ミフナシロ
「お前にやって欲しいんだよ」
「俺に…俺に手を下せって云うのかお前は」
外道蠢く肢体でふらりと振り返った新田。
その眼が既に人間では無い、と訴えるかの如く光っていた。
「お前、あんな事されてよく躊躇出来るな」
「!」
「犯られそうになって、それでいてま〜だ善人ぶるってか?本当…おメデタイ奴だよ…」
ターミナルで、聖を引き込んだあのタイミングは…よもや。
新田に聞こえていたのかと思うと、ゾッと鳥肌がたった。
見上げれば、磔にされた聖。
赤い粒子を溢るるばかりに纏い、だるそうに首を鳴らす。
「やるなら早いとこやってくれや、カユくてムズムズすんだよこれ」
あの男、今から生贄にされるというのに…
(既に感情が欠落していたのか?)
いぶかしんで見つめていると、眼が合った。
「此処に架けられたお前さんを、見てみたくもあったんだがなァ?」
状況に合わぬ、ニヤついた顔でそう発する。
それを聞いて、鳥肌が消え代わりに高揚して肌が熱を帯びる。
「お前さん、こういうの似合いそうだかんなぁ」
「…煩いっ!」
叫べば、傍の新田がへらりと笑って聖の方へ向き直る。
「分かったって、俺がフツーにやるよ!」
その発言に、新田を見る。
「人殺しするのか…」
「今更何云ってんだ、お前…散々悪魔は殺してきておいてよ」
「やめろよ、新田…」
「お前に指図されるのは、正直癪に障るんだよ」
そうして翳された腕先。その指が擦れ、合図と成る。
聖の四肢から、赤い光が零れ落ちる。
支えを失い、ぐらりと落ちゆく聖。
その、落ちてゆく男と、再度眼が合う。
「じゃあな」
男はそう口で呟き、それは赤い泉に落ちきった。
ぼんやりと、彼が四散するのが見えた。
「ふぐ…っ」
その、あまりに一瞬の解体に。
思わず込み上げてくるものがあった。
「ま、お前は神殿の神サマ達をぶっ殺してくれたからな…こんくらい俺がやらないと」
笑って、下方で解けていった聖を見つめる新田。
それを傍で見ていた俺は、間違い無く確信した。
聖に同情など、一片も無かったが…彼を贄とする新田は
既に普通の感覚をしてはいない。
やがて、音も無く現れた巨大な黒い影。
慄き後ずさる俺と対照的に、新田はそれに近付いて笑いかける。
「よう、良く来てくれたな…」
その、まるで旧友を久々に顔を合わせたみたいな
そんな語りかけに、俺はずきりとした。
突如現れた神より、俺の立場は劣るのだ。
「お前、ムスビに加担してくんないんだろ?」
その神に腕を呑ませつつ、笑顔のまま新田が振り返った。
「ご協力感謝します、もう用済みだから、消えてくれよ」
「あ…」
「消えろよ人修羅」
「新田」
「消えろっつってんだろ!」
俺はその怒号に、恐怖は無かった。
なのに、竦み震える脚を、下から感じる。
言い返す事も、嘆きをあげる事も出来ず。
まるで逃げるかの様に中枢から駆け出た。
見返りが欲しかった訳でも無い、ムスビに協力したかった訳でも無い。
ただ、過去の友人の口から、よくやったと云われる。
その言葉を、神を殺す度に云われては、のぼせていた。
利用されていると、解っていながらにして人形の様に動いた。
ピクシーに馬鹿だと云われても、そうしたかった。
「はぁ…っ」
走り抜け、入り口付近まで来て胸を押さえた。
広がる空間は、マガツヒの流動が激しい。
降臨した神を感じさせるその空気に、周囲もさざめいている。
「また棄てられたの」
その声に視線を投げれば、黒い外套が立っていた。
