「触るんじゃねえ手前等ぁああああ!!」
ディスクタイプの血塗れたピアスを投げ捨てて、その指先にたなびかせる焔。
熱い項に溜まる熱、フードを押し退ける忌々しい角を感じて、更に苛々血が滾る。
『ルシファー様!っ、こやつっ――グ!?』
ゴモリーが引き絞る鞭を、手首を捻り指先で掴み、そのまま引きずり込む。
「ぅ、ぉおおおおおッ」
雄叫びを上げれば、周囲の星々が一歩退くのが判る。あまりに久しい術に、喉が引き攣りそうだった。
俺と繋がる鞭に引っ張られるまま、宙を舞ったゴモリーの影。
そのまま床に叩きつけてやろうと、括られたままの腕を今度は逆方向に躍らせた。
すれば、不快な羽音が間を掻い潜る。
『見た事かゴモリー!ははは!久しい感覚に翅が震えるぞ…!』
ゴモリーの身体を、宙で掬う様にして巨体が跳んでいた。急激に軽くなった俺の腕先、ぶら下がるのは千切れた鞭の紐。
思わず舌打ちし、手首で熱を孕むそれを急いで解く。
(とりあえず、間合を)
数歩駆け、宙返りつつ背面を確認し着地すれば、あのえげつないシルエットが空より舞い降りる。
『潔癖という特徴は、ボルテクスの頃より確認済みでしたけどね』
『触れた折にはこの形態でも無かったというに、よもや拒絶されるとは』
『早く降ろして下さいなベルゼブブ殿、流石に私も良い気分とは云えませんのよ、その御姿』
『は!揃いも揃って無礼な奴等め…』
ラクダならぬ、蠅に乗るゴモリーがくすりと嗤いながら床に着地する。
ふわりと靡くベールを指先で整え、埃を掃う優美な仕草。
『ルシファー様、如何なさいますか?お望みの姿はお披露目が叶った事と思われますが』
淡々と唱える彼女に、何も動じていない堕天使が抑揚も無く返答する。
『そうだな、ふふ、わたしに牙剥いた時程では無かったが…元気そうで何よりだ、矢代』
俺は姿勢を低く取り、視野に捉える。
呼吸を落ち着かせろ、次に備えろ、此処に味方は居ない。
『皆の者、今しがた解ったろう…これが、わたしの息子だ。この城に新たに住まう、仲良くしてやってくれ…ふふ…』
背後から気配を感じたら、すぐに焔を纏おう。
悪魔の“仲良く”は、騙し合いだろ?誰が、誰が染まるか。まだ死ねない。
「…閣下、俺は……」
感じている、全ての悪魔に歓迎されていない事くらい。
「俺は、完全な悪魔じゃ、ないです…」
叫んだつもりが、意思表明のつもりが。縋る様な声音になって、空気に消えた。
人間です、と、どうして云えない、誇れない。
それは、此処で云う事の恐ろしさでは無くて……
自信の、無さなんじゃないのか。
『そうだな…少し性急過ぎたかな、悪かった矢代、お前が潔癖という事を忘却していた』
翼を畳んで、悠然と微笑むルシファーが、す、と片手を仰がせる。
それに反射的に身構えたが、何も衝撃は無い。
『まだ必要だろう?ライドウ』
ぎょっとしてその声の指す主を見やれば、ルシファーと同じく、騒ぎに動じず佇むライドウ。
そして、同じく片手を空に翳している。
「そうで御座いますね、肉より外された瞬間に斑紋が伸びておりましたから、自力の擬態までは遠い事でしょう」
『ふふ、先刻も君は眉一つ動かさなかったな』
更に手を振る堕天使、ライドウもそれに合わせてもう片手を翳す。
「貴方こそ」
『意外性も無いからだ』
ライドウが両手を翳した後、堕天使が三度目を放つ。
