「そんなに落ち込まないで下さいよ、珈琲が不味くなる」
向いの席でカップに口をつける人修羅。肌に紋様も無く、外出時の袴姿に戻っている。そうしていると、年がら年中黒づくめの自分よりも大衆に馴染めている様に見えて、どこか寂しい。
「……君は元々、珈琲が好きではないだろう」
「何拗ねてんですか、そのままじっとしてたら雷堂さんの分が冷めて不味くなりますよ」
拗ねているとな? いや全く持って反論の余地も無い。
我は無様にも取り乱し、まだ霧の晴れぬ中で発砲してしまったのだ。粉塵爆発というものはそうそう容易く起こるものでは無いが……運悪く引火したらしい。
「それにしても、よくあのライドウが見逃してくれたものだ。爆発も大したこと無かったようだな? 顔の傷がこれ以上増えるのは耐え難い」
「音は凄かったから、本当に心配しましたよ。ああ、でもあの人は大ウケしてましたけどね、気絶した雷堂さん指差して」
起きた時、既にライドウは居なかった。人修羅に揺さぶられ、業斗に呆れ顔にて見下ろされの目覚めだった。テンペストが抉っていった傷痕だけが、現実味を帯びていた。
「この際、我の事はいくら嗤ってくれても構わぬ。君があのまま攫われてしまうかと思い、我はもう本当に……」
感極まって、またぐっと言葉を呑み込んだ。窓の外から業斗に水を差されぬよう選んだ地階だったが、周りのテーブルに丁度客が少ない為、我の嗚咽が目立って死にたくなった。
「そろそろ出ましょうか」
「しかし、君との折角の喫茶店……」
「またいつでも来れるでしょう、此処が潰れなければ。そろそろ出ないと、また業斗さんがキレますよ」
「なあ矢代君、君が止めに来てくれて助かった。遅くなってしまったが、礼を云いたい」
ようやく切り出せて、自身安堵した。そろそろとカップのつるを指に引っ掛け、両手で包み込んだ。すっかり冷めている、今からミルクを入れても斑になるだけだろう。その白い斑に潜んだ手が、ぬらりと出やり人修羅を……
「雷堂さんの敵は、基本的には悪魔でしょう。絶対命令でも無いのに、人間斬る必要なんて無い」
生産性の無い妄想を、人修羅の声が打ち払ってくれた。嗚呼、本当にそのまま、その通りなのだ君よ。我はいくら機関からの命令であろうと、人を殺めるなど出来やしない。半分は人間だという君と戦った時も、気乗りはしなかったのだから。
「有難う、矢代君」
「まあ……俺も冷静でいられない時、挑発に乗りがちですから人の事云えませんけどね。それにしたって向こうの世界のライドウは喧嘩っ早いでしょう、あんなの相手にしない方が良いですよ」
「今回は偶然、互いの請けた依頼が喧嘩していただけだ。普段アカラナで会う彼は攻撃してくる事も無い、言動が少々奇抜だが実力は間違いない」
「そりゃ……襲ってきたらその辺の野良悪魔と同じじゃないですか」
「いつも出くわす時は、互いに一瞬警戒するぞ。カゲボウシではないか、更にまた別の世界の十四代目ではないか……など。いや、我のカゲボウシよりも断然、彼の方が強かったな、はは」
「何笑ってんですか。あのライドウと貴方は、たぶん五分五分って所でしょう? それにいくら強くたって、あんな振舞いしてればいつかは身を滅ぼしますよ。ああいう奴はいざって時に素直になれなくて、それがトドメになるんですよ」
まるでライドウの人となりをよく知るかの様に、饒舌な人修羅。
君が彼を語る言葉が胸に飛来すると、それが芽吹いて不安の花を咲かせる。その毒々しい花は音も無く茂り、心に濃い影を作ってしまう。毒々しいとは云ったが、とても綺麗な花なのだ。醸す気配が葛葉ライドウを思わせ、其処が一層憎らしい。
「あ……お前が云うなよって、今思ってませんでした? 妙に静かだった」
「いいや」
「雷堂さんに対しては、以前より素直なつもりですけどね、俺……拾ってくれたのが雷堂さんで良かったですよ。実力は鍛えてなんとかなりますけど、人格矯正の方が難しいでしょう。だから雷堂さんの方が将来性が有りますよ、あいつより」
もう堪らなかった、何かと比較される事には慣れていたつもりだが、その上で人修羅は我を推してくれたのだ。
意気地なしと罵られる覚悟でいたが、思えば「人を斬るべきでない」と、立ち向かう事を否定してくれたのだ。慈しみをここまで鮮明に味わった事があったろうか?
