アマラ神殿
「マガタマは禍つ魂…その身に力を宿しても、その内から蝕むのが其れ、にございます」
「へえ、では彼は放っておいても勝手に悪魔へと墜ちますか?」
「それは…彼の者を人修羅たらしめた、御方にお聞き下さい」
おやおや、かわされてしまったな。
口元の笑みに、笑みで返す。
「有り難う御座います」
礼を告げ、扉を開ける。
此処の泉は、なにやら思い入れが出来そうだ。
(いや…ターミナルが、か)
アサクサの設備では、何かと出来事が多かった。
『アマラ神殿へ向かうのか?』
「いけませんか?」
『…余計な事はするなよ』
お目付け役に釘を刺される。
僕もいよいよ雲行きが怪しくなってきた、という事か。
道中の、ゴウトの説法が耳を抜けていく。
『良いか、そもそも悪魔を使役する上での心構えがだな…』
「屈せぬ心と諭す口、圧する力、ですか?」
『覚えておるなら反芻しろ!』
「それがですね、そもそも古いのですよ」
『な、古いだ、と』
「ええ、貴方が懐古的なのは知っていますが」
低く鳴く天輪鼓に、掌を当てる。
「使役するにおいて、重要な…僕なりの心構え…お教えしましょうか?」
天輪鼓の回転が止み、静まり返る辺り。
部屋の中から移動などしていない、かの様に一見感じるが
移動した者がそう感じるだけである。
特に指定せずとも、今回は勝手に天輪鼓が行き先を決めた。
『お主の答え、云うてみい』
やや、間があってゴウトが訊ねてくる。
僕は視線をその翡翠の眼に吸い込ませ、ゆっくり云った。
「欲を持つ事」
やや間があってから、猫の溜息が聞こえた。
『やれやれ…本当にお主は、直接的と云うべきか…』
「間違い無いと思いますが?欲を無くした瞬間から、その手に得る物など消え失せますよ」
ターミナルの部屋を出れば、赤い回廊に周囲が姿を変える。
高い天井が、透き通る様な床に映りこむ。
天地が何処までも伸びる様な錯覚に陥る。
『何の欲を以ってサマナーとして生きているのだ?』
「そうですね…知的好奇心…知りたい欲」
表に出れば、巨大な空間…マガツヒの河口が広がっていた。
その道すがら、飛び交う悪魔を斬り伏せる。
「打ち倒し、使役する、支配欲」
召喚したモー・ショボーの放つ疾風が、向かってくる群れを薙ぎ払う。
「守護し、得る安定…名誉、サマナーとしての地位に対する欲」
その薙ぎ払われた悪魔達の肉体が、マガツヒの河にたゆたう。
赤い、血ともマガツヒともつかぬ糸が、新たに流れに沿う。
「…と、学校に行きたい欲」
『…おい』
管に仲魔を戻し、それを胸元へと納める。
「大學芋だけ食べていたい欲」
『おいおい』
「屋上でなく、屋内で喫煙したい欲」
『先程より多くなってきたが』
刀の血糊を、振り、掃う。
「好きな依頼だけ受けていたい欲、寄り道して骨董屋を覘きたい欲、敵を作る仕事から逃げたい欲…」
鞘にそれを、納める。
「愛されたい…欲」
外套を正し、散らした悪魔の残骸の隙間を縫って歩く。
僕の赤い靴跡を、ゴウトが辿ってついて来る。
『何に、愛されるのだ?守護し救う民草からか?』
「…さあ、云った僕も、何故云ったのか解りません」
…本当だった。
何故あの様な単語が出たのか、ほとほと疑問である。
