初めて入るが、想像以上の広さと濃さだ。
エレベーターで同席する状況が嫌なので、階段を昇る。
たった数秒間されど数秒間、こいつは何のオタクなのだろうかと詮索される眼が嫌だ。
階段の側面にも、細切れになったアニメか漫画の広告が……頭が痛い、逃げ場が無い。
四方八方、三六〇度、何処を見ても二次元。
漫画もアニメも嗜んだ事が無い訳では無いが、それにしたって……
(私用で居れたとしても、三階までだな)
一般書店であっさり入手出来る本しか、俺は買わない。後は、新田が月曜日に所持するジャンプをめくる程度だ。
モヤモヤしつつ、階数もいよいよ上の方まで来た。
確かに、下階とも異なる妙な空気がフロアから漂っている。
(イベントか何かやってるのか…?)
コスプレでごったがえしている。私服の人も大勢居て、カメラを携えては囲んでいたり。
作り物だと思うが、武器の様な物を持った人も多い。
階段から外れた俺は、人の渦に飲まれぬ様にフロアの端に留まると、眼を皿にして捜した。
(くそ……紛らわしい)
白い翼を背負った者が、複数居る。もしかしたら、その中に本物が居るかもしれない。
だが、全員コスプレイヤーであり、人間の可能性も有る。
(いや…これ、全員人間だろう。セエレの奴、早とちりをしたに違いない。寧ろ、そうであってくれ)
接近すれば、悪魔だと感じるだろうか。いや…俺はそこまで鼻は利かない。
そもそも、そういう意識をして奴等を見た事が無い。視えているのだから、気配の色を確認した事なんて無かった。
翼も、精巧な作りという事が遠目でも判る。背負っている事が確認出来なければ、いまいち判断がつかない。
どうなんだ、滞在するだけ時間の無駄か?あともう一枚で五枚目に到達するのだから、躍起になるべきか?
「どういう仕組みなんですか?」とか云って、翼の付け根を見せて貰うか?いや、そんな事いちいち…しかもこういうイベントのルールも分からない…
こういう時、いっそ完全な悪魔なら姿を隠せたのに。などと思ってしまう自分が嫌だ。
ライドウなら…小回りの利く悪魔を使役しているから、調査に出す事が可能なのだろう。
狡いのか?いいや、あいつの生業は悪魔召喚師。狡いもへったくれも無い。
悪魔を使役したがらない俺が、勝手にハンデを作ってしまっているんだ。
(ルシファーは、痛い罰は無いと云っていた。このまま此処で時間を潰してしまえば良いか…)
万が一擬態が解けても、此処ならカモフラージュしてくれるのではないか。そんな、甘い期待に縋りたい。
半裸に近いコスプレも居るし……と、未だボルテクスの自身を肯定している虚しさに、溜息が出た。

