黒い絵画



「痛…ッ!?」
衝撃、次の瞬間には、床に頬擦りしていた。
冷たいそれに、ただでさえ低い体温を奪われながら、見上げる。
「いつまで寝ているつもりだい」
降る声は、いつも冷淡であり、どこか愉しげだった。
それに胸中を沸々と滾らせて、俺は刃向かう。
「あんたのベッドじゃないだけマシだろ」
「ソファは君の寝所では無い」
鞘に納まる刀から滲む、血の薫り。
帰還すれば、影を重くしてくるデビルサマナー。
人間から離れていく。
「…あんた、ロクにベッド使ってないだろ」
「睡眠欲が薄いのでね」
薄く哂っているそいつ。
ソファに座りなおした俺に、指先を伸ばす。
「何処かの半端悪魔と違って、不要な筈の睡眠は取らぬのでね」
その指に怯え、睨みつ強張る。
が、その指は俺の髪をひと梳きしただけだった。
「な、っ」
「寝癖」
「…」
「ああ、この撥ねは元々か…ククッ、変な癖…」
「るさい、っ」
そのまま、離れていく指。
(あ…)
ボルテクスの、あのシーンの逆再生。
血の薫りが、記憶を呼び覚ます。
心臓が、勝手に走り出す。
泥の上、膝を抱えて、ただ震えていた……それは、誰だった?
(あ、ああ)
帰ってゆくその指先が、酷く、恐ろしい。
俺を傷付けるから。
俺を…拾い上げるから。
(待ってくれ)
髪から抜かれたその指が、暗闇に消えていく。
「お、い」
声を発しても、止まらない。
「ライドウ」
振り返りもしない、あんなに俺を甚振って、追い回した癖に。
なら、どう呼べば良い?
「夜!」
這い出す、泥山から、転げ落ちる。
絡みつく汚泥は、俺の砕いてきた命。
悪魔の証。
「待て、待てよ夜っ」
見えなくなる、元から黒いあんたが闇に紛れたら、見失う。
更に転げ落ちて、地面を突き抜けた。



がくん、と落ちる感覚。
「!?」
覚醒すると、身体はふわりと浮いていた。
傍に見えるのは、天使の羽と思わしき白。
状況が飲み込めぬまま、視線を配す。
(カマエル…!)
この天使が今、敵か味方か、とかはどうでも良かった。
ただ、抱えられる俺に記憶が無いのが重要だ。
勝手にこの身を拝借された、その事実がまず腹立たしい。
腰に回された腕を掴み返し、そこを軸にして脚を思い切り振りかぶる。
『なっ!』
甲冑に膝が入り、バランスを崩したカマエルの弛んだ腕から這い出た。
その肩に片脚の爪先を掛け、空いた脚で背面から打ち込んだ。
吹っ飛んでいくその天使、白い羽が幾つか舞う中、俺も重力に従って墜落する。
棘の隙間を掻い潜り、遠い地面に向かって突き進む。
この身体なら、何という事も無い高低差だった。
そう瞬時に感じ取る自分が嫌だ。

「矢代ッ」

その先刻、眼が合った。
俺の名前を呼んで、指を伸ばしていた。
あの夢の、続きかと錯覚した…
(あ、ああ、あああ…)
今、俺を抱き留めているのは、同じ顔をしたデビルサマナーだ。
だが、上から降り注ぐ赤い雨は、俺の身体にするりと浸透していく。
(なんで、俺を拾う)
どうして、駒だと云いながら…
そんな眼で、呼ぶ。
だって、あの男は、こんな風に…抱き抱えては、くれないだろ。
人間に縋る俺を、いつも哂っているだろ。
本当に、利害の一致で、共犯していた…だけ、だろう?
「雷堂さん」
外界から遮断したくて、わざと雷堂に腕をまわして。
上から滴る懐かしい魔力を無視して。
ただ、あの位置に還るのが、怖くて。

