閉鎖病棟メランコリ



「……うえっ」
 コダマを殴り飛ばした直後、己の拳を見て声を上げる少年。一方、ぺらぺらと舞いながら落ちるコダマを、ピクシーが羽ばたいてぶわりと遠くに追いやった。
 見届けてから、翅をゆっくりとした煽ぎに戻すその妖精。続いて、振り向いてからふわふわと少年に寄り添って行く。
『どしたの?』
「あんなペラペラしてるのに……殴った所の皮膚が剥けた」
『あはっ、そりゃアナタの殴り方が下手なのよ、ヘタクソ!』
「……そんな野蛮な人生送ってこなかったんだ、悪かったな」
『ん、もう! そんだけで膨れないでよ』
「膨れてない」
 立ち去る後ろ姿、大して凛々しくも無い背には黒い紋様が刻まれており、暗がりで其れはぼんやりと発光する。追って飛ぶピクシーが、強く握られた拳にさり気無くディアをかけていたが、少年は礼も云わなかった。



 足音が遠ざかるのを耳に寄せ、我々は潜めていた呼吸を緩やかに平常時に戻す。
「確かに、ずぶの素人ですね」
 何時でも抜刀可能な様に、柄に指を添えたままのライドウが発する。不可思議な機械の影に立ち、先刻の戦闘を見ていた訳だが……我もそう感じた。
『だがライドウ、油断は禁物だぞ。何せ依頼された程だからな……潜在した力が有るのやもしれぬ』
「承知して御座いますよ、ゴウト童子」
『それにあやつ、ピクシーを仲魔にしおった。使役能力を具えているとすれば、お主もうかうかしてはおれぬだろう』
「悪魔が好きならば、の話ですがね」
 明滅する機械を、何やらがしゃがしゃと弄り回すライドウ。黒外套が前に揺れ、我の視界がチラチラと煩くなる。
『どういう意味だ』
「愛らしい外見の妖精にさえあの態度。友好的な悪魔でさえも、彼にとっては敵らしいですが』
『まだ己の現状が理解出来ておらぬのだ、同属と知ればおのずと慣れ親しむ筈』
「でしょうか?」
『……何を哂っておる、ライドウ』
「そうは見えませぬが、ね」
 がっしゃん、と大きな音がする。少し腰を屈めたライドウが、機械の下方を押し開き、内部から何かを取り出した。筒の様な形状のそれを掴み、軽く振ってその音を聞いている。
『おい、不用意に……おい!』
 我の声の方が、その物体の中身より大きく揺れているだろうに。こやつ……無視しおってからに。
「足下においで下さい、童子」
 宙にそれを放り、一刀両断したライドウ。筒は見事に均等に分断され、床に金属音が響いた。
 転がった筒の中は液体で、あっという間に其処に水溜りを作る。
『爆発物であったらお主、どうするつもりだったのだ!』
「缶切りが無かったもので、申し訳御座いませぬ」
『其処では無い! 全く……』
 筒に残った雫を、軽く指で掬うライドウ。いい加減呆れて物も云えぬが、我も少し気になったので問い質してみる。
『……何処か、憶えの有る匂いだな……っておい!』
「ソーマですね」
 指先をれろりと舐め、あっさり云い放つライドウ。確信があっての行動だろうが、同じ匂いの別物質ならば問題となる。
『舐める奴があるか!』
「しかし、仲魔である悪魔に毒見させても、コレが何で構成されているか知れるだけでしょう。作用の仕方はヒトと悪魔では違う」
『ま、それはそうだな……って、それなら余計に舐めるでないわ、たわけ』
 ニタリと哂いつつ、再び腰を屈めるライドウ。先刻と同じ様に機械を弄り回すが、機械は無反応だ。もう出ないと判断したのか、腰を戻して此方を振り返ってくる。
『さ、もう往くぞ――』
