帰る頃には、本殿の門に篝火が燈されていた。
薄闇の中、炎の揺れに照らされた門番が、我を見るなり身を寄せる。
「如何した」
「雷堂様、それが…」
耳元で伝えるその眼が、一瞬足元の業斗を見た。居て都合が良いのか、悪いのか。
「…山で襲われた二名が、ようやく正気に立ち直りました」
「そうか、我も鬼を数体討って参った。病み上がりに悪いが、彼等に訊ね聴きたい事が幾つかある」
「そ、それよりも雷堂様に、まず向かって頂きたい用件が」
黒い頭巾の隙間で、よく見れば狼狽えている双眸。
そこそこ冷静な者を此処に配置している筈だが、余程の事が起こっているのだろうか…
「今、隔離してありまして」
「隔離……何をだ?凶悪な悪魔でも迷い込んだか?」
「凶悪…ま、まあ当たらずとも遠からず。兎にも角にも、雷堂様が対処されるが一番かと」
「我が?」
「貴方様にしか、手懐けれぬ…例の、厄介者です」
懐いていたかは別として、我に再び逢いに来る悪魔なぞ、一人しか知らぬ。
見舞う予定の二名の顔は、この瞬間に脳裏から吹っ飛んだ。
「何処に隔してある」
「雷堂様の離れと逆の、渡りの廊下の奥です」
それは嫌な場所だった。あれから使う事も無く、今、言葉に出されるまで忘れていたくらいだ。
いいや「忘れたかった」の間違いだろうか。
門番に礼をし、門を潜り階段を駆け上がる。業斗の小さな器では息切れするその距離を、一気に駆け抜ける。
どうしてか、予感がしていた。
それが歓びなのか、哀しみなのか、そこまで予測する前に身体が動いている。
昔、呪符を裏に貼った此の橋を渡り…蹴り開けた、行儀悪い何処かのサマナーの様に。
背後で、黒猫が威嚇の呻りを響かせている。
我の背後に続いた数名の黒装束が、橋の上から屋内を覗き込んでくるのが感じ取れる。
灯篭も何も点けられていない。高い天井が、吸い込まれそうな闇を作り出す広い空間。
その直中に鮮明に浮かび上がる、蛍よりも厳かな光。
遥か昔に見た様な気もしたが、つい先日の夢にも見た気がする。
右眼が疼く、もう彼の眼球は其処に無い筈なのに。
恐らく、義眼を泪が流し転がそうとしているのだ。

「……矢代君っ」

偽者という可能性を、抱き締めて今更思いついた。
馬鹿の様に一心不乱に、背の得物を鞘袋に入れたまま駆け寄ってしまった。
今、飛びついておかねば、消えてしまうのではないかと思ったのだ。
「…苦しい、雷堂さん」
「あ、ああっ、す、すまぬ」
少し腕を緩めて、かつて愛した半人半魔を覗き込む。
皆、恐れているのだろうか。拘束さえも出来なかったのか、人修羅の手足は滑らかなままで…
いや、暗がりに見えていないだけかもしれぬ。擬態を解除している、もしかすれば臨戦態勢ではないか。
ヤタガラスが無体を働いてはいないかと不安になり、その柔らかな黒髪を梳き、項の角に傷は無いかと指で撫ぞった。
ああ、良かった…血汚れも無いし、角も瑞々しい手触りだ。
「お久しぶりです、雷堂さん…」
「ああ、ああ、本当に君なのか」
「同じ手は使わないでしょう?あの男」
素っ気ない物云いだが、少し苦笑した唇が柔らかそうで堪らない。
「単刀直入に済ませます。俺、雷堂さんの助けになりたくて来たんです」
「今、何と」
やはり偽者かと一瞬疑ってしまいたくなる、それとも我の勝手な幻聴かと。
我の事を思って、今此処に居ると云うのか、君は。
嘘だ……
「平行世界のヤタガラスが悪魔を嗾けてるんです、こっちの世界に」
「どういう事だ」
「だから俺、それを伝えようとこっちに――」
「君のライドウは如何した」
嘘にしたく無い。
ああ、如何して。もう諦めていた筈なのに。
今、「君のライドウ」と口にしただけで、心臓を自ら締め上げたかのようだった。
腕の中、相変わらず見上げてくる眼は年齢の割に何処か幼気で。
いや、あれから数年…何も変わっておらぬ。
そういえば、人修羅が老いぬ身である事を、こうして再会して初めて実感した。