相変わらずの不敵な笑みを湛えて、全てを見ているかの如く。
「俺が、自己満足で勝手にしただけだ」
「それにしては苦労していたね」
「あんたがちょっかい出してきたから…」
「僕が書いた地図を見て、ようやく出れたのに?」
そう云われ、うっと口を噤む。
そう、なのだ。あの後…
意識が戻った俺は、周囲を見渡すがライドウは居らず。
違和感を感じた掌を見れば、貫通した掌に何かが挿さっている。
他の傷は癒えてるのに、其処だけに刀では無い何かが挿してあった。
手帳の切れ端みたいな用紙に綴られた、その空間の地図…だった。
当然、引き抜く際の痛みに、小さく悲鳴を上げる。
こんな物、と打ち棄ててしまえば良かったものを。
俺は広げて、それを頭に叩き込んだ。
一刻も早く、影の世界から出たかった。
「別に感謝して欲しくて、した訳では無い…」
「誰もしてない」
「そう、それこそ”自己満足で勝手にした”だね」
フフ、と哂って俺の先刻の言葉で返したライドウ。
沸々と怒りが脳天に巡るが、今はこの男の相手をしたくない。
俺はライドウの脇を掻い潜る様にして、出入り口の段差へ跳躍する。
流れる視界に、ライドウが銃を引き抜くのが見えた。
撃つなら撃てば良い。
数発の被弾なら、耐えうるのだから。
そう思った矢先、着地した脚先に影が見えた。
「!」
驚いている瞬間に、その影は濃くなり、物体となった。
ドッと鈍い音と、羽を舞い散らせ、天使が落ちてきた。
「天使!?」
頭上を見上げれば、同じ様な天使が数体…
滞空したままにこちらを見つめていた。
『おやおや、乱暴な人間も居たものですねぇ』
その言葉は、硝煙をあげた銃を持つ彼に言っているのか。
「不意打ちとは、天使も随分融通が利くのですね」
笑顔でそう返すライドウを見て、ようやく気付いた。
(また助けられた…!)
自尊心を抉るその事実に、鼓動が早まる。
どんな顔をしているのだろう、今はライドウを見たくない。
きっと、哂って俺を見ている。
『これでは千晶様に申し訳が立たぬな…』
撃たれた天使がむくりと起き上がり、羽を翼を開く。
「橘さん…」
その名に俺がぼそりと呟くと、その天使は顔をしかめる。
『人修羅…その力、ヨスガに生かせば我々は喜んで迎えようと云うに』
「橘さんはおかしくなっているだけだ!正気じゃ、ない」
『今にミフナシロにて、執り行われよう…崇高なる神降ろしが!』
そう口々に歓喜の声を上げる天使達を、呆然と見つめた。
『あなたも見れば、きっとお分かりになるでしょう』
『ヨスガの素晴らしさが』
云いたい事だけ云って、その翼をはためかせ去っていく。
「ふん、悪魔が天使面して」
一息悪態を吐いたライドウが、外套にまとわりついた羽を掃った。
(ミフナシロ…)
預言者フトミミが、居た筈だ…
そこへ、あの集団が押し入るのか。
あの、力で全てを弾圧する天使の軍団が…
(橘さんが)
あの高笑いも、学校でのそれとは違う。
本当に、嘲笑っている。
彼女をこのまま放置しては、きっとコトワリを築く。
そうなれば…新田とその椅子を奪い合うだろう。
(…もう、他人事、だろう)
ふらふらと脚がターミナルへと向かう。
「何処へ行くの?」
背後からライドウの声がする。
「…何処だって良いだろ」
「ヨスガの神降ろしを見物にかい?」
「…あんな世界にされたら、困る」
そう重く吐き出して、俺は天輪鼓に手を当てた。
背後にライドウが居るが、殺意は感じない。
道中共にするだけだ、と云い聞かせ、俺は心を無にした。