 と、一歩を踏み出した我の背後から激しい衝撃音。全身の毛を逆立て、警戒体勢で振り向けば……
「ほら童子、もうひとつ出てきましたが」
 回し蹴りを機械にくれたライドウが、我を見て満足気に哂った。踵を返したのだと思えば、回し蹴りの為の助走だったという事か。 
「ソーマがタダで入手可能なら、美味しい装置で御座いますね」
 あの筒を屈んで取り出し、外套に忍ばせている……それを見て、呆れて物も云えぬ我。水溜りを軽く舐めてから、先に通路を駆ける。
 人修羅は既に、窓の向こうの更に向こうだ。ピクシーとの会話を反芻する……確か、ガキが鍵を持っているとか、何とか。
「本院A203号室、分院用のパスを必要としております」
 我の隣に、すっと差し込む黒い影。革靴の踵は硬質な素材だというのに、不思議と音を立てていない。
『読心か?』
「フフ……まさか童子様にそんな。今は召喚していないでしょう、僕」
 遠慮の顔もせずに、我をチラリと見下ろすライドウ。依頼で向かう先が、見知らぬ地……それも人間の住む世界で無い事は、それほど珍しくも無いこの責務。
 それにしても、慣れというよりはこの男、まるで探索気分の様。少しでも痛い目を見れば、この大胆不敵さも形を潜めるとは思うのだが……生憎、十四代目として活躍するだけの技量を溢れんばかりに具えていた。
「ああ、この缶……しっかりと開封の為の仕掛けが有りましたね。指を引っ掻け、飲み口を切り開く様子です」
『まだ其れを見ておったのか、そろそろ……着くぞ』
 一室の前で取り込み中の、少年と妖精。その場から一定の距離を置き、我々は窺い潜む。
 やがて、開かれた扉に渋い表情で侵入していく彼等。横開きの扉がゆっくりと閉まっていくその隙間、ジオの光と膨れた胎が見えた。
「ガキが三体、どれも特殊な技は持ち合わせていない模様」
『ピクシーもジオを使っていたな、流石にそれで敗北する人修羅ではあるまい』
「……人修羅、ね」
 また可笑しそうに肩を揺らすライドウ。我はこの男が、こういった哂い方をひっきりなしに続けている時は、とても落ち着かない。よからぬ思想を抱いている、その片鱗が垣間見える。
『そう云っておったろう、あの老人も……あれが魔人の一人、人修羅なのだと』
「彼が人間気分の間は、始末の対象にもなりませぬ。その通り名は、まだ相応しくも無いでしょう」
『何を云うかライドウ。あれが成長しきらぬ内に、見極めメノラーを奪うが最良、違うのか』
「魔を使役し、魔を祓う、それがデビルサマナー。今の彼を相手にしては、仲魔の気も乗りませぬ」
 一番気分が乗らぬはお主だろうが……と、云いかけて止めた。ライドウが、管に指を添えているのを見てしまったからだ。



『おい、別に手助けは要らぬと思うぞ』
「この院の悪魔は、随分と穏やかですね」
『フォルネウスが仕切っていると、思念体が云ってたろうに。妙な真似は出来んのだろう』
「それこそマガツヒの結晶体とも云える生物は、献上するのがスジ……という事でしょうか」
『そうだな。頭に隠れて独占しようものなら、仕置きされる可能性は有る』
 翳された管、ぶわりと舞う外套。マガツヒとは違う緑の蛍光が、蛍か綿毛の様に一気に飛散する。のっそりと背の高い仲魔が、ライドウを見下ろしぱくぱくと口を開いた。
 猫背の姿勢、持つ杖もそれに伴い傾いてライドウの傍に着かれている。
『天井が低いぞぃサマナァ。これでは起立も出来んじゃろう』
「屹立ではなく?」
『それをしとるから、起立出来んのじゃろ』
「これは失敬、今日も元気で何より」
