芥子の花畑
怯える鏡映しの自分。
胸糞悪い。
昔、たった一度でも、自分がこんな姿を晒したと思うだけで…
凶悪な感情が、雷堂に跨ったその足下からぞわりと這い上がってくる。
「ねえ、あの本、読んだ?」
この男の部屋で叩き付けてきた本。
僕と君の繋がりを暗示する、あの記録。
「う、うぅぅうう」
ロザリオを咥えたまま、情けない声を上げて首を左右に振る雷堂。
「あ、そう」
なら、それはそれで構わない。
そっけなく返答して、顔を真上から合わせて見下ろす。
「ま、君にとっては禁断の書かも知れぬから、その方が良いかもね」
額の傷痕を、左頬から舌先で撫ぞりあげていく。
鼻筋を跨ぐ際に、じわりと汗の味がした。
「ふ、ふぐぅうううっ」
びくびくと腕を震わせている、たったこれだけで、何だこの男。
「古傷ならば痛くはないだろう?」
云えば、眉根を顰めて僕を睨んだ。
右頬の、垂直に奔る一閃を、切り開く様に舐めあげる。
間近に感じる金眼。
「またイービルアイを喰らっても問題だからね…」
眼帯の無くなったその右眼を見下ろしつつ
胸元に戻ったホルスターから管を取り、召喚する。
現れた姿に、背後で傍観する鳴海がぎょっとした声を上げる。
「ぇえ、まっさかそれ突っ込むの?」
「フフ、まさか、菊花が散りますよ」
ほら、やはりしっかり視えている、背後の男。
『サマナァ、一体どうして欲しいんぢゃ?此処は何処ぢゃ?』
傍の影を横目で見たか、雷堂が僕の下でもそもそと蠢いた。
それもその筈、どう見ても男根の悪魔。
マーラで無いとはいえ、この状況下において視覚から苛むであろうソレ。
「何?雷堂…マーラの方が馴染み深くて良かったか?」
「っぐ、ぐ、う」
「フフッ、御免ね…MAGの消費はコレの方が軽いからさぁ」
傍のミシャグジの首筋を、片手でするすると撫ぜ摩る。
「ミシャグジ、御勤め御苦労」
『サマナァ、此処は何処ぢゃ?』
「此処は貴方の神社だが?」
『はて?』
「僕からこの男に官位を譲るのでね、洗礼してやってくれ」
摩る手を、ごりゅ、と強めた。
『はぁはぁ、そうか、懐かしいのぉ』
「其処なる金の光が強過ぎて、神すら降りぬのだよ」
『それはイカン!遺憾!』
「貴方の精で清め封じてくれ給えよ…」
はっ、と察した雷堂が、いよいよロザリオを口先から放す。
「要らぬ!!」
顔を歪ませ、僕の手先を睨んだ。
馬鹿な奴、そうして吼える程に、捕食する側は猛るのに。
「知ってるかい?雷堂…雄を歓ばせる要点はねぇ…」
ミシャグジの筋に、爪の背でするすると掠める様に撫ぜてゆく。
「人間も悪魔も同じでねぇ…」
嫌悪感をありありと、その眼に浮かべる雷堂。
そんな風にしたら、余計に煽るだけだというのに。
「気味が悪い…っ、貴殿の嗜好が…っ」
震える声で云っても無駄だ、お前の方が余程変態じみているというのに。
『ふぉ…その金眼を塞げば良いのぢゃろ?』
血管の様な筋が浮き出てきたミシャグジ。
その浮いた脈を指の腹で押し潰す様に、ぐにゅにゅと擦る。
しわがれていた頭を照らつかせ、覇気を漲らせる雄悪魔。
『やはりサマナァの手淫は良いのぉ』
「それはどうも」
『流れる様で、そいでいて実に追い立てる、わぃ!』
「千摺りは隅田の川の渡し銛 竿を握いて川をアチコチ」
