流れ伝う、赤い光。
ぼとり、ぼとりと、熟して落ちるしかない果実の様に。
赤い奔流が眼に痛い大広間…
このアマラ深界で、こんなに広い空間は初めてだった。
見渡す俺の視界に、何かが留まった。
…人型の、悪魔…だろうか。
こっちを、見ている。
いや、恐らく扉を開ける前から、俺に気付いていたのだろう。
巨体を揺らし、仰々しい髑髏の杖を床に着く。

『貴様が…ルシファー様お気に入りの、ヤシロ…か』

その、思ったいたより…落ち着き払った偉人のそれを思わす口調。
俺は警戒しつつ、その聞き慣れぬ名に引っ掛かる。
(ルシファー…?)
誰だ、まだ…俺は聞いた事が無い、筈。
勝手にお気に入りにされている様で、話が見えない。
と、突如空間を裂く笑い声が聞こえてきた。

「クク…あっははははっ!!」

ぎょっとした俺は、眼前の悪魔への警戒を思わず怠る。
それ程に…タカが外れた、笑い声だったのだ。
葛葉ライドウが、胎を抱えて、笑い過ぎて苦しげですらある。
「な、んだよあんた」
思わず問う俺の声は、得体の知れぬその男の笑いに…少し震えていた。
ライドウは、目尻を指で拭い、俺を見た。
「ク…失礼……いや、謎が解けたものだから、可笑しくてね」
意味が解らない。
この悪魔召喚師、今のあの悪魔の台詞に笑ったのか?
ルシファー…に、憶えがあるのか?
『おい、ヤシロよ…また貴様はあのお方の名を知らぬのか』
その悪魔の響く声にハッとして、すぐさま向き直る。
「俺は、知らないです」
『ふ…相変わらず、真の意味も知らずにメノラーを捧げているのか』
「…奥に行けば、逃げ道が在るかと思って」
『何から逃げるのだ?』
「…地上の喧騒」
『それだけか?』
「…繰り返しているらしい、俺の輪廻から」
俺自身、そう云われて信じたくは無かったのだが…
ダンテもそう云っている…何より、既視感が。
『成程…貴様、やはり人に戻りたいとな』
クックッと喉奥で笑い、その悪魔は胎を撫ぜる。
『前…此処に来た時も似たような事を云っておったな』
「!」
『しかし、皆で道を開けて迎え入れるなぞ…出来る筈も無し』
「迎え入れる…?」
『はっ、やはり何も知らぬか…哀れな仔よの』
その言葉の端に見え隠れする、前の世界の俺…
その前、が、どの前にあたるかは謎だったが。
『さあ、焔を纏え人修羅よ!試そうぞ…前の貴様と今の貴様、どちらが優れているのかを!!』
もう、この場に臨んだ時点で覚悟はしていた。
戦う事に理由を求めても、真の答えは返ってこないのだと。
この深界が俺を迎えているのだけは確かで、それに血で血を洗うように
応えよと…あの、車椅子の老人が暗に語る事も。
眼の前の、悪魔を見据える…
波動が、この大広間の中央…その悪魔に集まる。
渦巻き、その赤黒い塊が解けていくと…そこにはとんでもないモノが居た。
「…!!」
思わず、一歩後ずさる。
恐怖、というより…俺の生来の感覚がそうさせる。
そこに現れたのは、巨大な…蠅。
『これが真の姿と…貴様は何度見れば解るのだ』
「…初めてですけど」
『この姿を見る度、嫌悪感にその眼が満ちるのは毎度面白いがな…』
当たり前だ。
蠅だぞ、それもあんなに巨大な…そして禍々しい。
俺は、虫だのなんだのが苦手だ、マガタマだって本当は触りたくも無い。
間合いを必要以上に取る俺に、キチキチと吸い口を鳴らす蠅悪魔。

『これが魔王ベルゼブブの姿と、此度こそは焼き付けるが良い!』

その声に、空気が振動している。
俺は横に飛び、掌で床を押し退ける。
跳ねた身体が、そのベルゼブブなる悪魔が放つ電撃を掻い潜る。
それでも避けきれぬ光が、俺の表皮を焼き裂く。
焦げ付いて裂ける肉を気にする間も惜しい。
長引かせたくない、蠅をずっと見ているなんて無理だ。
息を吸い、両腕に焔を纏わせ一気に駆け寄る。
大きな複眼が、俺を捉えている。
沢山の俺が、そのひとつひとつに映り込んでいるのか。
右、と思えばベルゼブブはそちらに脚を滑らせた。
地を蹴り跳べば、その翅が上空を覆った。
獲物を捕らえるべき器官は、悪魔となっても同じなのか。
俺はスローモーションに見えているのだろうか。
(読み合っても無駄か?)
翅が打ち付けてくるが、それを掴み返す。
ジリ…と焔で焦げるその箇所。
俺を振るい落とそうと、大きく翅が空を薙ぐ。
床に身体を叩きつけられ、俺はキリを見て指を解した。
髑髏の紋様も禍々しいその翅が、少しくたびれている。
『それで終わりか?』
しかし、ベルゼブブは俺を挑発する。
『以前の貴様の方が…好戦的だと記憶している』
「前の俺なんて知らないっ」
『今回の人修羅は、目的も無しに足掻いているのか?愚か者め…』
その言葉に、腹が立たない訳無い。
何故そこまで比較されなきゃならないんだ。
今居る、この俺は不要なのか?
ダンテに云われた言葉が、こんな時に甦る。
俺に明かしたくない、俺の事。
(何だよ、俺は…俺は何なんだよ…!!)
ベルゼブブの放つ焔に、俺の業火が混ざり合う。
熱い熱波が、表皮を焦がす。
ぼろぼろになった指先から、赤いものが滴っている。
血かマガツヒか、どちらでもいいのだ。
そんな事より、焔を巻き起こさなくては。
俺の中の、誰に向かっているのか解らない憎悪が
まるで鞴の様に、俺の焔を滾らせる。
焼き尽くさなければ…

