は……俺は、最初に貴方に逢った矢代なんだ」
「なんとなくそんな気はしてたぜ」と云ったつもりが、抱き締めていた。
ああ、何か思い出すと思ったら……セタンタを巻き込んだこいつを抱き締めた時も、周囲にマガツヒの匂いがしていたんだ。
昔から暴走すると滅茶苦茶しやがる、そんな所をまた目の当たりにしちまったってワケか。
「どうして黙ってたんだ、そもそもお前があのヤシロだとしたら……サマナーと一緒に居た方のヤシロは一体」
「それも俺だ。俺は思い出しただけなんだ、ダンテ……貴方とボルテクスを廻った頃の事を」
「じゃあ話してくれた方が色々早かったろ、何を躊躇った」
こんな至近距離なのに、視線を外しやがった。これはまだ何か抱えているな、分かり易い奴。
「……ルシファーの誘いに乗ったのは、間違いない」
「後ろめたかったから、俺を知らなかったヤシロのフリをしたのか?」
「それは……そう、かもしれない。その方が、俺も気楽だった」
「本当か? 気楽なヤツの顔には見えないぞ」
頬を抓ってやると、ようやく視線を俺に戻した。
「俺だって本当は……あの時の俺だ、ってさっさと吐き出して貴方に謝りたかった」
「そりゃ何に関しての謝罪だ?」
「あんな形の創世を迎えて、それに巻き込んだ事を」
「謝罪か……ま、そうだな。お陰様で俺は、兄貴に次いでお前の夢まで見るようになっちまった」
「それ、悪夢って事?」
「現実にお前等は居ない、そういうワケで目覚めのスッキリ感は無かったな」
いいや本当は違う。夢は己の投影、だからお前のせいじゃない。兄貴の事だってそうだ。あれも奴の決めた事だから、それに関していつまでも引き摺っている……これは、俺の心の問題だ。
抱き締めた接触部分が冷たい、早くこの甲冑も脱がせてしまいたい。
これは兄貴の残滓を、少しでも集めたがった報いかもしれない。弔いの心だけなら、閻魔刀をネロに譲った時点で既に昇華されていた。
俺は……兄貴が真の悪魔になってしまったという証拠を、この世から消してしまいたかったんだ。集めた兄貴のカケラを、取り込もうとしたのか隠そうとしたのか。手元に入れた所で、どうするかは考えていなかった。
「ルシファーに何を唆されたかは知らんが……お前が関わってなくても今回の件は俺、きっと釣られてたぜ。野郎も野郎だ、お前に俺を始末させたいのならついさっき呼べば良い話だろうがよ。どうしてわざわざクリスマスの晩に、プレゼントで先に寄越すかね」
「俺がいつまで経ってもダンテに手を出さないから、痺れを切らしたんじゃないのか……この島に訪れるなんて、俺も予測してなかったし」
「お前が奥手な事すら知らないのかよ、しょうがねえな」
俺の軽口に、ヤシロの口許がほんの少しだけ綻ぶ。
あの安ホテルで手を出していたら、返り討ちに遭っていた可能性も有るって事か。本当に奥手なのはどっちかって話だ、多分アソコを食いちぎられても死にゃしねえってのに、臆病だな。
「しかし、どうしてバラして寄越すかね、ジグソーパズルのつもりか?」
「……さあ、そんなのルシファーに確認してくれ」
ふい、とそっぽを向くヤシロの項の突起を掴む。一瞬ビクついたが、俺のもう片方の手が甲冑に伸びた頃には「はあ」と息を吐いていた。
やや有機的な鎧、漆黒に潤む赤黒い輝き。触れる指先から、懐かしい波動を受け取る。魂が抜けても悪魔のパーツには魔力が残留する、まるで呪われたアイテムの様に。だから、悪魔がそのまま形を変えた魔具なんてのは特に強力だ。
バージルも俺も半魔だから、そうなる事はないだろうと思っていた。だがバージルはこうして甲冑の形を残した、これが完全な悪魔となった証拠だろう。しかし魂は無いので魔具というには中途半端だ。リベリオンの様に呼応しない、繰り出す攻撃も装者の意思によるもので、魔具の意思がコレには宿っていない。
「で、お前はどうしたいんだヤシロ。俺を殺すのもしくじった事だし、このままおめおめと堕天使の処には帰れんだろ。デビルサマナーは御立腹だし、一体この後何処を頼るんだ?」
