《コン…コン…コンッ…》

突如漏らされるその声に、ぎくりとした。
一瞬、彼が発したとも思えず。
(どうした、何なのだ?畜生の真似か?)
熱さが加速していく、同時に、酷い吐き気が。
間違い無い、精神感応を受けてしまっている。

「ほぅら、四つん這いになりなさい」
「狐は二足で立たぬ」

周囲からの声に背筋が凍った。

「狐は人語を発さぬ」
「口だけ使って咥えなさい」
「上手く真似出来たら、酷くはしないぞ」

瞬間、首の糸を切りたくなった。
だが、それをすれば帰還が困難になる。
おまけに今…取り囲まれている、この灼熱と声達に。

「十四代目は狐だからな」「囲んでおらねば恐怖で抱けぬ、化け物よ」「こんなに綺麗に育つとは、拾って正解だったな」「多少我侭な仕事選びだが、その分鞭が揮える口実になって良いわ」「後孔の力を抜くな!管が抜け落ちるぞ」「幼き時分より酷使していれば緩くなっても仕様の無い事…」「悪魔を誘う時の姿、是非見せて頂きたいな十四代目!」「忌み子を拾うは我等が機関のみぞ?感謝して注がれるが良い、恩情を」

(      )
我が絶叫してしまった。
勿論その声は、彼等には届かぬ。
閉ざせぬ視界に映る、ライドウ…紺野夜は…
どうして、哂っている?蠢く影に、その身体を…何故、渡している?
(嗚呼…これか…これなのか)
彼が謀反を企てる…真の根源が、其処に繰り広げられていた。
狂った宴の中、ライドウは捕食され続けてきたのか、烏に。

《ねえ》

ライドウの声が…真っ直ぐに飛んできた。
(まさか、そんな筈)
我に向かって発されている。
《誰か知らぬが、帰った方が良いと思うよ…?》
個体の認識には至らぬ様子だが、中に潜っている事はバレている。
《クク…出れなくなっても知らぬよ?》
打ち捨てられたライドウが、ゆっくりと此方を見る。
ニィ、と哂って、その赤い唇を開いた…途端。
その口から白い濁りがだくだくと滝の様に零れ伝った。
(〜っ!!!!)
もう限界だ。
空気の灼熱にも、往けども往けども暗く翳る焔にも。
何処にも安息が無い。
(アルケニー!!手繰り寄せろ!!)
首を意識する、意識が右往左往して、吐き気に相乗して眩暈がする。
白にまみれた哂うライドウが、遠くなる。

《消えれば良い、繋ぐ情など》
《白・黒》《捕食する側・される側》《生・死》《陰と陽》《勝者・敗者》
《支配しろ》
《全て使役しろ、敵の敵は味方では無い》
《皇になれ》
《愛憎なら、憎しみが勝る》
《跪け、すべて、僕に、この僕に》

だらだらと垂れ流しの彼の感情に、脳内が混濁する。
ライドウが遠くはなっているものの、浅い所へ戻っている訳でも無い。
寧ろ…引きずり込まれている。

《赤が見たい》《生まれた時に見ていた赤い海に包まれていたい》《もっと、もっと赤い雨に打たれたい》《悲鳴が聞きたい》《足蹴にしたい》《頂上に立って、すべてを見下してやる…》

(出せ、此処から出せ!ライドウ!!)
懸命に意識を駆けさせる、得体の知れぬ恐怖に気が狂いそうだ。
(解った!もう貴殿の憎しみは視えた!!だから還せ!!)
業斗も我も、何故もう少し警戒しなかったのだろうか。
深く意識に潜る際、気をつける対象が大きく分けて二つ有る。
ひとつは、悠久を生きた者。それこそ神の位に潜れば、広大な記憶に迷う事となる。そして出口が判らなくなる。
そしてもうひとつは…

“既に心が壊れている人間”

(ライドウの…紺野の心は、もう手遅れだ)
潜って癒す専門の者すら、きっと匙を投げる。
慣れた我ですら、この熱さに息絶えそうだというに…
危険思想、とか、そういう問題では無い。
(!あのブランコは…)
見覚えのある層に来た。
あと一息かと思い、此処に無い肉体の歯を食い縛る。

ぎぃ

誰も居なかった筈のブランコが揺れた。
さざめく赤い曼珠沙華が暗い空間に鮮やかに。

《ねぇ、僕はさぁ…人間なわけ?》

ブツリと千切れたブランコの縄。
その瞬間、縄の先に何かがぶら下がり、だらりと垂れた。
(あ、あああああああ)
頬を何かの油で濡らして、血に染まる腕は痙攣している。
股から垂れ流すそれは、止め処ない白濁。
首を吊った、ライドウが哂って我を見つめた。

