『お待ち下さい、此処は150mの展望台です。屋上まで運ばせてくれませんか』
 主人を制して提案すれば、外されようとしていた腕が止まった。
「屋上って、エレベーター無いと更に上は無理だろ、もう階段は無いぞ」
『組まれている骨を登ります、ですからヤシロ様は私の背に居て下さい』
「……落としたら承知しないからな」
『その時は私を足場にして下されば』
「云われなくてもそうする。それか飛行出来る奴を召喚して俺だけでも助かるから、あんたは安心して砕けてろ」
『ふふっ』
 今度は思わず声に出てしまう。その私の笑いが癪だったのか、やはり軽く腰を蹴ってきた。
 仲魔のピクシーが見ていたら、きっと割り込まれていた。主人と私だけで、と念を押しておいて良かった。あの妖精は妙に勘が鋭く、そして過保護だ。最初に主人の仲魔になったという自負がさせるのか、なかなかに口煩い。
 主人もそれを煙たがってはいるものの、本当に嫌なら当に別れているだろう。彼女には弱いのだ、それが私には正直なところ疎ましい。
「その装備で、登り辛くないのか」
『心配無用です』
「だからな……あんたの心配じゃない、俺が落されないかと思って……」
 骨から骨に跳び移ると、背の貴方が衝撃の度に固く私の肩を掴む。
 白い空の中に、鉄骨のシルエットは綺麗に冴え渡っている。白い中に組まれる昏い紋様の美しさを、此処にも感じた。眩いカグツチが促す……早く天まで上り詰めよ、と。
「普段も、そのくらい、俊敏に、動け」
 私の動きに揺さぶられる主人が、途切れ途切れに叱咤してくる。その言葉に内心納得しながら、私はひたすら鉄を舐める。更に上の展望台を越えて、タワーの切っ先……まるで槍の先端の様な鋭利な箇所まで。
『お待たせしました、此処までで大丈夫です』
「……本当に天辺だな、暇な奴」
 四本に分かたれた避雷針の一本を掴んで、私は少し背を丸める。それを合図と受け取った主人は、ゆっくりと脚を下ろしていく。黒と青の貴方の履物が、キュ、と音を鳴らして僅かな骨に接地した。それを見届けてから、槍を受け取る。
「くそ、本当に眩しいな……この位置」
『今回は、有難う御座いました』
「気が済んだか? 済んだならさっさと下りるぞ……そうしたら……次は受け入れろよ」
 ほんの少しだけ、貴方の声が静かに響いた。声音から棘が抜けていた。
 やはりこの戯れは、情けだったのかもしれない。変化が恐ろしいという事を、その身を以て認知しているのではないか……この、人修羅という存在は。
『ヤシロ様』
「……いちいち名前で呼ぶな」
『貴方は変化した私を、これまでと同じ様に扱うのでしょうか』
「そんなの知るか、第一……変化後のあんたが、今の記憶を持ってるのか分からないだろ」
『そうです、その恐怖が、私の成長を止めているのです』
「これで未練も無くなったか? 無くなったならさっさと変化して、俺の役に立て」
『私は、私のままで貴方にお仕えしたい』
「話が違う、無駄足にさせるなよ……分かってるなセタンタ」
 悪魔に対する貴方は、一貫して冷徹で……容赦が無くて……そう、だからこの返答だって予測していた事。
 寧ろ、貴方らしくて私の心を安堵させる。
「俺は、あんたが此処の上から一望したら、それで未練も無くなって変身を受け入れるって云うから……」
『ヤシロ様は人間に戻る望みを成就すべく、この先も進むのでしょう』
「あんたにそれが知れてどうする、あんたが叶えてくれるなら話は別だけどな」
 失笑……の中に、滲む愁い。
『手を汚す度、人間と敵対する度、貴方のマガツヒが溢れそうになって滲んでいる』
「黙れ」
『カグツチ塔を登って、その先に何が待って居るのですか? かつての知人は貴方を排除するつもりですよ』
「それでもあいつ等には共鳴出来ない、人間を棄ててまでコトワリ掲げるなんて……あんなふざけた奴等」
『でも貴方は泣きそうだ』
「さっきから何が云いたい」
『私が、今の私のまま貴方をお救い出来る手段を、最近ずっと模索していました』
 本来、高い位置は寒いらしい。この世界では中心のカグツチに近いほど、じりじりと灼けつく様な熱さを感じる。その光に急きたてられるかの様にして、とめどなく溢れてくる。普段は外に出さなかった想いを、目の前の貴方に有無をいわさず突き立て続ける。
『私は変化したくない、貴方の哀しみで滲むマガツヒを感じたくない、それでも貴方は人修羅の己を激しく嫌悪している』
「誰が哀しいだと? 勝手に判断するな、悪魔になんか理解されてたまるか!」
『私も私に戸惑っているんです。何故こんなにも望みが多く、しかも方向が違えているのか。全てを同時に叶える事は難しいと感じました』
 睨んでくるその眼を見つめ返すと、自然と睨み合う形になる。今の私には好都合で、此処まで綺麗に流れてくれるとは思ってもみなかった。