「神降ろしなんて、見ている方が疲れるものだ…」
欠伸まで含みながら、背後のデビルサマナーが云う。
その後に、応えるかの様に猫の鳴き声がした。
「だって、そうじゃないですか」
ミャウミャウと、鳴く猫に向かって話しかけるかの様な。
「…あんた、猫しか相手いないからって…恐いんだけど」
堪らずそう声を発すれば、少し驚いた様に眼を開き
ライドウと猫がこちらを見た。
「…ああ、君にはまだ聴こえぬのか」
そう、少し呆れの入る声音でライドウが云ったものだから
深い意味も解らず俺は苛立ちを覚えた。
「なんだよ、猫の声なんて悪いけど俺には…」
「まだまだ君は弱いのだな…残念だ」
「なっ」
なんだと云うのだ。
悪いがそこまで俺は話し相手を求めていない。
動物と心を通じる程、熱心に接した事も無い。
「見てて疲れるなら、来るなよ」
「…ではミフナシロへ行くのか」
「放っておいてくれ…」
「クク…君の心根の清さには感嘆する」
馬鹿だと思っているのだろう。
もう、それで良い。
俺は馬鹿みたく、このままミフナシロに行くんだ。
馬鹿みたく、橘の意見を確認するんだ。
馬鹿みたくフトミミを助けるんだ。
それが…
その偽善が、俺を人間たらしめるのだから。
脚を踏み入れれば、既に蹂躙されていた聖地。
地に伏すマネカタの残骸を跨いで、その地を踏みしめる。
赤い流動に、儀式の為にかき集められるマガツヒを感じる。
『ねえ、悪魔は?』
「…さあ」
傍らのピクシーが疑問に思ったのか、聞いてきた。
『なんだろ、奥に召集されたのかな』
「なら好都合だけど」
『一斉に襲われるかもよ?』
「簡単にはやられないさ」
『わお、強気じゃんっ』
「我ながら頑丈だと思うよ」
自嘲気味に笑って、奥へと進む。
青白い空間に、赤い光が伝い流れる。
まるで涙みたく、ぽたりぽたりと流れ落ちている赤い雫。
「あ、あんた…!」
ふと、したその声に脚を止める。
「あの時の悪魔だろ…!見覚えがある」
曲がり角の、奥から窺い見る視線。
生き残っているマネカタか。
「大丈夫ですか?」
そう云い接近すれば、そろそろと這い出てきた。
「皆まだ奥で必死に応戦してるんだけど、やっぱ僕達なんかじゃ無理なんだよ…!」
出ない涙を感じさせぬ程、悲観的な声色でそう叫ぶマネカタ。
手には一応武器としてだろうか、工具が携えられていた。
「俺は、ヨスガの好きにさせたくは無いんです…」
そう云えば、マネカタは眼を輝かせてこちらを見つめてくる。
すがる眼。
「そ、それだったら助けてくれよ!!フトミミさんも云ってたし…あんたが普通の悪魔じゃないって」
「はい、フトミミさんを何とかしましょう」
おれの返答に満足したのか、嬉々として立ち上がるマネカタ。
『ちょっと、軽々しく受けすぎじゃないの』
ピクシーは少し憮然として肩を叩いてきた。
「良いんだ、求められないよりは」
俺がそう呟けば、彼女は黙った。
俺はいつからこんなに恩着せがましくなったんだ…
違う階層にたどり着けば、奥の方から喧騒が微かに聞こえる。
(この奥か…)
呑んでいるマガタマを内に再確認して、脚を進める。
遠くに舞う影は、天使達か…
「もう近いですから、安全な所で身を潜めてて良いですよ」
マネカタにそう云えば、ころりと不安を掻き消して
何かを懐から取り出した。
「あ、じゃあさぁ!コレやるから…!」
手に取れば、鈴だった。
「ありがとうございます」
この封魔の鈴で彼は生きながらえていたのだろうか?