急ぎ足にて退店しようとし、会計台へと預けた刀を忘れ、更には本来の予定であった珈琲豆の購入を忘れそうになった。ベルを鳴らして街路に出れば、すぐさま業斗が我に怒鳴る。それを話半分で聞き流し……というよりは、おぼろげに相槌しながら銀楼閣へ到着した。空は夕暮れ、夕餉の匂いを遮断するかの様に扉を閉める。
人修羅が珈琲豆を瓶に詰め替えようとしていたので「すまぬが、それは後回しにしてくれないか。所長なら朝帰りだ、それまでに準備しておけば良い」と、返事も聞かずに手を引いた。
『野上の処遇、どうしたものか。謀反の兆しは有るものの、機関体制に間違いなく一石投じるであろう事を吐いていた。葛葉一門の身の振り方を、今一度考えた方が良いかもな……おい、聴いているのか雷堂』
「頼む業斗……明日にしてくれ、今の我は腑抜けに等しい」
『そんな事は今更だが、爆発とやらの衝撃で螺子が外れたか? おい人修羅、現場に転がっていたのを見なかったのか』
無茶な振りをする業斗に対し、人修羅は悪びれる様子も無く「見ませんでしたね」と返事した。
『はン、その腑抜けが寝惚けて階段から落ちぬよう見張っているが良い。今日の様な依頼の日は特に、寝つきが悪く目覚めも悪いからな』
自室の前まで来ると、黒猫だけが動きを止めた。我は扉を開け、人修羅を先に入れた。じっと睨み上げて来る業斗の眼を呆然と見下ろしていると、やっと言葉が浮かんで来た。
「向こうのライドウとは相克の様なもの、しようがあるまい」
『そうやっていつまでも云い訳している様では、今後相対した時が思いやられるな』
「しなければ良いだけの話だ、そもそも何が悲しゅうて同じ姿と戦わねばならんのだ……」
『その続きは人修羅に聴いてもらえ、じゃあな』
最近の師は実にあっさりとしている、我が人修羅を連れるようになってからだ。
我の欝々とした言葉を受け流す事に、きっと疲れていたのだろう。文句や叱咤で返してくれつつも、毎晩の様に反応をくれていた。我はそれだけで嬉しかった。涙を受ける板が、業斗から人修羅に変わった……そういう事なのだろう。
「すいません、俺うっかりしてて……畳むの忘れてました」
部屋に入り、後ろ手に扉を閉める。人修羅が敷布団をせっせと部屋の隅に積み上げていた。
「いいや、我が遅れて起床したから、君の流れを崩したのだろう。本来、後に起きた方がやるべきなのだ」
「すぐ出掛けるっていうから、俺も慌ててたみたいで」
「我はもっとゆっくりでも良かったのだが、業斗に 人命がかかっている、早くしろ とせっつかれたので、改めて依頼内容を確認した次第だ……それならば《急行セヨ》と伝達してくれたら良いものを、な。とりあえず装備を脱ぎたい」
既に愚痴っぽい事を自覚しつつ、襟を寛げた。脱いだ外套が後ろに持って往かれる、人修羅が衣紋掛けへと、丁寧に被せていた。
少し身軽になった我は銃を抜き、抽斗の中へしまう。続けて腰のベルトを外し、帯刀輪から抜かぬまま刀を壁へと立掛ける。本当は別々にすべきなのだが、手入れの際へと後回しだ。
「……そういえば、紺野って……あいつの苗字か何かですか」
「ああ、そういえば叫んだな。そうだ、我にもあの男にも、葛葉とは本来無縁の名前が有る」
「明さんが気絶してる間、紺野から水を向けられました」
「えっ」
「聴きたいですか」
「すぐに、というかその、犯されてはおるまいな!?」
背後で吹き出す人修羅に、少しだけ胸を撫で下ろした。どうやら心配していた事はされていないらしい。
「飛躍し過ぎでしょう、どうして俺が男にそんな事されるんですか」
「いいや君がそうは思っていてもだな……あの男は兎にも角にも好奇心で動く生き物で、葛葉の面子などと宣って自制をする様に見えるか?」
「紺野がそういう奴って事は理解しましたけど、俺とする必要性なんて皆無でしょう」