「雷堂さん、俺、上に往きます!」

伸ばされた手を、今度は取らなかった。
その先を見たく無かったから。






「おいおい、随分と手酷くやられたものだねぇ…」
「…」
「ブエル」
傍の堕天使が一声発すれば、ビクリと大柄な悪魔が揺れる。
『へ、へェ!』
「診てやっておくれ…特に足裏」
『閣下の御命令とあらァ!』
いつもは横柄なブエルが、それなりに畏まって返答している。
「ライドウ、我々も嫌われたものだねぇ」
「…そうですね」
「はっきりと云ったのだろう?上へ往く、と」
「ええ、読唇で読み取る限りは」
「天上のメシア、か…ふふ、まさか人修羅を盗られるとは思わなかった」
笑う堕天使、だが、その空気は冷ややかだ。
きっと、人修羅を上へ渡してしまった僕を八つ裂きにしたいのだろう。
「しくじったね、ライドウ」
簡素な診察台に横たえられた僕の左手を、するりと撫でた。
微笑む天使、お前も本来上の者だろうが。
「この手で、彼を甚振る事は出来た?」
「いいえ」
「おや?ではただの鍵にしかならなかったか?」
「結果的にはそうですね」
「愛玩にしか使わなかったかい?ふふ…」
斑紋の通る指に、その白い指を絡ませてくる。
『おいサマナー!炙るけど悲鳴とか上げんなョ!うっせ〜から』
脚の方からブエルの濁り声が聞こえてきた。
ほぼ同時に、反射で脚が跳ねる。
灼熱の海を歩くかの様な、そんな感覚に陥る。
「ブエルの治療は多少荒いが、的確だ」
「存じておりますよ」
「ま、君は痛みには強いから、大丈夫だよね…ライドウ?」
絡む指が、そっと一本摘まみ上げる。
「ねぇ…?」
そのまま、ぐぐ、と指が反らされていく。
関節の曲がる方向と逆に、ぎしぎしと捻り上げられて。
そのルシファーの指つきに、私怨を感じる。
曲げられていく斑紋の指に、胸がざわついた。
「ルシファー閣下」
僕の声に、ピタリ、と堕天使の指が静止する。
止めて欲しい、と僕が云い出すのか…それを期待する好奇の眼。
僕は右手を上げ、ひらひらと掌を扇いだ。
「手折るなら、此方にして頂きたい」
そう発すれば、一呼吸置いて、クスクスと嗤う堕天使。
「分かった…分かったから、夜、そう怖い顔をするな…」
そう云い、上げた方の手に、指を伸ばしてきた。
一瞬の痛み。
小枝がぱきりと踏まれた時の音が、体内で響いた。
『ちょ、閣下ァ!治療してっ傍からポキポキすんのは勘弁!』
炙り出した茨棘を、針で抜くブエルがぼやいた。
「ああ、すまないねぇブエル…さ、続けておくれ」
そう呟き、診察台から退くルシファー。
僕を見てクスリと嗤い、そのまま翼を悠然とはためかせつつ窓辺から飛び立った。
暗黒の空に浮かぶ輪の月。それに影が重なって、小さくなってゆく…
『そ〜んなに大事かョ、そのおてて!』
足裏をぐちゃぐちゃと掻き撫ぜるブエルに、天井を見つつ答える。
「所有物の一部だったのでね」
『おめェさ、んな事よくこの城で云えっな』
「事実だから」
折られずに済んだ左手を、天井に翳す。
『よく帰ってこれたな、この脚でよォ』
「上の軍勢に出られては、僕一人…流石に無理ですからね」
『ん〜な問題じゃなくてよ〜ォ』
謎の治癒術を施しているブエル、巻物と睨み合いつつ患部を撫ぞる。
ひんやりとした、ブフの応用術だろうか。
痛みによる熱が冷めていく。
『俺っちぁ正直、ヤシロ様は上に向いてると思うぜ』
突然の発言に、翳していた左手を握り拳に変えた。
『コッチのテキトー加減も、直情的な奴等の集まりも、嫌だろ〜さな』
「貴方からそんな発言がされると思わなかった」
『ルールに従ってりゃ安定が約束されるなら上向きだろぉがヨ』
「フフ…よくアレを理解しておいでで」
『げひゃ、潔癖で俺っちの治療も煙たがってたしよぉ?』
笑い飛ばしつつベロリと指に唾をつけ、その指先で患部をバチリと叩いた。
『っしゃ、終りだ終り』
「どうも」
『すぐは歩くなよ?俺っちの労力無駄にしたらマジ殺すヮ』
鼻息荒く棚に巻物を突っ込み、他の道具をガチャガチャと戻すブエル。
「人修羅がお嫌いで?」
『ん〜…別にぃ…嫌いだから上っぽいとか、ん〜なつもりで云ってんじゃねェし』
「意外だ…半分は人間だと、扱き下ろしていると思いましたから」
『伯爵みてぇに付き纏うのがウゼぇんだヨ』
その獣の鬣をばさりとなびかせ、僕を錆色の眼で見た。
『寧ろヨ、悪魔な時ァ悪魔だぜ?ヤシロ様よお』