こんな状況の、おまけに狡猾な天使相手に利くとは思わなかったが
俺はその鈴をポケットに入れて礼をした。
『…ねえ、奥の友達と戦うハメになるんじゃないの?』
「…神卸ろしの直後に、無茶はしないと思う」
『希望的推測ってヤツ?』
「そう」
『ヤシロって、いつもそう』
「ごめんな」
『他の仲魔は召喚しないの?』
「…会話すら聞かれたくないんだ」
ピクシーは、もう俺の事を解っているから、別枠だ。
こんなにも情けない姿、従えている悪魔に見られたくない。
悪魔を…未だに従えている事に嫌悪感を抱いている。
それなのに使役する、浅ましい自身から眼を逸らしたかった。
『ヤシロ…!』
と、ピクシーの声がする前に、身体が反応していた。
悲鳴と、肉を抉るような水音。
間違いなくこの先で交戦している。
警戒しつつ駆け、開けた場所に出れば
先程の位置からは見えなかった光景が広がっていた。
殺戮に興じる天使達…
這いずり回り、蹂躙されるマネカタ達。
『ようやく…来ましたか、人修羅』
盾を構える天使達が、俺の存在に気付いて武器を構え直す。
「それ、ただの弱い者虐めですよね」
俺が空の天使にそう聞けば、そいつは笑いながら云う。
『弱者のムシの良さには、普段から我慢がならぬのですよ…』
多くの死体が転がっているが、まだまだ奥に大勢居るマネカタ。
悪魔である俺が、天使と会話を始めたのを異様と思ったか
遠巻きに見ている。
『あなたも、すぐにそれを理解するでしょう…』
「…」
その天使の言葉が理解出来ず、俺は構えを取った。
すると、背後に気配を感じる。
横に飛び退けば、どさりと何かが打ち棄てられた。
「…!!」
見覚えが、あった。
同じ様な姿形だが、見たばかりなのに忘れる筈はない。
あの、鈴をくれたマネカタの死骸。
「…お前っ」
俺が打ち棄てた天使に向かって物を云う前に、突如。
『おお!人修羅よ!!我等ヨスガに与すると云うのですか!』
大きな声で、そう叫んだ天使。
俺は思わず、その内容の飛びっぷりに声を失う。
『コソコソ隠れていた泥人形まで駆除して頂けるとは!』
(な…)
その天使達の声に、遠くに見えるマネカタ達がざわつく。
聴こえてくる…
悪魔の鋭い聴覚が、彼等の言葉を捉える。
「あの悪魔がやったのか?あの死体」
「フトミミさんの云う悪魔じゃなかったのか?」
「あの野郎…」
そのさざめきが、大きなうねりになってくる。
「違うっ」
俺はマネカタの群れにそう叫ぶ。
一瞬鎮まるが、火は消えない。
「あんた、以前から物騒だったよな…」
「よく血まみれでアサクサうろついててさ」
「まさか此処にあいつ等を引き入れたのも…」
口々に俺への嫌疑を上げるマネカタ達に、俺は思わず駆け寄っていく。
「話を聞いて…」
「来るな!」
普段なら避けれる、その程度の鈍い軌道だったのに。
その物体をもろに頭に喰らった。
逸れた視線の先に、地に跳ね落ちた工具が見えた。
つう、と額に流れ落ちる感触は、血だろうか。
「…俺は、ヨスガを止めたくて…」
息を吐いて、もう一度その場で口を開く。
「本当かよ!?どこに確信を持てばいいんだよっ」
「あの仲間を殺したのはお前なんだろう!?」
「弱い者の味方につく筈無いもんねぇ?」
一に対して、反する声が十以上返ってくる。
「くそっ、お前がアサクサに来なければ…!」
やがて歩み出てきたマネカタの一人に、首をがしりと掴まれた。
「待って!いい加減に…っ」
俺はそれを振り解き、身を捩った。
リン
「…なんだ」
「…その悪魔からよ!!」
透き通った音に、場の空気が割られたが、次の瞬間
マネカタが俺のポケットに指をねじ込んできた。
「や…」