『随分俗っぽいのぅ、ふぉお、ゾクゾクするわぃ』
ピクン、としゃくりあげた感触。
機が熟したかと思い、宣言もせずに悪魔の頭を下げさせる。
「吐け」
ミシャグジの口が、雷堂の眼前に落ち込んでいく。
眼を一瞬見開き、すぐに瞑った雷堂。しかし無意味だ。
『ふぉ、おぉおおお、お、サマナァと同じ顔ぢゃないか』
びゅくびゅくと白い艶唾を垂らしながら、そう漏らす僕の悪魔。
「〜〜〜〜〜!!!!」
脚をバタバタと煩く跳ねさせる雷堂、だが声は無い。
口を開けば白い粘液が侵入する事を分かっているからだ。
「僕と同じ顔に吐き出せて満足?」
這いつくばるミシャグジを、ぐりゅ、と足蹴にする。
『洗礼したぞぃ』
「洗礼?何を云っている?」
『ほへぇ…』
「痴呆か?此処が何処かも分からぬのか?貴方は…」
掌を返せば、吐き出した所為もあり、萎れていくミシャグジ。
『サマナァ、ワシのMAGは…』
「老いぼれめ、さっさと管に帰れ、飯はもう済んでいるぞ」
『…ぢゃったか?』
「寝床がある内に帰り給え、ほら」
皮がぶにゃりとなるその悪魔を、足先で軽く蹴れば戻っていく。
ああ、惚けていて助かる。MAGの消費が抑えられる。
「で、どう?眼は開く?」
白くどろりとした粘膜が表面を覆う其処に問う。
きっと息が出来ていない。
ピクピクと脚が苦しげに彷徨っている。
「…尊厳を選び、窒息死でもしてみるかい?」
跨る脚が、ガッ、と床を叩く。
「その程度何でもないだろ?別に口に入る位…ねぇ」
床に縫いとめる刀が、ギチギチと雷堂の掌を抉る。
「胃がソレで満たされる訳でも無いだろう?」
あれは流石の僕もキツかった。
「……おい」
本当に、強情だな、この男。
ゆっくりと脚が力を失くしている。僕を跳ね上げる力すら無いか。
溜息を吐いて、覆いかぶさる。
耳にも垂れているから、きっと水中に漂う様な聴こえだろう。
それを念頭に置いて、本当に幽かな、小さな声で呼びかけてみた。
「…兄さん」
唇と思われる箇所に、舌を探らせる。
生臭い白濁を掻き分けて、真一文字に結ばれた壁にぶち当たった。
それを舌先で舐り、完全に合わせる。
ふ、と息を吐けば、僅かな隙間から送り込まれたか。
「ふ、は……」
微かに雷堂の声が漏れた。
そこを突いて、一気に息を吹き込む。
「はぁ!グ…ッ」
でも、唇は合わせたまま、栓は開けさせぬ。
挿し入れた舌を奥まで伸ばして、口内の上顎をべろりと撫ぜた。
ビクン、と身体が揺れる。
(こいつ、慣れていない…)
ずる、と舌を退き、唇を外してやった。
「っあ、あ!ああ!あ゛」
ぜえぜえと酸素を求めるその唇に、頬から伝う残滓がなだれ込んでいる。
「あ、ああ、ぶ、ぶぐぇッ」
横を向いてソレを吐き出そうと咽る雷堂。
顔だけでなく、胸元まで白が散っていた。
既に事後の様な姿。
「あは、そいつきっと自慰もしない奴だから」
背後で云いつつせせら笑う鳴海、が、賛同出来無い。
「…どうですかね」
人修羅と会ってから……この男にリビドーが芽生えた可能性がある。
それを思うと、苛立ちが背筋を刺す。
「潔癖な奴程、墜ち易い」
(そう、人修羅みたいな)
左手で、自身の下半身をする、と撫ぜた。
この、憎い自分の影を犯す為に勃てるのだ。
(この影を、アレと思えば勃つ?)