「チアキ様!」

聴覚が以前より増しているとはいえ、この喧噪の中で真っ直ぐ飛び込んで来る声。
思い浮かべた人物と合致するかを確かめるべく、其方に視線を向けた。
ああ…予感は的中した。呼ばれていたのは、俺の知っている“チアキ”だった。
「な、何……人違いじゃないの…」
「まさかボルテクスでの事を忘れていらっしゃるのですか。それともこの世界は、トウキョウが生まれ変わる以前なのですか…!?」
翼を背負った男が、橘千晶の手を取って、身の毛もよだつ台詞を吐いている。
隣で狼狽えているクラスメイトの女子は、介入出来ずに周囲を見回していた。
スタッフを捜しているのだろうか、しかし彼女等の近くにそれらしい人間は見当たらない。
「ヨスガの世を創るという崇高な意志は、眠っているだけなのです!ささ、私と共に…」
項が熱い、突き破ってツノが生えそうだ。
聴き憶えの有る単語の羅列に、肌を掻き毟りたくなる。
「ちょっと待って頂戴。私は友人の付き添いで来ただけで、悪いけれど貴方のコスプレしてる作品を知らないし、ノってあげられないわよ」
「私は現在、追われる身。謝罪は後ほど致します、手荒ですが付いてきて頂きます」
「いい加減にして、人を呼ぶわよ…!?」
気付けば、俺は翼の男の腕を掴んでいた。
間近から見下ろされる、カラコンと云えば納得してしまう淡い色味。
眼と眼が合い直感的に思った。人間では無い、という事。
姿形はドミニオンだったが。それ以上に、この天使が取り乱していた事が要因だろう。
掴んだ腕からも伝わってくる…心拍音にも似た、魔力のリズムが。
「く、功刀君…どうして此処に…」
開放された橘が、ふらりと一歩退く。俺とドミニオンを交互に見て、まだ警戒している。
この天使を、不審者だと思っているのだろう。
でも、それでは駄目だ。スタッフに突き出したところで、こいつはふらりと逃げてしまうに違いない。
逃しては駄目だ――…
深呼吸してから、普段以上に声のトーンを落とす。
「…あんた、人の彼女に何手ぇ出してるんだよ」
出来るだけ、攻撃的にドミニオンを詰った。
傍で女子達が息を止める気配がしたが、今はどう誤解したって構わない。
連れ出す理由が欲しい、こいつと二人きりで、落とし前をつける流れが欲しい。
「私は大事な用事があるのです。貴方がチアキ様とどの様な仲であろうと、関係は有りません」
「一、二分話させろ」
掴んだ腕に力を籠め、背後の橘を振り切ってドミニオンを引きずり去る。
ホールの端に来た所で、一帯がすうっと薄暗くなる。マイク音声の後、大音量でBGMが流れ出した。
ショーか何か始まったのだろう、好都合だ。
男性トイレの個室に、二人で無理矢理入る。
一人客と擦れ違う際、怪訝な眼で見られたが気にしている場合じゃない。
「私刑ですか?はは…野蛮な事。此方からスタッフを呼んであげましょうか?」
余裕を見せる天使は、本を抱えたまま薄く笑った。
その高をくくった態度に、俺の中で沸々とボルテクスの記憶が滾り始める。
「ヨスガとか…云ってましたよね、貴方。こんな所で姿晒してないで、逃げてた方が良かったんじゃないですか」
「一般の者には関係の無い事。私は翼の同胞が居ないかと思い、この集会を彷徨っていただけ」
「…コスプレって知ってます?」
「人間が我々を讃え、贋物の翼を背負う仮装パーティーでしょう?時折本物の我々が混じって視察しますのでね。あの中にも同胞が居るかもしれぬと思ったまでですよ」
「は…そんな集会じゃないですよ、あれ……」
馬鹿らしい、恐らく俺と同じノリで来たのだろう。窓から翼が見えたから、という程度の理由で。
このゲーム、上手く逃げ切るには単独の方が有利だと、俺でも考える事なのだが。
「さ、下らぬ話はさっさと終わらせて下さいな。かつての指導者を見付け、私は興奮しているのです」
「橘千晶を、またコトワリの指導者に引き戻すなら――…」
ドミニオンを掴むこの指に、黒い斑紋が奔る。その瞬間、何かを唱えようとした天使の口。
俺は其処に、すかさず空いた手の指を突っ込んだ。ゲッシュを呑んではいるものの、ハマを使わせる事自体が腹立たしい。
噛まれる指に血が滲み、天使の青白い唇を鮮やかに染めていく。
「…此処で貴方を殺します」
驚く程、冷たい声が出た。これが脅しなのか本気なのか、俺は決めていなかった。
ただ、胸中に渦巻くのは…橘千晶がボルテクスの事を思い出すかもしれない不安。
「ルシファーからどう聴いてるか知りませんけど、俺は小翼羽さえ手に入れば良いんです。確実に殺せとは云われていないですからね」
「ん、んっ!?――」
指を掠める舌と唇の戦慄きが「ヒトシュラ」と発声したがった事を、俺に知覚させる。
やはり、この天使はボルテクスの記憶がそのまま有る。もしかすると、ボルテクスと天界を行き来していたのかもしれない。
次元の繋がりなんて分からないが、俺にとって重要なのは…現状に波を立たされるか否か、それだけだ。
「貴方の小翼羽をくれたら、命は獲らない。ただし、さっきみたいに橘に嗾けたら…次は無いと思って下さい」
少しの間の後、ゆっくり頷いたドミニオン。それにつられて、片手の天秤もゆらゆら揺れた。
俺は口に突っ込んだ指で顎を捕えつつ、腕を捕えていた指を翼に移した。
生暖かい羽毛の中を探り、一番MAGの密集した羽を摘む。それを撫でた瞬間、ドミニオンが軽く喘いだのが気持ち悪い。
ふつり、と抜き取ったが、どうやら痛みは殆ど無いらしい。人間でいうと髪の毛に近いのかもしれない。
そのまま俺は、小翼羽をジャケットの内側に仕舞う。そして、強張った視線で見下ろしてくるドミニオンに、云い放った。
「有難う御座います…此処から出る際には人間から姿を隠して下さい。多分、他の天使の格好した連中、全員ただのコスプレですから、捜すだけ無駄ですよ」
突っ込んだままの指を、更に奥まで忍ばせる。
「……でも、いまいち天使は信用出来ないので、保険としてもう一枚貰います…!」
爪を突き立て、根本からブヂブヂと千切る様に。暴れるドミニオンを無視して、その唇からずりゅっと引っこ抜く。
呻きの様な悲鳴はどこか霞がかっている為、トイレの外からぼんやり響いてくるBGMに掻き消されていた。
「……うぇ」
ああ、気持ち悪いったら無い。本体から断たれた舌べろは、だらりと指先で滴っている。
俺は便器の蓋を開け、不気味なそれを投げ入れて洗浄ボタンを押した。
一瞬で水流に飲まれていった器官。見送るドミニオンは口元を本で抑え、顔面蒼白だ。
いいや、元々青白い面だったか。熱を感じない、人外めいた肌。
(擬態…しないと)
他人の事を云ってられないじゃないか。俺の今の姿こそが、あまりにも――…