俺は退こうとするが、囲まれて四肢を方々に掴まれた。
大した力では無いが、ここで暴力に出ては更にまずい事になる。
俺の漁られたポケットから、チャクラドロップや道反玉が零れる。
「…在った!!」
抜き取られ、天に掲げられたそれは封魔の鈴。
「あああっ!!本当に…!!」
「やっぱり、あいつから殺して奪ったのか」
勝手な解釈に、血の気が引いてゆく。
『ちょっと、あんたらいい加減にしなさいよっ』
「ピクシー!」
俺の制止も間に合わず、いきり立ったピクシーが
四肢を掴むマネカタに電撃を放った。
「うわあああっ」
「手下を使いやがって!」
撥ね飛ばされた数人が、尻餅をつく傍で
周囲のマネカタ達が更に重く糾弾する。
「悪魔!お前は悪い悪魔だったんだ!!」
ピクシーは容赦無く構えて旋回する。
殺す気だ。
「戻れ!」
念じて、彼女にそう叫べば。
『…!やっぱ、そう』
妙な言葉を残してピクシーは掻き消えた。
「そんな素振りして、どうせ一人で殺しがしたいんだろ!」
がすりと、鉄器の何かで背後から打ちつけられた。
その反動で前方に脚を踏み出せば、その前方から掘削工具で殴られた。
「流石に多すぎて辛いのか?」
「天使にもそれじゃ受け入れられないんじゃないのお前」
糾弾に、いつしか嘲弄が混じり始めた。
「悪魔!」
「そうやって私達を騙して!!」
囲んでくるマネカタ達の隙間から、天使の影が見えた。
クスクス…クスクス…
その、裏の有る笑いに、誰も気付かないのだろうか。
「げふっ」
胸部に喰らった一撃に、倒れ込む。
そこにツルハシが振り下ろされて、思わず眼を瞑る。
「っああ!!」
悲鳴を堪らず洩らせば、えぐり込まれるそれ。
道を開通させる筈のそれが、俺の脚肉を開く。
「悪魔のクセに、この程度で痛いの?」
「全然実は弱いんじゃ…」
痛みは、人間の時とそう変わらない…痛いんだ。
(痛い、痛い…よ)
その言葉に、痛覚が鋭敏になる思いだ。
「悪魔!死ね!!」
「お前の存在が俺達の居場所を奪ったんだよ!!アサクサを返せ!」
「死ね死ね死ねっ」
「なにが人修羅だっ!」
「天使に取り入ったつもりか知らないけどなあ…」
「お前なんか、誰にも必要とされないんだよっ」
その、言葉。
俺は身体を操られているのでは、と思った。
それ位に、手が勝手に動いた。
静まり返る群集の中で、俺は。
その言葉を放ったマネカタの胸に、腕を、突き立てていた。
赤い、光がぽたぽたと伝って手先から、肘へ。
そこから、涙みたく地を叩く。
「あ、あがあああ」
奇声を発したマネカタを、ずるりと腕を滑らせ引き抜いた。
一歩、引いて取り囲んでいたマネカタ達が鉄器を持つ手に力を入れた。
「このおおおおおっ!!」
「悪魔は死ねえええっ!!」
口々に叫び、半狂乱と化した群れが一斉に俺へと振り下ろす。
俺は、俯き屈んだまま、腕を交差させた。
高まる熱が、いつもより鈍く感じる。
圧迫感が消えて、辺りが静まり返った。
俺は立ち上がり、見たくも無い一帯を視界に入れた。
周囲は、自身を中心に輪で囲む様に残骸が転がっていた。
びくんびくんと蠢く焦げた残骸が、網膜に焼き付く。
『ふはははっ、確かにお強い』
『こうも一瞬とは、潜在能力は云われる通り高い様子で…』
天使の声が、空から聞こえる。
俺は位置すら確認しないで、脚を空に蹴り上げた。
光の矢が天使達に降り注いだのを、音で感じた。
『おお痛い…しかし乱暴なのもまた良し』
『先へお進み下さい、きっと良い答えが見つかるでしょう…くくっ』
やがて声は消え、俺は残骸をスニーカーで踏んで歩き出した。
ぐじゃり、と粘着質な感触に脚を取られる。
そのまま、奥へ向かった。
何も、考えたく無かった。