『わたしの思うまま、動いてくれているよ』
ライドウの指先、受け止めているのは、鈍く光る金属。
(あれは…)
血塗れのソレは、先刻まで俺の胸を貫いていた二つのピアスだった。
受け止めた箇所は離れている。堕天使め、きっと意図的だ。
ああ、ライドウは指で三つ目を受け止めれない。
堕天使の黒き爪先の軌道を読めば、ライドウの顔目掛けて投げていた。
てっきりあいつが顔を背けるかと思い、俺は凝視する。
それが好奇なのか、不安なのかは、自分でもよく分からなかった。
「………クククッ」
静まり返る闇の間の中、此処ではただ一人の“人間”という存在が、哂う。
「それはそれは…つまらぬ茶番でしょうに閣下…」
どこかくぐもった声音。歪む唇が、薄く開く…
ライドウの、紅い舌が其処からするりと伸びる。
顔を背けなかったあいつの舌先に、鏡のピアスが濡れて輝く。
(口で受け止めやがった)
その冷たい声と金属の湿った輝きに、俺の指先の熱はいつしか治まっていた。
何故か、悪魔的な殺伐とした衝動は、俺の中で鎮まっていた。
「広いではないか、良かったねえ功刀君」
通された部屋から給仕の悪魔達が消え、僕と人修羅だけとなった。
城の一番高い位置……監視してるのか、されているのか。人修羅の為の、部屋。
堕天使は、やはり過保護だ、という事は解った。
僕ならばあの場で、全ての魔具を自ら外させる、理由を与えずに。
挑発の如く手を出すから…あんなにも軽々しく三つ目を解除してしまったのだ。
悪魔の所為にして、人修羅は擬態を解除したのだ…
「つまらないね」
呟いて、椅子に腰掛ける。大変座り心地の良いクッションと生地。
「何がだ」
「へえ、これまた豪奢な椅子だ…金華山織の椅子生地に、カブリオールレッグ」
「おい…」
「マホガニーかな?僕の部屋の椅子もそうだよ…フフ、磨くほど艶が増す、良い素材さ」
ぐったりした人修羅が、溜息のまま向かいの椅子に腰を下ろした。上着の隙間から、中に着た衣服が見え隠れする。
引き裂かれたその隙間から、更に白い肌が見え隠れするのだ。
「随分と人間臭い部屋だねえ?思わぬかい?」
「…どうでもいい…俺の家は、此処じゃないんだ」
「おやおや可哀想に、折角ビフロンス伯爵が用意してくれたのにねえ」
「誰も頼んでない!」
だんっ、とティーテーブルを拳で叩く人修羅。上に行儀宜しく並んだ茶器が鳴る。
此処まで案内した悪魔は、ボルテクスのアマラ深界で邂逅した“ソロモン72柱”の魔神の一柱。
人修羅が知らぬ内に…僕が一時的に取引した相手だ。
「何だよあの悪魔…俺に纏わりついてきて…っ」
“カルパの最深部まで人修羅を誘う”という依頼を成し遂げた。
つまり、あの時既に、僕は人修羅を売っている。
「崇拝しているのさ、君をね」
「この城で俺を崇めたら、それこそ失笑されるんじゃないのかよ」
フン、と自嘲する人修羅が、ちらりと背後を気にかけた。
部屋の説明をする伯爵の嬉々とした一挙一動に苛々していた割には、利用するつもりらしい。
「何がお披露目だ…俺を暴れさせたかっただけなんじゃないのか、悪魔ん中で」
上着をするりと脱いで、椅子から立ち上がる人修羅。じろり、と僕を睨む。
僕は脚を組んだまま、此処では無闇に召喚すら出来ぬ胸元の管を撫でていた。
