ぶわりと足下から、這い上がる焔。
密着した箇所から、椅子に流した魔の力が発火した。
「あっつぅあああ!!んだこりゃぁあッ!?」
背後からの悲鳴に手応えを感じる。閉ざされた視界で確認は出来ないが、多分椅子は燃え出している。
手脚を括っていたビニル紐が融け始め、独特の臭気が鼻を衝く。
引き千切って、強張ったままの身体で躍り出る。
コートの前を塞ぎ、被されたジャケットで頭は覆ったまま…相手を見据えた。
着衣を握る自身の指は、とりあえず斑紋は浮かんでいない。顔も…まだ大丈夫だろうか。
「やっぱりオマエか!?オマエがそうなんだな!?燃やしたのもそうだろ!」
燻る椅子をガシャンと蹴りつけて、リーマンが嗤った。
いや、もう何者なのか、ぼんやりと思い出し始めている…
「サカハギ…」
ぼそりと吐き出せば、落ち窪んだ眼が俺を熱っぽく睨んできた。
「やっぱ知ってるじゃねえか…!そう、それがオレ様の本当の名前よ!」
「本当の名前は…違う…カードにも、さっき見た表札にも、サカハギなんて…書いてないです」
「この世界のオレは贋物だ、オレはサカハギ…あの姿こそが本物」
「夢の世界とか、意味不明…だ」
焦げたシャツに、俺の血が少し付着していた。ナイフを片手に前傾姿勢の姿は、善良な人間とは云い難い。
「オマエもその化けの皮、さっさと剥ぎやがれ」
「俺はこの姿が本物です」
「今の焔は何だよ…あれか、もっと沢山剥いだら、あの黒い紋様が拝めるのか?」
「…剥いでも、剥いだ皮に…望まれてるものは多分、見えないですよ」
「何で判るよ」
「もう全部剥がれたから、知ってます」
ボルテクスでも、云った気がする。
「はぁ、経験済みかよ、やっぱオマエは化け物って事…理性の皮被って、窒息しそうなんだろ?」
繰り返している。
が、俺も相手もボルテクスの時と、姿は違う。
このまま殺される気も無い、ならどうやってやり過ごす?
警察に相談でもするか?馬鹿馬鹿しい…
この男の殺人が露呈する事すら、どこか恐怖している俺が居る。
触れ回るんじゃないだろうか、俺が“人修羅”だと。
「なぁ、どうやったらあの世界に行けるんだ?夢でだけじゃ足りねぇよ、あれはこの世の未来なのか?」
「違う、貴方の勝手な…夢だ」
睨み合いが続く、窓ガラスの外、ギャアギャアと声が煩い。
カーテンで遮断されているが、あの声はカラスだろう。
「夢、ねぇ…東京タワーも有った、そしてオレがオマエに殺される現場は代々木公園の中だった」
「近所だから、夢に見るだけでしょう」
「さっきの火、もっぺん出してみろよ…そのくらい簡単だろ?え?」
にじり寄ってくる、血塗れのシャツの皺も気にせず。
凶器を持つ相手だから、油断はしたくない。
が、魔具を無理矢理外して悪魔になっては…勢い余って殴り殺してしまわないだろうか。
「嫌だ…来ないで、下さい」
喉の奥が熱い、ボルテクスとは状況が違う。
此処は殺人が罪となる人間の世界、手を汚してくれたダンテも居ない。
そして、向かい合う男は…ボルテクスの記憶を持ちはしているが、ただの人間…だと思う。
マネカタを殺した瞬間でさえ、あんなにも慟哭した己が甦ってくる。
「何云ってんだよ、悪魔にしてたみたく、殺せよ?」
「だからっ、俺は違う!」
後ずさる、新聞紙がざりざり啼いて、続いて背中に当たる布地…カーテン…窓ガラスか。
ぶち破って飛び降りるか?いや、あまりにもリスクが高い…目撃される…
「此処はかなり高いぜ?ホラ、さっさと本来の姿に戻って、飛んでみろよ人修羅!」
「人修羅じゃない!俺は…っ!」
剣幕に、堪らずカーテンを開く。
渋茶色の幕が、高層ビルの光を一面に映す面が開いた。
「…最近煩ぇと思ったら、カラスか」
男の声の通り、ベランダの手摺に三羽、黒い鳥が留まっていた。
嘴を区々に開き、啼く。
『開けろ』
『アケロ』
『あけろ』
鳴き声と違う、脳の奥に響く言葉。
(こいつ等、悪魔…)
その黒い三羽に、ようやく見覚えがあると気付く。
咄嗟に鍵を上げ、重いガラスを横開く。
薄く出来た隙間から、なだれ込む様にカラス達が部屋に侵入してきた。
俺を囲む様に、するりと人の形を取る。甲冑姿の女性悪魔達。
『人修羅、何故思うままに殺さない、理解不能だ』
一人は俺の傍に、一人はベランダに、一人は男の脇を掻い潜って部屋の外へと出て行った。
唖然とするばかりの男、もしかしたら見えていないのかもしれない。
風の巻き起こる室内、吊るされた皮がゆらゆら揺れる。
