その名を紡げ
「どうした?」
「いえ…」
「もう要らぬのか?」
セルロイド食器に、スプーンを置く。
眼の前の書生に、視線を移せば
何処か困ったような表情でこちらを窺ってくる。
「いえ、違うんです…俺、味が良く判らなくって…」
「満腹感でか?」
「それが…この身体に成ってから舌がイカレちゃったみたいで」
はは、と自虐気味に笑ってスプーンを再び持てば
書生の指が、自分の指に置かれた。
「無理せずとも良い」
「でも折角払ってもらったし…」
「我が勝手に注文した、矢代君の意見も聞かずにな」
気遣いの溢れる言葉は、見慣れた顔の、その唇から発されている。
額にかけて顔を渡る傷痕だけを除いて…
俺はもう何日か、帰っていなかった。
何処へって?
本来の主人の下へ。
14代目葛葉ライドウの居る帝都へ。
「良いのか?帰ってこっ酷く叱られるのは目に見えているぞ」
雷堂の心配そうな声に、俺は笑って返す。
そんな必要無い、と。
「大丈夫ですよ、あいつ今相当掛かる依頼の真っ最中で」
「そんなにか?」
「槻賀多村…とか何とかいう村まで出張してますから」
どうやら一週間近く掛かるようだった。
出掛けに大きなトランクに荷詰めするライドウを見た。
数本刀を縛り、管も全て持ち出していた。
「何故人修羅である君を連れなかったのだ?」
不安が疑問に変わったのか、雷堂が立て続けに聞いてくる。
「俺は同時進行で別の依頼をさせられていたんで…」
冷めた珈琲を一口啜った。
舌にびりりと、風味が奔る。
何故だか苦味は認識し易いので、珈琲は判る。
むしろ苦味に関しては、酷く鋭敏になった気がするのだ。
「ほう、矢代君はしっかり探偵社の手伝いもしているのか」
「…あいつ人使い荒いですから」
口に詰めたハヤシライスを、珈琲で流し込む。
これで眼の前の皿は綺麗になった。
「云われていた素材も集め終えたし、後はタイミング見計らって帰れば良い話ですよ」
ナプキンで口元を拭って、たたみ置く。
「…あの、雷堂さんはもう良いんですか?あまり食べてないですよね」
ふと気付き、それを問い掛ければ
眼の前の品行方正な書生は、穏やかに微笑む。
「小食でな、そう身体を作ってきた」
修行…の一環だろうか。
確かにこの人は精進料理等が似合っていた。
「だから君の食べっぷりを拝見しようかと思い、考えもせずに注文してしまった」
「え、いえそれはもう…俺もその際に云えば良かったんです、すいません」
似たもの同士なのか、互いに謝り続けてしまう。
「では、そろそろ出ようか」
「はい」
席を立ち、会計へと向かう。
外套から覗く、長い鞘の先端が、脚に触れそうで触れない。
歩く度に雷堂の其処へと眼が行ってしまう。
「ごちそうさまでした」
「我が勝手に誘ったのだ、気に召されるな」
ライドウより、淡々と語る口調は些か冷たさを感じるが
その実気遣いに満ちたものが多い。
少々無骨で荒削りなのが、彼の魅力だった。
(本当、ライドウとは大違いだ)
アカラナ回廊で偶然逢って、話し込む内に流れで来てしまった。
「来て正解だったぁ」
そう発声した俺は外の空気を吸い込み、ぐんと伸びをした。
「それは良かった」
背後で雷堂が返答した。
「すごく、気分転換になりました」
「なにより、ではもう帰るのか?」
「ええ、アカラナ回廊に向かいます」
俺が答えると、雷堂は少し考えるような素振りをする。
「なあ、矢代君」
「はい」
「良ければ明日、改めて遊びに来ないか」
その意外過ぎる確認に、俺は珍しく興奮した。
「業斗さんに叱られちゃいませんか?」
「実はな…」
まるで悪戯を明かす少年のような眼に、一瞬なった雷堂。
「ヤタガラスの召集で、お目付け役は出張している」
その言葉に、俺まで口元が綻ぶ。
「じゃあ明日は、こっちの世界の帝都を案内して下さい」
まるで、高校時代の様だ。
「良かろう、依頼も丁度無いからな…」
「観光してもバチは当たりませんよね」
何だか心が浮き立つ気分だ。
幼い頃のよく云われる遠足前夜…というやつか。
そもそも睡眠を必要としない俺は、そのまま起きているつもりだった。
別れた後、足取りも軽くアカラナ回廊を駆ける。
人修羅になってから、こんな浮き立つのは初めてかもしれなかった。
人の成りをして、人と過ごしているのとは違う。
あのデビルサマナーは俺がどういった存在か理解している。
それでいて、あの様に人となんら変わらず接してくれている。
「悪魔でもいいんだ」
独りごちて、ほくそ笑む俺は
傍から見れば気味悪いだろう。
襲い来る他の悪魔を
その軽い足取りのまま放ったジャベリンレインで一掃する。
宙で回転する時の爽快感が、格別だった。
探偵事務所の扉を開け、鳴海が居るか確認をする。
コートが無い…
どうやら、外出中の様だ。
それも、近場では無いらしい。
廊下に戻り階段を上がる。
一瞬、ドアノブに置いた手を止めて深呼吸する。
ギィ、と決して立て付けの良いといえぬ扉を開ける。
そこにはがらんとした、冷たい空気が漂っていた。
(まだ帰っていない…)
心の隅でホッとする自分が居る。
ライドウはまだ出張中らしく、遮光カーテンは閉まったままだ。
魔晶等をかき集めた袋を、無造作にベッドへと放った。
これで俺の役目は終わり。
あいつが帰るまで俺の好きにさせてもらうぞ。
そう決心して、適当に箪笥を漁る。