 何故ミシャグジを召喚したのか……周囲に悪魔の気配は無い。騒がしいのは、扉の向こうだけだ。
「ミシャグジ殿にお願いが有りましてね」
『ほう、云ってみぃ』
「あの部屋の中のガキ達に、雷電の壁を張って頂きたいので御座います」
『ほほう、ガキだの? 承知したぞい』
「MAGは後払いで」
『どかーっ、と部屋に押し入っても良いのかえ?』
「中は駄目です、お外から願いまする」
『もどかしいのう』
 ミシャグジの確認に、哂って返すライドウ。我は聞き違えたかと、畜生の耳をヒクヒクさせて問う。
『ライドウ、何を遊んでおるか!』
「いいえゴウト童子、遊んでなぞおりませぬ。この院内にて対象の戦闘能力を確認するつもりでしたが、此処の悪魔があまりに緩手な為に、僕から少しばかり嗾けてみようかと」
『殺るならメノラーを出させてからにしろ。胎内に宿しているのか知らんが、腰に提げてはおらんだろう。今あそこで野垂れ死なれては、奴の持っているメノラーの在り処すら分からん』
「誰も始末するとは申しておりませぬ」
『小手調べというやつか? フン、偉そうに』
 悪びれる様子も無く、ライドウはつかつかと扉の前に歩み寄る。雷電の壁を張り巡らせたミシャグジに、寄越せと軽く促して御柱の杖を受け取る。それを横開きの扉に突っ掛ける様にして設置すると、直後にギシギシと小刻みに揺れる扉。単純な仕掛けだが、ライドウは出られぬ様に細工したのだ。
『おい、中で死んでいたらどうする』
「雷電の壁ではジオが通らなくなっただけ……これで死ぬのなら、この病院からは出られもしないでしょうね」
 更に激しく揺れる扉。いよいよ横への抵抗ではなく、体当たりの様な衝撃音で軋み始めた。
『分が悪い様子だぞ』
「逃げようとするから余計に攻撃を喰らうのですよ、全く……フフ」
 どちらが悪魔か分かったものでは無い。実行理由をそれらしく説明するものだから、我もついつい放任しがちであった。
 やがて、扉への衝撃がぱったりと止まる。一足遅かったのではないかと、我は呻りつつライドウの足下に駆けた。
『反魂香は持っているのか?』
「まだ生きておりますよ、声が聴こえます」
 確かにそれとなく、会話の様なものが扉越しに鼓膜を震わせる。
 畜生の耳よりも早いその耳を、そっと扉に押し当てたライドウ。軽く哂い、管を指先で弾く。それを確認したミシャグジが、頭を垂れたまま扉に突っ掛けた杖を取る。
『もう良いのかサマナァ? しかしこれでは只の棒扱いの様じゃて』
「ミシャグジ様の棒は、立派な棒に御座いますよ?」
『ふぁっはっは、煽てても唾しか出してやれんぞぃ』
 豪快に笑うミシャグジを、有無をいわさず管に戻したライドウ。引き続き、扉に耳を当てている。
 我は押し当てずとも気を集中すれば、そこそこは聴こえる。ガキ数体の声と……時折雑じるのは、少年の肉声。悪魔と人間の発する音は、少々違うのだ。つまり、人修羅の発する音は人間のソレに近いという事になるが。
「ピクシーの気配は無いですね、致命傷でも負ったのか……」
『……おい、何やら物騒な言葉が今、聴こえたぞ』
「ふむ、人修羅の胎を捌く……と、それは僕も聴こえました」
『聴こえはするが、話が見えんな』
「蟲……と云っておりますね……人修羅の傷口から『蟲が見えた』とか何とか」
 我もライドウも呼吸を最小限に留めて、聴覚に鋭さを移す。ギシギシと軋む寝台の音、ゲヒゲヒと甲高いガキの笑い声……と、それを全て劈くかの様な悲鳴。

 うああああッ!あっ、あぁーーッ!!