いくら好戦的な僕の仲魔とて、この城の空気は重いだろう。満足な働きが期待出来ぬなら、MAGの消耗は抑えたい。
「…あんたは、怖くないのか」
流石にこの城では恐怖するのだろうか…悪魔の身なれば例外無く。使役悪魔も、君も。
「フフッ…恐怖……?勝てるか否かの算段はするがね…それは畏怖に非ず、警戒も同じく」
「やっぱ人間じゃないな…どういう生き方してきたんだよ、外道」
吐き捨てて、つかつかと仕切りの方へ向かう後ろ姿。その項に、黒くしっとりした角が生えている。
黒々と艶めくマホガニーの…磨いだアームの様な。
つい、撫ぜたい衝動が働くその控えめな光沢。
「功刀君」
「煩い、少し休ませてくれ」
間仕切りの細工はピアスドカービング、そのアンティークな向こう側に消えた人修羅が、着衣を仕切りに掛ける。
此処が魔界の城の一室という事すら、忘れてしまいそうになる。まるで上等の客室だろう。
用意された猫脚のバス・タブの内に張られた液体は、ソーマ。とんでもない代物だ、流石は魔帝の息子という立場。
「文句しながら君は水浴びかい」
「有る物は使う、あんたが悪魔を道具みたく利用するよりマトモな挙動だろ」
「フフ、君の嫌う“悪魔”を、召喚主の僕が如何に動かそうが勝手だろう?」
ビフロンス伯爵は、ただ人修羅が過ごし易ければそれで良いのだろう。
あの頭蓋の洞から、崇拝せし人修羅を眺めていられるなら、人間に未練がある存在でも構わぬのだ。
…そう、定まり切らぬはルシファーだ。あの堕天使は…何処まで、何時まで赦しているつもりなのだろうか。人間への執着を。
(僕が彼を全き悪魔へと唆すまで、自ら動かぬつもりか)
ク、と喉の奥から哂いが零れた。
あの堕天使は“人間に”あくまでも悪魔へと先導をさせたいのだろう。
人修羅が、自ら力を欲する…その欲望に魔の性質は応じる。
カルパの奥に導く様に、自ら踏み入れさせた様に、彼自身に望ませなければならぬのだ。
人間に、人間を辞めさせる手管を弄させようとする。
それは、あの堕天使が…“人間嫌い”であるから、と思われる。
「利用するにはね、よくそのモノについて、知る必要があるだろう?」
呟き、新世界…晴海の教会…次々に浮かんでは、消えた。
一年も前だろうか、ルシファーにとっては、ほんの一瞬の刻だったろうが…
大正という時代、共に過ごした事を再度、脳裏に浮かべれば、僕の胸の奥からぞわりとMAGが揺らめき立つ。
神を討つ、と豪語するその眼は、何を見ている?
憎き人間に共闘を提示するのは、人間にそれをさせたいから、ではないのか…
(親殺し、の汚名を被りたくないのでは無いのか…ルイ)
流石上等の椅子。腰を上げようが、悲鳴を上げぬ。
人修羅の方へと歩む、敷物が僕のヒールの音を喰い、部屋には水音だけが目立つ。
「君も然り」
「!!」
音も無く仕切りを素通りし、ソーマに身を沈める人修羅を真正面に捉える。
突然の事に応じきれず、水面にて硬直する人修羅…
斑紋が、与えられる魔脈の活性と癒しに、幽玄に輝いている。淡い翠と蒼の中間、彩度を落せば緑青の錆色。
「…覗きかよ、ボルテクスの時からそうだよなライドウ…あんた、影からコソコソ見てやがる、いつも」
「云ったろう?まずはよく知る事、と」
「来るな、寄るな、この…っ!」
僕は浴槽の端に指を掛け、水面に前のめる。寄るだけ、君は離れる。