「自分を棚に上げて悪魔を葬る時?」
『そ〜そ〜!容赦ね〜んだアレが!此処に運ばれてきた奴等ぐっちょぐちょでよォ』
そう、人修羅は向かってくる悪魔には容赦無い。
お前達とは違う、とでも云いたげな、その牙。
その鉄槌が、その身を悪魔たらしめているのに。
『すっげツンツンしてんの!だからそら反感買うわナ』
「しかし、それを見て信者は歓喜する、と」
『あの妙な冷たさが良いんだとよォ、ったく、イミフだヮ』
ブエルの声を聞きながら、左の甲に流れる斑紋を眺めていた。
魔力でその脈は流れるが、本物とは程遠かった。
夕闇の中、閃く蝶の翅みたいな輝きだった。
その蒼に滲む、紅。
斬りつける程に、嬲る程に、喘ぎと共に侵蝕していく。
人修羅の身体に流れる、彼の声音だと思う。
MAGを吹き込めば、吐息と共に身体を駆け巡っていた。
無表情な顔。
それに反して、あの悪魔の肢体は酷く感情豊かだった…
あの泥人形の山の上、うずくまるその背中。
誰かを呼んでいた。
きっと、誰でも良かったのだろう。
振り返って、僕を見た…その瞬間の金色。
孤独な君を拾い上げた、僕。
『つかお前ェまだ臭ェし!いい加減ポッケのブツを引っ張り出しやがれよォ?』
どかり、と傍の椅子に腰を下ろすブエルが僕の方を見た。
畳み置いた外套の衣嚢に、自由の利く左手を伸ばす。
滑り込ませ、冷たい輝きの月を手に取った。
途端、傍の悪魔からMAGが滲み出る。
僕の手にしている銀色の懐中時計に、獣の眼がぎょろりとなびく。
「これについて、何か御存知で?ブエル」
『んでお前ェ〜がそれ持ってんだぁ?…………って!!!!』
びくん、として、視線を時計から吊る鎖、指、腕と流れ僕の貌へ。
『…ァあ、デビルサマナーよぉ、お前ェ、ひょっとして捨て子か?』
「ええ、その通りで」
『その臭ェ時計、一緒に捨てられてたんだな?』
「まあ、紆余曲折経て僕の手元に戻った訳ですがね」
『…臭ェし、とりあえずもう仕舞ってくれや、鼻曲がんだよォ…』
僕はクスリと哂いつつ時計を外套の隙間に突っ込んだ。
あ〜とかう〜と唸りつつ、ブエルが牙を見せて呟く。
『お前ェの親、此処の魔具作ってた野郎だヮ、多分』
「その様子ですね」
あの本で見知った限りでは、マガタマを作った人間。
罪深い、自己の研究欲の為に人間という倫理を売った者。
『なんかムカつくと思ってたらよォ、お前ェあれだ、その窯の錬成師にそっくりだ』
「そっくり?」
『性格、そのなんつぅか偉そうなトコとかよ〜』
「それは失敬」
『でも、顔がなァ…母親似なのが、これまた俺っちをイライラさせんだヮ』
「へぇ、僕は母親似です?」
なんだ、僕が女装でもすれば母親と瓜二つだろうか?
見た事も無い、己を捨てし母親を僕に投影してみる。
『お前ェ顔ばっかキレイで、そのクセ性格はあの野郎だし、やべ〜イラッとくる』
「クス…僕の母に横恋慕でもしていたのです?」
問えば、大きな眼をしぱしぱとまばたかせ、叫んだ悪魔。
『ばっ、じゃね〜のォ!?んんな訳あっかよォ!人間のアマにぽわ〜んとか無ぇシ!』
ああ、なる程。
僕が誘惑でもすれば、この悪魔は墜ちるだろうか。
それとも、この性格が邪魔して、母とは重ならぬだろうか。
「御安心をブエル、僕は親に倣って貴方を翻弄はしませぬよ…」
上体を起こし、面と向かって続ける。
「貰った名も、魔具も、僕に云う…人間から離れよ、とね……其処に愛は無い」
『んだよそりャ』
「僕がこちらの軍勢に与しているのは、そう可笑しな話でも無い」
…雷堂とは、日向明とは違う。
太陽の名を冠し、望まれる気を宿して生まれた男よ。
持たされた魔具が、その威光を示している。
(僕は、翳りに生きるべきだったのだ)
そう、この僕だからこそ、人修羅を使役出来る。
雷堂、お前には、理解し得ない。
ボルテクスで差し伸べた手は、お前のものでは無い。
光の者は、僕等に寄るな。
「…失礼、そろそろ往きますよ」
『おい、そっちの指はど〜すんだョ』
「今は片手で充分ですので…後々道具で治しますよ」
『足の裏はぁ?歩けるわきゃね〜だろその状態でヨ』
「しっかりとガーゼに包んで頂けれた、問題無い」
台横に脚をぶらりと下ろし、靴を履く。
ずきり、と熱が奔ったが、立てぬ訳でも無い。
『…おい!待て!待っとけよお前ェ』
獣の様な、それでいてヒレの様な形状の腕で前方を塞がれた。
「何か?」
『ダチに運ばしてやっから、ちょい待チ』
