今日は、学校を終礼まで受講した。
呼吸は、出来ている。大丈夫だった。
此処をひとつの舞台と思えば、容易かった。
それぞれに役割があるのを、赦されているのだ、と。
帰路にて、銀楼閣が待ち遠しかった事など、初めてに等しいであろう。
「鳴海所長」
呼んでみた…返事は無い。
事務所を覗いて見たが…人影は無い。
学生鞄を部屋の畳に投げ出し、屋上へと駆け上がる。
開いた扉の先には、あの畏怖していた背中があった。
「鳴海…さん」
「何」
「話したい事があるのだ…貴殿に」
「いいよ、こっち来なよ」
少し夕焼けの空だった。鳴海のスーツはその朱の色に染まっている。
その傍に寄り、らしくもなく…口角が上がるのを感じた。
「その、昨日は有難う…」
「い〜え」
「我が、鳴海さんを嫌って良い道理は無いだろうて、寧ろ今は…」
続きを云おうと、息継ぎをしたその瞬間、腕を取られる。
どんな顔をしているだろうか、気になって合わせる脚。
くるりと円舞曲の様に回った先で見たのは――
「俺は嫌いだよ、お前なんて」
離れ往く指先。
葉巻を灰皿に押し付けるかの如く、何の悪意すら無く、穏やかな笑みのまま。
腰を強かに打ちつけ、崩れた体勢は、放心にて立て直せず。
帽子の様に拾わせる事すら忘れ――
「あぐぁあっ……ぅ、ぅうゥッ、あ、ぁあ」
全身が軋む、吐き気が込み上げる。
胎内で砕けた何か達が、せめぎ合って逆流してくる様な感覚。
上の手摺から見下ろしてくる鳴海を見て、今理解した。
突き落とされた………まさか…そんな。
「それで帝都守護が務まるの?お前」
そう聞いてきた。
直後、爆笑している。逆光で顔は窺い知れぬが…それは確実だった。
鼓膜がおかしいのか、波紋の様に聞こえては、脳に残響する。
「すいま、せ、ん…」
そう返せば、血の味がした。
やがて影が見えなくなったので、ぐらり、と起き上がってみた。
上手く動けぬ…とても、このままでは。
ホルスターから零れ出ている管にて天使を召喚し、ディアラマを命じた。
何とか動ける位には回復したのを確認し、銀楼閣に舞い戻った。
今度は、第一歩すら泥沼の様に重い。
ギイ、と事務所の扉が開いた瞬間、出てきた鳴海が云い放つ。
「なあ雷堂、お前昨日が何の日か知ってんのか?」
「きの、ぅ」
返事すらままならぬのか、今の身体は。
「そ、昨日はさぁ、四月一日だよ?」
「…“わたぬき”か…?」
「ぶっ、お前ってさ〜…云う言葉まで同じとか…本当に――」
すれ違い様に、コロンも葉巻も薫らなかった。
我の内より出でる血臭が、掻き消している。
「似てて嫌になんだよね、すっげ〜嫌になるよ、雷堂」
「似て…なに、に……だ」
「品行方正で穢れも知らないあの子をね、拾って育てりゃ殺されて…」
階段を下る鳴海を振り返ったが、振り向き返してはくれなかった。
「同じ様に何も知らない、無知なお前にな」
それが、別れの言葉だった。
すっかり閉められた扉を見たまま、我はどの位固まっていたのだろうか。
昨日痛めた臀部の骨は、先刻の墜落で欠けたろうか。
やはり痛くて、ディアを上掛けしようか考えつつ、事務所に入った。
ハタキと、雑巾と、バケツを探す。
軽く清掃しなくては。そう、いつもの形に戻った、それだけだ。
何が鳴海所長を、昨日の様な奇行に走らせたのかは謎だが…
そう、あれはたった一日、我に赦された奇妙な夢だったのだ、きっとそうだ。
いつもの様に、我は此処を掃除すれば良い。
あまりそれ以外で関与しないこの空間を、ただただ…
(写真立てが…)
うつ伏せにされたままだった。
あの、鳴海の良き女性の写真が納められたそれ。
きっと鳴海はすぐ戻らぬ、いや、もう今宵は帰らぬかも知れぬ。
きっと大量に依頼を運んでくるだろうから。
じいっと見つめ、元の状態に戻そうとしたが、視線の先に見えるは本の背表紙達。
違和感を、感じた。まるでこの世の我が如く、浮いている…
手にとってみれば、硬い頁の筈…写真のアルバムだった。
はらり、はらりとめくる。
めくるめく過去。
《花月園》の文字。
セルロイドの質感の馬。それの頸に縋る女性。恥らってこちらを睨んでいた。
滑り台で転がり、裾を押さえる姿。
薔薇園に囲まれたダンスホールを背に、微笑む姿…
(まさか)
脳裏に巡る円舞曲、どんでん返しのリバースターン。
写真立ての裏を外す、もどかしい指先が憎い。
「………っ…そういう……事、か」
写真の裏には、鉛筆の色褪せた黒鉛が綴っていた。
撮影年月日と、恐らく名前。
ア キ
