捜す、とは云え簡単な事なのだ。
天主教会の者に、連れた子供を見せて追求すれば、身元が簡単に割れる。
晴海の閑静な住宅街、其処にこの子の家がある、と。
「やしろくんはお手てさむくないの?」
「…大丈夫だよ」
「いっこ貸してあげるね!よいしょよいしょ」
紐で繋がれた手袋、その片方を人修羅の右手に無理矢理嵌めようとしている。
大きさの問題も有るが、子供にはその様な事は無関係らしい。
指先だけ挿入して、困惑しつつ子供を見下ろす人修羅。
子供との間に揺れる赤い糸が、何故か我の心に突き刺さる。
「左が寒いままでは、均等が取れぬだろうて」
己の右手で人修羅の左手を握り、外套の衣嚢へと迎え入れる。
「な…何子供に対抗してるんですか雷堂さん」
「違う、陰陽も均衡が大事であろう、そういう事だ」
口早に返せば、下からも嘲笑される。
『お前の手袋を人修羅に着せれば一発で解消するだろうが』
「いやしかしだな業斗、折角の児童の気遣いを無にしては不味いのではなかろうか」
師との喋りに一瞬子供が気になったが、猫と会話したい疼き心を必死に耐えている様子だ。
その懸命さに業斗が気付かぬうちに、話を進める。
「泣いた迷子を親元に差し出すのは、気が引けるでな」
『それで襲撃されてみろ、右手は塞がったままだぞ』
「矢代君の左手は護れる」
『再生する化け物の手なぞ護る必要は無い』
ぎゅ、と右手で人修羅の手を握り締める。
(大丈夫だ、我はその様な事、思ってはおらぬ)
口に出さずとも伝わったろうか、そう、いつだって君を慕い、共に在りたい。
間違いなんかでは無いと。
「ねえおとうさん」
「違うだろう、正しく呼ぶまで返事せぬ」
「へんじしてるじゃん、らいどうくん」
訂正させると、業斗が訝しげに髭を揺らす。
迷子を家に送り届ける、という話で説明してあるのだが…他人を親と呼んでしまうなど、幼子にはままある事よ。
特に追求されぬまま、通りを過ぎる。
「あー!おかあさんいた〜」
子供が手袋を嵌めた手で指す、その方向を見やると、アールデコの建造物の影。
雪の中だというのに、あまり厚着をしていない女性を取り囲む黒い数名。
「おかあさ〜ん!」
「あっ、ねえこれ、君――」
子供が駆け出すと、人修羅の指先に引っ掛かり手袋が置き去られる。
人修羅は自身の右手と、行ってしまった子供を交互に見て、更に続けて我に視線を向けた。
「見つかったみたいですけど、ちょっとコレ渡してきます」
「待て」
人修羅の手を握り直す、それをするりと腰から滑らせ、背後に隠す様にした。
外套の影に君を隠す様にして、さくりさくりと、雪が捌けられた石畳を進んだ。
「誰かと思えば、十四代目」
雷堂様、若様、と、口々に振り返る。
遠くからでも感じた、サマナーのMAGの気配。
母親らしき女性と、子供を囲んだままの群れに、穏やかな笑みは無い。
「…カラスが雁首揃えて、何をしているのだ、悪目立ちするであろう」
「これはこれは、わざわざ悪魔の子供を連れて来て下さったのですか」
黒い着物にインバネスコートの集団。ヤタガラスのサマナーだ。
「悪魔の子…?」
「この女性、人間と偽っていた悪魔に御座います。実は以前より情報だけは入っておりまして」
「悪魔だと……?子供に悪魔たる気配は無かったが」
縮こまり、子供を抱き締める女性。擬態は遜色ない、技芸に秀でた属だろうか。
「悪い事、何もしてないわ…お願いだから、この子は連れて行かないで」
サマナー達が、黒い囲いをしている様な圧迫感。
幼き頃、遠くから見つめた近所の子供達がしていた遊びに似ている。
かごめかごめ、とかいうやつだ。
「その子供に何を植え付けている事やら…契約外の悪魔の云う事は話半分で聞くべきでしてな」
「拾い子だからこの子は間違いなく人間です。普通の子と同じに育ててきました、教会に通って、愛情も注いだつもりです!」