「なん…だ、その姿は」
フトミミが慄く声が、俺の頭を上げさせる。
「…」
「まさか、君が私の同胞達を…」
こびり付く血泥も拭わず、俺はフトミミと対面した。
「まさか、嘘だろう?」
「…」
黙りこくる俺に、フトミミは息を呑んでから、言い放った。
「…普通の悪魔には無い心を持つと…読み違えた私が、愚かだった」
すぅ、と腕を上げるフトミミが見える。
その腕に魔力が宿っているのも、殺意が宿っているのも見える。
「私は退かぬからな!!」
その彼の叫びに、俺は震える腕を翳して構えた。
「誰か!助けてくれよっ!」
そう、返して力を…解放した。
「もう、功刀君って遅刻魔だったのね」
泥の上に立つ橘は、既に神を降ろした後だった。
「遅いわよ、折角の瞬間だったというのに…」
「…それで、橘さんはどうするんだ」
まだ生暖かい血を、腕から垂らしてそう問いた。
「当然…頂点に君臨するわ。貴方ともいずれ戦り合うでしょうね…」
「人間に未練は無いの?」
「無いわ」
「…そうか」
「今回は退くけど、功刀君、折角以前ヨスガに誘ったのに残念ね。今では邪魔でしかないわ」
異形と化した腕を軽々と振るい、別れの挨拶としたのか。
橘は天使に運ばせて悠然と飛び去っていった…
『酷い有様だな…』
「天使が彼に、マネカタ達をふっかけでもしたのでしょう」
一面に広がる死骸の海を、跨ぎつつ歩く。
ゴウトは死臭に顔をしかめている。
リン
『何の音だ?』
「…さあ」
靴先に、血塗れの…封魔の鈴が当たった。
もう使えそうにない其れを無視して、脚をそのまま進める。
『やれやれ、こうも多いと敵わんな』
「あの鏡で移った先、血の海ではないかと」
『嫌な冗談は止せ』
(半分は真面目なのに)
そう思い、黒猫を見下ろして笑った。
『お主一人で行けい』
「流石に怖気づきました?」
『肉球に血や泥がぬめってしょうがないわ』
そんなゴウトを後にして、鏡に姿を映す。
鈍く輝き始めたそれを、感じた瞬間には既に違う空間へ飛んでいた。
上から射す青白い光が、泥の山を照らす。
その頂に、人影が在る。
「…」
人修羅、功刀矢代。
泥と云うべくか、屍の山と云うべくか。
その傍には、フトミミなるマネカタと思われる…残骸が在った。
「…!」
こちらに気付き、俯き膝を抱えていた人修羅が面を上げた。
その顔には、赤い残滓がこびりついて斑紋さえ隠す程だった。
「また棄てられた?」
「…」
そう声を掛ければ、無感情な眼で僕を見つめてきた。
「マネカタにも、ヨスガの友にも棄てられた?おまけに殺した?」
「…ふ、う…ううううぅ」
震えて、彼は膝を抱える腕を痙攣させた。
その呻きは絶望か、悔恨か、憎しみか。
僕はその高みに居る彼の、屍の山に歩み寄った。
靴底が赤い泥水を跳ね上げ、外套の端が汚れる。
「功刀君」
頂にうずくまる彼に、ゆっくりと手を差し伸べた。
「こっちへおいで…」
君の、金色の双眸が薄闇に浮かび上がる。
ずる、ずると、脚を捩った。
ずるり、と泥まみれになってそのまま転がり落ちた君。
その、君の腕が伸びて、僕の差し出した指に…
「…あ、ああああっ!!!!」
狂った様に、自らを拒絶するかの様に。彼は叫んだ。
指先に熱が奔る。
人修羅の爪先で裂傷した僕の指先から赤い雫が舞った。
そのまま腕を振りぬいた彼は、獣が地を駆けるかの如く這い出し
鏡へと飛び込んでいった。
「…ふっ、ふふっ」
僕は、血生臭い死臭漂う、その空間で独り哂っていた。
指先の血を、ぺろりと舐め上げて、悦楽に顔を歪めた。
ミフナシロ・了
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