そもそも、愛が何を指すのか、定義も分からぬ。
それを判断しうる感覚が、僕には、無い。
「人修羅は、元学友の為にこの神殿へと来たのでしょうか」
『さあな、しかしお人好しそうではあるからな…かもしれぬ』
中央に浮かぶ強大な魔力の媒体。
それに身体を圧迫される心地だ。
「三つの神殿…三神と戦う事になりますか」
見れば分かる、その神殿に鎮座する主が居る事くらい。
『どれ、少し様子を見ろ、ライドウよ…つきっきりでは敵わん』
流石に、人修羅にべったりだったこの頃が在って
ゴウトは先手を打って云った。
気にはなるが、そうそう簡単に野垂れ死ぬ様では拍子抜けである。
三つ目の神殿くらいまでは待つか、と河の畔に腰掛けた。
周囲の思念体や悪魔は、恐れをなして襲ってすら来ない。
僕はそれを良い事に、刀と銃の手入れを始めた。
『無防備過ぎやせんかお主』
「いざとなればヨシツネ辺りに任せますよ」
それを聞いて、再度呆れてゴウトは尾を振る。
「…悪魔狩人に蹴られた際の損傷が少し在るな」
刀身を翳し、それをカグツチに照らす。
煌いた刃に、一部陰りが見えた。
『お主が喧嘩を売るのが悪い』
「僕からでしたか?覚えがありませんが…」
『ぬかせ』
赤い河に映りこむ僕の顔。
相も変わらず哂っている。
その水面を覗き込み、頬の返り血を拭った。
「人修羅は創世するのでしょうかね」
『さあな、する風には見えぬが』
「フフ、確かに…コトワリとやらを掲げる事は今の彼には無理でしょうね」
強い意志、新たな世界を欲する意識。
あの少年には、そんな物は無い。
用意された線を辿っているだけだ。
「人の殻を脱ぎ捨て、彼の友人達は悪魔へと成った…彼はそれが理解出来ないでしょう」
『あそこまで意固地だと思わなんだが』
「フフ、お陰で依頼は長引く」
そう云った自身の声音は、どこか愉しげな気がした。
カグツチが流転を幾度か繰り返した頃。
遠くの地に人影が見えた。
白い神殿から出てきた人修羅…だ。
(何か話をしている…)
するりと管を抜き、長く連れ添った偵察係を呼び起こす。
「イヌガミ、少し近付いてこい」
『リョウカイ』
ふわり、ふわりと不安定な軌道を描き
隠し身をしたイヌガミが彼らに迫る。
しかし、結構な距離が在る内からその声は送られてきた。
「あんなに飛ばされると思っていなかった」
『ちょっと!最近考え無さ過ぎじゃない!?』
「ああいった仕掛け、一番苦手なんだ」
『消耗戦なんだから!無駄足踏まない方が良いわよヤシロ!』
ああ、ピクシーに罵ってもらう為に召喚したのか。
僕はクスリと失笑を洩らした。
どうも彼は、あの妖精に叱咤されるのが好きらしい。
おそらく、それが彼を落ち着かせ、赦された気にでもなるのだろう。
「…赤い神殿、とやらに行きましょうか」
指を組み、イヌガミを召し寄せた。
瞬時に戻る優秀な犬をそのまま従え、歩き出す。
『しかし、あれで他二神を黙らせたのだろう?恐ろしい化け物よ…』
「あんなちぐはぐな戦い方でも、何とかなるものですね」
『生業とするお主と比較するでない』
ゴウトの叱咤を貰っても、僕は別に安らぐ事は無いのだが。
小さく笑い、赤の神殿へと入る。
一見、普通の神殿だった。
しかし、漂う妖力が均等で無い。
