三世因果
「葛葉、葛葉…起きなさい」
何かに呼ばれ、意識が覚醒する。
と、急な衝撃に身体全身が打ちつけられた痛みを覚える。
しっかりと眼を開けば、そこは自室の寝台でも遊郭でも無い。
眼の前にあるのは机の、脚か。
「く、葛葉さん」
見上げれば、机に向かう生徒が此方を見下ろして唖然としている。
「…」
「手、貸しますか?」
ようやく脳内が理解する。
(まさか、居眠りしてしまったのか)
そんな馬鹿な、と思ったが、それならこの現状は何なのだ。
「いや、大丈夫だ」
すっくと立ち上がり、倒れた椅子を直し着席する。
居眠りの挙句、床に突っ伏したとは。
周囲の生徒がひそりとざわめく。
「こら、私語を慎みなさい」
教師の叱咤に治まる教室。
それはそうだ、不登校の不良が、いざ出席して居眠りとは。
我ながら、良い度胸である。
これが他の生徒なら、ぴしゃりと本でひと叩きされたかもしれない。
しかし僕だ。
教師も、訳の分からぬ生徒に手出しは気が進まないのだろう。
(疲れているのか…)
普段なら、どんなに依頼をこなしても影響無いと云うのに。
やがて終業の鐘が鳴り、教師が教本を閉じる。
起立・礼・アリガトウゴザイマシタ
…その一連の動作を全員で行い、授業は終わる。
各々が友人と会話しに、方々へと散っていく。
何処からと無く、潜めた笑いが洩れる。
(ああ、僕の事でも話しているのだろうな)
床に突っ伏す等、この学校創立以来初なのではないか。
そんな事を自負出来る。
とりあえず日程調整でもしようかと、手帳を取り出して見る。
依頼と、学校の試験日…
気になった悪魔の覚書…
あっという間に空欄は消える。
(ゴウトの手帳はどちらかと云えば辞書だからな…)
当人には云わぬが、あまり役に立たない。
其処に記述される内容は、記憶しているから。
「あ、葛葉さんもその手帳を使っているのですか?」
弾む声音で問い掛けてくる、その先を見た。
数少ない女学生の一人が、此方に笑顔で聞いていた。
「ああ…これですか?」
「ええ、それ私も使っているの」
渋色の袴をばたつかせて少し歩み寄ってくる。
「これ、月の満ち欠けが載っているでしょう?なかなか面白いと思って…」
その女学生の指摘した特長は
まさしくこの手帳を購入した理由である。
文具屋で、絶対気に入った物しか買わぬ自身は
特に手帳は時間を掛けて選りすぐる。
この手帳は日毎に欄の端に月齢が印刷されている。
かなり拘ったその仕様に、まず眼を惹かれた。
「葛葉さんは月を見たりしますの?」
続く女学生の問いに、お得意の笑顔を作る。
「ええ、見ますよ」
「まあ、風情が在って良き事!」
「特に満ちる日は気をつけますね」
「気をつける…?」
少し疑問に思った様な女学生が、挨拶をして席に戻る。
(そう、満月にね…)
その引力に魔が引寄せられるが如く。
彼の中の暗き部分がその光で照らされるが如く…
(ああ、彼を連れ、帝都へ来て…もう結構経ったな)
あれから、何が変わったのか、と云えば
実は云うほどの変化は無い。
日々依頼をこなし、帝都の平穏を願う。
凶悪な悪魔も蔓延る事も無し。
実に…平和だった。
なのに
何が僕をそうさせるのだ。
彼も思考する脳が在るのだ、まして同年代。
使役している、という魂の契約が在れば済むではないか。
何故…こんなにも、僕は、人修羅に馴れ合うのだ。
放置する事に不安を覚えるのだ。
(大丈夫だ、恐怖と固定観念が彼を縛る)
そう、その筈なのに…
同じ顔をした雷堂を…徹底的に、貶めてやらねば気が済まなかった。
(僕が、ボルテクスで拾い上げたのだ)
あの、哀れで可笑しい生き物を。
あの眼は、僕を畏怖している…軽蔑している。
