天國より野蛮
成長と共に変異したソロネは、その轟々とした焔を纏いつつも、白い柔らかさを背に生やした。黒い色調の衣が剥がれ落ち、暗がりに見えなかった相貌が薄白い舛花色に染まる。
それを見た人修羅は、何故か全身から殺気を放ち始めた。
一応仲魔として使役している悪魔なのだ、何を今更警戒しているのか。忠誠を得られていない自覚が有ってこその、 防衛本能の働きだろうか? 仲魔に寝首をかかれるなど……余程だろう。
天使へと姿を変えたソロネを見つつ、僕は腕組みして壁に寄り掛かった。足下のゴウトも察したのか、特に意見を述べる事もしない。
僕は天使が好きでは無い。人修羅と共に行動している最近の話ではなく、それ以前からの話だ。
『お久しぶりです、ヤシロ……今後は“様”をつけるべきでしょうか? ヤシロ様』
小さく首を傾げて、恭しく跪くその天使。人修羅の手を取り、その甲に口付けをしようとした……が、跳ね除けられている。
『今は貴方の使役下なのですから、どうぞ私を好きに扱って下さい』
「ど、どうして……同じ、ウリエルなの……か」
『転生に近いですね、ついこの間もミフナシロでお会いしたでしょう? あの時は敵同士……でしたが』
「さっきまでの、ソロネの意識は」
『それはヤシロ様、合体を御存知でしょう? というか、されていると思いますが……その場合、二体の意識が何処に消えるのか、説明出来ますか?』
「……そんな、悪魔の事なんて、いちいち考えない」
『それで良いのです、私は私、あの頃のまま……憶えておりますからね? 私のプレゼントは、しっかりそのお腹に在りますか?』
跳ね除けられたばかりだというのに、人修羅の胎に触れようとしている。何故ああも、天使というものは綺麗ぶるのだろうか。自分と大差無い事をしつつ、聖人ぶる姿勢に反吐が出るのだ。
「俺は憶えちゃいない! 《悪魔》の事なんて!!」
天使を払い除ける腕は、怒りが抑えきれぬのか焔が溢れ出していた。それを物ともしない天使に見送られ、人修羅は通路を奥に駆けて行った。僕の傍を通過した際、その耳は真っ赤に染まっていた。このアマラ深界の色を反射しているだけ……とも思えぬその血色。
『だから、私に焔は効かないと申し上げたのに』
丸い扉の向こうに消えた人修羅に、聴こえる筈も無い事を知りながら呟く……つまり、それは僕に聴かせているのだろうか。
『しかし……悪魔がお嫌いな様子は変わりないですね。まさか人間の力を借りるとは』
足下でゴウトが軽く威嚇する。葛葉が“人間ふぜい”と虚仮にされる事が気に喰わないのだろう。
僕自身は、葛葉の責務を全うする自信も愉しさも有るが、葛葉という名前に踊らされたいとは思わない。僕が侮辱される事には全力でお応えするが、葛葉が何か云われようと、そこまで気にはならないのだ。
『警戒心はかなり強くなった筈ですが……どの様にして仲魔となったのですか? 物で釣られる……これは無いですかね。では交渉?』
このまましつこい様子なら、モー・ショボーでも召喚してやろうかと思案し始める脳裏。あのじゃじゃ馬は、端整な顔立ちの悪魔に弱い。放置しておけば呪いの様に、この天使に纏わりついてくれるだろう。
『貴方の提示した贈り物か口説き文句を、ぜひお訊きしたいですね』
にっこりと、それこそモーショボーが落ちそうな、とてつもなく爽やかな微笑みを浮かべる天使。
僕の近くに歩み寄る、わざわざ二足歩行で。御苦労な事だ、飛んでいる方が気持ち良く見下せるだろうに。
「贈り物は鉛弾、口説き文句は“僕の悪魔になり給え”」
こちらも同じ様に、にっこりと微笑んで返してみた。
一方の天使はというと、僕の回答に多少は驚いた様子で。相槌に少しの間が開いた。
『貴方の……悪魔に……』
「そうさ、アレは使役者では非ず、僕の仲魔だ。つまり僕の使役悪魔が人修羅なのだよ」
『……デビルサマナーですか?』
「そう、葛葉ライドウの十四代目さ。コンゴトモヨロシク」
口角が疲れたので、微笑むのはすぐに止めた。この笑い方は、やはり性に合わない。青白い天使は、それでも微笑みを絶やさずに片手を差し出してきた。
『今後とも宜しく、サマナークズノハ』
「君の主人の見ておらぬ場で、他の面子となれ合うのは良いのかい」
『私が誰と如何に触れようが、あの方は怒りもしないでしょう』