『中途半端に人間なものだから、目視されるのだ』
面倒そうに俺を見下ろす悪魔に、思わず云い返す。
「どうして此処に居るんだ…」
『勿論、我等が主人の命令のままに』
途端、玄関口からの音が響いた。俺も男も、反射的に部屋の入口を見る。
床板の微かに沈む音の後、カラスを肩に止まらせた黒い影が、くすりと哂って入り込む。
「お邪魔するよ…おやおや、これは随分と趣味の良い内装だ」
葛葉ライドウ。
「ん、だおいテメェ!誰だよ!どうやって入ってきやがった」
「急で失礼しますね、靴はしっかり揃えておきましたよ」
「違ぇよ!おい、サツにチクって無ぇだろうな!?」
「チクる?フフ…そんな面倒な事する訳無いでしょうに」
外套を揺らして、仁王立ちのライドウ。学帽下からの眼は、男の凶器を見定め、間合いを測っている。
中で管か得物を撫でていると思われる、その生き生きとした哂い。
「御苦労、ネヴァン、モリーアン、マッハ、戻り給え」
唱えた瞬間巻き起こる風。三体が翼を翻し、巨大な一羽のカラスになった。
バイブ・カハとなりライドウの傍に羽ばたき降り立つと、その頭をすりすりと脚に撫で付けている。
「誰か知らねぇが、邪魔すんじゃねえ…俺はそこの人修羅のボウヤに用事があんだよ」
叫ぶ男に一瞬肩が竦んだ。だが、その向こう側で哂うサマナーが、俺に促す。
「功刀君、回復くらいならしてあげる」
どういう意味だ…
「三点の魔具で大した力も発揮出来ないだろう?その状態なら、間違っても殺す事は無いさ」
「この人が捕まっても、俺にとばっちり来るだろ!」
「僕が掃除してやろうと云っているのが、解らぬのかい?」
腕組みし、扉枠に寄りかかるライドウ。
その、余裕しか感じられない佇まいに…俺は、何処かで安堵している…馬鹿みたいだ。
「君の痕跡を残さぬ様に処理してあげるから、殺さぬ程度に抵抗してみ給え」
ライドウの、その言葉で火が点いた。
ナイフを振り下ろしてくるリーマン…いや、サカハギの腕を、寸前でかわす。
背中に熱が奔る、恐らく薄く裂傷が入った。
悪魔の姿で無い俺の身体に、治癒は望めない、どくどくと滾る血潮が背中から出て行く感覚、痛み。
「コッチの世界でも邪魔すんのかクソッ」
切っ先が頬をかすめる、奥歯を噛んで悲鳴を殺す。
ただ傍観するライドウに腹が立ちつつも、余計な手出しは要らない、と本能が云う。
部分的に焦げ付いたパイプ椅子を掴み上げ、遠心力で思い切りサカハギの頭に叩き込む。
損傷部分から壊れた椅子が、ガシャガシャと床に散る。
吹っ飛んだサカハギの指先から、ナイフが零れそうだ。
「はあ、はあっ」
荒い呼吸、緊張状態の身体に鞭打ってその腕に跳ぶ。
「あぐっ、があっ、クソガキィッ!!」
指を潰す勢いで、上から指を踏んだ。幾度も幾度も踵で踏み下ろす。
握り直そうと浮き立つナイフが、足先を稀に嬲る。
血塗れで更に滑り、サカハギはいよいよナイフを取り落とした。
俺はそれを即座に壁際まで蹴り飛ばす。
「イイ気になりやがって、っ」
「ぅ、ッ――」
足首を捕まれ、引き倒される。
凶器を無くしたとはいえ、自分より大柄な男性の拳は痛い。
「あの姿になる必要も無いって事か!?くっそ…くそおッ」
「あっ!ううッあ、ぐ」
「その悪魔の力!寄越しやがれええッ」
剥がれた腹部をぐちぐちと拳固が抉ってくる。眼を見開いてサカハギを睨む。
手助けする事も無いライドウの、時折する失笑が聞こえると、俺を更に逆立てる。
「好きでなった訳じゃ、ない!」
首を絞めてくる腕を掴み、指先に微かな熱を集める。
発火するシャツに、一瞬怯んだサカハギの、その顔面を――
「一生夢見てろ!殺人鬼ッ」
殴りつけた。
ミキ、と軋んだ音があまりにエグくて、殴りつけた自分の拳を上手く開けなかった。
ぐったりしたサカハギの近くまで、黒い影がくつくつと哂って、来る。
「マネカタでも無い、れっきとした人間の殴り心地は如何だい功刀君?」
「……最低」
「正当防衛と云い張れば、気が済むかい?ああ、それと吐きたいのなら帰宅してから頼むよ、処理が面倒だ」
「…俺の事、囮にしたのかあんた」
「犯人の目星はついていたからねぇ…ま、逮捕の権限は僕等に無いだろう?現場を押さえたかった理由はねぇ、功刀君…」
綺麗で残忍な、黒い眼が哂う。
「犯人に捕まった君がどうするのか、僕が見たかっただけさ」
罵声を呑み込んで、ふらりと立ち上がった俺は、ライドウを見据える。
見たかった…だと?