「嗚呼駄目だ、我の君に対する評価は客観性を持たぬ。確かに夜道を君が歩くより女性が歩く方が、襲われる確率は高いだろう。しかしそれは世間一般の持ちうる感覚であってだな……そうだ、強盗目的であれば話は違うだろう。やせ衰えツギハギの着物を着た女性と、恰幅は良いが動きの鈍そうな背広の男性ならば、襲われるは後者だ」
「紺野は強盗みたいなもんって事ですか」
「いや、何やらややこしくしてしまった……すまぬ」
「俺を人間に戻す気概が明さんには無いって、そう紺野から云われたんです」
ぎゅうっと胸を締め付けられる様な錯覚に、思わず息を吐いた。後ろから人修羅が「ホルスターも、もう外して良いんですよね」と訊ねてくる。我の苦しい息づかいが、気を遣わせたのかもしれない。
「我は……君を人に戻したい、それは……人として生まれたのだから、人として生涯を送って欲しいから……それが君の幸福の条件と知るからだ」
「デビルサマナーは他にも居る、って誘われましたけど……断っておきましたよ。あいつからは確かに、魔的な何かを感じましたけど……それだけの実力があって俺を人間に戻す手段が得られても、意図的に避けそうだから」
「そう、か」
「珍しい悪魔としてしか、俺の事認識してないですよ、多分」
両脇背後から回された手が、我の胸元を探る。彷徨う指が金具を捉え、かちゃかちゃと音を立てる。ホルスターのフロントを外し終えた人修羅が、そのままの腕でぎゅうと我を抱擁した。
「……云ったでしょう俺、明さんに対しては割と素直になってるって」
ああ、嗚呼……そうだ、我は喫茶店で会話している時から、一刻も早くこうしたかった。君の低めの体温を感じたくて、いくら膝で甘えても溜息ひとつで許して欲しくて、MAGとは違う気を確かめ合いたくて。
「素直でなくとも可愛い」
「何ですかその歯の浮く様な台詞は。でも明さんが云うと、ふざけて聴こえないから却って困りますよ……」
夕間暮れから夕暮れへと、緩やかに色を暗くしてゆく窓。薄く映り込んだ我々の姿がどことなく不埒で、思わず手を伸ばしカーテンを閉めた。と、唐突にその手を掴まれる。
「そういえば、掌見せて下さい明さん、火傷とかしてませんか? その……俺の火、殆ど出かけてたから」
背から前方に回って来た人修羅が、我の左手を扇の様に眺めている。じっと眺める眼がゆらゆらと金色を帯びる、擬態していても此処だけは揺らぎが見られる。なのでついつい、普段から見つめてしまう。
「気にする程でも無い、寧ろ急に制して申し訳なかった。さぞ苦しかったろうに」
「明さん止めたくせに、その俺が挑発に乗った訳ですから、そっちは怒っても良いくらいですよ……あ、ほらやっぱり、水膨れになってる」
「なに、ドゥンにじゃれつかれた時も似た様なものだ、翌日にはすっかり治って……ぁっ、何、矢代君」
妙な声をあげてしまった。我の掌を両手でやんわりと広げた人修羅が、水膨れをれろりと舐め始めたからだ。己の指の隙間から、眦を染める君と目が合ってしまい、ずくずくと躰に響いた。積極的でありながら痴態と自覚しているその仕草に、脳髄が融かされそうだ。
水膨れの薄い膨らみを確かめる様に舌先は撫で往き、次第に指の股へと場所を移す。窪みと節に溜まる唾液が、微かな音を立て互いを煽る。
「……明さん……さっきから、前、張ってたから」
「ぅ……そ、それはまさか、帰路の際、既に目視出来たのか?」
「外の時は、外套で隠れてました、けど」
ちゅぶ、と親指を咥え込まれ、堪らず黙ってしまった。指の腹をくすぐられながら、やんわりと股座に膝を入れられる。こりこりと局部を圧迫する膝は、絶妙な緩急で我を焦らす。大腿で袋を揺すり、膝の皿で幹を扱いて……ああ、其処が勃つは容易なれど、自身が立っているのはやっとの思いだ。
「うぅッ、あ、はぁっ……狙う箇所の趣味が、良いとは云えんな……」
少し責める様に問うてみれば、我の指をもう一本咥え込んだ人修羅が薄く微笑んだ。弓なりになる眼は金色を強め、滲むMAGも色濃くなるばかりで。云えばやはり憤慨するであろうから、心の中だけで「悪魔の様だ」と囁いた。