「そんなの――」
「俺しか居ないよなぁ?」
「……まあ、分かってるならそれで」
納得いかないといった声音で、よくもそんな台詞が吐けたもんだ。
俺は腹から笑いつつ、甲冑の継ぎ目を撫ぞった。内部を剥離させる様に、甲冑を繋ぐ魔力だけを断っていく。首回りを露わにさせて、お次は肩……
「そういやお前、レディ達と来たんだったか」
「……もう会う気は無い」
「んな事云うなよ、俺だってあいつ等と何度かケンカしたぜ? だからお前の今回の事くらい何でも無い」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題だ」
ヤシロのフロントに回り、俺は真正面から見据えた。胸元を開こうとグローブの掌を当てた途端、ばらりと砕けて転がった。
ガチャンガチャンと他のパーツも崩れて、俺の眼の前にはメノラーの灯だけがユラユラと映った。
見下ろすとヤシロがまた苦しそうに喘いでいた、バラけた甲冑の中に肉が残ったままだ。
「トリッシュ!」
叫んだだけのつもりが、勢い余ってデビルトリガーを引いた。
メノラーどころか四方の壁も吹き飛ばし、すぐ外に居た悪魔を睨んだ。睨んだつもりが……どうやら俺は情けないツラをしていたらしい。トリッシュも一瞬、泣きそうな顔をしていたから。
「組み立てたのは私だから、バラす事も出来るのよ」
「子供の喧嘩には口出さないんじゃねえのか」
「まだ分からないのダンテ、その子は餌なのよ、貴方をおびき寄せる為の……バージルの残留物はブラフに過ぎない」
「おま、ヒトの兄貴をブラフとかなあ――」
「さっきの老人モドキがその子のボスでしょう? ねえダンテ、私が貴方の母を模して造られた意味、もう一度考えてご覧なさい」
「でもお前だってボスを裏切った、俺を救ってくれた、違うのか」
「……そうね、だからこうして貴方の敵を排除してるってワケ」
「コイツは敵じゃない」
「不安要素よ」
トリッシュから一瞬目を離す、俺の下は血みどろだ。ああ駄目だな、さっさとしねえと再生労力が勿体ない。
俺の血も分けてやる事は可能だ、ただし他者の血で全てを補った時の拒絶反応までは予測出来ない。
「悪いがトリッシュ、邪魔するなら一時コンビ解消だ。俺はコイツを元に戻す……またバラすであろうお前には、此処から一旦出て行ってもらうからな」
「私をバラしてみたらどう? 暫くは動けない」
「お前、自分の形知ってんだろ? そういう残酷な事がよく云えるな?」
「悪魔ですもの」
上等だ、それくらい挑発してくれないと俺も気乗りしない所だ。
忌々しいがルシファーの足止めには感謝する、このタイミングでネロやレディが居たら、もっと厄介だった。
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「視えてるか、ヤシロ」
少し眠っていた様だ、声に呼ばれて瞼が開く。最初は眩しく白んでいたが、少ししてようやく色彩が戻って来た。
赤いコート、鈍く光を弾くプラチナブロンド、見下ろしてくるアイスブルーが雫の様に俺の意識を穿つ。
「ダンテ」と唇を動かしてみた、どうやらまだ発声に至るほど回復していないらしい。
末端どころか四肢の感覚も無い、眼球だけを忙しなく動かせども、見えるのは赤ばかり。
アマラ深界は何処もそうだった、ぬかるみもどこか生温かくて気持ち悪いんだ。スニーカーの中まで染みて、いつも嫌だった。回復の泉やターミナルに寄ると靴と靴下を乾かして凌いだ。そんな俺の裸足を、ダンテがしょっちゅうくすぐってくる。何度云っても辞めないから、次第に俺も諦めた。
図体のでかい大人がそんなガキっぽい事をしてるから、どこか安堵していた。そういうしょうのない所と引き換えに、俺も甘えさせて貰っていた……
そう、丁度今みたいに、コートに包まれて寝させて貰っていた。
「大丈夫だ、こんだけくっついてりゃ俺には聴こえる。無理に口を動かすな、念じれば頭に直接来る」
なんだって……じゃあ、こうして昔を思い出してるのも丸見えなのか?
