徒花



銀色の月は、針で刻む。
生まれた時より、共に鼓動を止めぬそれ。
「人間の時間というのは、それこそ一瞬だね」
傍の堕天使が、懐中時計を見る僕を横目に呟いた。
「ぼくが君を見初めて、友好関係を結んだのも一瞬」
「友好関係?フン…よく云う」
「君の居る国を脅かすモノ、それは君にとっても脅威だった?」
「葛葉ライドウの十四代目として存在しているのだから、そう捉えた、それだけだ」
「成る程…」
翼を広げたその姿は、これから屠るであろう天使の姿と一致する。
だが、まるで否定するかの様に、堕天使は角を撫ぜた。
「では、君が“紺野 夜”として存在した事は一瞬にも足りぬ程、という事だね」
うっそりと微笑む元悪友に、一瞥くれてやる。
「ライドウを貫いて、僕を見る者なぞ皆無に等しい」
「なら、どうして天に乗り込むのかな?」
「一人くらいは作っておきたくてね、皆無というのも味気無い」
懐中時計の蓋を閉じる。
秒針の音は消える。
ライドウでは無く、僕が契約した悪魔。
悪魔と呼ぶには、あまりにも弱々しい混沌の君。
あまりにも愚かしい君を、首だけでも再びこの手に。
「ねぇ、ルイ、僕は嫉妬深いから」
「…」
「何処かの誰かみたく、ね」
「…クスッ」
誰も居ない謁見の間、昔の空気が一瞬過ぎる。
きっとこの堕天使、僕が依存する矛先を変えた事を、アマラ深界で察知したのだろう。
そう、お前との戯れこそ、一瞬だったよ。
「君の故郷、荒らしてきて良い?」
銀の月を、外套の衣嚢へ落とし込む。
訊ねつつ視線を送れば、深い青色が光った。
「あのお方に宜しく」
「遇えたらね」
このほつれた身体を鋭く戒める、黒革の装具。
黒の学生服の上から、魔界の技師が造りたもうた物を巻く。
「お似合いだよ」
堕天使の賞賛に、鼻で笑って返す。
「黒曜石の鏡に映る僕は、人間?」
天辺から、爪先まで、暗闇に包まれている。
ホルスターさえも、今は悪魔の革。
「ふ…脆弱な人間だからこそ、与えたのではないか…」
嘲る声で、堕天使が述べる。
鏡に映る僕の胸元に、その白い指が滑る。
「此処の鼓動を少しでも長引かせる様に」
左胸、管を伝って、溝から落ちる。
黙ってそれを見ていた。
「リリスの蛇から拝借した革をね、黒く煮詰まった秘薬でコートするのだよ」
「へぇ、そんなに大層な物を」
「勿論さ、夜」
黒い尖った爪が、滑り込んだ装具隙間から、心臓を指差した。
「簡単に野垂れ死ぬなんて、愉しくないだろう…?」
暗に、踊れと云っている。微笑む残酷な堕天使。
「天上の光は、きっと君には毒だからな…クス…クスクス……」
「この手袋は?」
「カタキラウワの鞣革」
「道理で、伸びが良い、艶やかだ」
伸ばした手袋の指先を、鏡に当てる。
きゅ、と鏡面と革が擦れて鳴った。
その隙間から見える僕は、薄い笑みを浮かべている。
破壊の徒。
此処に映るのは、存在するのは…
背後の堕天使と同じ、嫉妬に狂う浅ましい愚者。
十四代目葛葉ライドウとして、ではない。
夜として、略奪しに往く。
混沌の悪魔を駆る、もう一度この手に。
それが帝都どころか…人の世に何かを及ぼそうとも…
人なぞ、勝手に混沌に身を沈めているのだから。
でも、追い求める、その対象は人でもある。
そして、脆弱な僕も。
「ああ、カオス、だ」
僕の呟きに、背後の堕天使が笑った。







『貴方様はその溢るる気を以ってして、我等を奮い立たせて下されば良いのです』
今まで、意識もしなかった。
ただ天使が下りて来て、我に傅く、それだけだった。
「して、この天が崇める偉大な君主は?」
『あのお方は姿を曝さぬ』
『下賤なる亡者共の眼に触れさせる事は、あるまじき事』
『おい、そこまでは云っておらぬ』
『秩序すら解さぬ愚者は殲滅されるべき事』
白い羽とは少し違う、雑兵より格上の天使が傍に付く。
「貴殿等、名は?」
両端に目配せし訊ねれば、気の強い方から先に名乗る。
『メルキセデク、誓うは貴方様の剣となる事』
反対側、四つ羽の天使が続ける。
『イスラフィール、貴方様が気遣う必要は在らぬ』
双方共、管に入らずに我の命を聞く。
成る程、管の必要を無くすだけある。
確かに、我の命とMAGひと振るいで、この天使達は翼をはためかせる。