「ふ…ざ、けんな…」
上手く開けないままの拳なら、もう一撃殴ってもいいだろ。
「もし世間にバレたらどうしてくれんだ」
ライドウのすかした横っ面に、一発くれてやる。
くそ…痛い…どういう事なのだろうか。
カラスが窓から入ってきてから、突然黒尽くめの男が入ってきて…もう、滅茶苦茶だ。
あの男、カタギの人間に見えないので、警察の心配は…あまり無いが、折角の作業を中断させられてしまった。
私は、人修羅の皮を得るまで、戻れない。
歪む視界、腫れ上がった瞼で狭い中、人修羅の背中を見上げた。
そう、少年では無い、彼は“人修羅”なのだ。
「おい、一発殴らせろ…ライドウ…っ」
聞こえて来る声音は、苛立ちを含んでいる。気が散っていると思われる。
気力を振り絞る、まだ立てる、まだ…まだ…剥ぐ余力は、有る。
私は、真の“サカハギ”になるのだ。
がばりと起き上がり、その背中に飛びついた。
「ひ、ッ!?」
暴れるが、私の腕を上手く掃えないでいる。
私は、人修羅の胴に回した腕の先、あの少しだけ剥いだ腹に指を這わせる。
今より、此処を基点に…引っ剥がす――
「バイブ・カハ!」
死臭立ち込める部屋の中、透き通る声を久しく聴いた。
ほぼ同時に、私の背中に奔る衝撃。その圧自体は、軽いものが幾度もたしたしと、叩くようなそれだ。
(ああ、また叩いて…)
料理をする妻を、後ろからそっと抱き締めて甘える。
その私の背中を、精一杯伸びをする幼い頃の娘が、たしたしと、小さな拳で叩くのだ。
“あーパパの甘えんぼ!”
「……グ……」
内部からせり上がって来るのは、吐き気。
脱力した腕から逃れた人修羅。支えが無くなり、私はずるりと新聞紙の床に這い蹲った。
「ラ、ライドウ」
「九十九針だ、君もマントラでやられた事が一度や二度はあるだろう?僕は無いがね、フフ」
カーテンの隙間、ガラスに映りこむ私の背に、草原の様に整然と…無数の針が。
「なに、この男は手術ですらない血生臭き仕事を、針に散々させていたのだ。因果とでも思えば良いのさ」
「……でも、人間相手にあんた…」
「ハ、殺されかけておきながら…君は悪魔以外には甘いねぇ、全く」
哂う黒い影…ああ……背中が、痛い。
このまま、警察に捕まるのだろうか、己では治療も出来ない。
近隣住民に発見され、私はフルネームで、目隠し無しの顔写真付きで、報道されるのだ。
かつての妻に迷惑をかけ、娘の名前も傷付けて。快楽殺人犯として…
どうしてこうなった、私は…私は…
いつ、誤った?
「あ、あああっ、うああああああ」
これを、この身を包む皮を剥がせば、成れるのか!?