水面を揺らす彼の右手首に、薄く痕が残っている。ゴモリーの特殊鞭だろう、人修羅だから痕だけで済んでいるのだ。
ソーマに濡れても癒えぬ所を見ると、やはり厄介な武器だと思われる。
「何故だい?」
「MAGならこの風呂で足りてる、あんたの助けは今要らない」
「へぇ…それなら、その眼、お止めよ」
「え?…なん、っ」
「この眼だよ、功刀君」
その、赤い手首を上から握り締め、上に吊り上げる。呻いた君はしかし、僕を睨み上げる。
懇願とは違う、射抜く様な鋭いそれ。出逢った時から見慣れた、それ。
「…そう、それで宜しい」
いつもの眩い黄金の眼に戻ったのを見て、僕の胸中の熱はいつしか治まっていた。
何故か、人間的な鬱屈とした衝動は、僕の中で鎮まっていた。
「全く…寄るな触るなと喚き散らして、同情でも引く癖がついたのかい?ボルテクスから思っていたよ、ククッ」
云ってやれば、震えだす右手。
ぱっ、と放してやれば、そのまま落ちて水面を叩くと思ったのだが――
「同情どころか!駒にする為…それだけの為に手を差し伸べる、あんたが!悪魔だろうが!!」
振り被る人修羅の腕、斑紋の光る拳が僕の顔に突き出される。
「フ、ッ…」
「…ぐ……ッ」
「フフッ」
掌に血を集める様にMAGを引き寄せ、僕はその激を眼前に受け止めた。
それなりに本気だったのだろう、人間に受け止められたのが意外だったか、覇気を消失させた人修羅の視線が惑う。
馬鹿め、そうしていつも惑うからだ。
「何かの所為にしなければ無理かい?」
はっ、と金色の眼を見開くその眉間に、空いた手の拳固を叩き込む。
「――ぁ、があッ」
一際大きく水柱が立ち、光るイキモノがソーマの水底に沈んだ。
撥ねたそれが学帽のつばを濡らし、雫が眼の前に垂れる。
「ククッ…それはね、自身の行為に迷いが有るからさ、功刀君」
少し指が軋む手で、くい、と濡れたつばを上げる。今だ浮上せぬ人修羅を、上から見下ろす。
「人間の尊厳を護りたいのならば、君はいつまでも人間に戻れぬだろうねえ」
ざぱ、と黒髪を滴らせ起き上がり、ぜえはあと忙しない呼吸で空気を貪る君。
「っぐ、がはっ、あ、はぁ、はぁっ」
少し呑んだのだろう、咳き込んでいる。その呑んだ液体すらソーマな訳で、恐らく無害だが。
はりついた濡れ髪の隙間から、金色が…
嗚呼、やはり睨んでくるその眼が、僕は気に入っている。
「人間の精神棄てて人間に戻ったって、意味無いだろうが…っ」
「しかし悪魔へと心を捧げ堕天使に服従せねば、君の望む路は開けぬよ」
濡れそぼる前髪を額から払い退け、人修羅が叫んだ。
「あんたみたいな悪魔モドキの人間に成るのだけはゴメンだ!!」
学帽のつばから雫が一粒落ちた。
ぱたり、と僕の頬を撫でる様に、つう、と顎を伝う。
「…僕も、君みたいな人間モドキの悪魔……使役していて苛々するね」
視線が宙に絡み合い、どちらも肯定も否定もしない。
暫くの睨み合いの最中、思い出していた。
先刻の謁見の間で、僕を見つめてきた人修羅の眼…
何か疼いたのは、ボルテクスで…手を差し伸べた瞬間、僕を見つめたあの金色に似ていたからか。
殺意では無く…縋るかの様な…
「未練がましく汚れを嫌い、エゴイスティックに悪魔を殺す、己を正当化させたいだけだろう?」
「黙れ葛葉!」