「功刀君…!」
男性トイレに引きずり込む姿を最後にして数分、再び現れた彼の着衣に乱れは無かった。
喧嘩には発展しなかったみたい、それとも出てくる前に鏡で乱れを整えた?
駆け寄り、その顔を睨んだ。頬も腫れてはいない、いつもと同じ生白い肌。
「さっきのコスプレ男は?」
「……具合悪いらしいから、暫く出てこないんじゃないか」
「何かしたの」
「俺は何もしてない、話し合いで白黒つけただけだ」
あのコスプレ男の事なんて、半分以上はどうでも良い。
功刀矢代に、そこまでの腕っぷしは無いと私も認識している。
じゃなくて、そんな事よりも。
「貴方、いつから私の彼氏になったのよ」
「ただの知人って云うより、話が早いだろ」
「スタッフに引き渡せば良かったじゃない、どうしちゃったのよ。嘘にしても、らしくもない」
「ああいう奴は注意されたって、その場でしか効果無い。此処の外まで付け回されたかったのか、橘さんは」
それって何なの、思い遣り?
幼馴染のよしみ?いいえそんな筈は無いの、だって功刀矢代は……私を憎んでいる筈。
……違うの?
もしかしたら、これはチャンスなの?
あの時の事を切り出すきっかけなの?
「じゃあ、俺の用事はもう済んでるから……」
「待って“矢代君”」
激しい音響がステージからする、まるでこのフロアがディスコみたい。
私と眼前の彼とで、そんな処に行った事も無いけれど。
「大事な話があるの」
昔と同じ台詞を吐いた自身に、直後気付いた。
でも、彼の表情は硬いまま。少し視線を逸らして、私を見ようとしていない。
「…何か」
「以前の事よ……私、貴方の……」
ああ、駄目だわ。背後にはクラスメイト、周囲は仮装した天使達と大音響。
鮮明に出来ない、あやふやにしか今は伝えられない。もっと静かな場所で打ち明けたいのに。
だって、懺悔室はココまで開けてないものでしょう?
「貴方の邪魔をしたじゃない、私。謝罪があるのよ……」
「…邪魔…それは、どういう意味だ」
「忘れちゃったの?あの約束事。そんな筈無いわよね、だって未だに態度が硬い」
「いつの話」
問われるままに「小学生の頃の」と答えてしまうと、背後のクラスメイトに後々しつこく訊かれそうだ。
回りくどいのは好きじゃないけど、少し間接的に訴える。
「……円かった時の話」
「東京が!?」
「えっ?違うわ、貴方の態度が円かった頃の話」
妙に慌てて返してきた功刀、東京って何よ東京って。
しかも、それだけ確認出来れば良かったとでも云いたげに、どこか胸を撫で下ろす表情を見せて。
「さっきのコスプレ野郎の話にピンと来なかったなら、それでいいんだ…」
「もしかして疑ってる?知人なんかじゃないわよ。ボルボックスみたいな名前挙げてたけど、憶えも無いし」
「それなら、もういい。謝罪される憶え、俺も無いから」
「ちょっと待ちなさいよ、さっき助けてくれたじゃない。だから私も貴方にお返ししないと……」
階段に足を運ぶ功刀の背、ジャケットを軽く掴んで引き留めた。
ランドセルが有れば、もっと間接的に出来たのに。
「あの時の約束、まだ守ってるなら…もう考えなくていいのよ。私が大人気なかったわ、もっとやる気出していいのよ矢代君」
間近に、口早に発した。謝罪の態度とは云えないかもしれないけど、私からこの件を掘り返した事に意味が有るのよ。
「……やる気?」
「そうよ…だって、私に遠慮したままでしょう、貴方」
布を伝って来る振動に、思わず掴んでいたジャケットを放した。
功刀矢代は、肩を揺らして…笑っている。
幼い頃の真綿の様なそれでなく、細まる眼は弓張りの様に鋭い。
「別に、これが俺の普通だけど」
「……普通…?」
「上位を維持するのも面倒、周囲と張り合うのも疲れる。中の中が一番とやかく云われないし、楽だってよく分かった」
「じゃあ、遠慮とか…約束を意識してるつもりは、無いって事?」
「……所詮、子供の口約束だ。でも、あの時の橘さんのお陰で、楽な生き方に気付いた。有難う」
本当?その眼はだって、笑ってないわ。
「もう行く、用事があるから」
明らかに、私を蔑んでいた――…