その奥で微かに、揺らめく欲求を感じる。
《誰かに、必要と、して欲しい…》
存在意義など、ルシファーの傘下に行けば与えられる。
それなのに、悦んで行かぬ理由は…
まだ、人間として見て欲しいから…だ。
結局何も刻まずに、手帳を閉じて鞄へ入れた。
未だ痛む背に触れぬ様、鞄の肩紐を掛ける。
「おい、大丈夫か葛葉」
教室の入り口で、教師と鉢合わせる。
先刻の授業を担当した國語教師…名は…忘れた。
「ええ、先程は失礼致しました」
「珍しいな、お前が居眠りだなんて…」
少し骨ばった、チョークで汚れた白い指先で教本を持つ。
その教師に僕は笑顔で応える。
「あまりに心地良い朗読でしたので…」
その冗談に、教師は一瞬ぎょっと眼を開いたが
すぐに綻んだ顔付きになる。
「試験は落とすなよ?記録更新が止まるぞ?」
そう云い、教本で僕の学帽をぽふりと叩き去って行く。
「あ…」
しばし、その場に立ち尽くした。
(こういうものを求めて、学校へ逃げている…)
ざわつく胸を押さえ、息苦しくなる呼吸を整えた。
(駄目だ、いけない…)
壊れる、これでは更に逃げ道を広げてしまう。
明暗がはっきりしている程に、呼吸困難になる。
悪魔召喚皇
これだけ、はっきりと、鮮明に僕の中に在る野望。
僕が成るのは…
教壇の上に立ち、教本を振るう教師ではない。
叢の上に立ち、悪鬼羅刹共を駆る皇に…
(その為に、あの悪魔の王たる彼を野放しには出来ない)
生徒の闊歩する廊下を足早に通過する。
すれ違う生徒達に、その視線を向けられる。
何を話しているか等もう、いちいち気にしない。
「あの人、また一番だって」
「いつ勉強してんのかな」
背後から聞こえてくる声に、壁の掲示の存在を一際感じた。
試験結果の掲示に在る順位。
一番は、僕だ。
(当然だ、入学時にほぼ修学していたのだから)
頂点に居るのが、この身を保持する。
介入されない、むしろ煙たがられる。
それが良い、それで良い…
少し肌寒くなってきた校庭を歩き、学生の自身から還る。
師範学校を抜ければ、自身は悪魔使いに成るのだ。
人修羅の身体が鈍らぬ様に、そろそろ依頼でも手伝わせるか…
そんな考えに脳を埋められ、校門の桜の木をくぐる。
すると、其処に影が揺れた。
まるで、生き写しの…
「!!!!」
学生鞄を其れに向かって投げ放ち、外套下に伸ばした指先で
刀の柄を握り締める。
背後から生徒の叫びが聴こえる。
それを聴こえないふりをして、抜刀した刃先を影に突き立てる。
「学校にまで来るなんて、空気を読めよ…お前」
口を歪ませるそれは、光る眼を燻らせて刃先を腕で呑み込む。
『クククク…』
纏わりついて離れぬ、倒しても倒しても消えぬ影。
影法師が、その蝙蝠羽の如くなびかせる外套の闇から繰り出す電撃。
退いて避けるが、すぐにその行き先を振り返る。
同時に管を抜き、解き放つ。
「喰い止めろ!」
放ったツチグモが、砂塵を巻き上げその電撃の壁となる。
なんとか一般人を巻き込む事は回避出来たようだ。
しかし、ツチグモの姿が見えぬ上、得体の知れぬ化け物と交戦する様を見てか…生徒数名が慄き脚をすくませている。
(あれでは逃げるのは無理…か)
そう判断し、こちらへと影法師を挑発する。
奴に向かって駆け出し、その触れるか触れないかの距離から云う。
「来い、遊んでやるよ」
ニタリと哂った影が、そうして僕に追従してくる。
そのまま学校傍の河川敷へとおびき寄せる。
ツチグモの脚が土手の茂る緑を散らして、影に斬撃を与える。
背の痛みと謎の疲労感を感じつつ、銃でツチグモの背後から狙う。
(こんな時に来るお前が悪い)
苛立ちが、銃を握る指に力を込めさせる。
(影め…)
何かと、錯覚する。
あの、額に傷の在る…影と。
