夜を駆ける
「…遅い」
自分の影が、やがて融け込んで往く。
今しがた殺したゴグマゴグ、俺の焔で燻りつつ溶け広がった身体が空を映す。
空、というのか、これは…
「遅い、葛葉ライドウ…!」
ボルテクスの中心が、ゴグマゴクの残滓に映りこんでいた。
ゆっくりと、煌々と輝くカグツチ。
だが、それすら息を潜める周期がやってきた。
スニーカーの先にぴちゃりと、その残滓が垂れて接する感触。
ぞわり、と寒気がして、治まり切らぬ魔力を腕先から発した。
『おっかない』
『少しは落ち着いたらどうだ…』
周囲から、野良悪魔の呟く声。
俺を見て、まるで化け物でも見たかの様な物云い。
それを述べる奴等が、悪魔であって、俺は本当は…
「…ぅるさいッ」
吼えて振り返れば、もう気配は無い。
そう、気配は無いのだ。
静天…皆、鎮まって、眠る。
血気盛んな類の悪魔も、この時ばかりは形を潜めるのだ。
こんな廃墟に居ると、それこそ独りきりである。
崩落して、朽ちた外壁…そのまま残っている建造物もある。
此処は、どの辺りだったのか、真上に東京タワーがぶら下がっているのは見えたが。
思い、上を見上げてみた。
鎮まったカグツチの所為で、薄暗くて見えない。
昼夜も失せたこの世界だが、この瞬間だけ夜を感じる。
(こんな所にしか感じれないのかよ)
酷く、虚しい。
待ち人も来ない、いや、別に待ち望んでなぞいないが。
溜息ひとつ零し、悪魔一匹すら居ない街を歩く。
ぱき、ぱりん
窓硝子の破片を、ソールの裏で砕いて往く。
(この辺で落ち合う予定だろ…あの野郎)
ぱき、ぱりん
(あの顔、会ったらぶん殴って…)
ぱりぃいいん
明らかに足下以外からの砕音。
はっ、として神経を研ぎ澄ませると、右後ろやや上からの圧。
路面を蹴って跳べば、そこに撃ち込まれる弾丸。
きらきらと僅かな光を吸って、反射していた。
撥ね返り空を飛ぶそれ等は星の様に見える。
「姿見せろよ…卑怯者」
呟いて、灰色になったスタバのオープンテラスの椅子にガタリ、と、腰掛ける如く着地した。
「自由行動の後、此処で落ち合う…とか云ったのは誰だ?なぁ!?」
糾弾の直後、椅子の手摺をがっしと掴んで宙返りした。
振りかぶって、そのまま投げつける。
貯水槽の影から黒い外套が一瞬見え隠れし、その椅子を両断した。
一緒に一閃されたそのタンクが、血飛沫みたいなシルエットを残す。
既に駆け上がっていた俺に、その飛沫が容赦なく掛かってきた。
顔を咄嗟に背けたが、少し口に入った。
(げぇっ、レジオネラ菌)
ぺっ、と行儀悪く吐き捨てて、その場を離れる。
あの男、本当にどういう神経しているのだろうか。
自分の方が遅く来たから機嫌悪い、とか?
それとも、わざと俺より後に来て…
「いっ」
熱い痛み…見れば左腕の斑紋が赤く割れていた。
それにカッときて、左腕で薙ぐ。
傍の外壁の無意味な落書きがすぅ、と裂けて崩れる。
再生する細胞に押し出された弾丸が、カラリと音を弾ませて転がった。
(何処だ、あの野郎)
暗い廃墟を駆ける。
人影が、見えそうで見えない。
稀に飛んでくる弾丸に、怯えつつも追う俺。
使役されているのだから、この怯えは当然だろ。そう、仕方が無い事なんだ。
静まり返った街、悪魔の息遣いも無い。
駆け回るのは、俺とあの男だけ。
「はっ……はっ……」
いつまで続くんだ、この追いかけっこは。
人修羅なのに、やや息の上がってきた俺。
やがて、街もはずれの方…金網に囲まれた、更に寂しい方面に出た。
遠くに見える地平は、黒くシルエットを空に落としている。
その格子に指を掛け、屈み込む。
此処まで開けた場所なら、あの男も接近戦に持ち込むだろう…
あの烏みたいなしつこさで、さっさとおびき出されて来い…
…が、来ない、気配すら無い。
背中が、寒い。
「……!」
握り締めた金網が、手の中で風化した。
踵を返して街を見れば、やはり無音の廃墟で。
先刻までの攻防も嘘の様で。
「…おい」
無意識に発される声、無意識に踏み出される足。
「…どうしたんだよ、おい…っ」
其処に、居ないのか?消えてしまったのか?
俺だけを残して?