「俺の方のライドウは…今頃捜してるかもしれませんね、俺の事」
さらりと述べる人修羅に、焦りの色は無い。
「追って来るのでは?」
「いえ、最近の仕事が機関勅命のばかりで、俺に構ってる暇はあまり無いみたいですから…」
着物の色は、墨に近い濃紺だった。
寒空の下の色だというのに、人修羅が着ると冷え込む事は無い、心地好い涼しさだ。
開け放した窓辺の椅子に身を凭せ掛け、外の葉影を眺めている。
こうして自室に彼を置く事を、止められる者は居なかった。
いや…渡しの廊下にて、業斗の眼が我の背を貫いていた事は確かだが。
「何故、其方のヤタガラスが我等を襲うのだ…君は如何して知るに到った?」
「あいつの上司…御上が話してるのを、里で見て。真意は分かりませんけど、どうせロクでも無い理由でしょう」
「矢代君は如何して…我等の肩を持ってくれたのだ?」
「……あっちの…ライドウのヤタガラスには、反吐が出る程嫌な思いさせられてるんです。だから…俺の理由もその程度です」
失笑した人修羅。既に擬態をして、人の姿そのものとなっている。
我はどちらの姿も好きだが、今は敢えて云わない事にした。
「しかし、其方のヤタガラスを攻撃する事になるのだぞ?……君のライドウが、また敵対する事に成りかねん」
「俺は情報流して、もうとんずらしますよ。戦場に首を突っ込む気は無い」
「直接手を下さずとも、彼が傷付く可能性が有るだろう。それに、君の情報が我等を勝利させれば、君のライドウのヤタガラスは…」
「良いんじゃないですか?あいつ、自分の機関嫌ってるし…壊滅したら、それこそ万歳でもするんじゃないですかね」
「あのライドウが?ふふ…それは見てみたいな」
「笑い事じゃないですって、あの野郎、自分が召喚皇になる事しか頭に無いんですから」
少しむっとした後、遠くを見る。あの男の話をする君は、いつも寂しそうだ。
眼の前に存在して居て、来てくれた理由も我に有益な内容だと云うに…
それでも我は、心の何処かで寒気を感じていた。