「消えろ…!」
必要以上に撃ちつける弾丸の雨に、ツチグモが一歩退く。
『ライドウ…?』
転がり、反動で土手を滑り落ちていくそれに照準を合わせ、まだ撃ち続ける。
『もう大丈夫だろう?』
ツチグモの意見を無視して、その影を追って脚を滑らせて降りる。
茂みを蹴り漁り、影の落ちた先を捜す。
(何処へ行った…)
散り散りにしてやりたい衝動が、背の痛みを鈍らせる。
すると、突如景色が反転して緑に埋まる。
「!」
茂みに引き込まれ、僕は仰向けに倒れ込んだのだった。
脚を掴む指の感触がはっきりとそれを認識させた。
すぐに銃口を脚先へ向けるが、振り上げられた槍が視界に映る。
上体を反らせ瞬時に構えるが、覚悟して歯を食い縛る。
「は…っ」
ずぐり、と重い、肉感的な音がした。
それは、影法師の槍が僕を貫いた音…では無く。
影法師の背から喰いこんだ刃先が、奏でた音だった。
その大太刀の切っ先は、紙一重で僕の首筋で止まっていた。
「…深追いし過ぎだろう、貴殿」
その声と得物に、僕の先刻の錯覚が具体的に成ったのを感じた。
「どうも」
そう短に云い、怯んでいる影法師の額に銃口を押し当て…
そのまま発砲してやった。
『クク…マタナ』
哂いながらその影はようやく姿を消す。
禍々しい気配が一帯から掻き消えた…
『ライドウ…!』
異変に気付いたツチグモが降りてきた様である。
管を指先で弄び、指令する。
「事無きを得た、戻って良いよ…」
『…大丈夫かライドウ』
一言残して、戻るツチグモ。
僕は返答せずに、向き直った…葛葉雷堂に。
「…僕に用?探偵社に君の想い人なら居る筈だが?」
哂ってそう云ってやれば、納刀した雷堂が静かに口を開く。
「いいや、彼は我を遠ざけているだろう…今回は刀を納めて欲しい」
その言葉に偽りは感じない。
別にこれが嘘だとしても、応戦ならいくらでも可能だ。
僕は銃を納めて、素手で外套の草を掃い落とした。
「…で、其方の帝都を放置して何をしに?僕に復讐でも?」
「確かに、拳のひとつもくれてやりたくは有る」
「で、しないのかい?」
聞けば、雷堂は帽子のつばをぐい、と下げ返答する。
「向こうに居る貴殿の学友に見られて良いのか?」
そう云われ背面に首を向ければ、土手上に人影が。
「あ、の…葛葉さん、鞄…」
震えながら、砂汚れの僕の学生鞄を手にしていた。
先刻校庭に居た生徒のひとりだろう。
僕は斜面を滑る革靴で登り、笑顔を取り繕う。
「わざわざ?有り難う」
「え、あ…はい」
僕に向けられるその眼は、それまでのものと少し違っていた。
恐怖が混ざっている。
「じ、じゃあこれで!」
その生徒は踵を返して走り去っていく。
「その様に普通の対応が出来るなら、何故人修羅にそれをせぬのだ」
背後の雷堂の言葉に、鼻で笑う。
「人修羅は学友でも無いし一般人でも無い」
「彼がそれを求めていても?」
「誰がするか、アレは僕が使役する悪魔だ」
じくじくと、傷が開いて痛む背に熱を感じながら僕は帰路につく。
「身体が…おかしくないのか貴殿」
傍を離れず追いてくる雷堂の言葉に、一瞬脚を止めた。
「何か知っているのなら、教えて頂きたいものだね」
「…陰陽の、均衡が崩れている、のだと思い参った」
「…へえ、何故崩れたか、原因を具体的に云ってくれたまえよ」
そう云い返せば、口ごもる雷堂。
胎内の陰陽が崩れるなど…そんな理由は分かり切っている。
最近の行いでなら、明らかに原因と思われるものがある。
「姿は違えど、君と交わったからな…雷堂?」
傷を抉り出すかの様に、笑いながらそう云う僕を
彼は険しい顔で見つめてきた。
「そうだ、貴殿のおぞましい行動が生んだ結果だ」
「フフ、やはり相対的な存在だという事…か」