来た方角を戻り、標的にでもなりたいのか、俺は震える声を出していた。
「…おい………おいライドウ…」
砂の散る路面、四輪も二輪も人も悪魔も、何も通っていない。
人でも悪魔でもない、俺が、歩くだけ。
…と、ふと傍の建造物に視線が流れる。
ボロボロの垂れ幕に、鋭利な裂傷。
断面が綺麗なままの、硝子片がその周囲に散らばっている。
つい、先刻まで何者かが居た気配。
思わずその建造物に飛び込めば、砂塵が舞うかの如く埃が舞った。
だが、足跡が在る……まるで、導くかの様な、俺を手繰り寄せるかの様なその痕跡。
ガタン
物音、何の音かを確認する為見渡せば
俺に向かってまるでドミノみたく連なって倒れてくる本棚。
形状からしても、勝手に倒れてくる筈の無いそのオブジェクトの向こう側を意識する。
「本屋で暴れんじゃねぇよ…!」
バイト先を思い出す、こんな整った処では無かったが。
恐らく紀伊國屋書店と思われる、整然としたその棚並びを波乗りして往く。
その波の発生源に既に影は無かったが、足跡の代わりに本がばらばらと落ちていた。
奴の気になる書物かと一瞬思ったが、少し違う。
肌色の面積が多い女性達が、そ知らぬ表情やら妖艶な笑みで俺を見つめてきた。
「…ッ、好色野郎が…」
きっと俺に対する嫌がらせだ。
成人向けの冊子やら写真集が、処狭しと散らばる床に着地して居心地が悪い。
なるべく下を見ない様に遠方へと視線を配せば、何か異様なものが見えた。
悪魔のこの眼で、それをしかと捉える。眼鏡なんて必要無い、この視力なら。
…子供用の、キッズコーナー…
俺のバイト先にはそんなスペース無くて、親の手からあぶれた子供がよく放浪していた。
今の俺みたいに。
(壁に、何か書いてある…?)
小さなテーブルの上、散らばるクレヨン。
傍の白い壁には、血の様な“あかいろ”で刻まれる、人間の言葉。
《暗きより暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ修羅の双月》
しばし、呆然とそれを眺めていた。
一瞬かもしれなかったが、数分かもしれなかった。
視界に捉えつつ、接近していたらしい俺、眼の前にその壁が在った。
「…違うだろ」
絶対、修羅の双月なんてフレーズはおかしい。あのサマナーの悪趣味だ。
テーブルに転がるクレヨンを指に掬って、其処を打ち消す。
壁紙に削がれていく“こんいろ”の顔料。
(こんな事してないで、さっさと姿を現せよ!)
夜!
『お主、結局は追いかけっこが好きなのか』
「駆け引きが好きなものでしてね」
『…人修羅は居場所を誇示するかの如く声を発する…勝負になるのか?』
業斗童子の呆れ声に、ふ…と哂って道を戻る。
『おまけに、お主も…やたらと痕跡を残すで無いわ』
そんなに見つけて欲しいのか?と聞かれた僕はひとつ哂い、黒猫に返す。
「人修羅の反応が面白いだけですよ」
まさか、僕を見つけて欲しいだなんて…滑稽な。
『なれば、どちらが鬼なのだ?この遊戯は』
「さあ?」
先刻残した壁の言葉、彼は気付いたのだろうか。
横倒しの棚と、裸婦の海を渡り、その問題地点に辿り着く。
血の様な朱色の上、夕闇の色が覆っていた。
書き換えられた、その歌。
《暗きより暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ紺の夜》
僕が、本来の形から変えた部分がきっちりと、換えられている。
『確かに、間違ってはおらぬな、名前』
ニャア、とゴウトが啼いた。
「…紺色が、照らせる訳無いだろうに」
(馬鹿な奴…)
ゆるやかに、口の端が上がった。
感じる視線に振り返れば、修羅の双月。
薄闇に浮かぶそれと眼が合う。
ようやく、誰もいない廃墟で交わされた、交信。
己以外の、己と同質の存在。
「ねぇ?功刀君?」
眼と眼が合うたび、哂う。
そう、此処には、この世界には僕と同じイキモノが存在している。
似てないのに、同じ、だと思われる。
「遅刻魔」
「遊びに刻限は無いよ」
指にしたのは、管では無い。
今の、この時は、僕と君だけで駆けようか。
屈み、紺色のクレヨンで地に描き上げる呪。
有無を云わせず迫ってきた君が、その法陣に弾き返された。
見えているのに、接さない。だって、遊戯の終りが見えると寂しいだろう?
「見えない糸で繋がっているのだから…ねぇ?」
子供みたく、クレヨン片手に立ち上がる。
見上げてくる君の眼に浮かぶ、憎しみと安堵。
さあ、次は何を描こうか。
この、混沌の世界に、死んだ世界に。
滅びの定め破って 駆けていく。
-了-
スピッツの『夜を駆ける』より。
スピッツという事に驚愕されそうですね。
でも、此処の人修羅はスピッツのイメージです。
一見綺麗、しかし不可解。
-君と遊ぶ 誰もいない市街地
-目と目が合うたび笑う
-夜を駆けていく 今は撃たないで
-遠くの灯りの方へ 駆けていく
「暗きより暗き闇路やみぢに生むまれきて さやかに照らせ山の端はの月」
は和泉式部の歌を引用。
『人は暗い闇の世から暗い闇の世に生まれて、光の世に逃れることができぬ
山の端の月よ、はっきりと照らしておくれ』
という意味 らしいです…