「っぷ、ぁ……はぁ……はっ……趣味悪いなら、もうしません」
「他の者に対しては、だ。我に対してならもう、いくらでも」
「現金ですね…………喫茶店で俺、スプーン落としたからって、テーブルの下に屈んだじゃないですか……あの時、明さんが凄く膨らませてたの、間近に見ちゃったんですからね」
「期待に胸を、か?」
「……ふ、ふはっ、流石に苦しいですよソレ」
絡み合いもつれる様に、畳に倒れ込んだ。あのまま布団を敷いておいても良かったな、と脳裏で思いつつ接吻し合った。ホルスターを完全に腕から脱がせて、身体が乗らぬ様に遠くに放った。冷たく光る管が、僅かな理性になんとなく突き刺さった。
「昨晩もしたのに、飽きないんですか」
「我の独り善がりなら、止めても構わないが」
「本当に止められるんですか?」
「嫌だ、矢代君」
「はいはい……ふふ、分かってますから泣きそうな顔しないで下さい」
嗚呼なんて優しい、まるで母の様な温かな声音で……
母の様な? そういえば我は、母の記憶なぞ……無い筈だが。お里の人間に育てて貰っただけで、その中に女性が居なかった訳では無いが、母と認識した事は無かった。では何と錯覚したのだ? まるで母親の大きな愛に包まれた、かつてを思い出した様なこの郷愁は……
「俺は明さんに逢えて良かったと思ってますよ……あんな酷い世界の中、人間ってだけでもとにかく救われたんです。行けども行けども砂漠ばかりだし、ボルテクスは本当に気が滅入りました」
「あ、ああ……そうだな、出逢いはやや殺伐としていたが、すぐに打ち解けて良かった」
いや、ボルテクス界が出逢いの場だったろうか? 砂漠の世界を思い出せはするのだが、君との記憶が無い。
「疼くでしょう明さん、最初に抜いてあげますね……」
いつの間にやら寛げられた我の下肢、ずるずると下されるスラックスに、きゅうきゅうと揉まれ解される褌。されるがままの我は、おしめを替えらている赤子になった心地だ。行為自体は、酷くかけ離れた俗的なものだが……その倒錯感が心を火炙りにして、血を滾らせる事は最近知った。
「うわ、恥ずかしいくらい勃ってる……ねえ明さん、しゃぶらせて下さい」
「も、もう好きにしてくれ……ああ、矢代君」
我の股座へ頭を垂れ、ずもりと咥えるその姿。直視するだけで達しそうになる予感から、我は明後日を眺めていた。だが、否応無しに快感は訪れ、深く導かれる程に腰が跳ねた。ああ、何故こんなにも気持ち好いのだろうか、気が狂いそうな程、ぬろりぬろりと坩堝に搾られる様なこの感覚。ああ、嗚呼おかしい……おかしい、ぞ、この感触、は。
「矢代君」
上体を起こした我は、人修羅の頭を両手でそっと挟み、ぐいと離させた。糸を引いたまま、我の雄からずるりと口を外した君は何処かうっとりしたままで。
恐る恐る……その唇へと口付け、舌を挿し入れた。ちゅくちゅくと咽喉にまで響く様な淫行にくらくらしながら、舌をねっとり這わせた。先刻得た感覚に間違いは無く、我の興奮はみるみるうちに焦燥へと変貌した。
「っぷはッ……はぁっ、はぁ、矢代君……君、歯はどうした」
「……は?」
「歯だ! 何故、何故唐突に消えるのだ!」
「はは」
歯抜けの君は喋る事も出来ずに笑い、そっと拳を突き出した。下へと開かれた手の内からは、バラバラと歯が零れ落ちて行った。
「あ、ああっあ……ぅ」
畳を毟り、後ずさる我に向かって「どうしたんですか、明さん」と言葉を発する人修羅。何故か白い歯列は再生しており、零れ落ちた歯も消えていた。
「何だ、どういう事だ、今のは」
「どうしたんですか、気持ち悪い? とりあえず横になって……布団一枚敷いた方が良いですかね」
気遣いの君が、積み上げた敷布団を一枚広げてくれた。
《矢代 矢代 矢代 矢代 矢代 矢代 矢代 矢代 》