哂い、あの事を思い起こす…
見つめてくる雷堂の眼は、浮かれたかの様に熱をはらんでいた。
普段の仏頂面は、やんわりと柔和な笑みすら湛えて。
指先が掴んでくる、その動きは壊れ物を扱うかの様で。
「実に、滑稽だな…君も僕も」
「…欺いて、悪びれる事も無く、か」
「悪い?そんな事理解しているさ…」
人ごみがちらつく電車駅が見えてくると、雷堂が制止をかけて来た。
「同じ顔で乗ると、何かと詮索されるのでは?」
「君が追いて来なければ済む話だ」
「…悪いが、そうもいかぬ…」
一触即発で電車に乗り込むとは…とも思うが。
周囲に人の波が在るからこそ、打ち合いに発展しないのだ。
(何を考えている、葛葉雷堂…)
もう、諦めた、崩落したと思ったのに。
意外としぶとい…いや、寧ろ鈍いのか?
レールを走り来る電車が、止まりきる前に
僕は学帽を脱ぎ、髪を手櫛で散らした。
「これで双子とも思われぬだろう?」
「…」
雷堂にそう云い、開扉した電車に乗り込む。
流れていく景色を、警戒は解かずに見つめていた。
「貴殿には…ラヂヲ塔で世話になったな」
赤い、其れが遠くに見える…
「男根に負けているのが、自分の影だと思うと腹立たしくてね」
「ふ、手厳しい」
「アカラナの修行、成果に成らぬなら止めたらどうだい?人修羅とばったり逢われても困るからね」
「…初めて逢った時、不思議な悪魔だと思った」
車窓に映りこむ雷堂の表情が、遠くなっていく。
「デビルサマナーに臆せず、先刻まで焔を揮って殺気塗れだったというのに…次の瞬間には頭を下げ、笑顔を見せた」
「ハッ、僕はアレの笑顔なんざ記憶に薄いよ」
「我は…あの日から、既に囚われていたのかも知れぬ…」
デビルサマナーとして、ありえない発言だった。
それは、自身の存在を否定するのと同じであり、禁句だ。
「功刀に逢ったとして、どうするんだ君は」
問えば、その映りこんだ視線が、僕の方を見た。
「もう、友でも何でも無い…我を蔑んでいるやも知れぬ…だが」
一息吐き出して、はっきりとした声音で僕に向かって云った。
「ただ…ただ傍に置いて欲しいのだ」
「…それは君が彼という者としか、深く接触していないからだ」
「錯覚、か…だが、それならそれで、構わぬ」
「随分と刹那的じゃないか…雷堂、それでも十四代目か?」
その単語を出せば、眉間に皺が寄る。
その、自分達を縛る単語を出せば、頭では理解するのだ。
そう、頭では。
「どうすれば、貴殿が赦してくれるのか…彼を自由にさせるのか、其ればかり考えている」
各駅で停車する電車は、景色を留めている。
数人が降り、車内はがらんとして…人は片手で足りる程だ。
「悪魔を駆る時も、修練の時も、床に就く時も…」
「病気だろう」
「なんという病だ?」
そう聞かれて“恋”と答えそうになったが
あまりに馬鹿馬鹿しくてそれを呑み込んだ。
「彼が人の頃に憧れている様は、見ていて…辛いのだ」
「だから手を組んでいるのだがね、僕等は」
「普段から、色々制限を設けるのは酷だろうに」
「人修羅だぞ?君…何を云っているのか、もう一度咀嚼して、そしてそのまま嚥下してしまえ」
そう云い放ち、脚を組みかえる。
「…逃げ場の在る貴殿とは、違うのだ」
「…何だって?」
聞き捨てならぬ彼の発言に、僕は思わず睨みつけた。
「勉学に励み…書生として浮かれる、その心持を人修羅にも分けてやってくれたら、良いものを」
「…学校が、逃げ場だと?」
「普通を求めるが故、我々の行き着く宿り木だろう」
「なら…」
「我は、彼を使役するのなら、もう弓月の君には通わぬ」
「な…」
「彼の手にする事の出来ぬ物は、我も手にはせぬ…」
それは、どういう事だ?