「子供にとって、だんだんと不一致が生じるのですよ、視える子供は普通には生きられませぬでな」
この問答である。
背後に握った人修羅の手が、強く我の指を掴んでいた。
「ねえ…おかあさん、泣かないで、おとうさんつれてきたから」
子供の声に、顔を上げる母親。悪魔らしく涙は無い、しかし潤む赤い眼。
「おとうさん…?」
「天使様呼んで、きっと助けてくれるよ!」
やめてくれ。
この状況で、我にどうしろと云うのだ。
人と違うモノが視えてしまう幼子は、健全に育つのは難しい。
育ての親が悪魔だとすれば、それこそ…本能が勝った瞬間、何か起こり得る。
『おい、雷堂、しっかり指揮を執らんか』
業斗の叱咤に、周囲のサマナーが畏まる。
我より言葉に威厳がある貴方がしてくれたなら、いっそ楽になれるのに。
“明…っ”
泣いている小母様の顔と、あの母親の顔が重なる気がしてならぬ。
どうして、あの時、あの家を離れる選択をしたのか。
「天使は…呼べぬ」
ただ呟いて、しかし無理矢理引き離す事も厭われる。
あの頃、サマナーという路を選ぶ事の、真の意味を知らなかった。
この子供にも、きっと深い説明なぞしないのだろう。
母親の為と云い聞かせ、機関に勧誘し…その悪魔の母とは二度と会えぬのだ。
人間に擬態する母と、悪魔使役の術を叩き込む機関。
悪魔に近くさせるのは、果たしてどちらだ?
「…定期的に観察する様にすれば良かろうて。人に害を及ぼす存在は実際、悪魔より人に多い」
『ハッ!お前…帝都人に犯罪者が多いと同義に聞こえるぞ』
「嘘は吐かぬ。なあ業斗よ…子供の判断に委ねる、それでは駄目か。引き離す必要は無い、まだ若手は要らぬ、我が当分尽くす」
『俺に聞くな、周囲のカラスに頷かせてみろ』
不安げな子供は、白い息を吐いて我を見上げていた。
祈る様な眼。
「雷堂様、視える者は稀少と御存知でしょうに」
「悪魔の育てる人間は、帝都に歪な軋みを生じさせる筈。親が悪魔なら、心も悪魔の何かが芽生えるものです」
我の賛同者は、居らぬ。
やはり此処でも馴染めない、独りなのだ。
「ほら、この母親の擬態を解いてみせれば如何だ?子供も何に自分が育てられていたか、知れて愕然とするだろうさ」
蹲る母親の束ねた髪を、ぐ、と引っ掴むカラスの一人。
怯えた赤い眼が一瞬光る、あれは、憎しみだ。
己の幸せを阻む相手を威嚇する、刺す様な心。
(変わらぬ…)
その眼を幾度向けられた事か。
身内を排除された人間達から、平和の為と称され殺される穏やかな悪魔達から。
普段、牙を見せぬ者達の見せる、魂の揺らめき。
これ以上、見たくないのだ。だが、如何すれば良いのか、もうずっと分からぬ。
「やめてよおっ!」
母を嬲るカラスの手に、手袋も無い小さな素手で掴み掛かる子供。
ああ、もう、仕方の無い事なのか。
いざなれば、この子供を我がしっかり看れば良い。
そうして、この子の親を、我が管に入れれば…始末される心配も無いであろう。
(親子、いつか逢えるならそれで…良いではないか、ましというもの)
脳内で、勝手に決まる。この場を切り抜ける理由を、間違っていないと心に云い聞かせ。
「貴殿、乱暴にするな…我が」
一歩踏み出し、子供をあしらうカラスを制さんと、塞がっていた右手を名残惜しいが解く。
ふっ、と瞬間、我が右手を差し出すより早く、影が外套を揺らす。
「うぐあっ」
一瞬の悲鳴。雪塵がぶわりと舞い、向こう側の垣根にぶつかり止った。
その衝撃で落ちる葉雪を被っていたのは、子供を振り払ったカラス。
一同が唖然とする中、殴りつけた腕をす、と引いた人修羅が振り返る。
「嘘吐きですね」
「や…矢代君!何をしているのだ!!」
傍に駆け寄り、見下ろす。くっきりとした黒い斑紋は、背景の雪白で更に目立つ。