 断末魔では無いのかと思い、我はライドウを見上げた。怪訝と思われる様に、フウッと眉間に力を籠めて……
「ぐちゃぐちゃと、咀嚼音もしますね。マガツヒごと肉も喰われているのでしょう」
『蟲というのが気になるな。ガキ共は、それを取り除いてから人修羅を喰おうとしたのか?』
「その蟲ごと喰らってしまえば良いのに」
『寄生虫入りの魚を喰らいたいか?お主は』
「蟲ごと養分にしてやれば良いだけでしょう」
『ハ、ぬかせ……』
 聴こえてくるそれは、まるで人間の悲鳴そのものだというのに、眉ひとつ動かさぬ。恐らく、この男が人修羅の立場だったとすれば……何も怖れは無いのだろう。悪魔を嫌い、己の力まで嫌悪しているあの少年とは、真逆なのだ。
「さて、そろそろ修羅場に立ち入りましょうか」
『其れは洒落のつもりか?』
「まだ修羅の名を冠するには頼り無いと、先程云いましたが」
『こういう時はマトモに返すのか、可愛気の無い奴め』
「フフ……さあ童子、僕の後ろへどうぞ」
『例えこの器とて、ガキなぞにやられる程に落ちぶれとらんわ』
「僕の刀が、その尾を裂いてしまうかもしれませぬ」
『……態とではないか?』
「さあ?」
 扉の取っ手に添えられる指は、得物を振り回すにしては繊細だ。だが、遠目に見ても人修羅の方が、身体のすべてが軟そうだった。柔らかい、では非ず。軟弱そう、という意味だ。
 装備を脱げばライドウの肉は、無駄の無いしなやかな獣のそれと判るのだが……
 仰々しい斑紋を肌に湛えるだけの悪魔の少年は、其れを取り除けば本当に只の一般人で。
『ン、ンンッ!?オマエ、ナンダ……?』
『マガツヒ、コイ……ニンゲン?』
 その斑紋だらけの一般人は、一斉に振り向いたガキ共の下に居た。簡易寝台に括られる様にして、裂いたシーツで雁字搦めに固定されている。
『ニンゲン……ゴチソウダァア!』
 ぼうっと光る丸眼が、此方を爛々と見つめる。その脹れた胎の揺れを見るに、マガツヒも肉もそこそこ喰らった後の様子。
『トリカコメ! スクカ――ギャアア!!』
 号令し唱えた瞬間、そのガキの脳天に穴が開いた。片手の刀に気を取られたか、まさか飛び道具を使うと思っていなかったのだろう。
『スクカジャくらい唱えさせてやれ、デカジャを使う仲魔が居るだろう?』
「残念ながら童子。若い男性悪魔が居る場に、モー・ショボーは召喚したくないのですよ」
『……嗚呼、成程な』
 外套に僅か掛かった硝煙を掃い、残りの二体を見据えるライドウ。
「人修羅も、ある程度傷を負わせた様だが……その傷はたった今、喰らっていたマガツヒに癒された。そういう事かな?」
『ナンダナンダ、オマエハ!』
「執刀交代させてくれ給え」
 召喚するまでも無いと判断したのか、銃撃してもう一体を弾き飛ばす。改造したコルトはこの世界の悪魔にも通用するらしく、撃たれたガキは二転三転して病室の床を汚す。ライドウは、まだ痙攣しているガキの傍まで一気に跳ぶと、着地と同時に首から落とした。
 最後の一体がその背後から腕を振りかぶって跳び付くが、我は特に叫ぶ事もしない。ライドウには、あの程度の雑な気配はお見通しだからだ。
 介錯の刀をそのまま今度は斬り上げる形に、踵を返して肉を裂く。外套にガキの体液が染みを作るが、一瞬にしてそれは境目すら消える。
「その腹上は譲って頂きませう」
 血振りをしてから納刀するまでの流れに、一切の濁りは無い。当然と云えば当然だ、そう鍛えられてきたのだから。
寝台の傍、戦闘で妙な方向を向いている棚。既に其処で待機している我を見て、哂うライドウ。