《“葛葉ライドウ”という人形かな…フ、フフフ》

違う。此処はあの層より、深い所だったのだ。
(業斗!!!!助けて!助けてくれ!!)
おかしくなる、この男の中に居ると、狂ってしまう!
実体の無い腕で首の糸を掴もうと足掻いて、意識を飛ばさんとした。
《フッ…ク、クク…ア〜ッハハハハハハハ!!!!》
迷い込んだ者を嘲笑うかの様な、笑い声がずっと響いていた。
(何処か、希薄な処は無いのか!何処でも良い!僅かで良い!)
自暴自棄で更に奥へと飲まれていく。
上がるより、奥に嚥下されていく方が、今となっては楽だった。
心頭滅却とは違うが、あまりの熱さに麻痺してきていた。
くるくると、走馬灯の様に景観が流れ往く。
見た事も無い風景に、彼の行動範囲の広さを垣間見る様で。
身を赤く染めて、刀を翻すその姿…
塵芥と成り果てた悪魔達が、道を作っていった。
そうでもしなければ、道が無いとでも云うかの様に、斬り捨てていく。
管から滲むMAGの光りが、彼の眼に映り込む。
狂喜に歪んだライドウの、哂い顔が鮮明に見えた。
やがて辿り着いた白い砂漠の砂を、暗黒の外套で打ち払う彼。
『これが未来の帝都と思えば、虚しいものよ』
その彼の脚の隙間を縫って、黒猫が呟き、通った。
《…ボルテクス界…》
そのライドウの声に…今まで感じていた違和感を認識した。
そう、彼が…居ない。

人修羅が、居ない。

(あれだけの執着で、何故)
そう、ライドウの中における人修羅の位置を知りたくて。
そんな邪な思いも抱きつつ潜った、そんな事すら忘れていた。
続く砂漠…鉄ばかりの建造物…赤く脈動する空間…
数人の、未来人と思わしき人間…
輝く太陽にも似た空の光…
車椅子の老人…
(何故見当たらぬ、功刀矢代が)
有り得ぬだろう、何処にも居ないなど…そんな筈。
《ねえ、大丈夫?其方は行き止まりだよ…フフ》
掛けられた声が、再び我に向いていると知った時には遅く。
更に深い闇へと転がり落ちていった…





(まだ、意識がある)
我の心が崩壊していない事を、戻ってきた感覚で認識する。
(此処はどの辺りだ…)
先刻までと打って変わって、どこかひんやりとしている。
酷く静かだ。赤も無く、霧がかかっている。
(此処からなら、出れるやもしれぬ)
首の糸を意識して、念じようとした。
だが、視界に入った光景を見て、それを止めてしまった。

「夜」

聞き覚えのある声。
霧に浮かび上がる声は…捜していた彼のものだった。

「…夜って、綺麗な名前だけど、儚い感じだな」
煌びやかな細工の簪が、かしゃりと鳴って、消えた。
「まあ、それもそう…か……俺も夜が好きだ」
桜の花弁がふわりと一瞬舞った。
「どうして……夜」
少しの嗚咽を含んだその声。
「あんたが消えるなんて嫌だ!ライドォオ!!夜っ!!夜ぅっ!!!!」
叫びに混じる、稲光の様な音。
「聞いてるのか?おい!夜っ!あんたからしたのは…っ」
そんな筈無いのに、風の様に薫った白檀。微かに煙草の薫りも。
「よ…る…!?」
戸惑い…その、求めるかの様な声音が…酷く、我には痛い。

(行き止まりでは無いではないか)
こんなに、こんなに奥深くに。
静かな、霧の森に。
(聞こえるかアルケニー…手繰り寄せろ、すぐに)
視ているのが、辛くなった。
あの焔の海とは違った意味で。