先刻ルシファーの飛び立った窓際に行き、ブエルが妙な音を発した。
悪魔独特の、何の言葉にも属さぬ周波数だった。
ややあって、窓の外に人影がゆらりと見えた。
(フフ、此処は上の階だが?)
その影が悪魔である事を、瞬間的に認知させられる事実だった。
『…ブエル、どうしたの』
『あとチョイで完治だかっよ、城内移動は悪ィけど乗せてやってくれョ』
『…誰』
『ヤシロ様のデビルサマナー』
『クズノハライドウ…?』
ブエルの剛な体躯の隙間から、ちらりと見える悪魔。
白金色の真っ直ぐな長髪に、陶磁器の様な細身の肉体。
繊細な相貌で、こちらを見た。
『…怪我してるの?』
僕に向けた言葉なのか、定かでは無いが応える。
「しくじりましてね、ノコノコと帰還するに至った訳ですよ、フフ…」
すると、窓の傍からブエルが吼えた。
『自虐ってんじゃねえョ、マジうっせ〜気味悪ィ』
ブツブツとその後も垂れ流しつつ、装備を整えた僕の前に立った。
『そ〜ゆ〜のが手前の親父に似てんだョ』
伸ばされる獣の腕を、黙って受け入れる。
ぐわり、と視界が揺れて、横抱きにされた。
「どうも」
『治療の労力をパーにされたかねぇシ』
「この運搬の労力は?」
『知らね〜』
縦に長い窓辺、そこに待機する悪魔まで、のそのそと運ばれる。
『ブエル……クズノハライドウが、あの人に似てるから?』
そう呟いた悪魔に向かって、更にブエルが吼えた。
『セエレ!』
『…違うの…?』
『ちげ〜よ!イイからさっさと運べってんだョ』
あの人、とは、僕の母だろうか。
(なんだ、この城の従者達の方が、僕の親を知っているじゃないか)
可笑しくて、クッ、と哂いを零す。
僕を抱くブエルがケッ、と息巻いて窓辺に僕を下ろした。
眼前に広がるのは、暗黒の空と、黒馬に跨る悪魔。
その、美青年然とした姿に吊り合わぬ、刺々しいパーツの、皮の装飾品。
『…後ろ、乗っていいよ』
ずり、と馬の首に寄り、僕の席を開けた彼。
「では宜しく頼みますよ、セエレ」
云いつつ、移り乗ろうとして、背後を向いた。
「ブエル、僕の刀は」
『廊下側の窓から受け取れや、相変わらず臭っせえ金属使いやがってよォ』
「そう、有り難う御座いますね…」
クスリ、とこみ上げる哂いを抑える。
「感謝していますよ、ブエル」
窓の高さで高低差の無くなった、その獣の鼻面に唇を寄せた。
軽く接吻してやれば、そのぎょろりとした大きい黒眼が見開く。
『おイッ!!!!』
「フフ…さよなら」
するりと黒馬に乗り移る。
『ざけんなよ手前ェ!おいッ!聞いてんのかデビルサマナー!!おいこの!同じ顔で』
吼え続けるブエルを尻目に、黒馬の翼がひらりとはためいた。
前方のセーレがぼそぼそと呟く。
『ブエル、恥ずかしいと煩くなるから…もう行くね』
「ククッ、案外可愛いではないですか」
『好きな者には、弱いから』
「似てるのは顔だけですが、ね」
空を翔る馬は、意外と乗り心地が良い。
地を撥ね付ける反動が無い所為か。
「そちらの窓から武器を頂く」
『近道…していい?』
「運ばれる身ですから、拒否権は僕に無いでしょう?」
『…していいって受け取る』
ひらりとその前脚を上げ、翼で滑空する。
城の歪な構造は、隣の廊下の窓まで意外と遠いらしい。
『落ちないでね』
前方からの声の後、塔の屋根を駆け上っていく。
僕の外套がなびき、黒い馬の尾と同化する。
上から見下ろすケテルは、暗闇に霧がかかる、ひとつの絵画の様だった。
「ノイシュバンシュタイン城に似ている」
僕が呟けば、前に居るセエレがうっそりと返してきた。
『ヤシロ様の部屋窓からが…一番綺麗に見える』
「へえ、どうして御存知で?」
『ヤシロ様を同じ様に運んだから…』
廊下窓が開け放たれている。
其処に横付けし、腕を伸ばせば二振り、それに続いて銃が寄越される。
「有り難う」
指し伸ばす僕の左腕に、相手悪魔の腕がビクリと引き攣る。
手袋すらしていない、人修羅の手だ。
いくら主人を離れたパーツとはいえ、畏敬の対象なのだろう。
金属篭手の腕が、震えながら僕に武器を渡した。
『いい…?』
「ええ、離れて頂いて構わない」
『ブエルに云われた…クズノハライドウの荷物、ヤシロ様の部屋にあるって』
一見ベルフリトの様に感じるのだが、あの更に高い塔は人修羅の部屋がある。
きっと敵が攻め込んで来ようが、彼は気付きもせぬだろうが。
「戦いの準備ですか?」