何を?

ベルゼブブの、鉤状の節がいくつもある脚。
それがザリザリと床に擦られる。
その蠅のする行為にも似た動きに、俺は眉を顰めて待機した。
『ふふ、気味悪いとでも云いたげだな』
「…」
『どれ、今回の人修羅は耐え得るのか…見物だ』
その音が、次第に大きくなる。
まるで、何かに聞かせているかの様に…

「いいの?そんなに悠長に」

その声に、首を向ける。
遠くの、入り口にいる葛葉ライドウが発したものだった。

「何かを召し寄せている」

そう語るサマナーの視線が、俺の背後へと移った。
何か現れたのか、俺はそう思いすぐ構える。
が…そんな簡単なものでは無いと、視界に映りようやく理解した。
「う…」
大群、黒い点の。
それが何か、認めたくない。
『魂を運び、孤独な貴様の弔いとしようか』
「気持ち…悪いっ」
『上で野垂れ死ぬより、余程崇高に逝けるぞ?この贅沢者め』
その髑髏の杖が号令でもしたのか
黒い渦が俺目掛けて一斉に飛び込んでくる。
黒い、蠅の群れ。
(絶対嫌だ!)
業火を周囲に、咄嗟に爆ぜさせる。
だが、残りが居る。
もう一発放つ猶予は与えられていない。
背後に駆けるが、速い。
アイアンクロウで薙いでも薙いでも、掻い潜って来る。
俺の肌に噛み付いてくる。
「やっ」
おぞましいその感触に、肌から急いで引き剥がす。
「っ…」
脚のを掃えば、腕に。
腕に焔を纏わせようとすれば、その蠅達が指先までいっせいに埋まる。
見ているのも嫌で、しかし術も発する傍から次々に飛び来る蠅達。
黒点に埋められ、俺は発狂しそうだった。
痛い…?いや、もっと精神的に殺されている。
『安心しろ、ルシファー様にお叱りを受けたくないので顔は外させた』
ベルゼブブの、そんな救いにもならない台詞と同時にか
俺に噛み付いていた蠅達が群れを成して主人の下へ還っていく。
俺は、ぐったりして、肌を震わせた。
鳥肌が、この悪魔の身体にさえ立っている。
身体は冷たいのに、頭は沸騰しそうだ。
『潔癖な貴様には、面白い術と思うがどうだ?』
蠅の王が哂う。
俺は、折っていた膝をバネにした。
ギラつく衝動に駆られて、その蠅に拳を叩き込もうと一気に駆け抜けた。
「ふざけるなあああっ」
右腕に、一挙に熱が集まる。
破壊に埋め尽くされた脳内。
脳に集うのは、血かマガツヒか…それはやはりどうでも良かった。
ただ、この拳を見舞ってやると、振り下ろした。

ぴちり

その、音に俺の腕が下ろされず止まった。
まだ、まだ音がする。
そして、不可解な…疼きが、違和感が。
俺はよろけて、ベルゼブブの眼の前から後退した。

ぴちぴち…

冷や汗が、突如流れる。
力を流して治まった腕を、俺は空いたもう片手で掴んだ。
「ひ…」
まさか、と俺が腕とベルゼブブを交互に見た。
蠅の王は、ただ哂う。
腕だけでない、疼く、痒い、痛痒い…身体が…!!
想像して、既に俺は叫び出していた。
「や、だ…嫌だ!嫌だそんな!!やめてくれえええっ!!」
身体を掻き毟る。
指先に皮が引っ付いてこようが、お構い無しに。
だが、無駄な抵抗だった。

ぶちっ

右腕から、一際大きな音がした。
見たくない、だが除去せねば…と脳内は思う。
が、俺にそんな強い精神が備わっているとは思えない。
そんな自覚があるのだから…もうこれは無理だと既に悟っていた。