あの、優しい眼は…
素通りだったと、いう事か。
藍色が似合う、というのは…そういう事か。
貴方と踊る事すら、真実には赦されてなかった、のか…
軽く清掃を終え、窓辺の机に腰掛ける。
行儀が悪い、と、業斗に叱られるだろうな。
つい先刻、車を手配した。コウリュウは嫌だった。
怖くなってしまったのだ…高い所で自由も効かぬ。ましてや銀楼閣よりも高いのだ。
(まだだろうか、車…)
窓の外は、もう夕闇が訪れて、桜の色を隠し始めていた。
ぼんやりと、薄桃の写りこんだままの一箇所ばかり気になる。
光が当たっている訳でもない、其処に指で触れてみると…硝子の冷たさ。
詰襟から覗く、己の首筋と認識した。
温かな春が、其処だけに残っていた。
「旅のつばくろ 淋しかないか…」
車であの人が歌っていた歌謡曲。
厭に記憶に残っていた。
「俺もさみしい サーカスぐらし…」
前方の業斗が舌打ちし、運転手に命じた。
仕切るカーテンが閉じられ、我は暗がりの後部座席で歌う。
「とんぼがえりで 今年もくれて…」
夢の園から帰ってきた。カラスの巣へと。
「知らぬ他国の……花を見た」
頸の花はそろそろ消える。もっと、見ていたかったのに。
その春が散る名残を感じ、指先に頸を絞めさせる。
車窓から見える幽玄の桜は、偽者であろう、虚であろう。
知っている、ああ知っているとも。
この呼吸困難な世界こそ、きっと虚なのだろう?
公平ならば、神がおわすならば、こんな筈はなかろうて。
「どうして、夢から醒めぬのだろうか…」
三拍子の鼓動が、息苦しい。
あの微笑を奪ったのは…
他ならぬ、我なのだ。
気狂いが如く、春に膿んだ脳内は、贖罪を請う円舞曲を延々と。
(嗚呼、先日はきっと、虚で出来た日だったのだ)
記憶の中の香りだけで、瞼を下ろし、眠りに就いた。
その春寒の円舞曲・了
↓↓↓あとがき+a↓↓↓
“好き女性”で(よきひと)と読んで下さいまし…
いきなりの剃毛シーンで申し訳ありませぬ。
一瞬の夢、赦された錯覚…
雷堂はエイプリルフールを知らぬまま、という終わりです。
結局、鳴海には背後に恋人を見られ…
徒花本編では人修羅から、背後にライドウを見られ…
雷堂こと日向明そのものを見てくれる者が居ない、無慈悲な現実。
言動が似ている、という設定です、鳴海の恋人と雷堂の。そして名前も同じ読みという悲劇。
しかし、雷堂が殺していなければ、きっと普通に接する事が出来たのだろうと思います。
鳴海は雷堂を赦す事が、恋人への裏切り行為と思っているフシがある…
この四月一日は、鳴海の気紛れか…本当はどうしたかったのか…
それは敢えて書きませんが。
最後の突き落とされたシーンは、徒花本編で鳴海が人修羅に聞かせた話です。
【作中のあれこれを適当に解説】
《春寒》
“しゅんかん”と読んで下さい。立春以後、ことに、春になってからまたぶり返す寒さをいう。タイトルは“そのしゅんかんのロンド”となります。瞬間とかけてます。
《産医師異国に向かう〜》
円周率の語呂合わせ。円周率=直径に対する円周の長さの比。
雷堂こと明は、暗記というより睡眠術として憶えている。勉学に対する向上心はあまり無い。しかしそこそこ秀才である。
《花月園》
大正3年に開園。フランスのフォンテンブローにあった遊園地をモデルに造成された。少女歌劇団・活動写真館・ダンスホール・ヒル・ウエイター(ケーブルカー)・大山すべり台…何でも在った。ピークは大正14年度。
《春の声》《美しく青きドナウ》
ワルツ曲の定番。ヨハン・シュトラウス2世作。本当に定番なので、聴けばピンと来るという。
《サーカスの唄》
実は1933年の曲なので、時代的におかしいです。でも引用してしまいました、すいませぬ。いくつかカバーが在りますが、美空ひばりさんも歌ってます。
《ビリケン様》
1912年、大阪の新世界に遊園地・ルナパークがオープン。当時流行していたビリケン像が置かれ、新世界の名物となった。…との事です。明は偶像崇拝だと思っている、あまり良い顔をしない。
《痴人の愛》
谷崎潤一郎の小説。1924年3月から大阪朝日新聞に連載。カフェで見初めた次第に少女にとりつかれ、破滅するまでを描く。耽美主義の代表作。自分の色に染めるつもりが…という。明はきっと「知人の愛」と勘違いしている。ドM小説。
《首筋の春》
お察しの通り、キスマーク。明はあまり良くわかっていない。しかし鳴海も、恋慕の欠片も明には向けていない。噛み合わない寒い春。
back