この、闘志の塊の影。
あの、覇気の無い少年。
この、拒絶しかしない影。
あの、触れれば跳ね除けつつも、縋ってくる身。
この、金の眼は僕を殺めようとした。
あの、金の眼は僕を絡め取る。
この、唇は僕をなだめつつ、糾弾する。名を憎しみに呼び立てる。
…あの、唇は、決して僕に微笑まぬが…憎悪に滾らせるが…
意味も無く、呼ぶ。
僕の名を。
「…」
眼元が白に覆われる雷堂の、その背中に腕を回して指で探った。
ざり、と皮膚に紗が入る感触。
自分の背中よりは少ないが、鋭利な傷痕。
「ねえ、これが爪痕?」
問うと、すぐ傍の雷堂の唇が、やんわりと弧を描いた。
ぞわり、と頬が熱くなる、頭に血が昇る。
(僕の背と同じ、荒地)
だが、違う。
決定的な違いが、其処にある。
僕の背は、九尾の鞭で裂かれている。
それをいつも、哂って受け入れている。
飽きるまで、繰り返される。
昔から変わらぬ。
消したくない、恨みの勲章。
(今…指先に感じるのは、何だ)
抱き締めると、合致する、左手と。
その爪先は、更に縋る様に抱き締めると流れる、沿って往く。
脳裏に鮮明に、左手が教える。
人修羅が、この男を如何なる形で抱き締め、縋ったのか。
(僕の背は…)
甦る、人修羅との交わり。
アレが手先を一瞬背に送れば、戸惑うように空に投げ出され、床を穿った。
僕を睨みつつ、床板かシーツを握り締めていた。
細められる眼。目尻に雫が滲んでも、僕を抱き締めない手。
アレは…人修羅は…
僕の背を避けていた?
「…何、笑ってるんだ、お前」
雷堂の、その背をギリ、と右手で穿つ。
「っぐ」
「何が…可笑しい」
「は…ぁ、っ…は…はっ…貴殿は……傷付けられるのが、嫌、だろう?」
「何?」
「我は、彼から与えられるならば、どの様な形でも良いのだ」
口だけでうっそりと微笑んだ雷堂が、僕を挑発する。
「背の爪も、謝罪の嗚咽も、背徳の喘ぎも全て味わった」
この
「貴殿が今更求められぬものを、我ならば手に入れる事が出来る…っ」
この男
「我の心を覗けば、彼しか居らぬだろうな…ふ、ふふ」
その花畑で、野垂れ死ね。
「へぇ、雷堂って変態だったんだねぇ〜…ちょっと意外だな」
背後から、ゆっくりと接近の気配。
やがて、僕に視線が刺さるのを感じた。
「で……異次元のライドウ君?どうしたの?」
動かぬ僕に業を煮やしたか、鳴海が声を掛けてくる…
跨ったままの僕は、ゆるゆると腕を離し、吐き捨てる。
「勃ちません、こいつ相手では」
何を云っている、今からこの男を犯すのだろう?
散々邪魔してきた、この憎い影を、汚す機会だろう。
どうして身体がその意思に従わぬ?
僕はどうした?
「あらら、ま、仕方無いよね…俺だって無理だし」
素っ気無い鳴海の返答に、更に萎える。
「どうします?悪魔にでも犯させましょうか?」
それか、半殺しにしようか?僕自ら。
紅蓮の属でも召喚しようか?