斑紋がMAGを散らしながら軌道を描く。君が寄るだけ、僕は背後に倒れる。
靡く外套の内側、潜らせた腕の先には冷たい感触。腿に当たるホルスターからリボルバーを抜き構える。
アイアンクロウを避け、浴槽から上体を突き出し牙を剥く、そんな半人半魔を捉えたまま引鉄を引いた。
一発目、アイアンクロウで振り被ったその腕で受け、赤い血が迸る君。
二発目が飛んでいく首筋を、咄嗟に隠したその逆の腕。
片脚を床に滑らせ、低い姿勢で狙い澄ます僕は、人修羅の腕の隙間を瞬時に認識する。
三発目、隙間から覗く、その顔面の中心目掛け――…
「ひあっ!!」
焔で打ち消す事もままならず、背後に転倒した人修羅。
三発目の弾丸は、素通りして壁際の照明に命中した。
カシャン、と硝子破片が床に降り注ぐ音が響き渡り、そして空間は無音になる。
「それは、避けたつもりかい?」
リボルバーを右腕に構えたまま、左手で刀の下を探る。僕は此処に、もう一丁携えている。
里が寄越したホルスターを改造して、己の武器を増やした。その分身体への負担も増す訳だが。
「君ねえ、攻撃の用意をしながら後退し給えよ」
肩まで仰向けに沈んだ君を、立ち上がり覗き込む。勿論、両手に銃を構えたまま。
「情け無く背面に倒れるなぞ、滑稽だ」
ばすん、と水面に消える風切り音。
「ぅグゥッ!!あっ!アアッ!!」
水を切り裂いた弾丸が、人修羅の脚に、腕に、胎へと埋まる。
具象化した空薬莢が、赤い水面にぷかりと浮かぶ。
濁ったソーマは曇り硝子の様に、人修羅の斑紋をぼやけさせる。
「ねえ功刀君、聞いているのかい?返事は?」
「はぁウ、うううッ、ぐむ――」
丸みを帯びた浴槽の縁に、頭をくたりとさせた人修羅。
その悲鳴を上げる唇に、銃口を突っ込んだ。
「返事、し給え」
見開かれるその金色の怯えに、寧ろ失笑が零れてしまう。
君に今、返事が出来る筈も無い。そのまま喉を撃ち抜かれると思ったのだろう…痛みに耐える眼を、していた。
いや、別に撃ち込んでも、僕は構わないが。
「……クク、装填しなければ六発だ、そのくらい記憶しておき給えよ」
「んふ、ぁ…はぁ、はぁーっ…はぁぁ、っ」
ずりゅ、と小さな唇から引き抜いて、蹂躙を止めてやる。
「良かったねえ、ソーマのお陰で今のは帳消しさ…フフ」
ぐったりした人修羅の両脇に、その背後から回って腕を差し入れ、引き摺り上げる。
「ぅ……」
「ほら御覧、水面は真紅だというのに、君は無傷…化け物らしいねえ」
水で威力も半減した銃弾くらい、瞬く間に傷が塞がるのだろう。
その証拠の様に、肉から弾き出された弾丸が、薬莢と入り乱れて水面に浮かんでいる。
「斑紋も瑞々しく、立派な悪魔の見目ではないか…もっと精進し給えよ」
「…俺…は…そんな風に……生きてこなかった…」
「今の君は、誰が見ても人間とは云い難いね」
「ん、っ」
角の横から顔を寄せ、耳元に囁く。
「この姿で帰るのかい?帰りも車だとは、堕天使も云っておらぬが、ねえ…?」
「あ」
斑紋の黒に紛れる胸の突起を、爪先で嬲る。
「擬態も未だ出来ぬ、何処かの誰かさんは、道具に頼る他無い……フフ…」
「……っ…ぐ……ぁ…悪魔、ァ」
「それが頼む態度?」
あの場で散々他に弄らせて、挙句に僕から眼を逸らしたね。
何故、素直に僕の所為にしなかった?
僕を糾弾して、僕に魔具を外させなかった?