『おい!雷堂!!還ったか!?』
感触がある。これは、現だ。
蹲り、首を絞める様にしている我を、業斗が険しい顔で見ていた。
「ご…業斗…あ、ああ、還った、なんとか…な」
口から垂れていた胃液を拭った。
『お前、首を掻き毟ったり吐き戻したり…少しヒヤリとしたぞ』
「すまぬ、少々…荒れていたので、な」
説明を、どうしろと?
溜息と同時に、首の糸を解こうと指を潜らせた。
と、その瞬間、強く上に引き上げられ、首が絞まった。
咄嗟に指を曲げ、その絞まりを留まらせんとする。
「ぐ…ぅっ」
『雷堂!』
業斗が叫び、寝台の方へと飛び乗るのが見えた。
次の瞬間、我の向かいの壁に叩き付けられた業斗。
一瞬感じた魔力は、間違い無く…この右眼と共鳴した。
「ふぅん…手でもそれなり、だな」
背後の声に、冷や汗が出た。
『雷堂様!』
傍のアルケニーが鋭い前脚を振り翳し、我の背後を狙う。
すると前方に躍り出た影は、咬んで手袋をぐい、と脱ぎ捨てた。
反動で首の絞まる我を無視して…その蜘蛛の脚を、素手となった左手で薙いだ。
『ヒギィィイイ!!!!』
淑やかな声音は一気に阿婆擦れた声になり、それが断末魔も兼ねた。
裂けた大蜘蛛は、その断面を床にべしゃりと打ちつけ、突っ伏した。
「しかし、少々疲れるな…流石に人修羅に合わせた構造だからか?」
ぎりりと吊り上げられ、耳元で囁かれる。
「ねぇ…雷堂」
息が詰まる、指を抜けば、首が絞まる。
「ぁ……く…ッ」
「誰かと思えば、やはりお前かい…で、どうだった…僕のナカは?」
耳朶にかかる吐息が、台詞と相俟って酷く扇情的だ。
「は、ぐっ」
「さぞかし、滑稽だったろうな…お前にとっては!」
そのまま引かれ、寝台に押し付けられる。
シャツと学生服の下のみの、軽装のライドウ。
涼やかなその書生姿も、禍々しい気を放つ左手に霞む。
馬乗りされたが、緩まった糸に呼吸を取り戻す。
「っは…っはぁっ」
あの、壮絶な笑みで見下ろしてくる。
心の中で視た、あの哂いをそのままに。
「何処まで潜った?よく還って来れたねぇ…気も狂わせずに」
「ぁ…っ…き、貴殿は……」
「何?」
「貴殿は…っ…あの先を、知らぬのか」
我の息も絶え絶えな問いに、その整った眉根を顰める。
「何を云っている?覗き見た言い訳をする位なら、靴でも舐めろ」
「知らぬというのか!?己の中だというのに…?」
我の声は、震えていた。
「何処を云っているんだお前は…すべて綺麗に燃え立つ曼珠沙華だったろう?」
冷然と湛える笑みを見て、確信する。
ああ、この男は…ライドウは…

(“ライドウ”と“紺野夜”を隔てている)

第三者の視点で、ライドウの姿をも視てきた…あの心の中。
だが、あの騎士との記憶にその姿は無く…
同じ様に、人修羅の居た処にも、ライドウは居なかった。
おまけに、行き止まり、との発言は…嘘を吐いた様子も無い。
無意識の内に、焔から遠ざけて、狂える己からも遠ざけて。
名を呼ぶ人修羅を…静かな奥へと…隔離している。
それすら気付いていないのか。

「どうしてっ…そこまで大事にしたいのに、貴殿はっ…」
我の叫びが、高めの天井に吸い込まれていく。
「何故彼を嬲る!!何故気付けぬ!?そのまま本当に殺し合うのか!!!!」
「先刻から煩いな雷堂…それは人修羅の事か?」
「今の貴殿を人間たらしめるのは、彼の場所が在るからだ!」
「意味が解らぬ事を喚いてくれるな…!何が…人間だ」
眼帯をブチリと剥ぎ取り、放ったライドウ。外気に曝される我の右眼。
左手を振り翳し…彼は哂う。
「功刀も!僕が人間らしければらしい程困るだろうよ!」

嗚呼…やはり憎い。
憎き、葛葉ライドウ…そんなにまで…
そんなにまで、その感情の正体に気付けぬなら…
気付けぬまま彼を飼い殺してしまうのなら…
我が、代わりになってやろうか…
彼を、間違い無く愛せるこの我が…

「その眼!僕に返せぇッ!日向ぁあ!!!!」

真っ直ぐに、右眼へと下りてくるその愛しき悪魔の手。
我を憎悪で絡め取る、闇色の眼。
決して見えぬ右の眼球に思い描き…見開いた。



焔の楼閣・了


↓↓↓あとがき↓↓↓
ライドウの心というものは、既に壊れているのです。
救えないのです。
…まあ、傍から見れば、なのですが。
何が彼にとって救いの形になるのかは、彼が決める事なのでしょう。

人修羅の台詞が、それぞれどのSSからの抽出が解ったら、貴方様は湿血帯マニアです(嫌だ)

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