夢の中のサカハギに、あの力だけを純粋に求めた存在に。
この世界の、あの子達の家族であったこの男を、この世界に残すべきでは無い。
すべて、外面を剥いでしまえ。
「う、うッ…ライドウ、この人…自分の皮を…っ」
「既に数人殺している…サカハギとして中途半端に覚醒はしていたのかも知れないねぇ…」
怯える人修羅は、私を哀れんでいるのか、蔑んでいるのか。
結局、この世界でも決定打を私に下すのは、その腕では無かった。
ビチビチと剥がれて行く私の皮膚。
手の届く全ての範囲を掻き毟り、剥ぎ取って、私のカケラなぞ残さぬ様に。
「ウウーッ、あ、ああ…ァ」
横転した世界、あの子の微笑んだ遺影が見える。
(パパはな…結局弱い、甘えたいんだ、今まで通り理由が無ければ動けない)
涙が溢れてくる、痛いからなのか、哀しいからなのか。
君を殺した奴を殺しても、その親も哀しいのだろうか。
どうして私だけが、どうして、どうして。そう思い続けて、哀しい顔の遺族に囲まれて、紛らわしていたけれど。
(サカハギに成れば、言い訳出来ると思ったんだ)
あの世界は、本当に在ったのだろうか……ボルテクス界。
哀しみなど考える暇も無い、弱肉強食の世界。
(ごめんね、ごめんね、やはり弱い)
力の持つ魔力に、中てられた。もう、歯止めが利かなかった。
現実では、君を言い訳に、沢山を殺した。愛しい娘よ。
「人修羅ぁ…こっちでも、オレ様の事よぉ…汚ぇもんでも見る様な、眼、しやがって…」
全てが赦せなくて、私は私の皮を剥ぎ続けた。
怯えつつも、鋭く冷たい…人修羅の綺麗な眼が、私を見下ろす。
「オマエも……化けの皮、剥がされやがれ…」
負け惜しみと解っていても、息も絶え絶えに吐き出せば。
「俺は…化け物じゃない。同族は…殺しません」
ただ、そう返されて。もう鼻で笑うしかなかった。
この世界で、力をひた隠しにして生きるのは、理性との戦いだろう。孤独との戦いだろう。
悪魔だけの世界なら、好き勝手が出来るだろうに。
「け……ちったあ理解してくれると…思ったのによ」
私だけが、堪え性の無い矮小な生き物の様で。泣けてしまう。
薄っすらと光る金色の眼を見つめながら、暗転した。
『ホラ云ったろう!婆の云う事は聞いとくもんじゃて!』
「流石は綿のおばば、永きに渡り見ているだけある」
『若いオトコのお針子なんて滅多に居ないからねえ、お兄ちゃんみたいなのが来たらもう喜んで教えちゃうねえ!』
カッカッと笑うダツエバに、ライドウは魔石を渡して相槌を打つ。
周囲に参拝客がちらほらと居るので、俺はあまり話し込まないでくれ、と視線で促した。
新宿二丁目の正受院。俺はライドウに連れられて、情報提供してくれたというダツエバに礼をしに来たのだ。
門から入って右の御堂に、奪衣婆尊として祀られている。像とは別に、分霊として居座る悪魔に見えるが。
「どうして解ったんだ…あのサラリーマンが…その、犯人って」
引き止めるダツエバを軽くあしらうライドウが、俺に顎で指し示す。
「この正受院では針供養を如月の八日に行っていてねえ」
「…針供養?」
「折れた縫い針を豆腐に刺して、供養する儀式さ。全国で行われているが、この辺りだと此処くらいかと思ってねえ」
ライドウの示す先、こんもりと土が盛り上がっている。
「針塚だ、其処に納められた針達が眠っている」
「……針…」
「ダツエバに問い質したのさ」
踵を返し、寺院を後にするライドウ。
後を追い外に出ると、相変わらずの雑踏。ビルに阻まれた陽射しが、稀に眼を刺す。
「血生臭い針を供養した奴は居なかったか、とね」
「錆びてたら、全部血みたいな臭いだろ」
「血は魔力の源、薄っすらとMAGが薫る可能性が有る」
「…あのな、どうして針調べようと思ったのか、訊いてるんだ」
ふらりと足取りを変えるライドウ、すれ違う人混みが何故か奴を避ける。
人間の影すら踏まない様に、軽やかに外套を翻す。
「おい、何入ってんだよ…おいライドウ!」
勝手にふらふらと百貨店に入る、いい加減にして欲しい。
エスカレータに乗り、俺を振り返った。
「これ、ボルテクス界のイケブクロを思い出すねえ」