「結局トイレから出て来なかったね、あのしつこい天使」
「そうね」
「狭いだろうにね、翼邪魔でしょうがないよねアレじゃ」
イベントの袋を両手に提げ、クラスメイトは満足気だ。
すっかりライトアップされたウインドウの反射が、その袋の表面をテラテラと光らせる。
太陽はすっかり隠れて、肌寒い。それでも軽やかな衣装のマネキン達は、硝子の内側で踊っている。
「橘さん、やっぱリア充だったんだ」
「聴いてたでしょ、誤解よ」
「本当?でも確かに、功刀君って女の子にあまり興味無さそうだもんね」
本当よ、女子からの謝罪を突っぱねて……約束なんて無かった様なものだって、平然と述べて。
あの調子だと、恋愛結婚は無理じゃないのかしらね。
「あっ!男の子には興味あるのかな?な?」
「どうしてそう飛躍するのよ」
「あの天使の人と、もしかしてトイレの個室で……うわぁ…ハレンチ」
「狭いだろうに〜とか云ったばかりじゃないのよ、貴女」
「功刀君は平然としてたよね、つまり攻……ゴクリ」
「ものの数分で、ちょっと無理がない?しかも功刀君の方が身長低かったわよ」
「橘さん修行が足りんよ。私の秘蔵の書を、今度数冊貸そうぞ」
どういう修行よ、とツッコミながら池袋駅で別れた。
私は予め電話で呼んでおいた車を待つ為、西口に立つ。
(私からの大事な話よりも大事な用事って、何よ)
サンシャインでの用事はもう済んでいたのかしら、というかどうしてあんな所に居たの?
謎が謎を呼ぶけれど、訊いた所で答えてはくれないでしょうね、そんな予感がする。
(子供の口約束……)
目の前でチカチカと、光源がチラつく。面を上げると、見慣れた車が停まっていた。
カスタムも何も施していない、シンプルな白のポルシェ。
ロックが解除されたのを目視してから、後部座席に乗り込む。
「お友達は良かったんですか?」
「いいの、帰りがてら寄る所有るんですって。それより御免なさいね、稽古でも無いのに」
「いえいえそんな。それに、私もお家の高級車を運転出来るから、役得なんですよ」
「高級車って云う程?」
「そうですよ。あっ、別に賃金に文句が有る訳では無いので、お気を悪くしないで下さい」
「でなけりゃとっくに辞めてるでしょ」
ふふ、と笑いながらミラーを確認している運転手。
専属ドライバーという訳ではなく、昔からお世話になっているハウスキーパーだ。
母の居ない家、定期的に出入りする彼女の方が付き合いが深い。
家事と同じでテキパキと安全確認を済ませて、ハンドルを回す。
「よく小さい頃なんかは送迎しましたね、あの頃はクラウンでしたっけ」
「だったかしらね、とりあえず私は白の方が好き」
「クラウン黒でしたもんねえ」
他愛も無い事でも、さらりと聞き流してくれる。昔からそうだ。
母親よりもう一回り年齢が上だったけれど、それが却って安堵感を与えてくれた。
「慣れない所で遊んだから、ちょっと疲れたわ」
「着いたら起こしますよ」
「そうして」
結局この人だって、誰かの母親なのだけど。
小さい頃には、とっくにそう思って拗ねていた。
(サンシャイン60が見える……)
瞼を下ろす瞬間、遠目に見えたビルのシルエット。
あそこの水族館にも連れて行ってもらったっけ……功刀一家に誘われて。
確か“大事な話”をぶつける前の事よ。
薄暗いゾーンの、特にエイにビビっちゃってたわね功刀君。
母親にひっついて、なんだかそういう種類の海洋生物みたいで、密かに笑ったの。
笑顔は見せたくなかったから、こっそりとね。
車窓に映る街の光が、巨大な水槽を思い出させた。
完全に瞼を閉じて、さっさと眠ってしまいたかったのに。
脳裏を巡る、大事な話――…