下を見下ろせば、中庭に屯する悪魔達。
各々の武器を手に、そわそわと蠢いている。
『…天上界から、連れ戻す派』
「なる程」
『…もう少し、様子見ても、いい気がするんだけど…ボク……』
黒馬の鬣を撫ぜ、セエレが下を眺める。
『ヤシロ様、上が嫌になって、戻って来るよ』
その妙な確信に、問い質す。
「へぇ…何故そう感じるのです?」
『…だって…ボクも堕天したし……上の事、知ってるし』
「上は嫌だった?」
『……嫌というか…なんだろ……そうするしか無かったし』
前の悪魔の白金が、闇に舞う。霧を裂く黒馬の嘶き。
『ルシファー様がそうしたから…』
ただ、そう云う悪魔。
『別に、墜ちても構わなかったし、未練無いもん…』
「何がそうさせるのです?」
『…特別な、情愛?……ボク、ルシファー閣下が好きだし…』
悪魔が発するには浮ついたその思想。
せせら哂う僕に、駆け下りる流れがぶつかり帽子が飛びそうになる。
左の手で押さえれば、なびく白金の隙間から光る眼。
『…クズノハライドウは、ヤシロ様を使役する、危ない人間』
「フ、否定すべき点は皆無ですよ」
『ヤシロ様は、突然悪魔にされた、可哀想な人間』
「…」
『路頭に迷ったヤシロ様を、自分に向けさせたクズノハライドウは、非道?』
「疑問系ですね、僕が聞きたい位だと云うに」
『…ルシファー様が天主に抱く心も、ヤシロ様がクズノハライドウに使役されたのも、クズノハライドウがヤシロ様を使役するのも、同じ事なんだ…』
「嫉妬?諦観からくる依存?野望からくる独占欲?ですかね…」
『…………全部、共通して“失くしたもの”でしょ……』
黒天に輝く輪の月光が、少し振り向いているセエレの横顔を照らす。
『…天主の寵愛…人間…人修羅』
「僕は…」
『…あのね…失せものを当てるのは得意なんだけど…』
「人修羅を失くしてなぞ、いない」
『だけど、探し当てて持ってくるのは、無理なんだ…』
「天に勝手に往ったのは、貴方達の魔将だろう」
『だから、自分でしっかり取り戻してね…』
「云われずとも」
天辺、あの窓を外から開ける。
鍵は無い、上下に開くそれ。
「僕のものですからね」
此処の城主を差し置いて、高らかに述べて舞い降りる。
石造りの、その遊びの空間に腰掛けた。
『…クズノハライドウ』
「何か」
『……ヤシロ様には…内緒にして欲しいんだけど…』
黒馬の鬣を撫ぜるまま、その太い首にしな垂れたセエレ。
白っぽい眼元だけで哂った。
『あのさ…またこの窓辺で戯れてよ……ヤシロ様と…』
一瞬何の事か把握出来なかったが、この場所からの視点が記憶を呼び覚ます。
磔て、人修羅を犯した窓辺だった。
「クク、覗き見ですか」
『…空のお散歩…好きだから』
「一番高いので、見られないと思ったのですがねえ…」
『…“一番高いところで皆に見せ付けたかった”の間違い……』
そうぼそぼそ呟く姿に、思わず失笑する。
のんびりとしている割に、鋭い悪魔め。
『ヤシロ様、普段ボク達に見せない顔、してた』
「どの様な?」
知っていて、聞く、悪魔より性悪な僕。
『…怒ってる様な、でもいつもと違うの…』
ぶらりと素足を揺らして、視線だけで僕を見つめた。
『頬を紅潮させて、呻いて蕩けてる、とろんとしてる』
「あれでいて感度は良いので」
『時折叫んで、痛そうだけど…安堵してる』
「マゾヒスト?」
『…じゃなくて、なんか…縋ってる様に、泣いてるの』
縋る様な、金色の眼。
雫と憎悪に塗れた、うつろう視線が僕を射抜く。
その瞬間、奥底からいつもこみ上げていた感情…
支配欲…独占欲…情欲…
(それだけか?)
人修羅を…組み敷いて、犯す僕は非道だろう。
アレは元々、凡人に過ぎぬ…衆道の気も皆無だ。
嫌悪に眉を顰め、逃げようとする身体を掴む…
抱き締めて放さない。
すると、人修羅は戸惑うように泣く。
穿つ度に、啼く。
憎しみと悦びが混ざり合う。
孤独でなくなった、あのボルテクスの刻が甦る。
(いいや、孤独を恐れてなんか、いない)
共犯者が出来た事に、戦慄いていただけだ。
使役という鎖で、今度こそは
抱き締めて離さない。
『…ヤシロ様も、よくそこに座ってたね』
背筋を戻したセエレがポツリと呟いた。
『裏切りに、二種類あるの、知っている…』
その白い脚で馬の胎を軽く打ち、云い残す。
『…其処が、嫌だったから………と』
薄く笑った。
『追いかけて欲しいから』