「そんなに僕に助けを乞うのが嫌なのかい……ねぇ?」
「ひっ…ん、の、変態、っ」
哂って耳を甘く噛む。歯を喰い縛る君が、突起を充血させる。
いよいよ金属を噛ませ易くなったであろう肉芽を、キリ、と摘んで云い放つ。
「ッ、はァ」
「もう一度訊いてあげる…人間の形で、家に帰りたい?」
「……ライドウ…ッ」
「ゴモリーの云う“ままごと”を、再開したい?あの魔具は僕の手にある…君の手では装着出来ぬよ?」
濡れた髪、薫る血と…滲む君のMAG。
ボルテクスで、泉に君を投げ込む時の、薫りだった。満身創痍の君を、担いでは投げ込むあの日々。
途中から、もう何やら可笑しかったものだ。
君の視線は、そう、いつだって僕を射抜かねばならない。
契約主の、この僕を。君を利用せしめんとする、憎いであろうこの僕を。
アマラの海で溺れ、路頭に迷う君を、縋らせる。甘美な気もするが、毒にも成り得る。
君の金色の双眸は、僕から平静さを奪うが…僕の眼に繋いで、導かねばならぬのだから、これは仕方の無い事。
ルシファーの傍に辿り着く前に、僕の眼を頼りに泳がせる、闇の中の一等星の様に。
「…つけて、くれ」
「何処に?」
「…む、胸と、へ、臍…に」
震える声…身体を触られるだけで、顰められる眉。悪魔を殺す時には、そんな悲愴な顔をせぬ癖に。
「宜しい…ハメてあげる、功刀君……ククッ」
恨みがましい金色が、僕の眼のすぐ傍で煌々とする。
「路はね、選べば迷うものさ……棘だろうが湿地帯だろうが、越えられる己に成れば問題は無いだろう」
「だから、って…人の道から…外れるのか」
「引き返す暇があるなら、進み給えよ。惑うのなら主の眼を見て…君は馬鹿の様に障害を灰にしていれば良い」
「あ…んたは……迷わないの…かよ」
「選べる路なぞ、用意されても居なかったからね。迷うなんて…フフ、解らないね」
取り出した金属を、再び君に噛ませると、ぷっくりとした其処から少し出血した。
呼吸も浅い人修羅が、ゆるゆると角を消す。緩やかに人間に変容していく…
「何もかも僕の所為だと喚き散らして、僕の眼を見ていれば良いだろう?」
「あんたが迷ったら…俺まで、迷うじゃないか」
「安心おし、僕は迷わぬ……今後もね」
太陽と月の人間界とは違う…カグツチのボルテクス。日輪が輝る魔界。
方向感覚すら奪う、その人外の世界では……僕が、君の灯火となり、導こう。
ねえ、だから、点火してみせ給えよ。
縋るあの眼で、責任を押し付けて。あんたのせいだ、と呼吸の様に叫び続けて。僕の眼に焔を宿せ。
悪魔達の眼…その数多の星の中に、一等強く燃ゆる此れに縋りつき給え。
お前を使役する眼は、此の双眸だけだ。
人間の尊厳なぞ、とっくに棄てたこの眼を見給え――
「やっべ、本当お前の所為だかんなオイ!」
ホームから抜け出す、雑踏は普段よりやや少ない。それはいつもと時間帯が違うから。
薄手のマフラーを首に巻いた新田が、学ランのポケットを探る。
「げっ、悠長にしてらんねーのマジで」
「何時」
「あと十五分で学校に滑り込む必要がありまーす」
折り畳んだ携帯を、すとん、とポケットに戻し、俺をジロリと疎ましい眼で見てくる。
「悪い」
「ったく、何だよ、どした?下着選びに迷ってた?寝癖が直らなかった?え?」
「下着なんて迷う必要無いし、これは寝癖じゃないって何度も云ってるだろ!」
とりあえず駆け出すが、隣の新田が減速していく。
「あーも、いいや、まだ祐子センセ居ないし……」
「おい」
「このままフケちまう?休校明けなんだしさ、精神的にまだ行く気になれねーって云えばガッコはOKするっきゃ無いっしょ」