明らかに人修羅と面識が有る様子。僕より以前のか……いいや、その感じは無い。
天使のこの見目だ、病院から抜けた後辺りでまんまと絆されたに違いない。その顛末が納得のいかぬものだった為、人修羅はあの反応をした……恐らく。
従えていた悪魔が変化し、過去の汚点に化けたならそれは驚愕だろう。走り去る程に、見ているのが辛かったのか。
『貴方の使役悪魔に使役される身ですから、何なりと御命令下さい』
何をされたのやら……
「プレゼント、と云っていた。君が何を贈ったのか訊きたいね」
『あの蟲、マガタマです』
「名前は」
『イヨマンテとシラヌイ……だった筈ですね』
「へえ、二つも。教えてくれて有難う」
『追いかけずとも良いのですか? 此処はアマラの中と思われますが……迷い易いですよ。ほら、あの方よく路を間違えるでしょう?』
知った風な口ぶりに、何故僕が苛立つのだ。尊大な素振りを見せぬだけで、只の人間である僕を内心嗤っているのだ……違い無い。
いいや、ボルテクスにおいては、人間は寧ろ重宝されているか? コトワリの依り代か、餌として……だが。
「人修羅の動ける範囲なんて、僕等と大差無い。どうせ帰る家も無いのだから、時間が経過すれば戻って来るし、僕等が進めば遭遇する」
『はは、では此処で立ち話も何ですから、共に参りましょうか。そちらの黒猫さんもね』
鼻で笑うゴウト童子、壁から背を離す僕に追従し始める。僕は天使の横に並び歩くが、喧しい純白を視界にチラつかされて更に苛立つ。
「背中を任せるつもりは無い」
『構いません、戦闘の際は貴方の悪魔を召喚して下さい』
湿った様な乾いた様な、赤い通路。この階は全ての別れ道が合流するので、何も意識せずに其処を目指す。
アマラ経絡と違い、この深界は安定している事が救いだろう。脳内に何も地図が入っていないであろう人修羅を追った……あの病院の頃よりは、流石に打たれ強くなっていて……ピクシー以外の仲魔も、たった数体だが従えて。相手が攻撃を無効化か反射したかなども……気を配する様になっていた。
ほら、やはりあの時、病院で始末しなくて良かったではないか。人修羅の成長の限界は、まだ見えない。随分と泥臭かった戦い方も、僕が少しはまともに塗り替えてやれている筈。
あんなに多くのMAGを彼に費やしているのだ、強くなって貰わねば困る。
『それにしても、私には通じない訳ですが……あの方の焔も、熱を増しておりましたね。強くなられた』
「あれでは駄目さ、どの悪魔が焔に弱いか強いか、記憶していないせいで稀に不利になっている。まだその程度なのだよ人修羅は」
『まだ、人間に戻る為に頑張っているのでしょうか?』
「らしいね、その為に僕の使役下に降ったのだよ」
天使の放つプロミネンスがゴグマゴグを融かし、残りのダーキニーに僕が銃撃して、賑やかな曲がり角を通過した。
眼を光らせ、呻る様に震えて業火を発する人修羅と違い、広範囲に放つ際も天使は実に軽やかだ。人修羅は余計な力が籠り過ぎていたり、逆に溜め込むべき瞬間に我慢出来ていなかったり。あれでは駄目だ……嗚呼、僕がマガタマを呑めたなら有効活用してやったものを。
『良い武器ですね、片刃ですか』
「それはどうも、君の剣も余計な装飾が無くて、案外実戦向きだね」
『人修羅が私の攻撃を受ける際に思い切り掴んだ為、あの指を酷く傷付けてしまいました。その片刃剣なら傷が一つで済んだのに、と思いまして』
「生憎、これの切れ味は両刃に勝る鋭さを誇るからね。同じ状況に陥ったが、指をバラしてやったよ」
『はは、それはそれは物騒ですね、人間にしては』
「詐欺紛いの天使様が居る世界だからね、確かに物騒だ」
『しかし先程、《悪魔》の事は憶えていない、と云われてしまいましたよ』
「ボルテクスに天使など存在しないと、ようやく理解したのでは?」
人修羅の放つ焔と、この天使の焔……どちらが強いのだろうか、と、ふと考えた。
もし、この天使に敗北したのなら……許せそうにない。
『以前、私が勧めたのです。焔は使い勝手が良いと』
「……へえ」
隣で笑う天使の言葉に多少の嫌味を感じ、僕は失笑した。こうして平然と会話している僕と天使の姿を見て……人修羅は何を思うのだろうか。やはり皆、信用出来たものでは無い、と、更に疑心暗鬼になるのだろうか。