「だって、雷堂さんのMAGが訴えてた、俺の…左手に」
滲んでいたのか、繋いだ君の手に。嬉しく思い、しかし哀しくもあり、脚が震えた。
そう、心と裏腹にしか述べれぬ我は、嘘吐きだ。
「君は立場を解っているのか!?いくらカラスの衆に素性が知れているとは云え、己で危うくして如何する!」
「悪魔は嫌いですけど、ああやって親から子供を無理矢理引き離す輩は、もっと嫌悪する」
周囲のサマナーが、既に召喚の気配を放っていた。
「雷堂さんの立場を危うくする事も、分かってます」
我の背中に手を回し、しゅるりと何かを抜いて往く。
その手を見れば、鞘袋の紐が握られている。
そういえば、子供の手前剥き出しも如何なものかと、大太刀は鞘袋に入れて背負っていた事を忘れていた。
「でも、俺は所詮こっちの存在じゃ無いですから」
寂しい事を、云わないでくれ。
「…矢代君は…勝手だ」
「嫌って頂いて構いません、俺は貴方の本心を云い訳にして、今から野蛮な事しますから」
先端に飾り房の付いた鞘袋の紐を、時折口に咥えつつ、器用にぐるりと腕に回して襷掛けする人修羅。
露わになる腕には光る斑紋、寒々しさよりも、何処か鋭さがある輝き。
部屋を清掃してくれた時の袴姿に近い。
「クリスマス過ぎたら、正月ですからね」
金色に光る眼は、確かに憎しみが混じる。
だが、それが総てでは、無い…そんな気がする、確かな熱を感じる。
「少し早いけど、掃除してやりたくなった、それだけです…!」
「待て!!」
サマナー達の召喚する黒い影は、全てヤタガラス。
跳躍する君を、我の指がかすめる。結局虚空を抱くに終わる。
無数の群れは黒いうねりを作り上げ君を囲む。
使役に負担の無いあの悪魔は、我でなくとも数匹従える事が出来るのだ、それが厄介な事になっている。
『手綱も握れぬなら、飼うな馬鹿め』
「……矢代君!」
業斗の声は、だが嗤っている。我が身動き出来ぬ事が、憐れで可笑しいのだろう。
激しい焔と疾風から、母子を庇うようにして、下がらせる。
街中での混戦は避けるべき、との教えの通り、通りの出口に向かって我も二体天使を飛ばす。
「天使様!!」
背後できゃっきゃと喜ぶ子供の声が、痛い。
ヤタガラスという機関の不祥を覆い隠す為に、人間を遮断するだけなのだ。
我の使役する天使は、万人を救う訳では無い。肝心な何かが、救えない。
「もう止めぬか!各自管に戻せ!」
「しかし雷堂様!この悪魔めはサマナーに手を出しましたぞ」
人間へ攻撃を仕掛けた悪魔は、処分の対象と成り得る。
いやだ、君がカラスに喰われるなぞ。
『もう二体召喚しているだろう、だがあの状態…お前が突っ込んだ所で、大太刀も振るえぬ』
業斗の云う通り、ヤタガラスと人修羅を引き離す術が無い。
と、人修羅の袴の裾を咥えた一体が、空に舞い上がった。
逆さ吊りのまま、高い位置まで攫われると、サマナーの怒号じみた命令が響く。
「落としてやれ!!」
「砕ければ再生も困難であろう、人間もどきめ!」
啄ばまれた人修羅、そこらが肉と共に裂けた藍の着物がたなびく。
あ、と思わず叫びそうになるが、彼の眼が一瞬光るのを見て息を呑む。
落下し始める人修羅は、近くのヤタガラスの嘴に手を突っ込み、空に留まった。
ぐじゅ、と赤い体液が、突っ込んだ腕と捲れた袖を染め上げる。
キイキイと痛々しい鳴き声で暴れるヤタガラスは、更にがむしゃらに羽ばたいた。
それを助けんと、他のヤタガラスがまた彼に集い、肉を啄ばむのだ。
嗚呼、君の金色の眼も、斑紋の輝きも遮られ、暗色渦巻く虚空を見上げるばかりの我は…弱い。
震える手を、ぐ、と握り締めて下ろせば、ふとした感触。
その存在に気付き、外套を払いホルスターへと指を伸ばした。
『止めておけ、その程度の鉛弾ではカラスを追い払えぬぞ。そもそもお前に銃撃の腕は期待しておらんわ』