「…何処にでも有る」
「三越のルネッサンス式新館を思わせるよ」
「三越…まあ、此処もその系列だった筈だけど…って、そういう問題じゃない」
「大正の三年、その頃からエスカレーターにエレベータ、簡易式ながらスプリンクラーの様な物も、既に設置されていたらしいね」
「はあ、スプリンクラー…」
先日のビー・シンフル号を思い出して、溜息しつつエスカレーターを降りる。
「少し口寂しかったのでね」
飲食店の並ぶ中、適当に見繕って立ち入るライドウ。
この男、一体何処から金を調達しているのか、少し恐ろしい…
向かい合わせて仕方なく座り、店員に渡されるメニューに目を通す。
「凍頂烏龍Mと桂花陳酒と、蛤の粥にトッピング追加で塩鶏と腐乳」
真昼間からアルコールかよ、だから学帽も学ランも今は隠しているのか。
別でお茶も注文しやがったし…それに食い過ぎだ。信じられない…健康的な粥に、そんな色々ぶち込んだら意味無いだろ。
「…白豪銀針のMサイズでお願いします」
店員がくすくすと笑って注文を受ける、きっと俺が小食と思われた。
それ以前に、食欲がそう無いのだから、ライドウと居るとあまりに如実に差が出来て、痛々しい。
「功刀君、君はあの“人修羅”と言葉を残した犯人が、どの様な人間を対象にして殺人を繰り返していたか認識していた?」
「…最近そういう事件あるのは知ってたけど、其処まで見てない」
先に届いた茶器が並べられていく、芳しい芳香が漂う中でライドウは続ける。
「非行少年が対象だね、そして死体に施されていた加工というのが、どの様なものかも…フフ、どうせ知らぬだろうね」
「加工…」
「肌の皮を剥がされ、放置されていたというのが死体の共通点だ」
苦笑いの店員が、一通り並べ終えて去って行く。確かに、こんなの飲食店でする会話じゃない。
「人間の皮なぞ、何の為に剥ぐと思う?」
「…考えた事も無い、知るかよ」
「悪魔ならば好き好んで拷問の際に剥ぐ奴も多いが…人間が人間の皮を剥ぐ、それも比較的丁寧に、そこから幾つか考えられるのは“素材として調達する”という理由だ」
「素材って、人間の皮……あ」
サカハギの皮の利用方法を思い出す…息が詰まって、まだ冷めぬ熱いお茶を喉に流し込んだ。
「昔から人皮装丁本という物もあるからね、魔術書等に多く見られるが…知ってるかい?本の装丁を人間の皮でしてある実に趣味の宜しい書物の事さ…ああ、失礼」
粥の盆を持ったまま、張り付いた笑顔で立ち尽くす店員。
ライドウはにこやかに意地の悪い笑顔で、それを受け取る。
「うら若き乙女の前で交わす話では無かったですね」
「いっ、いいえ!どうぞごゆっくり!」
さらりと云ってのけると、店員の張り付いた笑顔は別の色をかもし出す。
(このスケコマシ…)
歯が浮きそうになりながら、茶を啜るしかない。
「で、あんたは犯人が人間の皮を集める悪趣味野郎だと踏んだのか」
「その可能性を考えたね」
トッピングで白い面が見えない粥に、蓮華を突っ込むライドウ。
あんなにごちゃごちゃなのに、香りは悪く無い…妙な食べ合わせを心得ているのだろうか。
「それだけじゃ、あの人…サカハギに辿り着かない、人物特定なんて無理だろ」
「君はまず何処から疑う?」
「は…?何が…」
「まさか、残忍で不可解な事件ならば、総て悪魔の仕業とでも思っているのかい?クク…」
「馬鹿云え、俺だってボルテクス…マガタマ呑まされるまでは、悪魔なんて認識してなかったんだ」
あまりにもフィクションじみた内容なので、俺はどうしたって小声になる。
ふ、と吐息で軽く蓮華上の蛤を冷まして、するりと食むライドウが、ニタリと哂った。
「君と同時に見たニュース番組、あの後の被害者遺族の特集を憶えているかい?」
「……ああ…流して見てたけど、それとなく…」
「僕はね、攻撃性の中にある感情と理由には“復讐心”というものが存在していると常に思っている」
サカハギの声が脳裏に甦る。
そう、きっかけは……あの人がああなったきっかけは、復讐。
「勿論それが全てでは無いがね、しかしそれまで他者を攻撃せず自衛の日々だった者が、突如牙を剥く…その理由は復讐…報復行為」