連れ出す時に、周囲の男子達が「ひゅーひゅー」「矢代と千晶らぶらぶー!」と囃し立てた。
功刀は耳まで赤くしていたけど、私に気が有った訳じゃないと思う。
そんな、恋愛感情が芽生えている風は無かった。彼の一番は母親だって、傍から見ていればすぐ判るし。
「あっ、そういえばこないだ云ってたの、はい」
校庭の花壇の傍まで来た時に、功刀はラッピングされた小さな包みを寄越してきた。
ラッピングといっても、簡易的なもの。クラフト封筒に、シールで封がしてあった。
私はそれを一瞥して、さっと受け取る。中身を確認する事も無く、手提げに放り込んだ。
「千晶ちゃん、バラの花好きでしょ。展示終わったら、あげようと思ってたから」
「よく分からないけど、ありがと」
「大事な話って、なに」
周囲に誰も居ない事を、視線でざっくり確認する。
少し、心臓がばくばくした。告白みたいな空気に嫌気が差して、いよいよ打ち明ける。
「ねえ、矢代くんって私の事嫌いなの?」
「えっ、どうして……」
「私のジャマばっかりするじゃない」
「じゃま……?」
青天の霹靂だったでしょうね。「嫌いなの?」から「じゃあ好き?」という繋ぎでも無いし。
彼の眼は戸惑い始めて、それでもこの時はまだ、しっかり私を見ていた。
「いつもいつも、テストも発表会も、私のすぐ上ばっか。嫌がらせなの?」
「そんな事ないよ、ぼく、そんな……」
「目の前でお母さんにばっか甘えてるし、お母さんのいない私の事バカにしてるでしょ」
「いない…?」
この反応からして、功刀に他意が無かった事なんて、既に察していた。
それでも歯止めが効かなかった、幼稚な乗り物の様に、ブレーキも無く。
「ねえ、矢代くんのお母さんって、私のパパの部下でしょ、ブカ」
「……た、多分そうだけど」
「じゃあ、私が「矢代くんにいじめられてる」ってパパに云ったら、矢代くんのお母さん、こまっちゃうよね」
馬鹿、本当に馬鹿げている。
幼稚なスピードに任せて、この幼稚な脅し。
でも、功刀矢代は顔面蒼白だった、元々色白な顔から血の気が失せていた。
黒いランドセルが震えていた。多分頭がパニックだったから、身体にも響いていたのだと思う。
「私、いつも矢代くんと比べられて、さんざんなのよ」
「……ごめん」
「ねえ、私よりおりこうさんになるの、止めてよ」