「まだ息が有るでしょう」
『しかし、かなりの致命傷ではないか。治癒は早そうだが……しかしこのまま放置しては格好の餌だろうて』
 病人を訪ねるかの様に、自然な素振りで覗き込むライドウ。学帽の下、その眼がゆっくりと人修羅を眺めている。
 隙間風が如し微かな呼吸で、胸を上下させる半人半魔。意識が朦朧としているのか、我々の存在を夢か幻とでも思っていそうだ。
「雷電の壁に気付かずに、ピクシーにジオを使わせ続けた……そんな所ではないかと思いますがね」
『やれやれ……秘めた力が強かろうが、この戦い方では』
「童子、御覧下さい。胎の裂け目……一番深い所を」
 ライドウが示す場所は、我の位置からは確認し難い。仕方が無いので、人修羅の頭に軽く飛び乗った。黒髪が肉球を擽った瞬間、下方で小さく呻いたが覚醒する様子は感じられない。
「光沢を放つ異物が……内腑の動きではなく、その個体で動いているでしょう」
『其れが、ガキ共の云っていた蟲というやつか?』
「充ち充ちた魔力を感じますね、魔力だけでなく……もっと深い、深淵たる力の色が感じられまする」
『……ふむ、確かにこれでは……人の身には重いな』
「如何致しましょうか、除去してみますか?」
 我にわざわざ意見を仰ぐなど、気色が悪い。この男は、問い質す前から答えをいつも出している。
『除けばこの傷、癒えぬぞ。恐らくは、この強大な源泉に支えられて生き永らえておるのだ』
「僕もそう推測します、抜かぬが吉ですね」
『……メノラーを奪還さえすれば、こやつの命の有無は問わぬが。今回この世界に来ている理由は、依頼の為……そうであろう?ライドウ』
「僕が呑んでみたいので御座いますよ」
『おい止めてくれ、十五代目の候補をまだ決めておらなんだ』
「フフ……そんなものすぐに決まる筈ですがね」
 血濡れの前髪を、白い指で梳くライドウ。その指を額から頬へと流して、黒い路をするすると辿る。
 カグツチの光が窓を突き抜けるこの部屋では判り難いが、斑紋の縁は赤く明滅を続けていた。平常時の色と違う気がして、眼を思わず擦る。
「しかし、この蟲……宿主を選ぶ様子。きっと取り出しても、這ってこの男の胎に戻るでしょう」
『どういった理由で選定されたかは知らぬが、憐れな奴め。しかし既にこやつは悪魔の身。聞いた話が事実ならば、依頼主のメノラーを奪い返すのが我等の使命であろう』
 じゅくじゅくと再生を始めている胎を見つめて、ライドウが失笑する。
「中は人間と同じ、肉が詰まっておりましたね」
『そうだな』
「いっそ空、エネルギー体なら苦痛も軽減されたでしょうに。可哀想ですね」
『……なら、お主は何故哂っておる』
 赤く染まったシーツを、ビッと引き裂くライドウ。寝台に括られていた人修羅を、形だけでも解放する。
「羨ましいのですよ、人間の上限を遥かに上回るこの男がね」
『しかし、当人は何も嬉しく無さそうだぞ』
 苦し気に空気を吸うその唇に、爪先で触れ遊ぶライドウ。
「この脆弱なままでは、退院すらままならぬよ」
 見下ろす人修羅に呟いているのか、我を一切視界に入れていない様子。
「人間など……悪魔などと気にせず、生き延びる事だけを考え給え」
 柘榴の割れ目の様な人修羅の胎が、ようやく落ち着いて乾き始めてきた。濃密な匂い……これは赤いエネルギー、マガツヒの匂いか。ライドウや思念体からも感じるが、やはり血肉から直接舞うそれは別格だ。
『夢うつつの今ならば、メノラーを簡単に寄越すかもしれぬぞ?』