この男、サカハギの事を云っているのだろうが…俺の中を、刺してくる。
俺を見る眼が、薄っすらと鈍く光って…哂っている。
「あの被害者遺族の会の活動拠点は主にこの近辺、そして特集で丁度取り上げられていた男性は、新宿の事件で身内を亡くしているね」
「あんた、まさか真っ先に」
「そうだよ、疑うべきは被害者の身内…さもなくば“被害者に害された者”」
「まずそこを疑うとか…あんた…やっぱり嫌な奴だ」
「おや、警察の初動捜査には組み込まれている意識と思うがね」
ぱくりぱくりと食べ続けるライドウ、あっという間に食べ終え、酒に手が伸びている。
「あの遺族の男性、娘を非行少年グループの一員に殺されているのさ…それが新宿の事件だと、軽く説明もあったろう?」
「だから怪しんだのか?それじゃ足りない」
「針作業が最近の趣味と紹介されていたねえ、針供養にも行く程だと」
「それで針塚行って掘り起こしたのかよ、この暇人」
「ダツエバも生臭い針が豆腐に刺されるのを憶えていた…土を掘り返せば実際出てきたからね、妙なMAGのこびりついた針」
「…は、供養された針掘り起こしたのかよ、墓荒らし同然だ…」
「人体の皮を剥ぐのに最適な刃物を知っているかい?この御時世ではダガーナイフは規制の対象らしいが、精肉などの為には凶器が必要だろう?」
「あの人がそういう危ないナイフを持ってた、ってか?…確かに持ってたけど、そんなの俺が襲われる前にいつ知れたんだよ」
「ビー・シンフル号のシェ・ムラマサが店で使わせている刃物は市販品、調理用の特殊ナイフを扱う店が都内に数店、更に辿ろうか?卸している業者は一箇所…」
「そういう刃物の購入履歴くらい、警察が調査済みじゃないのかよ」
「正規購入では無いよ功刀君、蛇の道さ…フフ、其処はシェ・ムラマサや業魔殿での情報が有益だったのでね、警察は嗅ぎ付けない」
何処まで追求しても、返してくる。
直感なのかと思えば、この男…ボルテクスの時から感じていたが、至って冷静なのだ。
「皮をなめすにもね、リスクが低く、かつ定期的に調達可能な物を使っていると推測する…大量に茶葉を入手出来ればタンニンを熱水抽出する事がとりあえずは可能だ。それこそ膨大な茶ガラが必要だがね」
「お茶……」
購入されていった本を思い出す。いちいち辻褄が合うのが、俺の頭を痛くさせる。
「本来はミモザ等から抽出したワットルエキス等を混合させた物が主流だが…フフ、流石にこの辺は蛇の道も無いのかな、健全なモノだからねえ。輸入もせずに手早く調達出来るのは茶葉だ。タンニンでなめした皮は上品な飴色になる、作品を綺麗に仕上げたい性質の人間ならば、タンニンなめしを選ぶだろう」
冷め切ったお茶を啜る。茶器から覗く茶葉を見て、色々な事を連想してしまった。
「バイブ・カハを三羽に分け、あの男性に尾行させたのさ」
「…あの部屋、バイブ・カハ使って覗いてたのか」
「カーテンの隙間から、あの素敵な中の様子が垣間見えたとね。その報告を受け確信はした」
あのニュースの特集だって、偶然だ。普通ならばふっと流してしまいがちな糸さえ掴む、それは天性のソレなのか。
まるでこの男の魔術にでも操られているかの様に、全て解かれてしまう。
こんな奴と契約したのは…やはり間違いだったかもしれない。
「それにしても、君の皮を狙っていたとは、ねぇ……ククッ…」
「何が可笑しいんだよ」
「功刀君、君が恐れている事を当ててあげようか」
酒を煽るライドウ、しかし下品さは無い呑みっぷり。
「ああそうそう、君の痕跡は消し去ったつもりだが、とりあえず今後君のDNAが警察に鑑識されぬ限りは捕まらぬよ、安心し給え」
「…殺したのは俺じゃない、最後に手出ししたのは、あんたが勝手に仲魔に命じた九十九針だ」
「へえ、助けてやったのに、君は良いお口をしているねえ」
「んぐッ」
爪先をヒールで踏まれ、反射的に脚を引っ込めた。
容赦無い、本気で指が砕けそうな鋭さ。
「そうだね、とりあえずサカハギもといあの男性の件、よりも…ボルテクスの記憶を持つ者が、この世にどれだけ居るのかという事…それが気になるのだろう?」