思念体の云うには、影の世界なる空間が存在するらしい。
「陰陽の均衡が極端ですね」
『態と、だろうて』
「でしょうね、そうする事で空間を分けている…異界に近い気もします」
ゴウトが足下を警戒してついて来る。
『奥ノ曲ガリ角!何カ交戦中…!』
傍のイヌガミが突如発したものだから
ゴウトはびくりとして脚を踏み外しかける。
『お、驚かすでない!』
「何か居る…みたいですね」
ゴウトの尾を素早く掴み、光の下へと寄せた僕は
柄に手を添えて歩み寄る。
音が聴こえる。
焼け付く音。空気の爆ぜる音。
足下を見れば、チラチラと夕焼け色が革靴を照らしている。
(焔が飛び交っている…)
そうぼんやり思っていた矢先、角から飛び出してきた何かが
僕の前方に躍り出た。
それを、即振り上げた刀で一閃する。
ブワリと火の粉が舞い、赤い飛沫を巻き上げて
それが両断された。
柔い肉体の正体は、妖魔イフリートだった。
しかし…それを此方に飛ばしてきた別の何か、に僕は警戒する。
何となく、見当はついていたが。
『…来ル!』
「承知している」
イヌガミの信号に、返事すると同時に駆け出す。
歪む景観に、衝撃の在り処を確認し
それを避けて韻を踏む。
衝撃の流れは規則性が有る。慣れればこれは容易く読める…
そうして躍り出れば、腕を組み解く人影。
「…避けたか」
フン、と残念そうに此方を睨みつけてくるその双眸。
「こんにちは、功刀君…」
素敵な挨拶に、僕は至って普通な言葉で返した。
「どう身体の具合は?」
そう聞けば、その頬がピクリと引きつった。
「別にあんたに感謝もしないし、それ以上も求めない」
「そう」
「俺の前から、消えてくれ!」
その叫びと共に、雷鳴が奔る。
巻き上がる焔に、包まれた女神が降臨した。
『アギダイン!』
命令も早々に、女神サティが此方に灼熱を叩きつける。
「ショボー!」
『吹き飛べえっ』
その灼熱が発するより早く、召喚したモー・ショボーの風が焔を凪ぐ。
散った火の粉が雨の様に降り注ぐ。
外套の上で燻るそれが、焦げ付く臭いを漂わせた。
その熱気舞う空間に、追い打つかの如く渦巻いた赤い焔。
舞う火の粉の、揺らいだ景色の向こう側で
人修羅が両の腕から発した焔の様だ。
「炎の業ばかり、要領悪いよ君」
そう云いつつ、此方もイヌガミに指令を出す。
「同じの」
『アオォーン!!』
応えたイヌガミは、その口からファイアブレスを吐き出す。
周囲一帯は、灼熱地獄の様だった。
そこを掻い潜り、瞬時に駆け寄って来た人修羅。
その鉤爪の様な一撃を、刀身で受け止める。
「ライドウ…!」
「良いね…!もっと打ち込んでおいでよ!」
その僕の言葉に、彼は眉を顰める。
「あんたみたく戦うのを愉しんでない!」
そう云って、彼は空いた脚から蹴りを繰り出す。
それを横に流した刀身の柄と、自らの脚で受け止める。
「友の為に仕方なく、と?」
「俺が勝手に受けただけだ!」
「下らない理由…」
僕は哂って刀で弾き、後退した。
『アギダ…』
「いい、サティ!…同じ様に返される」
傍の女神を制した人修羅は、その伸ばした腕を眼前に持っていく。
「俺がやる…」
そう呟き、見つめてくる金色の眼に
身体が粟立つ。
(ああ、これだ…!)