この際どうでもいい、声に出さなくて済むなら逆に助かった。
ダンテ、俺がバラバラになって送られたのは……まさしく組み立ててもらう為だった。きっと貴方なら、足りない血肉を分け与えるだろうという算段だ。
そうして俺はあの時、貴方の血を取り入れた。だからその……お兄さんのパーツ、この甲冑と癒着する事が容易だった。
「それもルシファーの案か? 随分と回りくどい事しやがる。お前も少しは反論しろよな、自分の体バラされて平気な奴が居るもんか」
其処なんだ、ダンテ。俺は貴方の血を得て確認したかった、自分に馴染むかどうかを。
問題は無かった、五感が……いや六感まで冴える思いだ。貴方が他の悪魔から狙われる理由が、分かった気がする。
「美味かったか? そりゃどうも」
ダンテ、頼みが有るんだ。違う、また殺してくれなんて云わない。
違うんだ、もっと……もっと酷い事云うから、覚悟しろよ。
俺と合体して欲しいんだ。
「悪魔じゃないから無理だぞ。別の意味だったらそれも御免だ、R指定っつったろ」
違う馬鹿、後者はとにかく違う。あのホテルの件は忘れて欲しい、俺も色々血迷ってた。
俺とダンテは同じ半魔だ、だから二人併せて悪魔一体分になる。悪魔は魔具になるんでしょう、以前貴方が教えてくれた。寝物語に武器をいじりながら……事務所でお飾りになってるそれ等を見上げながら……
とにかく、俺とダンテが一緒になれば、そこそこ強い魔具になれる。
「半魔二体で悪魔一体分だぁ? そんなの聴いた事が無い、ドコで知った」
俺が考えた。
何笑ってるんだ、真面目に聴いてくれよ!
ああ痛い、怒らせないでくれ……身体が軋む。折角貰った血が抜け落ちる、酷く寒い。
「そんなにまでして武器になりたいのかヤシロ、人間として生きる気はなくなったか?」
ダンテ、貴方が云ったじゃないか。俺に雇われてくれた時に……
「あのジジイの眷属に――」
――成り下がるって云うなら、話は別だ。ってさ……
俺、結局一度逃げたんだ。ダンテが殺してくれなかった事を、やっぱり許せなかった、でも嬉しかった。
頭の中はずっと混乱してた、マガタマを胎から出そうと掻っ捌いた時だって自棄だった。散り散りになったセタンタを見て一瞬醒めたけど、すぐに戻った。心を預ける先なんて無い、何度も転生するなら他を気にする事も無いだろうと。
一体、何周まで貴方は付き合ってくれるんだろうかとか。またセタンタの様な仲魔が出来たら、俺は扱き使って最後には都合好く利用するんだろうな、とか。思い出してからは荒むばかりだった……
強制的な転生を繰り返させられるうちに、俺は悪魔の方が色濃くなっていって、きっと最終的には――……
「馬鹿はお前だ、そんな事不安に思ってたのか。何周だって付き合ったさ、半魔だろうと呆れるくらい寿命長いらしいからな。俺を見りゃ分かるだろ、まだまだイケるぜ」
貴方との事を思い出してから、ずっと考えてた。会えたらまず謝罪して、それからお願いしようって。
「ハハ、謝った次の瞬間にはオネダリか、なかなかの交渉上手だ」
茶化さないでくれ、俺は本気なんだ。
俺だけじゃ力が足りない、まだヒエラルキーが意志の邪魔をする。でもそれを突破出来るより先に、ルシファーが戦争を始めたら不味い。きっと決着のつく頃には、俺は完全な悪魔になっている。
ダンテは強い、でもルシファーと干渉出来ない。だから俺とひとつになれば、その制限から脱する事が出来る……筈。
俺ともダンテとも違う、全く新しい存在になるんだ。強さだけ合わさったまま、何の支配下にも無い状態に。
「で、魔具になった俺とお前で、打倒ルシファーって事か?」
馬鹿馬鹿しいと思うなら、このまま俺の事は放っておいてくれ。
「イイぜ、面白いじゃねえか」
はあ?……少しは躊躇した方が良いだろ。