布団一面びっしりと赤い文字が、呪文の様に繰り返し綴られていた。乾いた血の色をして、走り書きの様に。
「嫌だっ! こんなのは、あ、ああッ! 矢代君!」
先刻より我を蝕むは恐ろしい幻覚だと、人修羅に泣きついた。よしよしと抱きしめ、あやしてくれる君の手には黒い紋様が刻まれていた。良い、構わぬのだそれは、君は半魔の姿とて勇ましく美しいのだから。
「そんなに、眼を腫らすまで泣いて……明さん本当に泣き虫ですよね」
「……むかし、よく、業斗に云われた……」
「充血させちゃって……痛いでしょう? 今、取り替えてあげますからね」
微笑みながら片目を抉りだす人修羅を、必死に止めた。
「もういい、いいのだ矢代君! 我がいけなかったのだ! 君の片目が得られれば君を近くに感じると、駄々を捏ねて芝居を打ったのだ! この右目は元より義眼でっ……左は判然と見えている!」
最早、何の云い訳を叫んでいるのか自分でも分からぬ。ようやく手を止めた人修羅に安堵していれば、部屋の扉をがらりと開き、別の人修羅が入って来る。
「明さん! そいつは偽物です!」
増殖した人修羅にも戸惑うが、今抱きしめている彼が偽物だという事実が受け入れ難い。すると、侵入してきた方の人修羅が、我と彼を引き剥がす。弾かれた衝撃で、たった今まで抱擁していた人修羅の小袖が崩れた。
「そいつの背中を見て下さい!」
徐に起き上がる人修羅の肩から、完全にずり落ちる衿。隙間から見えたのは、無数の傷痕。
「そいつは擬態術で化けたライドウだ!」
糾弾する人修羅に上半身の着衣は無く。下肢にはひたりと密着する革製の、黒いスラックスを穿いている。
「ほ、本当なのか?」
「そんな、そっちが偽物だ! いきなり現れた奴の云う事信用するんですか明さんはっ!」
「いや、しかし」
袴の人修羅に手を差し伸べれば、スラックスの人修羅が怒鳴る。
「そいつを放置したら不味いんですよ明さん! 俺達の仲を引き裂こうとしてるんだ! もう一度近付いたら斬られますよ!」
ああ、嗚呼……どうしたら良いのだ。どちらも人修羅の形をしている、片方に傷は確認出来たが、ライドウたる確証が持てぬ。では人修羅が複数居るのはどう説明する? この際いっそ、矢代君の中身をしているのならば複数居ても……
「いきなり乱入してきやがって、あんたこそ偽物だっ」
乱れ着物の人修羅が、もう一人の人修羅に襲い掛かる。手首の捻りと肩の使い方からして、アイアンクロウを放つつもりだ。
「止めろ!」
既に体で止めるには距離が有った為、思わず刀に手が伸びた。鞘を割りつつ薙いだ一閃が、人修羅の背中を割く。悲鳴もあげずにべしゃりと畳に突っ伏した人修羅は、ぜえぜえと苦し気に喘いでいた。
「助かりました、有難うございます」
スラックスの人修羅が礼を云いながら、我の傍に歩み寄る。赤を滴らせる人修羅の背を見下ろせば、今度は鮮明な傷痕が幾重にも確認出来た。
「こいつが葛葉ライドウ……紺野夜ですよ、トドメを刺しておいた方が良いんじゃないですか」
「……いやしかし、どうして此処へ」
「だって明さん、本当はこいつの事消したかったんでしょう? 劣等感の塊の貴方が、こういうタイプの隣に居られる筈が無い。しかも同じ葛葉で平行世界の自分ときたら……周囲がしなくても、勝手に自分で比較し始めるから性質が悪い。もう夜を消すか、アカラナ回廊が不通になるか、完全に忘却するか……それしか道は無かったんですよね?」
「そんな……我はこれでも、紺野を尊敬出来る部分も有った。確かに、あの男に対する苦手意識は否定出来ないが……君が手元に居る今以上の幸福は無いのだ、己の劣等感くらい付き合ってゆける」
「どちらにせよ、俺が二人居たら困るのは明さんですよ。この偽物を殺しておかないと……」
柄を握る我の手の上から、そっと君に握られる。精神を掌握されているかの様な心地に、謎の畏怖と神聖ささえ感じ始めていた。
「怖いなら、一緒に振り下ろしてあげますから」