こいつの背を、焼け爛れさせようか?痕も消える程に。
「う〜ん…いいよ、とりあえずお疲れ、ライドウ君」
シャツの肩をポン、と叩かれる。その手を軽く払った。
馴れ馴れしい。
「あらら、君も案外潔癖なのかな?」
「…老烏の萎びたモノをしゃぶれる男ですよ、それは無い」
「君の方のカラスもアレだよねぇ」
煩い。
「雷堂はさ、結局のところ人修羅君が大事なんだねぇ」
雷堂の頭側に歩み寄り、その高い位置から雷堂を見下ろす鳴海。
白で霞んでいる雷堂には、その距離が掴めていないだろう。
「じゃあ、さ、俺と同じ目に遭えば?」
鳴海の声と同時に、遠くの扉が開かれる。
封じられていた筈の結界は、普通に解除された。
…予定調和、という事か。
視線の先、白き翼の羽ばたきが目映い天使の群れ。
其処に捕らわれるのは…
僕の悪魔。
「や」
雷堂の両掌を穿っていた刀を、両刀共引き抜く。
赤い血潮が舞う、その合間を掻い潜って跳ぶ。
人の良い笑顔で佇む鳴海の傍を通過して、その群れに突っ込む。
「矢代を放せ貴様等ぁあああああ」
放たれる疾風が、頬と肩を裂いた。
指がピクリと引き攣るが、気にせずその天使の額に突き立てる。
パクリと割れたそこから、噴出する体液を顔面に受ける。
その懐刀を軸にして、ぐい、と上空に舞った。
銀色の剣が左右から薙いでくるのを、刀ひと振りで受け流す。
落下しつつ胸の管を指に挟み、MAGを流した。
『羽毛布団でも作れそうねぇ!』
現れたアルラウネが、僕の指令を待たずに蔦を暴れさせた。
両端の牢獄の格子に絡め、蜘蛛の巣の様な薔薇園。
その網目をギシギシと踏み鳴らして、上へと駆け上がる。
素足が茨で切り裂かれて、血で滑る。
「それを放せ」
翼を絡め取られた天使が、妨害してくる。
その伸ばされる武器を弾き、腕を斬り削ぐ。
返ってくる血が、薔薇を更に色濃くする。
花弁と同時に舞う赤が、白いシャツを黒にしていく。
濡れそぼり乱れた前髪の隙間から、人修羅を担ぐ天使が見えた。
「放せ」
僕のだ
『堕天使には渡しませんよ』
違う
「僕のだ、と云っている」
天界のものでも、魔界のものでも無い。
『やれやれ、雷堂様と人修羅と、同時にお連れする予定だったのですが』
カマエル、という天使だ。
雷堂の仲魔の内で、比較的新参者、天界の密偵か。
(鳴海と共犯、雷堂は本当に何も知らぬのか)
そんな戯れ事に、僕の…
「手駒を取られては、癪なのでね」
茨の棘が、足裏にずぶり、と刺さる。
間合いを取る、確実な一閃を与える。
(僕は、雷堂の様なヘマはせぬ)
人修羅、まさか眠り続けるとは思わなかった、だから放置したのに。
『しかし、この人修羅…雷堂様と同じく、穢れぬ魂をお持ちで』
「…触るな」
『貴方が本来の使役者でしたか?その黒ずんだ魂の』
「それがどうした?使役するサマナーに条件なぞ無い」
『あまりに似合わない』
「フン、偽善者共の輪に入る程、僕も高慢では無い」
にじり寄る、すれば離れる。
(MAGの枯渇を狙うか…)
先に僕が枯渇するか。
人修羅もろとも、斬れば良いだろうか。
いや、盾にされると此方の一手が無駄になる虞がある。
アルラウネが背後に控える。僕の出方を見極めている。
睨み合う。
(功刀矢代、君が目覚めれば済む話だ)
この低血圧め。
いつもの様に僕が蹴り起こせば、ソファから転げ落ちるか?
いつもの様に…
(いつも?)
それが日常になっていたのか。
僕の、血塗りの道に、在り得ぬ筈の……
「矢代…」
抱えられ、揺れる相貌、その寝顔に甦る、人修羅としてでは無い…
君の…
「ぅ、あっ…く」
自由になった両手で、顔面を拭った。
白濁に赤が混じり、ぷるぷると垂れる粘性のソレに吐き気をもよおす。
「ほら、見ろよ雷堂」
上体を起こす我に、傍からの声。
ビクリと身体が竦み上がる。
「人修羅君、お前の仲魔が上に連れていってくれるってさ」
「な…んだ…と」
「お前が大人しくしてりゃあ…無事にお連れ下さるだろうよ」
気付けば、蜘蛛の巣の如く棘蔦が空間を覆っていた。
揺らめく影は、その巣に絡まり四肢を欠損した天使達。
「ウ、グッ…」
その壮絶な光景に、やはり胃が啼く。
胸元を押さえて、チラリと上空を見た。
見覚えのある天使が…彼を抱えて飛んでいた。
「や、矢代、君…っ」
対峙するライドウが、睨み合いの状態だ。
気が気でない。
どうすれば良い。
ライドウが、君を救い出すのか?