「ひとつ疑問だが、互いの悪魔の部分が魔具になるとしたら、残った人間の部分はどうなる?」
……分からない。もしかしたら人間が邪魔をして、うまく合体出来ないかもしれない。魔具には成れても、人間は消えるかもしれない。つまりこの案は完全に賭けであって……命を投げ打つに等しい行為だと思う。
だからダンテ、もう少しくらい悩んでくれ。そんな安易にOKされたら俺が困る、責任は持てないんだ。
「あの堕天使に一泡吹かせてやる為に、俺はお前に雇われた。つまりまだ雇用関係だ、これは契約更新の作業って事さ」
「……ダ、ダン、テ」
「だから喋らなくって良いつったろう」
「き……気を遣わせて、ごめん」
ああ、あの時と同じ表情で俺を見下ろしてくる。ぎゅう、と抱き締めてくれる腕は逞しく、半魔の割に温かい。
病院での二度目の目覚め、また悪魔として生まれた事に俺は絶望していた。でも今度は一人の目覚めじゃなかった。
俺の首を落とそうとした姿を見て……俺は、貴方を信頼した。次の最期まで一緒に居たいと願った。
「気なんか遣っちゃいないさ……俺も、頭の片隅には常に消えたい衝動が有った。兄貴もお前も、遠い所に行っちまったみたいで。それを選ばせたのは俺のせいじゃないかってな、ガラにもなくずっと考えていた。だからさっき、お前と対峙した時に……そうなる予感は既にしていた。ネロアンジェロになった兄貴を手にかけたように、悪魔姿で舞い戻ったお前をいつか殺す事になるんだろうと、呪いの様に妄想していた」
すっぽりとダンテの両腕に納まる、俺はそんなにコンパクトになってしまったのか。
もうどうでもいい、どうせこのままひとつになる。どちらの体温かさえ分からなくなる、鼓動もチューニングされ始める。
チューニングといえば、ダンテの部屋にあったギターケースが気になる……今更だ、中身を確認すれば良かった。この人、楽器を弾くんだろうか? 一度くらい強請ってみれば良かった。
「そうだお前、クズノハにお別れは済ませてあるのか?」
あのサマナーの事だ、いずれ会うに決まってる。あの男も、ルシファーには因縁が有るらしいし……倍返しにしなきゃ気の済まない奴だから、ルシファーに通用する武器を欲する筈。
何かといけ好かない奴だったけど、何度か救われた。いや、無理矢理立たされた、が適切か。人間の身体なのに、ダンテ相手に俺抱えて逃げるだとか……いや、思い出すのは止そう、合体のノイズになる。想い入れ無い方が良い……もう決めたんだ。
「何処に流れ着こうが《俺達》の使い道は有るって事だな。此処に転がってりゃ、とりあえず俺の関係者が拾ってくれるだろうし。しかしクズノハに拾われちまったらどうかねえ? 俺もお前もアイツに反発して、アグニとルドラみてえにギャーギャー煩い魔具になっちまうかもな」
……なんか、ライドウ……近くに居た気がする。
「マジか? どうやって島に来てるんだよ。まあ、海を渡る悪魔の一匹くらい使役してるかもな」
いや勘違いかもしれない忘れてくれ、俺も忘れる……
「まだ居残ってるんだったら、アイツにも事務所の修理費請求すりゃ良かったぜ」
入口の大破した事務所を思い出す。先日立ち寄った際には綺麗に修繕されていたが、ダンテが居ない事も相俟って別の空間の様に感じた。デスク上にピザの空箱、ページの折れたコミック誌、受話器の外れかけた黒電話、優しく微笑む母親の写真……
「な、ちょっとは散らかってる方が落ち着くって、よく分かったか?」
深く関わらぬつもりだったが、ダンテの周りの人達とはもう少し会話すべきだったと今更思う。
パティは小姑みたいだし、あの歳で通い妻みたいな事してて不安になる。
レディは頭が固いしバイクの扱いはガサツだし……でも悪魔に苦しめられた点は同情する。共感は出来た。
