水族館の夜
(ライ修羅)
「わあ、綺麗に光ってる!」
「違うよミス・アリス、その珊瑚は紫外線を当てられている」
「えぇ〜…じゃあ、自分でぴかぴかしてるんじゃないの?」
「本来はもっと穏やかな発光だね」
分厚い硝子の向こう側、息を潜める深海の生物達。
足りない圧力を求めてか、ひたりと地面に這いつくばって。
次から次へと水槽を移るアリスは、果たして生態の理解を得ようとしているのか怪しい。
紺色と乳白色のワンピースが、水族館の蒼い空間に馴染んでいる。
「ねえねえ夜兄様!見てこの魚とか!クラゲも!ねえねえ早くう」
「どうせ水槽から逃げれぬだろう、いくらでも待ってくれるさ」
ひと哂いし、ひんやりとした廊下をカツカツ歩む。
薄暗い此処は、居心地が良い。硬質な床も、ヒールの音を涼やかに響かせる。
暗い色の外套は、光すら吸い込み、僕の体の輪郭を隠した。
「ねえ、でもどうしてわざわざ光当てなきゃ駄目なの〜?」
「此処では光る必要が無いからさ」
「じゃあ、深海で光ってた理由ってそもそも何かしら」
「色々あるが――…」
と、群れる園児達が、この展示範囲になだれ込んできたので
傍のアリスを抱き上げた。
蠢く黄色い小さな帽子達を見下ろしつつ、アリスに呟く。
「埋もれては面倒なのでね、我慢し給え」
「きゃーん、王子様みたい」
「ウンディーネとも別れた、もう此処に用事は無い」
「幼児なら下にわらわら居るわよ?」
「ミス・アリス、小さなレディはそんな洒落を云わぬものだよ」
「あっ、しくっちゃった?」
くすくすと囁き声の様なそれが、耳元を掠める。
通路ではしゃぐ小さな園児達は、早速光り物に夢中だった。
「ウンディーネも贅沢ねぇ、水族館に住みたいなんて」
「しっかり礼は得た、ミス・アリス、君だって来たがっていたろう?」
「最近の水族館って本当キレイなのね!お散歩だけでも楽しいわ」
広い空間、上までアーチの様に覆う硝子とアクリル。
僕等に影を落とし込む巨大なエイ。
蒼い空を飛ぶ鳥にも錯覚する。
「フォルネウスみたい」
「そうだね、やや小さいが」
「うーん、どっちが閉じ込められてるのか、不思議になってくるわ」
首に腕を回してきて、甘えるアリス。
そのエイを、同じく蒼い眼で追って、笑った。
「でも、キレイ」
「フォルネウスには同じ感想を抱かないのかな?」
「だってえ、あっちはオッサンの顔付いてるじゃない!」
「範疇外?」
「そーよ、美少年〜美青年しか赦せないわ」
「中身は婆の癖に、流石はミス・アリスだ」
「うふふっ、夜兄様も悪魔になってみたら?存外楽しいわよ、似合うし」
ずっと広がる暗い水槽。
アリスの声が反響して、此処が水の中で無い事を思い出す。
「はぁ?悪魔置いてきたのかよ」
呆れ声の人修羅は、急に振り出した雨の中、洗濯物を取り込んでいた。
やや湿気ているであろうそれを畳みつつ、僕にだらだらと文句する。
「人間に危害加えないんだろうなそいつ」
「そのような類の悪魔では無い」
「どうせ金か石か貰ったんだろ?ふん…」
「おや、無償でしてやった方が良かったかな?」
「そっちのが気持ち悪い、やめろ」
疲れたのだろうか、ソファを占領したアリスは、すやすやと沈んでいる。
その肉体に、疲労があるのか、いいや…彼女の趣味なのか。
睡眠を貪り、夢に泳いでいるのだろう。あのエイの様に。
「君も来たら良かったのにねえ、功刀君」
「嫌だ、アリスの子守りなんか、誰がするか」
「フフ、それなりに行儀宜しく可愛らしい淑女だったが?」
「俺に対しては酷いんだよ、この子は…!」
キッ、と向き直りアリスを見た君が、しかしその眼を逸らす。
「見た目に騙されるんだよ、皆…」
その子供の姿に、怒りの矛先を逸らされたか。