図星。今だって、ボルテクスという単語に誘発されて、周囲が何かを取り戻しやしないかと。
突然俺を糾弾し始めないかと、根拠も無く震えが来る。
「ボルテクス界の記憶は、転生後の魂にも宿っている、という事かな。それを夢に見ていた可能性はある」
「…時間が巻き戻ってるんじゃない…んだな」
「魂を幾度も転生させた君が創世した世界…それが堕天使の希望する舞台らしいからね」
時間が戻ってくれたなら、母親の魂も救えるかもしれないのに。
思っても口にはしない。ライドウに馬鹿にされるから。
「いつか、新田と橘も…転生前の記憶が、戻るのか」
…いや、恐れるべきは氷川だろうか。
あの男は、ボルテクスで俺が人修羅だと意識し始めてから、真っ先に勧誘をしてきたじゃないか。
俺はサカハギと逆で、ボルテクスを恐れている。
俺を殺戮者に変えた、あの世界を…
(フトミミ…)
俺が、殺した。
“普通の悪魔には無い心を持つと…読み違えた私が、愚かだった”
俺を見る眼、侮蔑の眼差し。
俺がサカハギを見る眼と、同じ色をしていたに違いない。
「ほら、早く来給えよ」
はっ、と顔を上げる。
ライドウの声の方へと、導かれる様にして狭い道を進む。
「云い出したのは君なのだからね」
「分かってる…」
夕暮れる空、悪魔でも何でも無いカラスの群れが太陽を分断している。
冷えた石のそびえる敷地内、いつか見た表札の名が刻まれた墓石を眼の前にした。
あのサラリーマンの娘が眠っている。
(何も感じない…)
意識を集中する、が、思念を感じる事も無い。
もしかしたら、肉体から抜け出て、思念が彷徨っているのでは、と思ったのだ。
それなら来る場所は、恐らく娘の眠る石。
「あんたは…何か感じるか…俺だけだと、その…心許無い」
「焼香の薫りだけだねえ、フフ」
あのまま部屋で、遺体となって発見されたサカハギは、世間を震わせていた。
何せ、自らの皮を剥いで自殺したのだ、とても人とは思えない…のだろう。
娘の事で同情の余地もあったが、一人でも殺した人間に、赦される場所は無い。
吊るされた皮達が、自己主張する。私こそが被害者なのだ、と。
「あの人の魂は何処に転生するんだ」
「さあ?次の世か…それとも、再び来るボルテクスにてサカハギとなる刻を待つ、のかもねぇ?」
すい、と取り出した煙草を咥えて俺を横から見下ろすライドウ。
俺は周囲に誰も居ないか確認し、舌打ちしてその先端に吐息をかけ、着火する。
「押し殺した強い感情が、マネカタとして生まれた際の性質になるのか」
「泥の人形に命を吹き込むは、人の感情だからね。だからこそマガツヒの塊だったのさ」
「……人が良さそう…だったのに」
ルールの通りに生きる人。はみ出さない、勤勉勤労。
「羨望…情景、憧れ…望まぬ己への嫌悪、受け入れない周囲への怒り。それ等の強き感情がボルテクスの乾いた土に命を吹き込む。マネカタは前世の頚木から外れた“望んでいた姿”」
「そんな話…」
「喪服姿の淑女から聞かなかったかい?君も聞いていると思っていたのだが?」
クク、と肩を揺らして舞い昇る紫煙が、茜の空に雲を作る。
「ゴモリーにでも聞き給え」
「だっ……れがあんな悪魔に――」
確認より先に、声が引っ込んだ。
第三者の気配に振り返る、近くをうろつくゴウトでは無かった。
「喧嘩してんなら退いてよそこ」
フードで顔を覆った…俺と似た様な背丈の少年が、淡々と述べる。
身内?親戚が墓参りに来たのか?部外者の俺達は左右に割れてすぐに退いた。
少し後ろの方を、ブルゾンを着込んだ男性が追って来て、俺とライドウを交互に見る。
「失礼ですが、親戚の方ですかな」
「えっ、いえその…」
口篭る俺を突っ撥ねる様に、ライドウが即座に会釈する。
「例の件で亡くなられたお嬢さんの、所謂知人です」
「はあ…あまり交友関係が広くない子と存じておりましたが」
「フフ、まさか冷やかしで墓前に参りませぬ」
「…うむ…それもそうですな」
咳払いをして、改めて俺とライドウを手招いた男性。
「すいませんな、しかし説明は必要かと思いましてね…いえ、自分は其処の少年の保護監察官でして」
保護観察?