戦いの高揚を求める欲。
それに心を奮わせて、柄を強く握り込んだ。
「イヌガミ、ショボーも戻れ」
『ええっ、まだ遊び足りないよおっ』
「先刻から影を踏みかけているぞお前達、危なっかしい」
『スマヌ』
『ちぇ〜』
納得いかぬ様子で、管へと戻っていく彼等。
此方に視線を寄越す人修羅が、薄く笑った。
「正直に云えば?一対一の勝負が好きなんだって」
「へえ、よく僕を理解しているじゃないか」
「それだけは丸分かりだ…!」
駆け出して来る彼に、銃撃で迎え撃つ。
途端、高く跳躍したと思えば両手を交差させる。
地獄の業火を予測して、刀にマグネタイトを流す。
巻き起こる爆炎を、それで斬り払えば
その隙間から舞い降りてくる人修羅。
その眼が、殺意を以って僕を射る。
「折角人間なのに…っ、あんたはおかしい!」
大きく薙いだその腕の衝撃波に、外套がビシリと裂けた。
返り血ではなく、僕の頬に裂傷が奔る。
「なら、折角悪魔の君こそ…力の使い方が勿体無いな」
「…んだと…っ」
「心の何処かで枷をはめたままだろう?」
蛍光色に輝く刀身で、間合いに降りてきた彼を斬りつける。
床にぱぱっと赤い華が咲き乱れる。
しかし、緩めぬ彼は腕を引き絞り
足元を狙って薙ぐ。
(アイアンクロウか…)
飛び退く、しかし、前方に、だ。
これ以上後退しては、影を踏む。
「サティ!」
『マハラギダイン!』
そこへ飛び交う焔の雨に、僕は外套を焦がしながら隙間を捜し避ける。
「君、姑息じゃないか?前言撤回?」
そう息を弾ませ問えば、人修羅は笑った。
「足止めには良いだろうと思って」
その悪魔的な笑みに、彼の中の半身を感じる。
先刻の熱で赤く膨れた指先を、歯で噛み潰す。
溜まった体液が、だらりと甲を伝った。
「来なよ…功刀矢代!」
「…ぅ、おおおおおっ!!」
焔の雨の中で、打ち付けあう。
足場が、無いに等しい。
端に寄れば影を踏む。下手に動けば焔を被る。
その滾る熱波の中で、咬み付き合う。
額の汗が、首筋を流れた。
彼の腕から繰り出される一撃が、以前より重い。
それに何処かで歓びながら、僕は受け流し、振る。
『ヤシロ様!』
その女神の呼び声に、視線を逸らす人修羅。
腕を振り下げて、彼女を内へと戻した。
それが賢明だ。
カグツチの影響か、先刻よりも影の範囲が広がっている。
「影踏み、した事ある?」
「悠長だなあんた…!」
「僕は無いな、とりあえず、こんな身体を張る影踏みは、ね」
一瞬銃に手を伸ばす。
が、それは騙し。
気を削がれた人修羅が、僕の腰元へと眼を逸らした瞬間に
刀身を突き立てる様に傾ける。
「う、くっ」
その異様な刀の向きに、力の方向が定まらないのか
人修羅は指を滑らせ、その切っ先を掌へと落とした。
「はっ…あ、あ!」
ずぐり、と掌に呑まれて行く刀の切っ先。
その痛みにか、血管が浮き上がっている。
彼が瞬間、動けない訳を知っている。
その足元に、黒い影が迫っているからだ。
「逃げれば?背後に」
「ぐ、う…」
「ほら、更に突き挿れるよ…?」
「ひぎっ」
空いた腕を、そろりと動かす気配があった。
そこに、引き抜いた銃を突き当てた。
眼を見開く人修羅に、笑顔で告げる。
「今度は本当」
云い終わると、引き金を引いた。
「ああぁっ!」
パン、と響いた音が、彼の腕に呑まれていった。
鉛がその腕を、だらりと垂らす。
しかし、それくらいでは抑止にならない。
「まだまだ銃弾は在るから、そのつもりで」
「はぁ…ッ」
「痛覚の鋭い、指先へと照準を流して、鉛を食べさせてあげる」
フフ、と哂って、傍から聞けば恐ろしげな事を云っている。
これが普通で無い事くらい分かっている。