遠くなる黒馬が、月光に黒点の如く影を落としていった。
僕はじゅくりと再生しつつある脚を、椅子から垂らし、ぶらぶらとさせていた。
窓からの眺めは、壮観だ。
此処が魔界という事は、どうでも良くなる、闇の絵画。
窓の縁装飾が、豪奢な額縁の様で。
「また、押し付けようか、この絵画に」
零れた声、妙に破顔する自分。
「泣き濡れた君を、ねえ」
燻らせた煙草を、折れていない指で摘まみ、唇から離す。
左手にこの苦い薫りは残したくない。
「繋がったままさ…此処から」
斑紋の手で、上に押し開く、透明度の増す風景画。
「落ちてみれば、更にきつく抱き締めてくれるのか?」
遠い地上、隙間から覗き込む、冷たい湿った風。
甦る吐息。
喘ぎ混じりの侮蔑と懇願。
光る斑紋、毒の薫る花緑青色の輝き。
その光に魅せられて、脳髄まで廻る毒が身体を揺らした。
「……っ」
踏み止まる。
学帽が、吸い込まれる様に闇に落ちていった。
手で引き戻した身体を、石造りの遊びに落ち着けた。
(ああ、危ない、先走るところだったな)
まだ、この胸は空虚なままだった。
連れ戻して、抱き、落ちなければ無意味だった。
「フフ……綺麗な装飾…」
黒光りする、歪で悪魔的なリム。ゆるゆると、それを撫ぜ上げる。
縦長の扉の様な窓に、吐いた煙草の煙を呑ませた。
白い毒霧が立ちこめる、扉の向こう。
「我を過ぐれば憂ひの都あり…我を過ぐれば永遠の苦患あり…」
向こう側に、何がある?
「汝等此処に入るもの一切の望みを棄てよ……」
ねえ、矢代。
一緒に墜ちておくれよ。
君がどちらの理由で天に往ったのかなぞ、関係無い。
僕の手を掴んだあの刻から、もう墜ちる約束はしたろう?
Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate'
僕だけに、縋って?
地獄の門をくぐろう?