「何故に我が救世主なのだ?」
そのまま聞けば、メルキセデク。
『生まれながらに天上の気を纏っておられた、当然の事』
反対からイスラフィール。
『我々に豊穣をもたらす人間の存在を、欠いてはならぬ…』
「つまり、我は条件一致の丁度良い存在だった、という事か」
問えば、一瞬の間の後、同時に発される号令。
『『あのお方の寵愛なさるは人』』
そこから読み取れるのは、人間である事の重要性。
天使でも悪魔でも駄目、という事か。
ヤハウェ…か。
そんなにも、敵となったルシファーに人間をぶつけたいか。
ルシファーが憎んだ、人間を…
「我とて、此処に恩が有る訳でも何でも無い」
両の翼が強張る。白い大理石の如き回廊に、我の靴音だけが響いた。
「…しかし、人修羅が望んだのだ、魔界と対峙する事を」
与えられた、眼に痛い純白の外套。翻し振り返る。
黒点を赦さぬその極端な清廉さが、この天を表している。
統制された、輪を乱す存在の無い世界…
鳴海所長の云っていた、平等な?
「確かに、下界は我にとって、虚像だらけであった」
『メシア様、下界は既に半数の者が我々の支配下にあるとの事』
『いずれは此処が現に成りまする…いえ、成らねばならぬ』
帝都守護、どころではない。
我が刻み付けられていた運命は、もっと…
「我の敬愛するは、ヤハウェでは非ず」
息を呑む、対面の天使達。だが、それが我の心根だ。嘘は吐かぬ。
「人修羅が居る此処の力になろう、それだけだ」
首のロザリオが揺れた。
罪の証。我に天上の聖人を語る資格なぞ…無きに等しいのだから。
ならば、己の居場所は此処でもあるまい。
しかし…彼と居たい浅ましいこの欲望が、彼ごと此処に縛り付けてしまえと云う。
『門が開きました、いずれ下から来るとの事』
硬質な黒光りする羽で、メルキセデクが云う。
此処に来てから思う事は、天使といっても…
酷く無機質だ、という事だった。
(悪魔に分類される筈だが…)
これなら魔界のならず者共の方が、いくらか生物的だ。
その金属の様な肌と、見えぬ眼からは感情が読み取れぬ。
『メシア様の連れる配下が我等二体だけでは…最善ではあらぬ』
イスラフィールの呟きに、思う事を返した。
「いいや、そう慌てずとも…良いだろう」
『油断はなりませぬ』
「向こうから来るであろうデビルサマナーは…少数しか連れて来ない」
訝しげなメルキセデクが顎に手の先をあてがう。
きっと動かぬ視線は我を射抜いている。
『何故、その様な事…』
「彼に仕える悪魔が多い訳では無い」
管に居る仲魔を抜けば、向こう側の悪魔達が仕えるのはライドウでは無い…
此方に今居る、人修羅だ。
その…いずれ混沌の王たる彼を、躍起になって連れ戻しに来るか?大群で…
いいや、それならば今までルシファーが黙っている方がおかしい。
(人修羅の動きを見ている…)
まだ、様子を見ている、そういう策謀なのか、ただ愉しんでいるだけなのか。
「きっと、ルシファーは軍を寄越さぬ…数だけなら此方が圧倒すると思われる」
面を見合わせ、ゆるやかに頷くメルキセデクとイスラフィール。
メシアの甘言は納得のものに変化したろうか?彼等の中で。
だが、それすらも、我の記憶を軋ませる。
戦い方…仲魔や部下の執り方…この思考回路…
(業斗…)
あの方は、天上の者ではなかった。
ただ純粋に、我を育成したのだ、十四代目葛葉雷堂として。
(貴方の采配が、今生きるとは)
皮肉だった。
こうして、帝都を見下す位置から、その成果を揮う事になろうとは。
だが、それを嘆く事は、歩みを止めろという事になる。
「あ…」
ふと、天使達の向こうから、君の声が。
それだけで、我の思考は中断する。
面をつい、とずらし確認した後、天使が両端に割れる。
その隙間から見える、白い衣の半人半魔。
「明さん」
その呼び方に、思わず破顔する、馬鹿な己。
「矢代君、君は無理に出なくとも良いというに」
「別に、向こうに情ある訳でも無いんで…」
すたすた、と歩み寄る、その脚の斑紋。
それを確認した天使は皆、じっとそれを見つめるのだ。
思う「何か文句が有るのか?」と。
望まぬ悪魔にされた彼を、寧ろ慈愛の精神で向かえるべきであろう?