彼は畳んだタオルや衣類をしまいに、立ち上がる、逃げる様に。
その袖を掴むかの様に、問いかける。
「何故深海魚が発光するか、知っているかい?」
「知らない、気になってれば自分で調べる、あんたに教わる義理は無い」
ぴしゃりと跳ね返る言葉。
「海底とはいえ、光は注いでいる…逆光の輪郭を相殺させる為の発光だ、外敵から逃れる為のね」
涼しい風が頬を撫でる。薄く開いた窓から、雨の音が聴こえ始める。
いよいよ本降りか。
「他には、獲物を捉える為に麓を照らす理由と」
「だから、誰も続きは聞いてない」
「強きその光で眩ませ、捕える為…捕食の為なのだよ、基本は」
二階に上がって往く君を見て、しばし考え、後を追う。
「何だよ」
「臨む事が出来ない上から降り注ぐのは、雨でも雪でも無い、マリンスノウ」
「…マリンスノウ?」
「上の方に生きる生物の、遺骸や排泄物…深海に降る雪の事さ」
暗い深海、光で照らせば見える白い雪。
これが無いと生きれぬ存在が、沈んで居る。
人知れず、上からの光を見上げて。
「ふん、汚い雪」
「おや?重要な、それこそ酸素にも等しい水中のデトリトゥスだよ」
遺骸、排泄物、それ等の単語に厭に反応した人修羅。潔癖め。
自室の扉を開くと、僕を視線で振り返り云う。
「さっきから、何だ、あんた」
「ああ、すまないね、土産は無いよ。干物でも買ってくるべきだったかな?」
「んな事聞いてない!…どうしてついて来るんだ」
睨んでくるその眼が、静かに光を帯びる。
灯りも無い廊下に、部屋の窓から伸びた光源が漏れ出す。
「マリンスノウ…マガツヒに似ているな、と思ってね」
そう述べれば、眉根を顰めた彼が洗濯物をきつく抱き締めた。
踵を返し、洋服箪笥に納め始めるその背に、続ける。
「泥人形の上で、紅い雪を見ていたろう?」
ボルテクスの事を、掘り返せば、君の感情からマグマが噴出する。
感じる、乱れる呼吸。
怒りに、なのか、哀しみに、なのか。
「屍肉の残滓が降り積もり、それに力を得ていたではないか……ねぇ?」
部屋の寝台に不躾に腰掛け、脚組みする。
「俺は…」
「その悪魔の身を充たすのは、間違い無くマガツヒだったろう?」
すっくと立ち上がり、箪笥の引き出しを蹴り閉めた君。
詰る僕目掛け、振り向き様に拳を飛ばす。
「っ、畜生が!」
明かりも灯されぬままの、暗い部屋での攻防。
腰に提げていた短刀の、鞘で衝撃を受け止める。
「意外と強く打ち付けたね、苛々してるの?」
「黙れ」
「本当は一緒に行きたかったのかな?クク」
「誰が!!」
弾かれたその手は、光を帯びて。
再び放たれた一撃を、今度は柄で往なす。
「呼んでいたではないか、マネカタの泥山の上から」
「何、がっ」
「その光で」
受け流した力を、そのまま流す。水の流れにも似て、抵抗も無く。
武道の基礎を知らぬ君は、ただ、呑まれてしまう。
君を叩き付けた寝台は、波打ち、その水面が光に煌く。
「ねえ、実際、何の為に光っているのだい?」
「呼んでない!誰があんたなんかを」
「紅いマリンスノウで、埋もれて窒息したかった?」
窓からの光は、太陽とも違う。
街路灯の、薄ぼんやりした光源が、硝子を伝う雨粒を投影する。
その影が真白いシーツに水泡を生み出す。
泡沫の様に、部屋の中を蒼に造り返る。
「それが良かったのならば」
何か叫びかけた君を、つい、とその水面に突き放し。
「ずっと、この世界でも潜めて、擬態して生きれば良いだろうさ、悪魔の半身を隠してね」
哂って寝台から降りる僕…
「待、て――」
を、海底に引きずり込むその光。
先刻よりも、いっそう強く光り輝いた斑紋。
「待てよ、おい、ライドウ」
「何」
「そんなもの、無くても俺は…生きていける、筈だ」
マガツヒが、無くとも?
殺戮の恩恵が無くとも?