「つい最近院から出た子ですが、いや突然暴れ出す様なタイプじゃあ無いですから御安心下さい」
続けて説明する監察官に、ライドウがどこか微笑んだ唇で問う。
「お嬢さんを殺害した子ですか」
その問いにぎょっとして、不謹慎だとライドウに発しようとした、が。
「この場で隠しても失礼でしょうな、まあ、そういう事です」
「…殺しておいて、少年院に居たんですか」
「この国ではそうなりますな」
別に糾弾する訳じゃない、が…サカハギの声が脳裏にこびりついていた俺は、胃の底から何か這い上がってくる様な感覚に陥る。
それで今、墓参りに来ているのか、どういう心境なんだろうか。
「ねえ、誰か火、持ってない」
集い話し込む俺達に、声が向けられた。
「線香に点けたいんだけど、流石にオレが火ぃ持ってちゃ不味いでしょ」
鼻で笑って此方を振り返った少年の顔が、夕焼けに照らされる。
“いいか、いくら半身悪魔とは云え、もう半身は人の身なのだ”
重なるあの相貌。
“ご自愛されよ、人修羅”
先刻フードで翳り見えなかった、その顔。
俺がいつか殺したあのマネカタのそれと、一致した。
(この世界では、殺す側…だったのか)
脚が震える、ぞわぞわと這い上がる寒気に腕を抱き、息を吐いた。
大丈夫?と声をかけてくる監察官の声に、適当に相槌して。
もう、とにかくこの場を離れたい。
「この様な火で良いならば、どうぞ」
煙草の火を線香に貸すライドウが、少年に失笑されていた。
「ヤニ臭いし線香臭いし、文句云われちゃうじゃん…」
墓前で手を合わせる姿、背中から伝わる鎮まった気は…ミフナシロで瞑想するあの預言者と同じ色。
(あんなに平和と平等を謳っておきながら、この世界では殺人者なのか)
憧れ……矛盾。
「あっ、ちょっと、どうしたの君!」
息苦しさにやられそうだった。もつれる脚で、墓場を駆け抜ける。
“…普通の悪魔には無い心を持つと…読み違えた私が、愚かだった”
あの場で、もし少年が前世の記憶を取り戻したら…ボルテクスの己の末路まで記憶していたのなら。
俺に発する言葉は、恐らくただひとつ。
火ぐらい出せるだろう?この…悪魔め…!
体裁装丁の剥離・了
⇒おまけ(ちょっとしたエロ)
↓↓↓あとがき↓↓↓
人間のサカハギがボルテクスでの己を知った際、どうなるかを考えて…
キーワードは人皮・針です。善良な人程、抑圧自制が激しく、箍が外れた瞬間から狂い出してしまう気がします。
サカハギを嫌悪しつつも、人間の世界で人畜無害に生きていた人修羅は、感情がシンクロしていた。それに更に自己嫌悪する。
いざフトミミを発見すれば、人間時代の彼は非行少年かつ殺人者であり、人間のサカハギを殺人鬼に変貌させた要因だった。
ボルテクスでフトミミという善人を殺してしまった罪悪感を引き摺っていた人修羅だが、此処でそれが揺らぐ。
人間の時とボルテクスの時と、彼等の意識は別物だと解っていても、サカハギに傾倒を一瞬でもした自分を赦せない人修羅だったのでした…
フトミミの話は、気が向いたら書くかも。
劇中の三越系列のお店というのは「新宿アルコット」です。LUPICIAのお茶は容器が洒落ていたり愛らしかったりするので、ジャケ買いしてしまうのです。とは云いつつも、アルコットの店舗には行った事が無い2012.1.28現在。
人修羅とライドウが飲食しているのはアルコット地下二階の某シノワ的カフェです。
《人皮装丁本》
17世紀頃に見られた「人間の皮を利用し装丁がされた書物」の事。
魔術書や宗教本によく施されていたらしい…
「クタート・アクアディンゲン」なる魔術書には、水の者を召喚する為の儀式と呪文が書かれている。
クトゥルフ神話における架空書籍「ルルイエ異本」も人皮装丁本らしい。
《針供養》
全国数箇所で行われているが、新宿では正受院という寺院で2月8日に毎年行われる。
この寺院はダツエバ(脱衣婆)の御堂が存在する。針供養の日には小さな御輿に乗せられ、花見堂行列となって靖国通りから寺を一周するそうな…
供養は豆腐、又は蒟蒻に針を刺して行う。今まで酷使してきたので、せめて柔らかい物に…という事らしい。