きーぃ きちきちきち

窓の外、甲高い百舌鳥の声に気を取られた人修羅。
その横顔が鮮明になる。
「……何、ですか」
違う、我が縋っていた、その肩を抱く様にして。
強張った君の肩は、何処か冷たい。微かに震えている、寒いのだろうか。
「火鉢でも置こうか」
「俺は寒くないです…擬態してても、雪でも無ければこの程度」
「もう帰るのか?」
ライドウの処に、とは、訊けなかった。
わざわざ云う事も無い。「構って貰えない」と拗ねている君が、彼の下に帰らぬ筈が無い。
「…山に、鬼が出るんでしょう?四鬼を送ると、ライドウのヤタガラスが云ってましたから」
「ああ、一体逃してしまったのだ。恐らくオンギョウキと思われる……太平記に書かれる通り、気配が消えてしまったのだ」
「雲隠れし易い山なんですか?鬱蒼としているとか…」
「そうだ、此処からも見えるだろう、あの真紅な山だ」
窓の外を指差したが、既に陽は没していて。山陰がぼんやりと浮かび上がるのみだ。
少し睨む様にして眼を凝らした人修羅は、我の腕を制しつつ苦笑した。
「色は判りませんね」
「ふむ、そうだ。明日紅葉狩りに行こう、矢代君」
「…さっき鬼を獲り逃したって云ったばかりじゃないですか」
「化かされた訳では無いが、鬼が感嘆しても可笑しくない景色だぞ?なあ、君と観たいのだ矢代君」
押される腕を、まだ放したくないと、ずるずる逃れる様にして下方に縋り落ちる。
人修羅の腿は筋肉質でも無く、かと云って柔らか過ぎる事も無く。
着物越しに股座の形を確かめる。椅子の前に跪いて、頬擦りして膝を頂く。
溜息しつつも我を足蹴にしない君に感謝して、ぎゅうっと此の脚を抱き締めた。
「…ちょっとだけですからね」
「良いのか?」
「散歩程度ですよ?そうしたら、俺すぐに帰り…」
我を見下ろして喋る途中の君の、その瑞々しい唇が。あ、と驚きに開いたままとなる。
椅子の手摺に、その骨っぽい華奢な手首を添わせ…押さえ込めば、小さく叫んだ。
「そっちじゃな――」
立ち上がり、覆い被さる様に接吻した。
手袋なぞとうに脱ぎ捨ててある。指がかじかむ前に、君で温める夢想をして脱いだから。
「ふ、っ……ん、ぐ……」
遠くの紅葉より、手前の高揚の方が紅い。
てっきり、首をいやいやと振られるかと思ったが。喉奥からの喘ぎが零れるだけで。
調子付いて舌を遊ばせてみれば、君の舌は反射に引っ込むものの、激しく逃げない。
拒絶の色が無い事に、背筋が快感を駆け巡る。
MAGの味は、あまりに久しくて少し記憶と違う様にも感じた。
「ん、んん、ぅー…ッ」
人修羅の苦しげな喘ぎに気付けば、我は椅子に乗り上げて、君の股座に腰を押し付けそうな勢いで。
みっともなく脹らんだ下肢に今更言い訳も出来ないので、せめてと思い唇は開放した。
「〜っ!ぷは、ぁ……はぁっ、はぁ」
「……ん、すま…ぬ……接触を、許されたと思い、ついな」
「はぁっ、はぁ…とぼけてる…でしょう、っ、明さん…っ」
眉を顰め、唇を拭う仕草さえ懐かしい。
君は気付いたろうか、ついほろりと我の名を呼んだ事を。
不思議と、それだけでこの宵は大方満足してしまった。
この調子なら…押しても拒絶されぬかも、と、実のところ不埒な妄想を抱いていたが。
(あたたかい)
少しの接吻と、名前を呼ばれたそれだけで、先刻まで付き纏っていた冷えが殆ど消えた。
「とぼけてなどいない、我は常に真面目だ」
「…もう……っ…そういうのが、一番性質悪いんです」
「そうだ、今から湯浴みに行こう矢代君。明日の紅葉狩りに備え、身体を温めておかねば」
「俺は濡れ布巾くれたら、それで…」
「そんな物、持ってくるまでに冷えてしまう。しっかり湯に浸かってこそなのだから」
「…はぁ……本来の目的、憶えてますか?お風呂でも紅葉狩りでもなくて、鬼退治でしょう雷堂さん…」
君の袖を引っ張る、甘える駄々子の様に。
「あれからもう数年だろう?湯船に浸かって百数える間にで良いから、君の話が聴きたい」
「子供じゃあるまいし…」
「もう二十二だ」
「張り切って云わないで下さい」
あれから少しは落ち着いたのだろうか、君の空気は以前より澄んでいた。
甘える程に、溜息と共に受け止めてくれる姿勢に、溺れてしまいそうだから…
明日、紅葉狩りの後、別れるのは正しい事なのだろう、きっと。

可笑しく互いに微笑み合っていたが…
我は心のかじかんだ部分を、ずっと無視し続けていた。

君と共に見る紅葉だけを、ひたすら脳裏に咲かせていた。



紅葉に鹿《前》・了


↓↓↓あとがき+a↓↓↓
『紅葉に鹿』は、花札から。
能の『紅葉狩』からタイトルを取ろうか迷いましたが、味気無いので上記タイトルに。
太平記の四鬼は、信州戸隠の紅葉伝説とは本来無縁です。

突然の人修羅の来訪。跳び付く割には、傷付くのを恐れて抑えている雷堂。
これはライドウEND後の展開なのか?と思われそうですが、後半をお待ち下さい。
そういえば、二体同時召喚出来るまでには成長しております。


back