「そういう問題じゃ…」
「出遅れたお前が云い訳してイイワケねーだろ、つって〜あは」
下らない冗談は毎度の事なので、念仏の様に聞き流したが。急に立ち止まる俺に、新田は怪訝な顔をした。
「そんなにイラっときた…?」
「……其処の」
「へ?」
「其処の裏路地、通るか」
俺の視線の先を追う新田が、怪訝な顔を変えずに振り向いた。
「妖しいショートカットじゃねえの」
「脇目振らずに通過すれば問題無いだろ」
「ホント、お前どうしたの?バイクでだってショートカットしねえ癖によ」
暗がり、陽の光も届かない路地。仕事明けで、眼の下に隈を作った夜の住人がちらりと居る程度。
集荷前のゴミ袋を、カラスが啄ばんでいる。
路面は何かの屑が散らばって、何とも云えぬ腐臭にも似た饐えた臭いが、風下のこっちに来る訳だ。
「そんな無理して出んくてもさ…まぁ、イイじゃん、二時限目とかからで」
「…俺はともかく、新田は出席に傷付けたくないだろ、進路も決めてるみたいだし」
「んな、別に…責任取れとか云わんし俺」
そんな気まずい顔するな、俺が嫌な気分になる。
家を出遅れたのは、ゴモリーに受けた鞭の傷を隠していたから…だとか、説明出来ないだろ。
今朝、膿んだ手首を切開して、ライドウに清めてもらい、縫われた。
呪いの一種なのか、放置すれば骨までいくものだったらしい。ライドウは哂って、針を俺の肉に通していたが。
(これで遅刻したら、それこそ無意味だろ)
縫い目を腕時計できっちりと隠す。
「嫌なら、俺だけで行く」
「ちょ、待てって矢代!寧ろお前だろが、こんな…濁ったピンクな路地をよ…平気なのか?無理してないのか?」
その、香水の残り香とゴミの腐臭が入り混じる、生臭い路に足を踏み入れる。
そう、此処を突っ切れば、十五分もかからない。
「少し眼を瞑れば、息を止めれば、一瞬だろ…」
そう、迷ってない、俺は。そう思い吐き棄てると、新田が背後から拗ねた様な声を上げる。
「眼ぇ瞑ってる間に何かにぶつかったらどーするよ」
無視して、歩みを止めずに。
「息止めてんの、苦しいじゃん」
無視して、呼吸もせずに。
「遅刻したって、お前らしくねー、とか…云わねえけど俺…」
ぐに、と踏みしめたゴミ屑の感触は、マネカタの泥山にも似ていた。
「俺の為みてーに云っておきながら、何考えてんの?」
「…何が」
いよいよ込み上げてきて口元を押さえれば、駆け寄ってくる新田。
「学校の規則破ろうが、故意でもねえしさ……寧ろ、こんな路選んだっつう事実の方が、お前らしく無いし」
背骨をさする指は、心配だろう…穿って見れば、同情。
「ムキになんねぇでよ…もっと軽く構えれば?こういう暗い路こそ、しっかり見ないと危ないぜ、矢代…」
ああ、見られたろうか。吐きそうなフリをして俯き、泣きそうな顔を隠した。
「おい、吐く?吐いちゃう?おいゴミだ、ゴミの上にしちまえ!紛れっから!」
アマラの神殿で、同じ笑顔で俺を罵った新田を思い出してしまっていた。
神殿の暗い床に呑まれたあの時、確かに集中出来ていなかった。あの神殿で、冷静で居れる筈無かった。
「……誰の為に、だと、思ってんだ」
「お、おい…走るなって!」
友達ごっこに、少しでも心地良さを感じていた俺が…
お前の為に、暗い路を奔った。あの時は、確かにそうだったんだ。
最終的に、教師との距離感調整の為だけの関係だとしても。
最終的に目的地が、俺の人間の尊厳や、記憶の為…だとしても。
あの瞬間は、お前の為に間違い無く。
(お前の…為…?)