『おいライドウ、あそこで光っておるぞ』
ゴウト童子の視線の先、薄暗い吹き溜まりで燻っている半人半魔を見付けた。
「本当ですね……フフ、不貞腐れて光っている」
仄暗い中で、構って欲し気に光る蛍。その癖、触れないでくれと喚く。金色の双眸が揃って向いたので、僕は応える様に声を発する。
「功刀君、今呑んでいるマガタマは何だい?」
遠くからでも判断出来る、怪訝な表情をして僕と天使を交互に睨んでいるその姿。状況にも問い掛けにも、疑問を抱いて悩んでいるのだろう。
「あんたにどうして教えなくちゃならないんだ」
「教え給えよ、君の主人は僕だろう」
共闘とは名ばかりの契約関係だが、人修羅は呑むしか無かった。そう、精神が脆弱で、共に歩む人間が欲しかったのだ。悪魔でもなく、人型をしており、標的へと焚きつけてくれる……そんな存在を欲していたのだ。
だから、相応しいのは、悪魔の様な人間の僕だった。
彼は僕を見て、己のマトモさに安堵する。近しい感覚を覚えた場合には、人間に近いのだと安堵する。悪魔を使役する僕を嫌悪しつつ“人間にも悪魔が使役出来るのだ”と、ここでまた安堵している。
「……イヨマンテ」
ぼそりと零した人修羅に、僕は助走をつけて蹴りを喰らわせた。
「ゲハァ、ッ」
腹部を片手で押さえ、苦痛に眉を寄せ、それでも倒れなかった人修羅に哂いかける僕。
「油断してたねえ君、しかし悲鳴もしないとは感心感心」
「っ……ぐうッ……な……んだ、あんたいきなり……!」
「早速だが、気分悪いから他のマガタマに替えてくれ給え」
「……はぁ?」
隣で微笑む天使は、特に何も云い出す気配は無い。この天使がマガタマをくれてやった理由が、善意か偽善か、はたまた気紛れかなど、問題では無い。
もうとにかく、気に喰わないのだ。その胎内に在る貢ぎ物が。
「今すぐ替えてよ、イヨマンテとシラヌイ以外に」
「何だよ、蹴る必要無かっただろ!」
「吐き出すかと思ってねえ」
「この暴力野郎……」
「ほら、さっさとし給え。でないと唇から吸い上げるよ?」
その僕の言葉に、普段以上に目許を引き攣らせ、眦を染める人修羅。同時に天使が声を出して笑ったものだから、これは記憶の一辺を弾いた可能性が高い。
「吐き給えよ」
「じ、自分で……吐ける。あっち向いてろよ……」
縋る先も、侮蔑する先も、全て僕で良いというのに。君の力を最大限に引き出してやれるのは、僕だというのに。
他に感けて甘える君はとても脆弱で、僕を酷く苛立たせる。悪魔の能力を伸ばす為、君の憎しみを残しつつも支えてやっているというのに……
もう、過去の甘えも汚点も掻き消し給え。
『ボルテクスは本当……天国より野蛮ですね』
唐突に、天使が笑顔のまま発した台詞。何処か引っ掛かる云い回しだが、人修羅の耳にはそれどころでは無い様子で。僕は童子の溜息を背にしつつ、黒い斑紋の腕を掴んだ。
「だから……マガタマ交換するの、見られたくないんだよ俺は!」
傍で笑う天使なら、此処で抱擁のひとつでもしたのかもしれない。それを想像して寒気を覚えた僕は、少しだけ人修羅の焔が恋しくなった。
抱き締めればそれで解消されるのを知りながら、そんな事が出来る訳も無く。
「これで見えぬだろう、ほらさっさと替え給え」
掴んだ腕を引き寄せて、掲げ拡げた外套ですっぽりと人修羅を覆う。内の紫紺の暗闇に入れ、天使からも見えぬ様に。
我ながら稚拙な行動で、恐らく童子には更に呆れられている事と知る。
「お……おい、ライドウ」
「文句有るのかい」
「い、いや……その」
隙間から零れる斑紋の光が、僕の頬を照らす。天使は向こうから、その僕の頬を見てばかりいる。
「悪い……な」
小さく呟いた人修羅の声は、僕にしか聴こえていない筈。あの真白い翼より、君の身体を包んで隠す。
「水鳥の羽より……居心地良いだろう?」
隙間から軽く覗いて見れば、金色がほんの少しだけ、三日月の様にたわんだ。
「でもこの外套、仏壇臭い」
「白檀だよ、全く鼻が悪いねえ君は」
踵で軽く足を踏んでやった。天使から見えたのは、僕が人修羅を踏んでいる部分だけだろう。そう、それで良い。
此処は天使などお呼びでない、野蛮な世界のままで良いのさ。
-了-
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