つまりは、僕が…僕が甘い蜜に浸っているとでも?
「彼には赦さず…貴殿は息継ぎをしながら、生きているのだ」
次の瞬間、僕の手は雷堂の襟首を掴んでいた。
「…人修羅は…心の在る道具、だ…それに恩情を汲めと?」
「我は、彼の為なら、出来る事ならする…貴殿よりその覚悟は在る」
「…馬鹿、馬鹿しい…!」
鼻先が触れる程に、首を手繰り寄せる。
「本当に、馬鹿馬鹿しい…!君はそれなら土下座でもなんでもするというのか?」
指先を開き、掴みあげていた襟を解放した。
放された雷堂は、襟首を正して座り直すのかと思いきや…
「彼を、解放してやってくれ」
その外套の裾は、床に広がった。
指先を揃えた両手を、しっかと床に沿わせ、頭を垂れる。
「…そんなの、土下座じゃないよ」
見下ろしたままに、僕は組んだ脚をぶらりとさせて
雷堂の学帽の上から、ぐっと床に押し付け踏んだ。
額が擦れるまで、踏み込みを止めなかった。
「…頼む」
その、くぐもった声を聞いて何故だか怒りが増す。
その真っ直ぐな声が、僕の踏む脚から伝わって心の臓を射抜く。
そんな感触さえして、おぞましさに血管が浮く気持ちだ。
「聖人…気取りか…」
ぐぐ、と更に押し踏めば、雷堂の床に着いた指先に力が入る。
「止めないか君…!」
すると、脇から初老の男性の声がする。
見れば、数少ない乗客のひとりの様だった。
折り目正しく、着物を纏って杖をついている。
「弓月の生徒だろう、品格を疑われるぞ…!」
「…」
その品行方正な、感覚としては見習うべき行為も
今の僕にとっては只の妨害でしか無い。
「…ええ、そうですね」
落ち着いた、低い声でそう返して脚を退ける。
逆上しないのを見て安心したのか、その男性は場を離れる。
「頭、もう上げなよ」
雷堂の顎の下から、靴の甲でひと蹴りして、僕は自身の鞄を手にした。
その鞄から、選別した物を手に取る。
かちりと鍵を解除し、開け放った窓から風が入り込む。
少し冷たいそれが頬を撫ぜ、髪を扇ぐ。
丁度、下方を見れば…河川を跨ぐ橋を通過中だった。
僕は、手にした教科書を、窓から放り投げた。
「…おい、ライドウ…!」
背後から雷堂の声がした。
その時には既に、大半の教科を投げ終えていた。
虚空にひとしきり舞った後、水面に落下していく本。
それは水面を揺らして、見えなくなる。
「これで、満足?」
雷堂を振り返る。
僕は、またいつもの様に哂っていたろうか?