握り締めた、火が中で燻る。
僕が、僕だけが拾い上げた半人半魔。
「誰が、天國に渡すか」
薄皮の張った脚を床に着け、リボルバーを持つ。
放った吸殻を定めて撃ち抜く。
遠くで埋まった弾丸に裂けた枕、舞い散る羽毛。
それを見て、天使の羽の様で、哂いが止まらない。
「フ、フフフ」
吸殻は塵となったのに、まだまだ撃ちこむ。
「はっ、あはははっ」
舞い散る白で、部屋が雪の中みたいになる。
纏わりつく気持ち悪い羽にまみれて、思い描くのは自身の影。
それを殺せば、戻るのか?
戻ったとして、何処まで続くのだ?血塗りの道は。
「はぁっ…は、ははっ………」
苦しい。
「はっ………ぁ…」
人間に戻れば、君は陽の下に還るのか?
「白は…胸糞、悪い…ッ!」
暖炉の炭を撒き散らし、咽返る灰燼の中。
どうしてこうも動悸がする。
如何して闇なのか…如何して月なのか…
どうして、僕だけが。
「矢代!どうして返事しない!!」
すぐに結び直すと云ったのに
どうして信じなかった。
君を理解してやれるのは、誰だと思っている?
そんな、愚かな君は…やはり、僕と共に墜ちるべきだ。

「戻らなければ…殺してやる……僕の、この手でね…」

灰塗れの、汚らしい烏みたいな僕が
飛べもしないで床に突っ伏し、啼いた。


黒い絵画・了


↓↓↓あとがき↓↓↓
散らかしすぎでしょライドウ。
悪魔が感情豊かになり困りました。
素直な様な…素直でない様な…妙な精神状態のライドウ。
「我を過ぐれば憂ひの都あり…我を過ぐれば永遠の苦患あり…」
のくだりはロダンの地獄の門から。
窓からの風景を黒い絵画に見立てて…
窓を地獄の門に見立てた…って感じです、適当ですが。
でも、繋がったまま落下するとか、画になります。
タイトルは「堕天」で……

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