「…オビシャ」
『何だ』
「多過ぎる太陽を落とす程度なら、我の技量でも不足は無い」
『何の話だ雷堂』
的が多ければ、狙うは容易い。
渡されたままのコルトを握り、天に翳して定める。
左手で眼帯をずらし熱い右眼で凝らせば、魔物が如し力が備わったか、あまりに澄んで視える。
黒い翼の羽ばたきすら、鮮明に捉えられる。これが君の眼なのか。
パン、と一発放った、黒い太陽が一つ落下する。
『何をしとるか雷堂!』
(我にとっての太陽は、ヤタガラスに非ず)
撃つだけ落ちて往く太陽。
唖然とするサマナー達の視線も痛くは無い、
ただ、我の心を護ってくれた君の事を護りたくて、撃ち続ける。
太陽一体を残し、人修羅が共に落ちて往く。
疾風と焔が高い空から飛来するは、まるで天変地異の前触れの様で。
(我の世界は、太陽も月も、君だけで構わぬのだ)
ぐちゃり、とヤタガラスを踏みつけ着地した人修羅が、煤けた羽を肩から掃う。
君の金色の眼と、我の金色の眼が、見えない何かで繋がって空に遊ぶ。
「ジビエにするには、少し汚くなっちゃいましたね」
ぼそりと呟いた人修羅が体液に濡れる頬を拭うと、赤が拡がって、雪国の稚児の様だった。
「まあ、悪魔なんて食べないですよね、それも烏とか」
嗚呼、君が掃ったのは機関の従属悪魔だと云うに。
「…矢代君、脚が汚れてしまう、早く降りるのだ」
乱心と思われても良い、説明なら後でも出来る。
人修羅の眼に力を得た様に、我は十四代目として、周囲のサマナーに号令していた。





サマナー達を業斗に任せ、半強制的に本部に帰す。
戦いの痕跡は、降り出した雪が隠す。
小ぢんまりとした白漆喰の家の前、葡萄蔦の柄をした鉄扉に寄りかかる子供が笑った。
「ありがとう、らいどうくん」
「いや、しかし引き伸ばせただけだ…すまぬ」
せめてこの聖夜、母と仲良く過ごして欲しい。
機関に聞き入れて貰えたのは、今宵のクリスマスだけでも多目に見てやる、という事だけだった。
結局、人修羅と共に機関の悪魔を殺傷した事が大きい。
だが猶予を与える事が出来たには違いない。
跪き、子供に小さく耳打ちした。
「良いか、明日迎えに行く機関の者は、我の擬態させた仲魔を一体含ませる」
きょとん、とする子供。
「明日、君の母を帝都から離れた所に住まわせるよう裏から手配する…機関では、君が人間から離れぬ様、我が面倒を看る」
「さびしい」
「しばし耐えろ。契約者も居らぬ、狩りもせぬ、その様な悪魔は普段弱い…つまり、君の母だ」
そっと頭を撫でてやる、あの頃の我よりも、少し背丈が低いか。
「母を護れる術と思い、機関で悪魔を学ぶと良い」
「………わかった、明日からよろしくね、らいどうくん」
子供なりに理解したのか、半分べそをかきながらも、こっくり頷いた。
嗚呼、良かった、あのまま放置していては、母親は駆逐されていた可能性が有る。
手荒だが、人修羅のお陰で意思を鮮明に出来たのだ。
「やしろくん、天使様じゃなかったんだ…」
幼い声に、人修羅の眼が少し強張る。
我の眼帯の下、共鳴する様に眼の奥が熱く感じる、涙が出そうだ。
「サンタさんだったんだ!」
「…は?」
「だって、お洋服赤いもん」
困惑気味の彼を見れば、ヤタガラスの血で確かに小袖も袴も赤い…
雪の湿度が鮮明な色を残させている所為か。帰り道は外套を着せてやらねば。
「それに、おかあさんと一緒のクリスマス、プレゼントしてくれたもんね」
“悪魔”と云われる彼を見たというのに。
この子供にとっては、全く別に感じられたのか。
「俺、そんな良い存在でも無いよ…」
「よろこぶ者と共によろこび 泣く者と共に泣きなさい、だよ」
「結局あんな形でしか発露出来ないんだ、悪魔嫌いなのにね」
「聖霊の親しき交わりが わたしたち一同と共に 世々限りなくありますように!」