優しい声……横を向けば、いつもの君の微笑みが其処に在る。
だが、何処か矛盾を感じて、思わず訊ねてしまった。
「人を斬るな、という君の想いは……消えてしまったのだろうか」
「それもエゴでしたね。だって明さんが本当に消したい存在がヒトだった時、俺が止める理由や権利も基本的には無いですし。明さんの人生なんですから、もう自分で考えて良いんだ、罪じゃない」
「しかし……殺戮は罪そのもので」
「今も、そしてこれからも、半分背負ってあげるって云ってるんですよ……ほら」
ぎゅう、と掴まされる柄が鳴る。共に添えられた人修羅の手は、妖艶に光っていた。淡く碧いその光が、刀身をぼんやり輝かせている。刀の重みが減った気がする、いいや、二人で持つ以上に軽い……まるで羽衣の様に。
「……ふ、フフ……雷堂さん……貴方、擬態かどうかなんて、本当はどっちでも良いんでしょう」
血塗れの人修羅が、裂けた着物を払い除けつつ笑う。
「何を云うんだ……や……矢代、君」
「よく斬った相手を気安く呼べますね。どっちがどっちでも、性行為は続けたし、流されるままに斬っていた……違います?」
「だが君が、君があのままでは隣の矢代君を殺してしまいそうでっ」
「俺である必要なんて無いんでしょう……その時その度に、都合の良い俺の形をした生き物に縋っている……それだけだ」
「もう止めてくれ!」
「……怒って、ます?」
「違う!」
「ぁ、は……怒ってる、じゃ、ないですか……」
苦し気に笑うその顔を見ているだけで辛く、堪らず顔を背けた所を横の人修羅に接吻される。唇を甘噛みされ、舌が大胆に……それでいてどこか遠慮がちに侵入して、我の舌と一寸触れ合い去っていった。錆の様な匂いの後、舌の上で芳醇な味わいに昇華する。
「はぁっ、はぁ、今の、は」
「俺の血をあげました、強心剤の代わりにはなるでしょう」
歯の有無は別として……少し前にたっぷり味わった口内と、全く同じ感触だった。その興奮が後押ししてか、振り翳させられた刀を止める心よりも、問題を壊してしまいたいという攻撃的な衝動が勝る。
「そ……うだ、そうだな、我はあやつに謀られたのだ……愛し君の姿で、身体を繋げ……う、うぁあああぁっ!」
偽物だと己に云い聞かせ、二人で刀の柄を押した。共同作業の歓びに高揚する、共に酒樽を木槌で砕く様な錯覚だ。
幾度か斬りつけ、対象は薔薇色の内臓を見せながらひしゃげていった。飾り切りの果実の様に、瑞々しいまま喋らなくなった。
「明さん……これで俺達を邪魔する奴は居なくなりましたよ。俺と貴方を縛る足枷を壊せたんだ……ふ、ははっ」
隣の君は酷く嬉しそうにはにかみ、我に頬をすり寄せじゃれついた。
「はあっ、はぁ、こ、これで良かったのだろうか」
「何云ってるんですか、やらなきゃやられてたんだ。周りに何と云われようが、俺は貴方の味方ですよ、明さん」
刀から滴る血が、花弁の様に畳に弾けている。それは心の中に陰りを作る、不安の花に似ていた。百合の花の毒々しさと、白檀の馨しさを混ぜた様な……人の匂いとかけ離れた、冷たい芳香。
「本当、よくやりましたよ……ふ、フフ……」
我の手を優しく撫でていた人修羅の手から、じわりじわりと斑紋が消えてゆく。人の姿へ擬態し始めたのかと思ったが……覆い隠すというよりは、何かが剥がれ落ちていく様に感じる。「礼を云わないと」そう呟いた人修羅が、まるで脱皮するかの如く肢体を震わせた。不安の花がまるで床から聳える様に、目の前で哂っていた。
「クク……あははっ、よくやったよお前は本当、日向」
声も出なかった。我の手に爪を立て、せせら哂うは葛葉ライドウ。ばさりと漆黒の外套を片手で払い、毛繕いでもするかの様に頬の血を袖で拭っている。
つまり我は、また謀られたという事か? いいや、このばらばらになった人修羅が偽物というのは事実かもしれぬ。下手すれば、目の前のライドウも偽物の可能性が……ああ、これはそもそも現実なのだろうか?