決定的だった。
功刀矢代は、あれから私の事を真っ直ぐ見ない。
朗らかな笑みも徐々に消えて、そこそこ上位だった成績はかなり落ち着いてしまった。
見えない努力が、本来彼にも有ったのかもしれない。妬んでいた私以上の苦労が。
母親を喜ばせたい一心で……もしかしたら。
でも、当時の私の頭は、そんな事考える余裕も無かった。
彼の「どれも程々に」という、あの現状維持・低空飛行は、私が与えたきっかけのせい。
既に板についてしまったのか、彼はさっき「むしろ楽」だと云った。
けれど、私は憶えているの。あの脅しをした時の、不安そうな幼い横顔を。
きっとあの瞬間、私は彼の中で“友人”から“母親に害を為す者”に変貌したのね。
(だから……最低最悪の幼馴染なのよ、私は)
薄眼を開ける。光のチラつきが穏やかになったから、そろそろ家だと思う。
フロントミラーで運転者の視線が此方に来ていないかを確認して、そっとポシェットからハンカチを取り出した。
リネンの質感が指先に冷たい。天使と薔薇の花を見て、更にテンションが落ちた。
普段なら愛しいモチーフも、この刺繍で見ると今は胸を抉るかのよう。


足を引っ張ったのよ……出来の悪かった私は、一方的に妬んで。
幼かったとはいえ、罪深い。
動物の世界なら、淘汰されて当然なのに……姑息に地位を得た。
上の人間が下に合わせたって、結局何も生み出さない。
私は結局、同じ速度で飛行を続け、功刀矢代だけ失速した。
私の一言が無ければ、二羽で同じく飛んでいたのに。
(弱い者は、乱すのだわ……)
もう、二度とそうなるまいと、握り締める。
決別の日、帰宅してから包みを開いたらこのハンカチが入っていて。
溢れる涙を吸わせ続けた事を思い出しながら、微振動の揺り籠に再び眼を瞑った。



御留ロードハンティング・後編・了

↓↓↓あとがき↓↓↓
あれっ、勝負はどうなったの?と思われそうですが、回想と場面転換が多いので今回はこれでキリにします。
ライドウと人修羅との決着は次で……このままいくと引き分けな羽枚数ですが、当然人修羅の目論み通りにはいきません。ネタバレにもならない展開ですので、先に述べておきます。
人修羅のあの性格のきっかけは千晶ですが、そこからどんどん他者との交流に積極性が無くなったのは、元の素質かと。

『ヨスガの思想』に辿り着くには、どういった記憶が必要なのかと考えており…あの攻撃的なコトワリも、そう感じるのは人間社会に持ち込むからであって。生物としては案外ノーマルだったのだなあと思いました。
お嬢様で帝王学を叩き込まれたとしても、それは周囲を出し抜いたり教育する能力であって。もう少しコンプレックスに近い、恥の意識が必要だと考えました。
嫌悪対象というのは、自身に覚えがあるというパターンが一番攻撃性を増す気がする為。
幼馴染というのは公式設定なので、この辺も活かして。第一章の頃から、千晶との関係はおぼろげですが構想してありました。今回ハッキリさせた次第です。
…創世転生を繰り返すごとに、コトワリの思想も塗り替わるか?でも転生のタイミングは受胎前なので、幼少時の記憶は結局同じままですね。千晶の根源にある意識は揺らぐ事は無いでしょう。

「弱い者は乱し、惑わすの。自分では何もできないから。」「彼らの相手をしている限り、美しい世界の完成する時は来ないのよ。」「どう?私の言うこと、わかってくれるでしょ?」
ゲーム中の彼女の言葉。

乙女ロードに行った事が無いので、これまたあやふやな情景描写。腐女子のイメージ像は、皆様に任せます。