諦観めいた君の声を遮る様に、鈴の様な声が鳴る。
屈託の無い笑顔に、凍った呼吸が溶かされる。
間違いでは無かった、と、その笑顔に赦される気がしたのだ。
「おかあさん、中で待ってるからそろそろ帰るね!メリークリスマス!」
手を振り返す、我は無宗教だが、温かい挨拶に感じた。
「…メリークリスマス」
恥じらいつつ返事する君の横顔に、薄っすら微笑みが有ったのを見て、我も共に喜んだ。
「清らな今宵、我が友に祝福あれ」
小さい背中を見送り、窓灯りの人影を見て、遠き日の己を重ね唱えた。






『眼の前の幸福ばかり求める、それが盲目という事だ』
業斗の声が、我の心臓まで一息に貫いた気がした。
『解るか?お前の抱く幸せの形と、あの子供の抱くソレは一致していたのかもしれん。だがな、母親もそうとは限らん』
「…真実は判らぬではないか」
『紅蓮の属だった様子だからな、あの母親…いや、悪魔』
それであの擬態、見事なり。子を護る為に磨かれた術だったのだろうか…
「三本松様に御報告は…」
『要らぬ、母子両名焼死、灰も確認した。MAGの少ない悪魔の残骸だ、それが小さき人間の遺体を抱いていれば奴等に違い無いだろう』
「何故…」
『お前も見たろう雷堂、あの母という悪魔の、疑う怯えた眼差しを』
憎しみ混じりの、他者を信用せぬ眼。
人間と悪魔の境界に揺れ動く者の眼。
『どうせ奪われるなら、と、聖夜に灰になって昇ったつもりなのだろうな。フン、勝手なのは人の親と確かに近いわ』
失笑して、師は欄干に飛び乗った。雪がぼたりと落ちる。
『人修羅にお咎めが無いのは、今回此方にも強制じみたところが有ったからだ。悪魔相手ならともかく、あれが帝都人相手ではやや不祥なり』
「承知している」
『しかし、責任をもって殺傷したヤタガラスは補充しておけよ、この辺なら確か――…』
業斗の声に半分放心して居れば、手元を尾で叩かれた。
『しゃんとしろ馬鹿が。悪魔と人間は所詮、対等では居れぬ、平穏に過ごす事なぞ不可能なのだ』
両脚を揃え、きちりと一礼してから、渡り廊下を歩む。
一刻も早く、自分の部屋に戻りたかった。
(間違っていたのか)
聖夜に焼身心中、嘘だろう?カソリックはそれでは天に逝けぬではないか。
子を奪うつもりは無かったのだ、もっと詳細を、母という悪魔に説明すれば良かったのか?
怯えきった耳に、まともには聞こえていなかったのだろうか。
既に心は決まっていて、外の言葉など意味を成さぬ…その状態は、昔ヤタガラスに連れて行かれた自身に近い。
「あ…」
自室の扉を開くと、屏風の向こうから声がした。
「俺、出て行きますか」
「いや、許しは得ている、此処に居て欲しい」
「あの子供、迎えに行かないんですか」
「…家が蛻の殻だった、きっと母が連れ発ち、人知れぬ遠くへと逃げたのだろう…」
何処へ往こうが、人間の眼は有る、ヤタガラスの眼も冴え渡っている。逃げなど意味を成さぬ。
最早これまでか、と、諦観した焔があの家ごと焼いた事実を、君にどう説明しろと。
「そうですか…まあ、親子で一緒に居る間は、変な事しないと思いますけどね」
ほつれた着物袖を繕い、我の机に向かう背中。針仕事で暇潰しする人修羅は、室内でも擬態をしている。
唐格子の窓の外、ひたすらに白い帝都が見える。遠く晴海に黒点が出来た事も、覆い隠す雪が降る。
「あれ、珍しいですね…もう寝るんですか」
「仮眠だ」
「でも寝着に着替えるなんて、雷堂さんにしては珍しい。俺の尻拭いで流石に疲れました?」
「君の肌ならば、いくらでも拭える」
率直な思いで返せば、云い出した張本人が頬を少し染め、視線を逸らした。
「君はあのライドウと違い、皮肉が墓穴を掘る」
「悪かったですね」
「其処がどこか可笑しく、少し可愛らしいのだ」