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 避雷針を私と同じ様に掴み、足場を確保している主人。掴む針の長さは、ほぼ貴方の背丈と同じ。幾度も落雷に耐え抜いてきた強固な金属は、私の槍にも等しい頑丈さだろう。
『私は、貴方がこれ以上進み、傷付く所を見るのが怖いのです』
 じっと見据える私の眼に異質な気が雑じるのを感じ取ったのか、咄嗟に構える主人。しかし時既に遅く、私の眼光は獣のそれとなって貴方の動きを妨げた。
 先手を打った私は槍を閃かせ、その細い胎に激しく刃を通す。
『お許しを!』
 ぐらりとバランスを崩す貴方に痺れが奔るのが見え、私はそれを利用して御身を突き刺したまま振り被る。
「っがぁあぁッ、こ、のおッ」
 位置を見定め、先刻まで貴方の掴んでいた避雷針にその身を通した。
「っひああぁあっ、ぁ」
 甲高い咆哮を上げた貴方の体液が、私の頬を濡らす。槍を通した穴に挿したので、多くの流出は見られない。こんなにも、想像通りに綺麗にいくとは思わず、モズの早贄の様になった主人を改めて眺めた。
 まだ痺れているのか、私の槍がもたらした効果に時折ビクビクと肢体をしならせるその姿。酷く痛々しくて、助けてあげたくなる。たった今、私が貴方をそうしたのだけれど。
『すいません、でも痛いのはこれきりです。貴方が神経攻撃を防げない事を一応考慮して、こうさせて頂きました』
「は、ぁっ……ぁ、セタン、タ」
『進むと、もっと痛い事ばかりでしょう? 肉体は治癒します、けれど貴方の精神は削れるばかりで……治らない。だから、もう眼を閉じて下さい』
「……は、ぁっ……はぁ」
『貴方の肉体が雑魚に食い荒されない様、私が責任をもってゾウシガヤ霊園に埋葬します。あそこは人間の墓場だったのでしょう? 尊厳は御守り致します。私は其処が暴かれない様に、墓守にでもなりましょう』
 苦しげな呼吸の最中に恨み言でも吐き付けると思ったが、私の想像に反して、主人は云われるままに瞼を下ろす。
 煌々とした空気なのに、酷く静かで。私は、主人の綺麗な頭が転がり落ちない様にマントを脱ぎ、避雷針と避雷針の間に張る。
『敬愛しております、人間の貴方も含めて』
 足場を確認して構えを取ると、再びギロチンカットの為に息を吸った。
 ああ、これで主人の声も聴けなくなる。寂しい気もするが、あの冷えるマガツヒよりは断然マシだ。
 マシだと己に云い聞かせるのに、今更腕が震えた。呼吸が乱れる、首が絞めつけられる。私の勝手という名の覚悟を引き止めるかの如く、マフラーを掴まれてもいないのに引かれた気がしたのだ。いけない、中途半端な力では首が落せない。そのくらいしなくては、あのマガタマという蟲がその肉体を再生させてしまうのに。
 柄を握り直し、再び天に振り被る。カグツチの光が切っ先を強く照らして、反射した光が貴方の頬を照らす。その瞼が瞬間見開き、下ろした私の攻撃を素手が受け止めた。