「勉学に現を抜かすのが甘えなら、それくらい棄ててやる」
もう、習う事も無い。
試験で順位を維持する事も無い。
他の生徒から畏怖される事も無い。
「…君が云う事くらい、容易い…雷堂!」
学帽を被り、軽くなった鞄を肩に掛けて扉に向かう僕を
雷堂は立ち上がり追ってくる。
「今更、カタギに成りたいとも望まない」
「貴殿、何もあれは…たとえであって」
「なら君、土下座しろと云うのも、たとえだったのだが」
「…それは」
開いた扉から、車外へと身をやつす。
「土下座で、赦されるなら、それこそ…安いと思ったのだ」
「ふ…業斗殿が聞いたら泣くぞ」
「だろうな、我とて異常だと思う…だが、この身が云うのだ…知らぬ内に、身体が動いているのだ」
「それで人修羅を押し倒されては堪らない」
そう嘲ると、彼の息を呑む音がした。
そういう欲も、やはり常駐しているらしい。
「ここから、もう追いて来るな…式も飛ばすな」
やがて到達した銀楼閣の前で、そう背後に勧告する。
「我が、宜しくと云っていた…と、伝えてはもらえぬか」
「…気が向いたらね」
「頼み申す」
「…僕が、抜刀しない内に、早く帰れ」
「…では」
その気配が、雑踏に紛れて消えたのを背に感じてから
僕は銀楼閣の扉を開けた。
暗い階段を上がり、事務所の扉を少し開く。
薄っすらと埃が陽に照らされ、淀んでいる。
誰も居ない。
閉じ、更に上の自室へと上がる。
「は…っ…」
息苦しい。
圧迫感…魔力の胎動。
焦り、眼の前の扉を開く。
「物騒だな…その柄に掛けた手は、除けたらどうだ…」
何故、こいつが此処に来るんだ。
此処は、教会では無い。
「久しぶりだね、ライドウ…いや、夜?」
金髪を撫で付け、ハンチング帽をした青年が居た。
「…人修羅は、何処に」
「そうそう、君はやや過保護な嫌いが有るな」
「…何処へ遣ったか、聞いているのですが」
「あまりに燻っていると、風の噂で聞いてね…様子見ついでに、少し放し飼いしてやった」
その、普通の成りをした青年の魔力を感じると
僕が挑もうとするものの深淵を覗き込む様で、締め付けられる。
「…約束と違いますが、彼は…まだ」
「夜、いいか…よくお聞き」
その青い眼が、僕の脚を縛る。
動ける、が…動く気がしない。
「ぼくはね、人修羅が研ぎ澄まされるなら、飼い主など誰でも良い…」
「…僕では、不足、と?」
「いいや、なかなか引き出してはいるね…だが、最近彼を遊ばせてやったのか?」
まさか、功刀矢代…
(悪魔伝いに、こいつを動かした…?)
人修羅を将来の王と崇める、信者達が存在する。
当然、この時代にも流れたその衆が。
そいつ等が、人修羅を使役する僕を良く思う筈も無い。
悪魔を嫌う彼が…接触するとしたら、利用する時だけだろう。
「君が束縛しては、矢代も可哀想だ」
「…他に、奪われまいとした、だけです」
「嫉妬が醜いとは、流石に云えぬが…」
優雅に笑いながら、窓に寄る。
「彼は行きたい処へと向かった…まだ飼う気が在るのなら、捜したまえ」
そのまま、窓外へと舞い落ちていく。
すぐ駆け寄り、身を乗り出したが…すでに影すら無かった。
ふわり、と…ひとつ舞う羽を手に取る。
(そこまでして…僕から逃れたいのか)
何を棄てれば良いのだ。
まだ、まだ足りぬのか。
使役するのは、僕だろう…何か、おかしくはないのか?
「…矢代っ」
羽をぱきりと折る。
「お前の居る場所は…此処だけで良いだろうが…!!」
東京でもない。平行世界でもない。堕天使の城でもない。
僕の支配下、だけだろうが…!
三世因果・了
↓↓↓あとがき↓↓↓
大して痛くもない話(既に基準がそこ)
ライドウはライドウで逃げている部分があって
雷堂はそこにふっかけてライドウを糾弾しましたが…
まあ、雷堂の方が下手に出ております。
本当に、ライドウは負けず嫌いです…かなり。
まだ、土下座で済んでいます、軽いです。
もっと病気になっていきます。
ルイ様、本編からちょい出という感じで。
続きは雷堂と人修羅のめくるめく…う、ふふ。
陰陽の均衡が乱れるなら、雷堂もでは?と思いますが…
受け入れたライドウのみ乱れたという事で(生々しい)
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