曼珠沙華
雪が覆い尽くす、里の景色。
近い山々も、既に化粧を済ませている。
少し、肩が震えた。
先刻外套は置いてきたから。
雪にざくりと刺さる松葉杖が、動きを緩慢にさせる。
じんわりと、背中も熱を持ち始めた。
鞭の穿った痕よりも、今は雷堂に斬られた傷が気になった。
以前は在った迷いが、その太刀筋には無かった…
(あの男、僕を殺すのも既に厭わぬか)
同一体を消すのは、決して良い現象をもたらさぬ。
そう理解した頭で、僕を斬ったのか…
己すら殺しかねない…その行為。
そんなに人修羅の何を欲する?
力?情?
…雷堂が得たものは、眼だった。
僕の、得れなかった…眼。
あの、ボルテクスから僕を視てきた眼球が。
堕天使に採られ、雷堂に採られ。
ああ、両方とも同じ側の眼だったろうか。
もしかしたらもう、僕を映していた眼は残って居ないのかも知れない。
再生される眼球は、僕の記憶を宿してはいない。
激しい憎しみを以って、僕を見つめていたあの眼球はもう無い。
何故僕から奪う?
人修羅から奪う、のでは無い。
僕から、それは奪っている事になるだろう。
それが、たとえ憎しみであっても…
余す事無く、この身に注がせたというに…
他の手が、指が触れた箇所から…侵蝕されて、僕の所有地は消えてゆく気がして。
そういえば、何故そう思う?
僕は…あれを…
人修羅を仲魔にした時から…こうだった…か?
薄く、雪の上に明かりを落とし込んだ建物に
ざくり、ざくりと松葉杖を刺しながら向かう。
こんな遅くに灯りが点されているのは、此処くらいなものだった。
不躾に靴を脱ぎ捨て床に上がれば、幾つか人が居る事に気付く。
点々と玄関に点在する靴。
他の…サマナーか。
医務室に居るのなら、どの様な件で参っている連中か位…見当がつく。
横に開く開き戸を、折れていない脚の爪先でノックする。
その扉の向こうから返答がくる前に、身体を杖に支えさせて戸を引く。
一斉に、幾つかの眼が僕を射った。
「…十四代目!!」
「!!」
「…もう治療はお済ではないのですか?」
口々に僕へ向かって来る、その言葉の隅に見え隠れする…
こいつらのけしかけてきた悪魔、憶えている。
どうでも良い事だったが、どのサマナーが何を召喚したか…憶えている。
あの祭で、怨めしい僕を公的に攻撃出来て…さぞ歓喜した事だろう。
「しかし十四代目、あの人修羅…すぐに人間に危害を加えるなぞ…あってはならぬ事」
そう云い、椅子から立ち上がったスーツ姿のサマナー…
以前、人修羅の弱点を問うてきたサマナーだった筈。
「どの様な教育をされているのやら…」
頬に当てられた綿糸は、湿布らしい。
熱を持ち、腫れ上がった頬は…人修羅が殴ったそれだろう。
僕へ詰め寄るサマナーに、その光景を思い浮かべつつ…にたりと微笑んだ。
「云ったでしょう…襲い来る獲物は喰い千切れと教育してある、と」
「な…っ」
「だから、手出しは危険と…促したというに…」
引き攣り、怒りに震える眼の前の男…
この部屋のサマナーの怒りを代表して震えるのか。
僕は視線をちら、と部屋全体に投げてから云う。
「そもそも…貴方達の放った悪魔では太刀打ち出来ぬ…」
「失礼な!!」
「僕に放った悪魔が、使役悪魔で一番強いのだとしたら…まず無理な話」
心の底から込み上げる哂いを抑えて、僕は冷淡に部屋で唱える…
そう、お前達には無理だ。
あれに勝とうなぞ、使役しようなぞ。
「…見損ないましたぞ、十四代目!」
元々尊敬してなど無い癖に。
「共に居る気になれませんな」
「行くぞ皆」
口々に発し、僕の横を通過してサマナー達が部屋をぞろぞろと出て行く。
僕としては好都合だ。
針のムシロに進んでなる趣味は持ち合わせていないから。
静かになった医務室の寝台にどかりと腰を下ろす。
松葉杖を壁に立て掛け、学生服の詰襟を弛めた…
と、がらりと音がした。
扉の開いた先に、医療班の男。
「…よお、狐野郎」
「…」
「此処に居たサマナー衆は?」
「お帰りになられたよ」
云えば「けっ」と口を鳴らして僕に侮蔑の眼差しを向けてきた。
「お前さんが追い出したんだろ?」
「好きに解釈するが良いさ」
詰襟を弛めていた指の動きを、再開させる。
「ゴウト様は?」
「さあ?用意された寝所にて僕を待っているのでは?」