俺の右腕の表皮を喰い破って、白いそれが頭を出していた。
卒倒しそうになる脚を、ギリギリで踏み留めた。
「わ、あ、ああああっ」
それを摘まみ出そうとしたのなら、身体中が軋む。
そう、植えつけられていたのだ、卵を。
腕のを、抜き取る。
ずりゅ、とその蛆が抜けた瞬間、くらりとする。
その気持ち悪い感触と見目が…そして魔力が…
『我が子等は魔力を喰らって形を成す…そして表皮へ上るのだ』
ベルゼブブが、自慢の子供を紹介する親御の如く語る。
俺は、それどころではない。
「やだ!やだやだやだいやだああああ」
身体中から這い出てくる白いソレ。
蠢いて、俺の表皮を喰い破って顔を覗かせる…
『どうだ?生きながらにして蛆が湧く感覚は』
ベルゼブブが、既に高みの見物をしている。
俺はといえば、床に転がり回って発狂していた。
魔力を喰らわれ、身体から力が失せていく。
抜いても、潰しても湧いてくる。
「ひっあ、ああああ」
どれだけ植え付けられた?皮膚が穴だらけになる程?
しかし俺の再生能力が、苗床を更地にするのだ。
皮肉にも、そうしてまた植え付ける環境が整う。
もう、この身体をどこまで呪ったろうか。
白い蛆が、蛆が俺の身体を這う、喰い尽くす…!
指先が痙攣して、床を掻いた。
「うっ…うううっ、え…っ」
俺を苗床に育った蛆は、丸々としていた。
『やはり人修羅に寄生させるのが良い、芳醇な魔力が在る…まあ、それも使えなければ無意味なのだがな?』
白く埋められる俺を、嘲っているその声…
でも、間違った事は何も云っていない。
それが、俺の戦意を喪失させた…
気持ちの悪い、この身体に…気持ちの悪い蟲が集る。
別に…おかしくは、無い。
痛い…気持ち悪い。
ああ、もう消えてしまいたい。
前の俺に、俺は既に負けていたのだ。
耐え凌ぐ程の意志を、持ち合わさなかったのだから。

顔にまで這い寄って来た蛆に、視界を奪われる。
本当に、死体の気持ちだ。
いや、もしかしたら…もう俺は腐りきっているのかもしれない…
だから、蛆が湧くんだ…
もう、あとは棄てられるだけなんだ…
創世?ボルテクス?
いや、俺は…蠅の王に、弔われて終わるんだ…もう。
もう、疲れた。




ぶち



何か、別な音がした。

ぶちっ
ぶちっ

潰れる様な…音。

視界が、開ける。
俺の顔を覆っていた白い悪魔の分身達が、取り払われた。

「立て」

ああ、あんたか。

「そのまま死霊の様に朽ちるつもりか?」

腹立たしい程に綺麗な指先で、俺の顔を這うソレを除けた。
俺は、何とか呟き程度に返した。
「どうせ、あんただって…哂ってるんだろ…俺の事」
すると、いつもの笑みを消した悪魔召喚師が
その指先の蛆を握り潰した。
どろりと、やや固体に近いその液を指に伝わせて云う。
「こんな蟲共に吸わせて良いのか君は」
何故、少し怒っているんだ…
「あの蠅の王の云うとおり…君は力を持て余している!」
ずる、と俺の肩を持ち、揺り起こされた。
ぼとぼと、と蛆が床に落ちる。
「払い除けろ!!喰われ続ける程愚かな奴とは思わなかった!」
俺の身体を、叱咤する様に叩き伏せる。
でも、それが蟲を掃う為の行為だと、それは解る。
俺は、ただぼうっと放心していた。
まるで本当の死体の如く。
『おいライドウ!素手で触れるな!』
あの猫まで止めてるじゃないか…
何やってんだあんた。
ベルゼブブだって、いつまでも待ってくれないだろうに。
身体の大体から、疼きはやがて消えた。
「前の自身に劣るなど、そんな馬鹿げた事は無い…っ」
俺に、何を求めているんだ…ライドウ。

「僕が出逢った人修羅は、一番強くなくてはならないんだ…!!」

ライドウの眼が、俺の眼を繋いだ。
揺るがぬ意志が見えた、初めて。
その暗黒に耀く眼の奥に…この男は希望を見出しているのか?
この男は…悪魔に魂を…売っている。
『ライドウ!もういいだろう、後は喰い破り頭を出すを待つしか…』
猫があんなに云っているのに、身勝手な奴…
「吸い出します」
『おい!聞いておるのか!?』
そんなやり取りの後、俺は首筋にライドウの唇の感触を認識した。
強く、ぎゅうぎゅうと皮膚を抓られているかの様な痛み。
ずる、と何かが抜ける感触が続けてした。
それを、無感情に見ていた俺は…ようやくハッとした。
俺の首に在中していた蛆を、吸い出したライドウ…
そのまま口に含んだソレを、プッと横に吐き捨てた。
びちびちと、生まれたばかりなのに棄てられた幼虫。
俺の肩をがしりと掴んだライドウが、そのまま立ち上がらせた。
「戦え!」
その叫びと共に、吐き棄てた先刻の蛆を、くちりと踏み潰した…
俺は、そんなライドウをただ、ただ見つめていた。

「僕の悪魔にならずに死ぬな!!」

ああ…この男は
悪魔に魂を売っている…


蠅の王・了




back