ネロには世話になった……愛想の悪さはお互い様だから、逆に気楽だった。あの右腕が、誇らしげにさえ見えた。彼女持ちって所だけ、世の不公平をやや感じた、やや。
そうだ、トリッシュ、貴方の相棒はどうなった、それこそ別れは云ったのか? こうして俺はバラされたけど、あの人が居なかったら箱詰めのままだった訳だし。ああ……でも身体は痛いから、正直感謝する気になれない……
「あいつは暫く動けない筈だ、お前の心配する事じゃない。いずれ会えるだろうさ、さっき自分で云ってたろう?」
ぽん、と後頭部にダンテの掌が当たる。その後、衣擦れの音がしたと思ったら、今度は素手で俺の額を撫で始めた。
グローブを取り払った指はとても柔らかな感触で、どうやら顔の血を拭ってくれている。
「で、どうやるんだ?」
魂を捧げる……だったか、具体的によく分からない。念じれば良いだけだろうか、そんなあやふやな条件で出来てしまうのか。
互いに互いの魂を捧げるというのも、なんだか心中みたいで微妙だ。別に、そんなんじゃないのに。悲観的なカップルみたいに思われたら嫌だ、もし魔具になれず二人して死んだだけになったら誤解されないだろうか、ああ、それだけは御免だ、沽券に係わる……
「ヤシロ、雑念が多過ぎる」
だって……
「ようし、じゃあ一緒に眠るとするか! 同じ事考えて眠れば同調するだろ、目覚めた時には晴れて最強の魔具、ってノリさ」
「……ふっ」
「おいおい声出して笑ったろ今、俺は大真面目だからな?……さて、お前ももう疲れただろ、楽にしな」
ゆらゆらと、揺り籠の様に船漕ぐダンテ。覆ってくる赤が、コートなのか表皮なのか分からない。魔人化を解いた後には普通に着込んでいたけど、本当に着衣なんだろうか。でも事務所のコートラックには引っ掛けてあったし……肉体の一部では無い筈。
「何考えてるんだ……コートじゃなくて俺の事だけ考えて、ゆっくり眠れ」
ゆるゆると、ダンテも形を変え始めている。目の覚める様なその色は、穏やかに視界を温めた。
In the field so green and so free, seeds gaze up ――……
ダンテが何か口ずさんでいる、意味は分からない。でも、酷く落ち着く。
瞳も閉じていないのに、意識は落ちかけている。
But still, the fragile seeds wait long for the sun to shine
Dark winter away, come spring ――……
……これでようやく、俺の罪はチャラにしてもらえるかな?
ふと頭に響く声、空気を介さず俺に直接触れた。
ああ、そうだ、あの時既に云ってたじゃないか。何度だって付き合ってくれると。
そうだ、俺はこの人を信じている……今度は諦めない……
温かい、春の陽射しの様な眩しさ。
さっきと同じ歌が聴こえる、女性の声だ。
そうだ、これは子守歌。
何故そう思う? これはいつの記憶だ、誰の思い出だ……
ああ……俺じゃない……ダンテの記憶だ。
すぐ隣、規則正しい寝息で横たわる銀髪は、双子の兄で。
ふと見上げれば優しい眼が俺を見下ろしている、トリッシュと瓜二つ。
「まあ、何笑ってるの……疲れたでしょう、そろそろおやすみなさい」
これは現在じゃないんだと泣きたくなる、写真と同じ微笑みが胸を締める。
悪魔に殺されてしまった人間、悪魔に愛されてしまった人間、悪魔を愛した人間……
眼の奥が熱い、頬を伝うそれを拭う事も叶わずに、いつかの日を眺める。
悪魔は泣かないと、ダンテは云っていた。
これは俺の涙なんだろうか、それとも……
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