「麻痺程度で殺れると思ったのか」
 呻る様に絞り出されたその声音は、続いて力を発する為の雄叫びに変わる。
 私の槍を、掌が裂傷する事も厭わずに握り締め、突き上げる様にして天に振り翳す主人。
 自身の身体が宙にぽおんと放られ、皮肉にも同じ様な形で避雷針に貫かれた事が判った。まるで他人事の様だが、私の身への痛みはその様なものでしかない。
「はぁ……っ……落とすより、最悪な事、してくれたな」
 血だらけの掌に、あの蟲を吐き出す主人。私の視界にそれが入っているのを認識している筈だが、それどころでは無いのかもしれない。
 マガタマを入れ替えた次の瞬間、その胎に突き刺さる避雷針をアイアンクロウで細かに分断していた。
「あんたが腰抜けで命拾いした」
 足場にくたりと崩れた状態から体勢を立て直し、呟く主人。肉に残った断片をずるりと引き抜き、眉を顰める姿。その苦痛の表情から思わず私も眼を逸らした、あんな事をしておきながら。
「……で、何だ……あんたは俺を殺す為に、此処に連れ出したのか」
 魔石を傷口にあてがい、仄かな光で癒しつつ私に問う貴方。問い質しながらも、しっかりと槍を奪う事を忘れない。 その動きが計算されたものというよりは、本能的なものだと私は感じている。貴方は人修羅であり、やはり人間からは少し遠い……
『貴方を……固定して、首を斬れる処を、探していて』
「それで此処の避雷針か? 随分な理由だな」
『話を……ヤシロ様と、お話する時間が、稼げるかと思って。だから……登る手間も、好都合でした』
 あの、ヨヨギ公園の時と同じだ。命乞いをしない私、トドメを刺さない貴方。
 私は変化を怖れはするが、命に未練は無く。貴方は悪魔を嫌うが、手を汚す事も同時に嫌う。
 互いに何も云えず、動けず、察した空気が流れた。酷く懐かしかった。
「東京タワーに野外学習の日……風邪で寝込んで俺だけ欠席した。階段を皆で登ったんだと……翌日クラスメイトから聞いた」
 ぽつりと零す貴方の声は、私に聴かせる風でも無い。まるで独り言の様に続けられる。
「後日一人で来たけど、曜日の関係で階段は封鎖されてた」
 乱れた髪を、ぼんやりとした指つきで梳いて直している。その黒髪が血で艶めいて、芳醇なマガツヒの薫りを漂わせる。不謹慎にもうっとりしてくる私……
 寝物語の様な主人の声が、この胎を貫通する針の事など忘れさせる。
『登れて……良かったですか?』
「別に、もうそんなので歓ぶ年齢じゃない。それに俺は自分の脚で登ってない……だろ」
 私は、この判断を後悔しているのだろうか? 実のところ、それほど悔いてはいなかった。確かに失敗には終わったが、こうでもしなければこれほどの接触も無かっただろう。
 私の独善に貴方が激昂し、酷く罵ってきたとしても、それさえも愛おしい。どうせ途絶えるこの意識なら、最期に強く貴方を感じたかった。
『私は、御一緒出来て、嬉しかった、です』
「……当然だけど、もうあんたを連れはしない。此処でお別れだ」
『承知しています、此処で朽ちるまで、貴方の無事を願っております』
「言動の不一致が酷いな」
『眺めが好くて、眠るには適しています』
「また眠るのか……戦闘中には勘弁してくれよ」
 槍がカランと放られる音が、更に下層で輪唱していく。主人はその音の後に、訂正した。
「もうあんたと並んで戦う事も無かったな」
『ひとつ、訊いても?』
「……何だ」
『何故、召喚して応戦しなかったのですか』
 一拍置いてから、抑揚のない声音で返事する主人。
「あんたに先制攻撃喰らったなんて、他の奴に覚られて堪るか。本当はピクシーでも召喚して、ジオ系でも喰らわせてやろうと思ったけど」
『そうですね……避雷針ですから……命中しない訳がありません』
 拗ねた様な主人の横顔が視界に見え隠れして、思わず笑うと胎がぐすぐす鳴った。
 いや……もう主人では無いのか、使役関係は終わったのだから。
『あの塔に行かれるのですか』
「もうあんたには関係無い」
『創世をされるのですか』
「答える義理も無い」
『私は、人修羅でも人間でも悪魔でもなく……貴方を好いておりました、貴方を……』
「セタンタ! 黙れ!」
 仰向けに串刺しの為、貴方の顔が逆さに見える。怒っている……いや……この眉の形を逆さにすると、八の字だ。
「……もう、何も云うな……俺を見るな……見ないでくれ」
 どうして哀しそうな顔なのだろう、今にも泣きそうだ。いっそ「悪魔め」と蔑んで、奮起の素材にしてくれたら良かったのに。
 どうしよう、最期に見る表情が、いつもの貴方では無い。
 慌てて軌道修正しようにも、私には気の利いた言葉ひとつ浮かばず。だからといってあの妖精を召喚して貰い、普段の調子に成って下さいと云える訳も無く。震えるかつての主人が何を歓んでくれるかを、垂れるマフラーの隙間で必死に考えていた。
 貴方が憎む変化より前の、人間の頃のトウキョウの事……何か、私が知る知識に何か無いかと。
 この傷口から脈打つ様にして、焦りがだくだくと滲み、針から鉄骨へと流れていく。その気配に私はあっと閃いて、横を向く主人に嬉々として伝える。
『私の事は見なくとも良いですから、ヤシロ様。下を、トウキョウタワーを見て下さい』
 金色の眼が、ゆっくりと私の下方を見つめる。私は仰け反ったまま、マガツヒを更に溢れさせて唱える。
『懐かしい色になったのではないですか、どうでしょう……?』
 歪む貴方の双眸、小さな唇が言葉だけを置き去りにしていく。
「……ああ、そういう色だった……気がする」
 そう残したのに、どうして貴方は笑顔にならなかったのだろう? 力無い声色だったのだろう? 本来と違う色なら、憤怒したろうか、いつもの様に苛々したろうか。ならばいっそ、違う色なら良かったかもしれない。
 結局、貴方を終わらせてあげる事も、歓ばせる事も、普段の状態に戻してあげる事も出来なかった。
 タワーを無意味な色に染め上げながら、私は静かに独り眼を瞑る。
 カグツチ塔からもよく見える様に、干乾びるまで赤に染め上げよう。貴方の記憶の中のタワーに少しでも近付ける様に、祈りながらマガツヒを流し続ける。


 ただ、その色は虚飾であり、単に私の墓標を見て欲しかっただけなのかもしれない。

 -了-


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