椅子をギイ、と啼かせて立ち上がる気配。きっと君の眉は顰められ、羞恥しているのだろう。
冷たい寝着に腕を通し終え、帯で結んで布団に寝そべる。
近寄った君は、我が簡単に掛けた外套と帽子を丁寧に掛け直し、薄く積もった雪を掃っていた。
「君の新しい袴を明日買おうか、着物の様に繕って済む損傷では無かった筈だ」
「俺は一文無しですが」
「御代は――」
「身体では絶対払いませんよ」
ぴしゃりと雪の様に払い除けられる。
解っている、潔癖な君が甘受する筈も無い。
「少し、寒い……」
暖房も無い部屋で、文句を云って君を困らせてみる。
部屋を暖める必要が無い程、此処では稀に過ごす程度だったから、最近気付いた。
独りにしては広すぎる本部の自室、とても寒いという事。
「隣に寝てくれぬか」
「そんな、子供じゃあるまいし…」
云いつつも、我が両眼を覆っていた頃、寝付くまで隣に居てくれた君を知っている。
溜息の後、掛けた布団が少し揺れる。
「…つむじ、逆なんですよね」
誰と比較しているのか理解しつつ、少し離れた君の温度を感じる。
いいや、正確に云えば、この距離に子供の様にはしゃいだ心の我が、勝手に昂ぶっているだけで。
クリスマスの贈り物を待ち望む子供の様に。
横目に君を見れば、背中を向けている。一方通行が寂しくて、我も背中を向けた。
人修羅は、悪魔よりも、人間よりも、近い様で遠い。
「説明を…受けていたが、我はヤタガラスに与する事を選んだ」
ぽつり、と零れ始めた、暖まり雪解けの様に、止められぬ。
「小父様も小母様も、我が留まっても良いと云ったであろう、だが、我はあの家から逃げたくなったのだ」
「…どうして」
「我が“視える”事が、あの人達を不幸に陥れるのではないか、と。いつか…見放されてしまうのでは、と」
眼帯の中の瞼まで、ぎゅう、と瞑った。あの日が視える。
「嫌われてしまう前に、姿を消したかった。いつか化け物と糾弾されるその前に――」
「俺は化け物ですか」
「違う!」
振り向くと、手を掴まれた。指先に、ぼんやりとした感触。
「返しそびれちゃいました」
布団の隙間から見える、赤い紐で一揃いが繋がれた小さな手袋。
「もしかしたら、何処かであの子供に会うかもしれないでしょう、雷堂さんが保管して下さいね、これ」
「…ああ」
「あのクリスマスシートも一緒にあげたらどうです?子供ってああいうの好きでしょう」
「…ああ」
また、机の引き出しで冷たく眠るのだろう。渡す相手はこの世に居らぬ。
「寒いなら…今だけ借りましょうか、これ」
紐からじんわりとMAGが伝わる。ただ流し合う。与え合う訳ですら無い。
血の循環の様に、奥底から巡る熱が、互いの眼を金色に輝かせた。
指先から赤い紐で繋がっている、その見目だけで、倒錯しそうだ。
女々しいか?そうだ、きっと女性悪魔よりも、我は女々しい。
「葛葉雷堂の十四代目として、歩んで来た…から、今君と居る。間違いで無かったと、思いたい」
間近から我を覗き込む君の眼、やはり美しい。
「…どうしても、悪魔と人間は、共に対等で在れぬのだろうか」
「俺はずっと悪魔で居るつもりじゃないですから」
「君の望みを叶えてあげたい、共に居る、しかしそれが本当に君の為なのかが、不安になる」
怖い、生きている事さえ不安で。
「あの時、家を離れたのは間違いだったのだろうか?小父様達の幸せを願って選んだつもりで、それは逆に辛い思いをさせていたのかもしれぬ」
「雷堂さん」
「帝都人の幸せを思い、何かを殺せば誰かが傷付く。誰かに喜ばれると、誰かから憎まれる。悪魔を仲魔と称しながら、消耗品が如く扱うサマナーの機関が此処に在る」
何をしても、裏腹だ。何をしても、間違いなのだ。
あの時、親子を引き離してしまった方が、子供だけでも救えたのでは無いか?