「病人から物を頂くのは、趣味では無いので」
『さっき胎から蟲を取ろうとしたのは誰だ』
「まさか、毟り取るだなんて」
『洒落か?』
「無視して頂いて構わないのに」
『ちっ、人修羅が覚醒する前には退室するぞ』
 付き合ってられるか、と、我は床に飛び降りた。体液で蝋引きされたかの様な床は、横転を誘う。つるりと滑って、見上げた先。外套から取り出した《あの筒》を片手にしたライドウ。指で今度は開封し、その飲み口を人修羅に傾けている。
 が、すぐに腕を戻すライドウ。筒の中で、とぷんと液体の揺れる音がした。
『当然だ、寝ている患者に白湯を飲ませる病院は無い』
「その様子で」
 返事と共に、次は自らがそのソーマをあおり始めた。
『おいおい、傷ひとつ負っておらぬお主が呑んだ所で、無意味――』
 嗤ってやったつもりが、ひくひくと髭が引き攣る。ライドウは、口に含んだそれを……人修羅の唇に注ぎ込んでいたのだ。何の躊躇もせず、数回に分けて注ぎ切るその姿。
 ようやく唇を完全に離したライドウは、濡れた唇が赤い。それが血色なのか、人修羅の血なのか、マガツヒなのか……判断しかねる。
『何をしとるか、お主は……!』
「童子こそ、其処は寝台では御座いませぬが? 早く立たれては如何でしょうかね」
 云われて初めて気付く。滑って寝そべったまま、我は起き上がる事も忘れて……茫然と見つめてしまっていたのだ。
咄嗟に脚を曲げ伸ばし、反動でむくりと床に這う。
「ぅ……」
 一言くれてやろうかと思った瞬間、未だ聞き慣れぬ声音が耳に入った。そうだ、寝起きの様な掠れ声なので合致しないのだ。これまで観察してきた人修羅といえば、やや憮然とした声音か……悲鳴だけだったのだから。
『ほれ、今のが気付けになったのだろう。もう退くぞライドウ』
 ガキの死骸を避けて、我は扉に向かう。今戦う事になるのは、ライドウも本意では無いだろう。何せあの男は……戦闘狂の気が有る。強い悪魔に目が無いからだ。
「今度まみえる際には、僕の胎でも割いて御覧、人修羅」
 カグツチの逆光で、ライドウの表情ははっきりとは確認出来なかった。が、あれは確実に哂っている事だろう。
「早く退院しておいで」
 去り際に、もうひとつ唇を落とすライドウ。その最後の接吻は、ソーマを含んではいない。しかし、MAGが雫の様に滴り、離れる影に糸を引いている。
『先にミシャグジにくれてやれ! 忘れておるだろうお主』
 扉を閉めたライドウの脚に、我は尾で強かに叩いた。
「そういえば、後払いでしたね」
 確信犯の笑みに、我は溜息を吐き出す。目を着けられた人修羅に、何と云うべきか……多分、同情している。
『しかし……目覚めたらガキも一掃されているのだ。どうやって生還したのか、不思議だろうな』
「化け猫の仕業と思われましょう」
『は? 何故だ』
「ゴウト童子、貴方の足跡しか残しておりませんので」
 先刻の室内を改めて思い出す。云われてみれば……ライドウは汚れの類を一切踏んでいない。赤い足跡は、人修羅のものとガキのぺったりとした偏平足の跡と……
 我の肉球、だけで。
「いつか対峙した際、人修羅の視線は貴方に釘づけですよ童子。何と羨ましい事で御座いましょう、ねえ?」
『……知るか!』
 あの水溜り付近まで再び来たので、其処に駆け寄り我は足を洗った。
 肉球に沁みわたるソーマに、何故か贅沢も感じ得なかった。

 -了-


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