貴殿等の天主はそれを赦さぬのか?
「俺が出れば、手が出せない奴も居ますよ…きっと」
云いながら、密やかに笑む君。
その妖しく光る金色に、半分の魔を感じる。
「だから、明さん…俺を使って下さい、結んでないですけど」
「契約の儀、か?」
「なくても、俺の中の悪魔が貴方に仕えます」
片眼で交わされる、言葉。
「開いてみてくれ…」
我は云いながら、人修羅の右瞼に指をそっとかすめた。
指が離れると同時に、ゆっくりと開いていく瞼。
其処には艶やかに潤む金色があった。
再生したその宝石に、口元がたわむ。
「……では、その間は一心同体か?」
ぴくり、と震える睫。一瞬の怯えの後の返事。
「は、い」
きっと、また眼を差し出す光景を思い描いているのだろう。
「そうか…ふ、ふふ」
突如笑う我に、傍の天使達が無言なのは、思うところがあるからか。
白い外套から出る、華奢な脚が、たたりと躍る。
「あ、あのっ」
「少し見ようか、外を」
天使を無視して、人修羅の腕を掴み回廊を流れる。
そう、別に我は天使と戯れたいのでは無い。
その為にテンプルナイトと成った訳では無い。
回廊を抜け、開けた外部に出た。空は白んでいる。
「本当に空に在る訳では無いのに、天上とはな」
「此処が、ですか?」
「地階より繋がっている…見てきたか?下を」
柵に手を掛け、ちらりと下を見下ろす人修羅。
「でも、まあまあ高そうですけど」
「唯一なる神なぞ、我にとっては君だけだ」
そう発すれば、下を見ていた君の、柵を掴む手がぎゅっとなる。
「此処で、その発言は不味いんじゃないです…」
「ふ…冗談」
「に聞こえなかった」
遮られた、我の常套句。
今回ばかりは君も苦笑しておらなんだ。
その彷徨う意思…そこまで一心同体を望むのか、我は。
「我が成果を上げれば、君を人に還せるかもしれぬのだ…」
その顰めた眉の上、短めの黒髪に白手袋を梳かす。
「その為なら、神の傀儡になろう」
「あ…明さん…」
「我の救世主は君だからな…君の為に此処の救世主になろうと、思った」
初めて、生き方を選んだのだ。
そうやって、自分を現に留めてくれた君を護る事が…望み。
「愛する神の為の世界を創ろう…」
我の唯一信ずるは、君。
功刀矢代。
君の存在が尊ばれる、素晴らしい世界。
もし天使の世界となったならば、その時には君の背に翼を移植しようか。
君を上級の者とする、それが真実になる世界。
おぞましい選民思考。信じる心。
「ロウの人形…か」
我の呟きに、人修羅がまばたきをする。
「え?蝋人形?えっ?」
そんな反応を彼にされ、引き戻されたかの様に我から微笑みが零れた。
(云い得て妙なり)
そして、つられて君も首を捻りつつ、困った様に微笑む。
ああ、そう、それで良いのだ。
我の真意は、この純白の外套に隠して、微笑みを塗しておこう。
不味い素地を、砂糖で誤魔化すのだ。
君に食まれる為に、偽ろう、まだ、この先も芝居をしよう。
踊る舞台が変わっただけだ。纏う衣装が変わっただけだ。
死ぬまで踊ろう、君の為だけに。


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