カマエルが、ライドウから君を護るのか?
見知らぬ天界へ、どうすれば君を連れて往かれずに済む?
傍の鳴海は、我の大事な君を攻撃せぬだろうか?
(あ、ああああ、ど、どうすれば)
開かれた学生服をぎゅ、と指先に掴む。
判断が、出来ぬ。
業斗も、居らぬ。
先刻背中を自慢した、あの瞬間の勇気が無い。
君を感じないと、力が揮えぬ。
「其処でさ、木偶みたいに見ていれば〜?」
微笑む鳴海が、我の両肩をがしり、と掴む。
向き直され、眼に焼き付けられる。
(何が我の敵なのだ?何が我の味方なのだ?)
動悸が、魂が泣き叫ぶ。
君しか…
君しか要らぬ
君しか、味方では無い
もう、何も信じられぬ
君しか真実では無い
(MAGの流動を感じる…)
我の肩を掴む、この人間から。
神経を研ぎ澄ませる。
業斗の教え通り、戦いにおいて何が重要かを、今一度己に問う。
デビルサマナーと悪魔を繋ぐのはMAG。
情では無い。
(後者は否定させて貰うぞ、業斗よ)
背後の人間から、MAGと一緒くたに滲む術を感じる。
呪いの一種か…遠隔する媒介者だろうか、この、鳴海が。
その脈は…空へと流れている。
(矢代君)
気を失っているのか、それとも…術か。
カマエルが、鳴海のMAGを吸っているのは、確実だ。
(もう、その事実だけで良いではないか)
業斗、貴方の教え通り、その根源を絶てば早いだろう。
なあ、そうであろう?
(制裁を)
我を、ただの人殺しにしたのは…この男ではないか…
我が、いくら好き人を、殺したとして…
それは赦されるのか?
(これは、制裁だ、ろう…)
震える、首をゆっくりと、振り向かせる。
ああ、あの術の原動力が、今ハッキリ解った。
「…鳴海、所長」
ああ、こんなにもしっかりと、貴方の眼を見た事があったろうか。
いいや…
これが、最初で、最後であろう。
開けれる様になった右の瞼を、ゆっくりと上げた…
ああ、眼球が熱い、焔の様だ。
純粋な、憎しみが揺らめく瞬間に、眼と眼を合わせれば、成る。
嗚呼、鳴海所長…
我は、ずっと尽力してきたのだ、これでも。
何をされても、黙ってきたのだ。
だが…もう終いだ。
「好き人に、逢わせてさし上げます…鳴海…さん」
閃光が、電流の如く煌いた。
我の肩に掛かっていた手が、崩れ落ちる。
ゆらり、と床に倒れ込む鳴海。
何故、その口元が微笑んだままなのだ。
「ぅ、はは」
零れる貴方の笑い。
「ははは、雷堂、それでこそ、お前だよ」
ばたり、と伏す。
「よ〜やく…完成……し、た」
声が、MAGの流動が、途絶えた。
その癖毛の髪が、倒れこんだ際に帽子で隠れた。
満足気に微笑む口元が、今でも我を嗤っている。
嗚呼…
殺した
自分の意思で
踵を返し、棘の巣を見た。
カマエルが慌てふためき、羽を散らしていた。
『な、雷堂様ッ!?』
我を遠くから見た瞬間、その腕から崩れ落ちた。
目覚めた人修羅の君が、天使の腕から零れた瞬間だった。
強かに蹴り飛ばされたカマエルが、先の蔦に引っ掛かる。
落下する君を追って、ライドウが巣を駆けた。
「矢代ッ」
隙間を縫って、巣から落ち往く君。
それを追って、ライドウが腕を伸ばすが、その指先は届いておらぬ。
必死に駆け寄って、天から降ってきた君を、赤い掌を翳して…
まるで、初雪を歓ぶ子供が如く
泣きそうな笑みが、止まらぬ。
嗚呼、君が、我の胸に。
「矢代君…っ」
どかり、と、しかし同じ年頃にしては軽い。
その体躯を抱き締める。
開かれた素肌の胸が触れ合って、心地好い。
「雷堂……さ、ん?」
