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「ん、うう…」
呻きは事務所のソファから。
もう帳も下りきった刻限。
今帰ったばかりの僕からは、華の香がするだろう。
遊郭の桃色灯篭に眼が疲れていたので、良く凝らして視た。
「…おい」
薄く、ぼんやりと蛍の様に光る悪魔。
横たわり、首を横にして突起を曲げぬ様な寝相。
おそらく無意識にとっている体勢。
「鳴海さんが見たらどう説明してくれるんだい、君は」
外して、背凭れに掛けたホルスターから刀を掴む。
遊女の肌を撫ぜた指が、硬く編まれる柄に絡んだ。
性的遊戯より、闘技的遊戯の方がやはり興奮する。
先刻の興奮を除けて、上を往く熱が脳内を満たす。
眠り、うなされる人修羅の頬に、その切っ先を突きつけた。
余計な殺気は押し殺して、慎重に唇に刃先を滑り込まそう。
目覚めて叫ぼうとする君は、口内の感触に驚愕するだろう。
そのまま縫い留められて、君はまずどこを振るうだろう?
腕から焔?脚で蹴り上げる?歯で折る?
それとも屋内だから、躊躇するかな?
(精液より、血が見たい)
(白なんかより、赤が見たい)
(喘ぎより、悲鳴が聞きたい)
もう、この欲を塗り替える事なぞ無理である。
そう生きてきたのだから、興奮の尺度を推し量るこの僕という個は。
「…また、ボルテクスみたく遊ぼうかぁ…功刀君」
唇に、冷たく輝く得物が触れた瞬間。
察知して少し離した。
「ぅ…」
また呻きだした人修羅が、少し唇を開く。
覚醒するか?と思い、黙って見下ろしていた。
「ト…ミミ」
聞き覚えが有る名。
「フトミミさん…俺は、違う…」
まさか、未だに引き摺っているのか?
「違います、俺じゃ無い…」
顰められていく眉。
眉間の皺が険しくなり、人修羅はいっそう光る。
「殺したく…無かったっ!」
寝相かすら微妙だが、その指が空を泳ぐ。
僕の握る刀の、その刃先を握った。
「っう……うぐっ…」
その指先から、赤い雫が涙の様に伝っていく。
それでも起きぬ人修羅は、痛みに慣れきっているのだろうか。
あの時の、マネカタの死骸の山に腰を下ろして俯く君。
虚ろな眼で僕を視た、その瞬間を思い出した。
「ライドウ」
そう、そう呼ばれた様な気がした、あの瞬間。
眼が呼んだ。
「…ライドウ…ライドウ…ッ…」
かすれた声で、指先をぐぐ、と硬くした君が呻く。
僕の肩書きを紡いで。
その声は、回想でもなく、眼の前で横たわる悪魔からだ。
「…なんだ、痛みが奔って僕でも夢見に現れたか?」
クッ、と哂って、その傍に膝を折り屈む。
掴んだままの刀の角度を変えて、彼の耳元に囁く。
「おいで…」
びくり、と君の身体が跳ねた。
畏れる様に、息を荒げて。
そして、苦々しげに吐き出した。
「ぁぁああ、殺した、ころした、俺がこの山を作った、あぁ山を、山を」
もう、それなりに経ったというのに。
落ち度は君だけに有った訳で無いのに、其処まで己を責めるのか?
それは…贖罪を求めての発露か?
「…おいで矢代…」
甘く囁けば蕩ける。
「君がその山を何百と何千と…」
刀を抜き取り、零れ落ちる君の赤を、僕の指に絡ませる。
「何万と作ろうと、この手を取ってあげる…」
墜ちろ。
「ラ…イ…」
甘い毒沼に…墜ちてしまえ。
「その万の死骸の中から、君だけを拾い上げてあげよう…」
「は…ぁ…っ」
「ボルテクスを万回繰り返しても、君を見つけてあげよう…」
「ライ…」
「君の主人の名は?」
僕の指を、きゅ、と握り締めた君の唇が紡いだ。
「…夜」
心地好い。
心地好い。
指先に絡む魔の血も、紡がれた真名も。
「それで良い」
そう云った僕の声音は、酷く愉悦に溺れていた。
床に落ちた赤い血を、顔を近づけて眺め視る。
その薫りに誘われて、床を舐めた。
甘い。
「っえ…え…っ…ぅぇ……」
嗚咽が傍から、指先から伝わってくる。
赤子みたく眠り泣く、その悪魔…
その声が煩くて、あやす様に唇を塞いだ。
そういえば、何故僕は指を絡ませた?
囁いた?
床を舐めた?
接吻した?
踊らされているのは…誰だ?
「…」
苛々する…気持ちが悪い…こんなのは異常だ…異常だ…
万の中から、何だって?
そう…
万にひとつも…あってはいけない…
君の存在が、脳内を占めるなんて。
その感情に、気付くなんて。
1/10000・了
↓↓↓あとがき↓↓↓
10000HIT記念SS
結局いつも通りな感じで…