「なんで狐が此処に来んだよ、もう治療は済んでるだろ」
「その寝所に戻る気がしないのでね」
監視の眼は、この空間の方が薄い。
この作務衣の男しか居ない医務室の方が、幾許かマシだった。
それに…用件も有った。
僕は楽に寛げた学生服の内衣嚢から、するりと数枚の葉を出す。
作務衣はそれを見て、黙って指先に摘まんで受け取る。
「上質の黒檀の葉…相変わらず高級な嗜好品をお好みで」
「吸い心地は良いに越した事無い」
寝台に寝そべり、掛け布団で身体を覆う。
「おいおい、誰も其処で寝て良いなんて云っとらんぜ」
「カンナビス・サティヴァ・エル」
「…」
「増やしておいてくれ、宜しく」
そう云って、枕に頭を乗せる。
窓側を向き、学帽を外して横の棚に置いた。
「…そうやって誤魔化してりゃ、いつか崩壊するぜ」
作務衣男の声が聞こえる。
僕は無視をした。
カンナビス・サティヴァ・エル
…大麻草の意。
僕は時折、こうして此処へ来ては特殊な煙草を作って貰う。
吸えば、身体の痛みや疲労などを緩和させる…美味なる毒物を。
この里で、服用の為に栽培されているのだ…
それでいて、日本国を護ると抜かしているのが滑稽である。
「別に狐がくたばろうが、オレとしちゃざまあみやがれって感じだが…」
作務衣の男が、再度僕に声を掛けている。
「お前が今くたばったら、誰が十五代目よ?」
「…」
天秤の音がする。
草の計量の為、分銅で調整しているのか。
金属の音と、草をさらさらと薬包紙から零す音。
「里の子は、オレの弟しか居ねぇんだ…おい、お前がくたばったら、あいつにお役目が行くかも知れねぇ…」
「…で?」
そちらを向かずに、僕は曇る窓を薄眼に見ながら相槌した。
「葛葉を継がせたくねぇんだ、あいつにゃ…重過ぎる」
弟…
ああ、身内の心配か。
それはそうだろう、葛葉ライドウを継いだら…
この男は、もう弟を弟として見れぬ立場になる。
その“十五代目”も、己を棄てる羽目になる。
「だから、オレはこの草煙草、奨めねえぜ、あんましよ」
そう云いつつ、数本作り終えたのか
僕の学帽傍に、それが置かれた。
「まだまだ狐にゃ、生き地獄で足掻いててもらわにゃあな…?」
それの置かれた際、間近から僕に下りてきた言葉。
僕は眼を少し開け、口の端を吊り上げた。
「この里へ、たっぷりと恩返しするまでは死ねぬよ…安心おし」
含む意が、解るだろう…この昔馴染みには。
僕を憎む、この作務衣の男は一言発して離れた。
「おぉ〜怖ぇ怖ぇ…これじゃ人修羅も日々怯えてるだろうな」
その単語に、一瞬身体が反応したが、僕はそのまま眼を閉じた。
青白い月が哂っていた。
結露の隙間から僕を見下して。
寒い…
正直、あいつの外套がなければ辛いところだった。
格子から、薄く明かりが射す。
朝焼けとも違う。
まだ明ける直前の…月が青白く光る頃だ。
夜と明けの狭間。
(こんな時になんだけど、綺麗だな)
俺はこの瞬間が昔から好きで、一時期やっていた新聞配達のバイトで毎日見ていた。
誰も居ない時間帯、冷たいその空を見る。
この、光と影が混ざり合う、融けあう瞬間が美しかった。
その半分半分が、魅力だった。
そうか、つまり…もう日が変わったのか。
今日、俺の処分が決まるのだっけ。
(つっても、俺を殺すとしたって…どうやってだ?)
結構しぶとい生命力だと思う。
傍から見たら、もう死んでいる様に見えるが…ギリギリ生きていると思う。
それを利用すれば、意外と簡単に欺く事が出来やしないだろうか。
残骸すら残さず始末されなければ、俺は身体が癒えるまで寝ていれば良い。
遺体安置所から甦る事には慣れている。
ヤタガラスの思惑通りに事が進むのは…正直癪だった。
今残っている眼を閉じる。
青白い月が輝いていた。
俺の身体をざわめかせて。
『では十四代目よ、そが責任を果たす時が今…』
案の定、といえば案の定。
松の御前に引き出されて、俺はライドウと向き合わされていた。
向かいのライドウは、もう松葉杖を着いていない。
もう治った?やはり葛葉の血、というのは異様なものなのかもしれない。
外套は、あの納屋に置かれたままか。
学生服姿で、雁字搦めの俺を見つめている。
俺はヤタガラスの命令が、寧ろ楽しみだった。
どう来る?どう出る?