「水族館の魚達は、何故マリンスノウも無いのに、生きれるのか、考えた?」
魚と同じ様に、金色に輝くその瞳を覗き込む。
滲む怯え、気付きからか、自己嫌悪の色。
「囲われた深海魚は、与えられる餌が無ければ生きれぬだろう…」
「ぁ」
「ねえ、功刀君?圧力が無ければ、生の実感すら無いのだろう?」
「違っ、ぅ――」
ぱくぱくと、酸欠の魚。
其処に、餌を吹き込んでやれば、金色が戦慄いて、閉じた。
狂おしげに、喘いで突き放そうともがき、やがて流れにたゆたう。
「違う、違う!俺はただ、ただあんたの餌だけ喰ったら」
「何が違うのだい」
「釣り針に刺されないうちに、逃げて、やるん、だ」
己の自尊心の為に、人間のフリをする君は…
僕の与えるMAGが無ければ、その擬態すら維持出来ぬというのに。
(ああ、そうか)
実は今日、水族館で妙なデジャ・ヴを感じていた。
蒼い空気に触発されて今、脳内からゆるゆると水流の様に蘇る。
新宿衛生病院…
吹き抜けのフロア、硝子越しに見下ろした、巨大なエイと…
綺麗な生き物。
闘争に血塗れても、寂しい色に輝いていた悪魔。
まるで眼の前にあるのは、巨大な水槽の様だった。
傍の黒猫が声をかけてくるまで、暫し黙って見つめていた。
あの時から、密やかに…
飼ってみたいと、仄かに感じていたのかもしれない。
自分の前でしか、存分に光れぬ様にと…
光物が好きな、狡猾な烏の様に――
「ぅーん……」
少し冷える、ソファから下ろした爪先がキンとした。
フローリングをぺたぺた歩いて、辺りを見回したけど誰も居ない。
矢代お兄ちゃんの家は、いつもどこか寒々しい。
「夜兄様…矢代お兄ちゃん…」
大窓の外は、庭の芝が雨に光ってて、翠がキラキラしてた。
床に映る水滴の影が、まるで水の中に居るみたいで。
ああ、でもこの整理された生活感の無いお家って、海ってよりは…
調整された、水槽みたい。
「今日の水族館楽しかったなあ」
思い出して思わずスキップ。
「ヒトデの名前はチビラビア〜でっかくないからチビラビア〜」
歌いながら、とん、とひと跳ねして、階段を一気に飛んだ。
裸足の爪先で、一番上の段にそっと降り立った。
家に誰も居ないのかと思ってたけど、薄く開いた扉から少し零れる光が見えて。
驚かそうかな、ってそうっと忍び寄る。
(あ…)
でも覗いた先に見えた景色に、そんな心はぶっ飛んで。
アリスちゃんは空気が読めるから、観賞するだけにしたの。
そ、干渉はしないわ。
って、また洒落。夜兄様のが感染したかしら?
「餌やりの時間だからね…」
その飼い主の声、もしかして今、私にも向けてた?
だって、気付いて無い…とも、考え難いもの。気配消してないし。
(うふふ、お魚飼うのって難しいのね、夜兄様)
薄く笑いが零れたら、合わせて兄様も唇で哂ってた。
一瞬眼が合った、見えない硝子越しに…って、ん?
ああ、なーんだ、やっぱり結界があった、扉の所。薄い膜の様に。
綺麗な貝細工みたいに、その結界は私を拒んで通さない。
そうよね、丸腰な筈無いよね。
「フフ…ほら、まだ人間で生きていたいだろう?」
「ぅ、ん……ぁ、ひぃッ」
不安定な水のリズムで、踊ってた。
MAGの光が、ふわりと揺れて、ぶくぶく溺れそうな圧力が硝子越しにも感じれる。
「飼われている身分相応、しっかり貪り給え」
「あ、ああ、ッ、や、だ、嫌だ…ぁ」
綺麗な寂しい色した深海魚は
注がれた餌に、苦しそうに口先では喘いでるのに
嬉しそうに体はきらきら光った。
「は…っ……は、やく…餌、与えたなら、俺から、出て、け……」
寂しくないよ、って、きらきら笑った様に見えた。
「っ…はぁ……まるで、水族館、だね」
魚の歯形を肩に残したまま、少し息を切らせた飼い主が
ぽつりと水滴みたく言葉を零してた。
雨のざあざあとした音だけが遠くに響いていて、蒼く沈む空間。
何処よりも残酷で綺麗な水族館に、満足したアリスちゃんは
リビングのソファに戻って、溺れるみたく寝直したのでした。
-了-
中谷美紀の『水族館の夜』より。
哀しげに光る深海魚達。
フォルネウスの泳ぐ吹き抜け、水槽に見えますよね。
back