「僕が悪魔召喚皇となるにはねえ、人修羅が必要だったよ確かに。でもね、いつかはこうして殺さねばならないから、それだけが重荷だったよ。コレが強大な力を宿せば、きっといつか反逆される。やられる前にやらねば……悪魔に喰い殺されるサマナーなぞ笑い話にもならぬからね」
「そんな、そんな事……分からぬではないか! 貴殿の疑心が勝手に矢代君を殺しただけだ!」
「契約を結んだ日からこうなる事は必然だった、人間へと還る為に人修羅が僕を殺そうとし……僕はそれを拒絶する。人修羅が人間を諦めようが、いつか自我を失う程に強大となれば僕のMAGを無尽蔵に吸い、魂を喰らうだろう。そうされる訳にはいかぬ、僕の思うままに、僕の死に方は僕が決める」
「思い上がるな! そんな事ならいっそ、我に……我に人修羅を託してくれたら!」
「フフ…… 我も欲しい などと云えば良かったのに」
柄を握り直したが、上から叩かれ一歩出遅れる。ブンと空を薙ぐだけに終わり、跳び退くライドウは文机にそのまま腰掛けた。行儀悪く脚を組み、積まれた教科書を手に取りはらはらと捲っている。
「云った所で、あげないけどね」
「何故、何故我に……殺させたぁッ……」
「だって、僕とて殺したくないもの。功刀の亡骸だって、くれてやるものか」
耳を疑った、いや受け止めたくなかった。悪逆非道のデビルサマナー、紺野であった欲しかったから。真意を悟る事は出来なくとも、その台詞だけで充分……彼の人修羅への想い入れが感ぜられ、吐き気がした。
「こんな生温い箱庭に、ずっと閉じ籠るつもりだったのかい? 駄目だ、許さぬ日向明。お前には僕の亡骸をくれてやったではないか」
「貴殿の……亡骸……」
「お前はこの僕として生きねばならぬのだ。肉体と魂が共存出来る道はそれひとつ。お前が本来のお前であろうとする程に、胸が軋むだろう? それでもお前は人修羅の傍に居る為、僕の躰を奪ったのだ……それくらいの報いは受けて当然だよ、ねえ?」
閉じた教科書と積まれた他の本を束にして、ライドウが窓からそれ等を投げ捨てた。
「勉学に逃げるなよ、教科書なぞ要らぬだろう? 甘えに還る所も養父母も僕には居らぬし、里での扱いも知れたものだ。それでも身体は羽の様に軽く、MAGを出し惜しむ癖も無かろう。お前のすべてを鈍くしていた自信の無さも、僕という仮初の器が払拭してくれる。破壊の手は得られたのだ、後は好きに使うが良いさ」
キイキイと揺れていた窓硝子を、大きく観音に開くライドウ。
「その手に誰かを抱こうとすれば、どうなるか分かっているよね? そんな事が許される器ではないのだよ……僕は」
ざあっと部屋に舞い込んでくる、大量の白。視界を埋め尽くす折り紙は、我にばたばたとぶつかっては花開く。見慣れた薬包紙、綴られた呪い……これは、式だ――……
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