何が下されたって、息絶えるものか…
根底にある魔の力は、人間の姿だろうが影響している。
俺の精神力が保てば…
『十四代目ライドウよ、人修羅との契約を破棄せよ』
今、何て云った…この松の木。
俺は、その松とライドウとを交互に見た。
契約を破棄?そんなの、どうやって?
身体が…ざわつく。
契約をした時の記憶が、脳裏に甦る。
嫌でも甦る。
浸入してきたあいつを思い出す、俺の領域に…
頬が少し、熱くなった…嫌になる。
『聞いておるかや?十四代目ライドウよ』
その松の声に、ライドウが俺を見るまま返答した。
「はっ」
『契約を切らねば…他の者に使役出来ぬでな…』
嗤う、松。
ライドウは、酷い無表情だ。
でも、俺には解る…あいつ、つまらない瞬間はいつも無表情になる。
普段、それを覆い隠すあの不敵な笑み…
確かに、無表情のあいつは、感情を寧ろ発露している。
『中にこぞんだお主のマグネタイトを奪え』
その松の響く声が引き金になったのか。
きちり、と鞘から抜刀する音が続いてした。
(ライドウ…)
轡を咬まされた俺には、言葉を発する事は出来ない。
当然ライドウも、余計な事は口に出来ないだろう空間。
(どうするんだ…)
契約破棄?
そうしたらあんた、ルシファーに何て説明するんだ。
悪魔召喚皇の野望は?
俺自身の目的はどうしてくれる?
抜刀したライドウが…迫ってくる。
転げて簀巻きの俺を、見下ろしてくる。
「んっ」
脚の先で、ごろ…と仰向けにさせられた。
眼が合う。
そして…引き絞られた刀が、俺に突き立てられた。
「ふぐうううっ!!」
芋虫みたいにもがく俺。
刺さっているのは、胎の中心…臍の辺り。
痛い、がそれよりも…
(吸われてる…)
ライドウが、敵にそうするかの様に、マグネタイトを吸っている。
刀の斬撃が、敵の肉体から光を零させる…あの戦闘中の光景。
それが俺に行われている。こんなにも静かに。
ああ…解る。
俺の中から…消え失せていく感覚が、間違いなくある。
十四代目葛葉ライドウの…マグネタイトが。
胎の奥底から、抜き取られていく…
俺を絡め取る呪詛の晒が、赤く滲む。
木目の綺麗な艶がかった床に、俺の血が広がっていく。
どこまでやるんだ?
怖いまでに綺麗な相貌のライドウが…刀を伝って来るマグを吸う。
自身のマグネタイトを回収している顛末を、どう思うんだ?
そのまま、ぐい、と刀を潜り込ませてくる。
「ぐううう!うぐ」
仰け反り、腕に力を込める。
汗と血。
耐えろ、絶えるな、俺…
霞がかった視界に、ライドウが映った。
転がる俺に跨って、耳元に一瞬その唇が近付いた。
「すぐ結び直す」
本当に小さな声で、ただそれだけ云った。
結び直す…?
何が…?
身体が、震えた。
あんた、棄てるのか…?
まさか、命令とはいえ本当に?
「ううっ、ううううう!!!!」
突如暴れ出した俺に、横の松が枝をざわざわさせた。
『黙らせろ!』
ライドウは、唸り声を上げていた俺の頬を強かに掌で打ちつけた。
轡のお陰で、何をされても舌すら噛まない、口内も切れない。
「ふっ…う」
何故今更。
俺は何故、痛みに身体を焼かれそうなのだ?
胎に刺されているだけだろ?
身体からライドウが消失していくだけだろ…
契約を切られる…だけだろうが…
結び直す?
それは本当か?
あんた、充分強いからな…俺はいよいよ必要無くなったかもしれない。
厄介払い出来るんじゃないか?
だって、常々云っていただろう…あんた。
“友達ごっこ”が馬鹿げている、とか。
なれ合いが…自身を駄目にする、って。
だったら、丁度良いんだろ?
使役するには…俺はあまりに人間の感情が多すぎたんだ。
とか、今の一瞬だけ、納得させていた…自分を。
俺は、正直葛葉ライドウが憎い。
でも、棄てられるのはもっと腹立たしかった。
ここまで俺を束縛して、執着で縛り上げておいて…上司の命令で棄てるのか。
確かに、原因を作ったのは俺かもしれない。
此処で命令に背けば、多分俺は本当に始末されるのかもしれない。
でも…
あんな簡単な言葉で、口約束で済ませれるあんたが憎い!!
憎い!憎い!憎いんだ!!
ボルテクスの時から、ずっと憎い!!
解っているのかあんた!?
俺の執着を!
傷物にして、一度でも棄てやがって…!!!!
赦さない赦さない赦せない
デビルサマナー葛葉ライドウ
…夜め
消失していく
俺に貸与していたエネルギーを回収したライドウは
長い印を刻み終え、俺との契約を…切った。
俺は…
棄てられた。
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