「雷堂さん…いつまでも起きてると、プレゼント貰えないですよ」
慟哭する我の肩まで、布団が引き上げられた。
「サンタの正体が気になって、一晩中狸寝入りしてたら、結局その晩来なかったんです」
「…貰いそびれたか?」
「いえ、寝不足で次の晩はぐっすりいっちゃいましたから、それで目が覚めたら枕元に置いてあった」
ふ、と笑えば、君の口許もやや綻んだ。
「では、先払いで頂けぬだろうか」
「え?」
「そうすればすぐに眠れる」
既に指先へと流して貰っているというに、我はまるで駄々っ子の様に甘えた。
あの頃、素直に甘える事にすら不安を感じていた分を、君で取り戻すかの様に。
「…俺、サンタじゃないんですが」
「では天使様の方で良いか」
「よくそういう事…子供でも無い口で云えますね」
「我は無信仰だが、天使は好きなのだ」
浄化された、赦された気持ちになれるから。
「これは、間違いだろうか?」
人修羅の唇を見つめる、冷たい糖蜜の様なMAGの薫りがする。
「…正解も間違いも、判らないです……俺は、悪魔の自分を間違っていると感じるから、この道を選んだ…それだけ、です」
「少しだけ、啜って良いだろうか」
溜息、そして羞恥の視線を逸らされた。
「勝手にして下さい…それ以上は拒みますけど」
「では、失礼する」
頬に手を添え、啜る甘さ、きっとMAGはあまり関係無い。
は、と息を零した君の仕草に、それ以上煽られぬ内に背を向けた。
「君があの時、カラスを蹴散らしてくれて…内心、嬉しかったのだ」
「……そんな事云って良いんですか、十四代目ですよね貴方」
「君にしか、云えない」
本当の心は、真白な雪に覆われて。
君の焔の溶かした所から、我の甘くて黒い自我が見え隠れする。
「今のは、クリスマスプレゼントですからね、いつもして良いだなんて訳じゃないですよ雷堂さん」
「毎日クリスマスなら良いというに」
「はぁ?子供みたいな事云わないで下さい、全く…」
呆れた声の後、手袋の指先が一瞬触れ合い――
「昨日見た子供の、笑った顔…あれ、あの子喜んでたって事ですよね」
離れる。
「もう、それで良いんじゃないですか?顛末はその瞬間無関係なんだ…その瞬間に幸せに出来たなら、間違いじゃない」
「刹那的だ」
「そういうものでしょう…短命な人間なら、特に」
どこか悪魔じみた君の、矛盾した存在が我を安堵させているのかもしれない。
憐れみこそが人徳、しかしそれがもたらすは、一瞬の幸福。生の路上に見る一瞬の邂逅。
全ての霊魂を救う術なぞ、神でさえ持ち合わせておらぬというに。一介のデビルサマナーに果たして出来ようか?
所詮…この程度なのだ。
「本当にサンタが居るならば…生涯全ての回数を消費して、君を人間にしてあげたいのに」
「またそういう妄想してる…先払いしたんですから、早く寝て下さい」
珍しい、本当にうっとりと睡魔が襲ってきた。
雪の音すら感じる程の静寂、だが、孤独では無い。今だけでも、そう思っていたい。
瞼を閉じる前に、君に挨拶をせねば。
君もこの後眠るだろう?君が夢に入る前に聞く最後の声が、我であって欲しい、いつも、いつでも。

「俺の…天使様、メリークリスマス」

我は寝呆けていただろうか、しかし偽り無く思ったままの挨拶だ。
間違って…ない。


路上の霊魂・了

↓↓↓あとがき↓↓↓

とんでもなく遅くなりまして、申し訳御座いませんでした…
久々の雷堂(明)で、この話の時期というのは徒花で云うと『淡雪』の後辺りのイメージです。
徒花本編で過ごした短期間を書いてなかったので、少しばかりと思い。
良かれと思い、珍しく我を通した雷堂でしたが、それが決して幸福の形に結びつく訳では無く…
ライドウ(夜)と違って雷堂は、常に自信が無い。不安に突き動かされている。

タイトル『路上の霊魂』は松竹キネマ研究所の第1回作品(大正10年)から。
古いですが日本が舞台のクリスマスのお話です。サイレント映画、暗い内容です。


《複十字シール》
雷堂が説明した通り。しかし作中で扱っているのは自然療養社発行のものであって、後に発行された白十字会の物とは違う。絵柄が愛らしい物が多い。

《ジビエ》
狩猟によって捕獲された食用の鳥獣。銃弾などで可食部分が破損するので、撃つ場所は気を遣わねばならない。
因みに兎の事はリエーヴルと云う。家禽の場合はラパン。

《射日神話》
複数の太陽を射落とす神話の事。世界各地にこの類の神話は点在しているが、日本のオビシャ神事においては「三本足の烏(ヤタガラス)」の的を射る。
兎は神聖なモチーフとして日本ではよく見られる。正月の門出祝いは兎の雑煮を食す家庭も少なくなかった…らしいがやはりピンとこない。