一方足元ではずるずると、彼の脚が影に寄る。
いや、影が迫ってきているのか…
「呑まれてしまうよ、君」
「…あんたのその刀がっ」
云い掛けた、彼の声が止まった。
彼の金色の眼の瞳孔が、伸縮して光った。
「ひ…っ」
その様子に、下方を確認すれば
案の定、彼の足下に影が巻きついていた。
無数の触手の様に、腕が群れを成してその足首を掴む。
「おやおや、これは恐い…」
のんびりと云う僕を一瞬睨み、彼は脚を沈ませていく。
「いい、よ…いずれ行かなきゃ、ならないんだから…な」
その彼の、自分に言い聞かせるかの様な口調。
思わず笑ってしまった。
「僕も行ってあげようか?影の世界とやらに興味が在る」
「ついて、来るな…それと、刀、抜け…よっ!」
ずるずると下へ引き込まれていく彼を
刀はそのままに、がしりと掴みこんだ。
えっ?と解せぬという感じの反応をする人修羅。
『おい!お主まで引き込まれるぞ!?』
背後のゴウトに、背を向けたまま云う。
「ゴウトは光の下にてお待ち下さい」
クスクスと、笑いが零れる。
影の世界が、異界に近いのか確認してみたかった。
ずる…と暗い闇に呑まれていく。
恐怖に引きつる人修羅の表情が、その闇を抜けた瞬間に変わった。
苦悶の表情へ。
「あ゛、あああああぁっ!!」
僕の下で身を懸命に捩るが、動けない。
それはそうだ、僕が圧し掛かり、刀まで手に刺されては。
薄暗く、灰赤い胎動が周囲に奔っている。
そして、一面に広がる赤。
「へえ、思念体の云う通り…痛い床ばかりだ」
ダメージゾーン、とか云っていた、其れだろう。
それの上に、人修羅は落ちた。
僕を乗せたまま背をじりじりと、この瞬間も床に喰われているのだ。
「痛い、痛ぃいっ!!!!」
見れば、赤い床からそれこそナイロン糸みたく細い何かが
彼の皮膚を刺しているのが分かる。
それは毛細血管に潜り込んで、そこからマガツヒを吸うのだろう。
薄っすらと、皮膚の下で行われる行為が見て分かってしまう。
「これは…痛いだろうな」
流石の僕も、少し息を呑む。
悲鳴を上げ続ける人修羅は、余程痛いのか
僕の存在を気にせずに、あられもない鳴き方をする。
「少し、黙ってお聞き…」
「ああっ、あ!あああ!!」
「浮き足玉なる道具が此処に在るのだがねぇ」
「っあぐううう」
「君が僕の思惑通りに動いてくれるなら…くれてやっても構わないが?」
その玉を、苦痛に歪む彼の眼前にすっと差し出した。
それを、叫びつつも確認した彼が
悲鳴を上げ続ける口から、こう発した…
「はぁ…っ、あんたにっ、貰うくらいなら…棄てて、やるっ!!」
その、悲鳴混じりの反発に、僕の身体がぞわりとする。
最後の一線だけは、決して越えさせぬ悪魔…
ぞわぞわと、僕は床に触れても無いのに…
この下で足掻く悪魔から、侵蝕されているかの様だ。
「そうかい…」
僕は刀を掌からずるりと引き抜き、彼の上に立った。
革靴の底をぐっと押し付け、飛び退く。
勿論、安全な地帯へ。
残された人修羅は、退いた僕を横目に追い
自らもよろりと身を捩り、赤い床から這い出てくる。
「っは…あ!あぁっ…」
その間も喰われたのか、接地した皮膚が赤く染まっている。
毛穴の全てに、針を入れられる感触だろう。
おまけにマガツヒまで吸われては、這い出る気力すら危ういという事だ。
「此処の神は、余程残酷だな」
しかし、そう云う僕は心に今、愉しげな事を思い描いていた。
這い出た息も絶え絶えな人修羅に、猶予も与えずに蹴りを喰らわす。
咄嗟に反応したが、その身体では受け切れなかったのか
横に飛ばされた人修羅が、血反吐を撒いて床に転がっていく。
そこに近付き、靴先を背に潜らせて彼の身体を反転させる。