嗚呼、先刻鳴海を射抜いたこの眼で、君を見つめる。
愛おしい、我の至上の楽園を、この眼に見てくれ給え。
「ふ、ふは…っ」
君以外、この世には敵しか居らぬ。
「ぁ、はは、矢代君、ああ、可笑しい、存外…容易かった、墜つるのは」
なあ、業斗よ、貴方も敵なのか?崩れた肉の黒猫よ。
嗚呼、もう笑いが止まらぬ。
「ら、雷堂さん、何、一体何が」
怯える寝起きの君を、ぎゅう、と抱擁する。
そういえば、この身…汚かったか、君が汚れてしまう。
だが、今は赦して欲しい。
甘えさせて欲しい。
「雷堂…」
上から降り注ぐ、憎しみの唄が聴こえぬ様。
「…うが…日向……」
横に抱き抱えた君の頬に、赤い雫がぽつりと落ちた。
ビクリと唇を戦慄かせて、ゆっくりと視線を上げる君。
嗚呼、見ずとも良いのに。
我だけを、真っ直ぐに見つめていて欲しいのに。
君の視線の先には、赤い脚で蔦の上に佇む…ライドウ。
その赤い脚から滴る雫に、君は震えたのだろうか。
「あ、ああ……」
見上げる君が、溜息を吐いた。
その吐息が、甘やかなのは、気のせいか。
「…っ」
突然に、我の首に腕を回してきた君。
一体、何に怯えている?
「雷堂、さ、ん」
「どうした?」
「酔い、そうだ、っ」
狂おしげな、君の声。
「矢代君…?」
「この、薫りに、身体が、あ、あ」
…そうか……
上から滴る美酒に、それ程酔わされそうか。
君にとっては、麻薬の様なもの、なのか…
「忘れさせてやろう」
君の頬を、舌先で拭う。眉を顰めて、困惑の君。
知っている、別に我を縋った理由が、違えている事位。
だが、それは関係無い。
「君の為に、全て捧げる、全てを」
呟いて、遠くに鳴海の死体を一瞥しつつ、微笑んだ。
「矢代君、生殺与奪の権利を、貰ってくれ」
デビルサマナーと、悪魔の立場を逆転しよう?
君の、元の主人と真逆の契約をしよう?
なあ、我を生かすも殺すも君次第なのだ。
「君の敵は全て掃討しよう、君が手を汚さぬ様」
「…」
「もう、いくらでも殺せる」
「……っ」
「矢代君、君が云うなら此処で自害だって出来る!」
そう、きっと何だって殺せるのだ!
己だって、例外では無い!
上からの、絶対零度の視線を感じながら、我は恍惚としていた。
もう、迷わない。上の影とは、違う。
「矢代君…君の中のMAGを、全て俺のMAGにしようか」
うっそりと微笑んだ。
我の鎖骨を十字架の冷たい鎖が撫ぞった。
「く、くくく…」
だが、上からの哂い声に、胸の中の君が竦む。
「くく、ぁあっはははははははは」
左手を額に添えて、その斑紋通る指の隙間から闇色の眼が覗く。
血に身体を染めたライドウが、我々を見下ろして、ただ、哂っていた。
「ははははっ、は、ッう、ぐ…ッが、はっ………はぁっ…はぁっ」
よろけ、吐血する貴殿を見上げて、確信する…
(勝てる)
嗚呼…花畑で、君と踊ろう、矢代。
我に笑顔が咲いた。
良かった、嗚呼、良かった。
君の心を苛む夜は、我が消そう。
君の痛覚を、消してあげよう、我の命を賭して。
芥子の花畑・了
↓↓↓あとがき↓↓↓
なんとライドウ勃ちませんでした(うわ)
あれ以上を望んでいた方、大変申し訳御座いません。
そして、いよいよ鳴海を殺した雷堂…
鳴海の云う「完成」は、各々で解釈して頂いて結構です。
実際はどうだか…とも思いますが、殺人者を公言する雷堂。
そして嫉妬しまくりのライドウ…
人修羅が久々に動けそうな次回。
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