そうなのだろうか、これは、もしかしたら錯覚なのかもしれない。
責任、というモノが変容した、自己満足なのかもしれない。
あの時、アマラの神殿で…お前の為と云いつつ奔ったそれさえも、俺の人間への郷愁がさせたというのか?
「お前が走れって云ったじゃないか!」
きょとんとする新田に、ボルテクスの時の叫びを今更ぶつけても、此処に光が差す訳でも無い。
吐きそうになりながら、泣きそうになりながら…悪魔になればいっそ、吐くモノも流す涙も無いと思った。
でも、それは嫌だ…此処まで来て、今更引き返せるか。
(…苦し…ぃ…)
次はあそこまで、と、眼星が欲しい、闇に在っても強く揺れる昏い輝きが。
あの、俺に向かってくる闇の眼が。
ライドウの様に、己で路を作れない俺は、やはり路頭に迷う。
黒い影の灯台が無ければ、俺は難破し赤い泡に呑まれ
誰にも見つけてもらえない深界の生物に成る他無いんだ。
少なくとも、今の俺では。
「ライドウ…」
小さくかすれた声で、恨みがましく呟いた。
これは、助けを求めているんじゃ、ない。ただ、星を捜しているだけ…
暗闇の中、あの眼を捜す癖が
ボルテクスの頃から、もう……
責任点火・了
↓↓↓あとがき↓↓↓
タイトルは態と。責任転嫁の“転嫁”部分を、此処の人修羅らしく“点火”に…
ようやく魔界に行ったので、今後は好きに出来そうです。晴海の天主教会を経由して行く仕組み。人修羅に鍵が与えられたので、ライドウだけでは行けません。この辺りはSS『汚点(後編)』を読んでいるとニタリと出来ます…
人修羅の不安と、責任の所在、を書いたつもり…
新田は基本善人、だからこそ後が痛々しい。
《ティフェレト》
セフィロトの樹においては第6のセフィラ。魔界の中央辺りに位置する、基点となる街。BARも有る。
《ケテル城》
セフィロトの樹においては第1のセフィラ。ルシファーの居城。西洋の城のイメージですが、やや造りは歪…薔薇庭園があり、シャンデリアの大広間があり、酒場もあるし医務室もある。SSで出てきた施設は、長編の此処にも殆ど備わってます。人修羅の部屋はとても豪奢で、ソーマ風呂が完備されている。
《均衡の柱》
ケテル、ティファレト、イェソド、マルクトからなる柱。
《ゴモリー》
ソロモン72柱の魔神の内で、唯一の女性。魔法の鞭を携え、ヒキガエルを従い、ラクダに乗っている。
あの喪服の淑女がゴモリー…らしいですが。とりあえずその形で長編も書いております。人修羅を正直馬鹿にしている。閣下がまあまあお熱なので、従うのみ。ライドウの事はかなり警戒している。
《ベルゼブブ》
蠅様、長編ではアマラ深界以来の登場。人間の形態は何故あんなにメタボリックなのか…いえ、痩せこけてても違和感ですが。
人修羅の事を苗床にしたいと、未だに考えている。ルシファーの配下にならず転生させられる人修羅を幾度か見てきた事もあってか、今回はいつもより進展していて少し愉しいと感じている。
余談で『蠅の王』というとウィリアム・ゴールディングの小説がまず思い浮かぶのです…『十五少年漂流記』よりも好み。
《マホガニー》
センダン科マホガニー属に属する3種の木本の総称。高級木材。現在では条約によって取引が制限されているので木材としては入手困難。作中のは、クイーンアン等…18世紀のイギリスの装飾様式の椅子のイメージ。黒っぽい艶のが好きです。骨董屋で買えたりします。
《金華山織(きんかざんおり)》
金糸・銀糸で模様を織り出した紋ビロード。壁や椅子のファブリックなイメージですが、西陣織袋帯なんかでも有ります。素敵な柄が多く、アールヌーヴォーな雰囲気が漂う感じ。