「ぎっ…!」
呻く人修羅の、うつ伏せに転がったその背は、赤く爛れている。
皮膚全体の肌理から血が滲み出ている。
その背に跨り、刀の刃の方を彼の口に咥えさせた。
すくむ彼に、背後から耳元で囁く。
「そのまま、僕を乗せて這えよ…」
「ふ、う…っ!こ、の!」
「だって、浮き足玉は必要無いのだろう?」
そう云い、刃をぐぐ、と彼の口に押し付ける。
しかし、彼の事だ…痛みだけには屈しない可能性が在る。
「君が此処で倒れては、ムスビの彼に申し訳が立たないな…ねぇ?」
「な…」
「ただの役立たずだった…と、一笑に付され、終わるのだろうな」
「ぐ、ぐ」
「思わないか?間違い無いとは思わないのか!?」
「ぐっ、うううう!!」
そのまま、ぐらり、と四肢を伸ばす彼。
僕を背に乗せたまま、膝を付いて腰を上げた。
「有り難う」
クク、と笑い、四つん這いの人修羅の背で哂う。
跨った背の赤いぬめりが、外套とズボンに付着したが
そんな事は気にならぬ程、愉しい。
従わせている感覚に、酔いが回る。
「では、そちらの方の扉から出てもらおうか…」
背の上で、行き先を指し示す。
もう、半分は無心なのだろうか、人修羅は爪を床に食い込ませ
やがてずるずると四足で這い出した。
「僕を床につけたら、床より痛い目を見せてあげる…」
そう囁いて、小さく哂った。
その吐息が彼の耳に掛かったのか、跨る背に震えが奔った。
その扉までの道中は、勿論赤い床が在る。
だから、彼を足場にするのだ。
「悪魔だって二足歩行するご時勢に、君は立派だな…大昔の、それこそ原人だのなんだのと云っている時代の生物に倣っている」
「んぐ…ほ…ざけっ…」
「まあ、アメェバとか云い出したら神に対する冒涜になるか」
サマナーらしからぬ発言か。
アハハッと、ひと笑いして刀をぐいと押し付けた。
強張り、その手脚をゆるゆると前に進める人修羅。
顔が赤い。
羞恥で、耳まで染まっている。
「幼子が父親に強請るね、お馬さん、お馬さん、と…」
「…」
「君はしてもらった事も無く、まさかいきなり馬になるとは思わなんだろうに」
「…っ…」
刀に振動を感じる。震えも在るが、それとまた別に…
僕は銃を引き抜き、彼の這わせる指の一本を狙って発砲した。
「がっ!!ふ…うぅ…っ」
それは見事に彼の指を潰して、赤い飛沫とマガツヒを空に漂わせる。
「刀、噛まないでくれよ…ただでさえ最近傷になってしょうがない」
「は〜っ…はぁっ…」
堪えて、噛まぬように、だが食い縛る人修羅。
その震えが、痛みと恥と恐怖で構成されているのが解る…
あの“父親に”…なる単語で、正気に戻ったのだろう。
人の時に、焦がれた者の単語…
父の無いらしい彼には、深く刺さったろうに。
(それと怒り…か)
震えるそこから、伝わってくる。殺意。
「さあ、早く渡ってくれ…扉くらいは開けてやるから」
そう云い、赤い床の手前で息を呑む人修羅を催促する。
その一歩を自ら踏み出す手が、震えていた…
「早く」
「…」
「じゃあつけてあげるよ」
云うが早いか起こすが早いか、僕は携えた銃で
床の上を彷徨う掌を撃ち抜く。
その衝撃で、びたん、と。
赤い上に穴の開いた掌が、鉛で縫いとめられる。
「〜…!!!!」
「ね、やれば一歩目など容易いだろう?」
その声にならぬ悲鳴が、僕の精神を蝕む。
甘美な感覚に、脳髄を支配される。
(あれ、支配されてはまずいな)
支配する側なのに、これではデビルサマナー失格だな。
そうほくそ笑み、人修羅の尻をぴしゃりと叩いた。
「ほら、痛いなら早く進む事だ」
「…ぁ、ぁ」
まるで赤い床を掻き毟るかの如く、人修羅は盲目的に床を這って行く。
その掌の傷口から、赤い線がちろちろと舌を出す。
貫通して、傷口から覗いたその床の触手を
やんわりと銃を持つ手の指先で撫ぜてみる。
すると、まるで指先を縫い針で刺したような、そんな痛みが奔った。
翳し、目視すれば赤い玉がぷっくりと指の腹に浮いていた。
「ふ…これは痛い訳だ」
ぺろりとそれを舐め、やがて眼の前に現れた扉を開けた。
「ぐ、う!ううううっ」
がくがくと身体を揺らす人修羅に、叱咤の一撃を与える。
「ほら、あと少しなんだから…これ以上腰を落とすようなら分かっているね?」
「い、たい」
「分かっている」
「あ…アク…マ…!」
「サマナーだよ」
斑紋が、赤く息衝いている。
身体が危険だ、と啼いている。
…赤い沼をようやく這い出た彼は、そのままぐたりと床に伏した。
その口から刀を外し、外套の端で血と唾液を拭い取る。
突っ伏してピクリとも動かぬ人修羅を見て、一瞬まさかと思ったが
そんな事は無く、かすかに呼吸をしていた。
「そうだよ、そんな簡単にくたばってもらっては困る」
依頼もこなすどころか、手にかけたと分かってはまずい。
「とりあえず、お疲れ」
意識の無い彼の、口元の血を拭い
僕は胸元から抜いた管を翳した。
『ちょっとお〜今度は何よお!』
「怒れるな、お前の好きな人修羅だぞ」
召喚したモー・ショボーに対し、視線で下方を促す。
それにパッと顔を明るくした彼女は、まくし立てる。
『ぇえ〜!もしかしてショボーへの御褒美ぃ!?』
「回復して、見張っておけ」
歓びはしゃぐ彼女に、事務的にそう伝えれば
翼を微妙に萎えさせて、口をへの字にひしゃげた。
『つまんじゃ駄目?』
「駄〜目」
『ライドウのケチっ!』
舌を出すショボーを無視して、踵を返す。
「少し回ってから戻る、必要ならイヌガミも置こうか?」
『いらないっ』
「はいはい」
失笑して、そのまま赤い床を縫いつつ殿内を闊歩する。
(どうやら、一度こちらに来る必要は有ったみたいだな…)
そこは人修羅の云っていた通りであった。
影を歩まねば、結局は辿り着けぬ、という事である。
しかし、ややこしい構造に果たしてアレの頭で行けるのかと不安が過ぎる。
あの…考え無しの少年に…
赤い闇に紛れた悪魔を、適当に銃殺して巡回する。
別にやたらに殺している訳では無い、殺意を以って此方へと来れば始末する。
そうだ、あの人修羅だって、全て自分からけしかけている訳では無い。
あちらから、手を出して来る事が最近は多いではないか。
(そうだ、全てあの金色の眼が惑わすのだ)
支配欲を、闘争欲を…そして…
その蜜色への執着心が、少し昔の記憶を呼び戻す。
「その指輪…美しいね、琥珀か何か?」
ああ、これはね…
悪魔の眼球から作ったものだ
「…だったら、尚の事綺麗だ」
フッ…そこは気味悪いと云うのでは?ヒトなら。
「良いな、譲って頂きたいくらいだ」
それは駄目だ…気に入っている悪魔の眼、だからね。
「それは残念」
…君がサマナーを続けていれば、逢えるさ…
いずれね
全く、あの金髪男の云う通り、本当に逢ってしまった。
眼の眩む様な、金色の双眸に。
本当はあいつの指輪が欲しかった。
いつも装着している手袋の下に、光るそれ…
装飾品、ましてや光物など本来食手が動かぬのだが
あれに秘められた、魔的な何かに強く惹かれた…
あの琥珀にぼんやりと浮かび上がる五芒星。
(魔除けなのやら…悪魔の象徴なのやら)
あいつがどちらの意を以って、それをはめていたかは知れないが。
「…欲しい」
誰も居ぬ影の中、独り呟いた。
アマラ神殿・了
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