帝都に長居する際には、いつもライドウの服を拝借していた。
着物やら、真っ白なシャツやら色々あったが
俺はいつも通り、スラックスの上に着物を着た。
細い角帯で簡単に結ぶ。
この格好が一番楽だ。
戦う際にも、上を肌蹴れば馴染みの姿になる。
斑紋の放つ魔力の振動を、服が遮らない。
あれはくすぐったくて、上半身はどうしても肌蹴ている必要が有る。
肌を晒すのは本意では無いが、戦うのなんて悪魔にしか見られない。
「久しぶりだなぁ」
誰に云うでもない、云っているならば
自分の内に潜む仲魔に、だろうか。
今は召喚なんて殆どしないが、まだ契約は切れていない。
しかし、そんな彼らとも違う存在。
「友達みたいだ」
眼を閉じ、呟く。
先刻開けた窓から入る夜風が、頬を撫でていった…
「そう見ると、本当に人と変わりない」
「本当ですか?」
「ああ、全く変わりない」
「俺、それ云われると気分良くなります」
雷堂の、狙ったわけでも無さそうな言葉に
嬉々としている自分が分かる。
スニーカーというのが調和を崩しているが
いざ戦う際に、下駄では困る。
ライドウの様な革靴も持っていない。
「どうだ、君達の世界と違いは在るか?」
散歩がてら川べりを歩いている際に、雷堂が俺に問う。
「いえ…あまり無い、と思います」
「どちらが平和そうだ?」
「えっ、それは…どっこいどっこい、じゃないかと」
気にしているのだろうか。
しっかり帝都を護れているのか…と。
「…すまない」
いきなり発された謝罪に、思わず傍らの雷堂を見る。
「何が…」
「友など居なかった所為で、どうするべきか分からぬ…」
帽子のつばを押さえ、俯き加減に呟いた。
そんな雷堂を見て、俺は笑ってしまった。
「俺だってつるむタイプじゃなかったから、良く分かりませんよ」
「そうか…」
静かに笑みを湛えた雷堂は、俺を見る。
(この人、静かに笑うなぁ…)
ここ最近思った。
この人は余計なものが纏わり付いていない。
同年代の男性に感じるのもおかしいが
慈愛がその奥底に感じられた。
「矢代君、ひとつ聞きたい事が有る」
しかし、その笑みを消した雷堂。
「…はい、何ですか?」
やや警戒して、その次の言葉を待つ。
「君は、其方の葛葉ライドウの仲魔だ」
「不本意ながらそうですね」
「彼と、どのような関係を求めている?」
その言葉に、俺は足を止めた。
含みを感じる。感じずにはいられない。
「どう、って…このままサマナーと悪魔でいますよ?」
何の感情も入れず、そうとだけ答えた。
「そうか?それにしては互いに酷く依存しているようだが」
「一応主従関係ですから、ある程度の所有欲と従事観念によるものじゃないんですか?」
素っ気無く、ぶっきらぼうに言い放つ俺に
雷堂は腕を組みつつ俺を探る。
「しかしサマナーと仲魔の関係の延長線上に在るとは云い難い」
食い下がる。
「雷堂さん、云いたい事有るんですよね?はっきりお願いします」
俺はざわめく心境を抑え付け、彼を見た。
小川のせせらぎが聞こえる…
「君は…主人の方の“葛葉ライドウ“と、今歩いているつもりではないのか?」
「えっ」
「この我の姿形に、彼を求めている様に…思えてならぬ」
「な、に云ってるんですか」
そんな風に思わせていたなんて…心外だし、申し訳なくもあった。
「違うか?」
「違いますよ!」
荒げた声音で返す。
その声量にハッとして、我に返る。
「すいません、俺…」
涼しい気候の筈なのに、嫌な汗が滲む。
「そうか…我の思い違いなら、申し訳無かった」
そのまま俺を通り越し、歩む雷堂に
俺は引力が働くかの様に歩み続く。
「矢代君、結構歩いたろうに…カフエーで休憩を取ろうか」
「俺、まだ平気です」
「珈琲なら好きなのかと思ったのだが…」
先日珈琲ばかり啜った俺を見て、そう感じたのだろうか。
その気遣いに、俺はまた断りを入れる事が出来なくなった。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「此処のカフエーの珈琲は鳴海所長が絶賛している」
カラリと鳴る扉のベルの音が、やけに鮮明に聞こえた。
別珍の様な素材のクッションの椅子。
石と木で作られたテーブル。
アイアンのフレーム装飾の美しいランプ。
(ああ、これって)
まるで喫茶店の代名詞を集合体にしたような風景。
あの新世界なる店とは違い
万人に受けの良さそうな…ライトな感じを併せ持っていた。
席に着くなり、雷堂が外套を外して背もたれに畳んで掛ける。
「得物を預けてくる」
そう云って、あの長い大太刀の鞘を掴み席を立った。
(広い店だな)
地下に深く広がっていた。
天井が高くて、それがいっそうの開放感を作り上げる。
階段を上っていく雷堂を視線で見送る。
それにしても何故、雷堂はあんな事を問うて来たのだろう。
俺が雷堂さんをライドウと思って見てる…って思われたんだよな。
なんだかショックだった。
俺は間違いなく、其処に葛葉雷堂を見ているつもりだったのだが。
視線を膝元に落とす。
(雷堂さんが戻ったら、開口一番謝ろう)
そう思わせたのは俺だし、勝手に機嫌を損ねたのも俺だ。
拗ねて困らせるつもりは無いのだから…
すると向かいの方に着席の音と、影が動いた。
少し、戸惑ってから口を開く。
「雷堂さん、先刻はあんな風に返してしまって…すいませんでした」
「…」
「俺、重ねているつもりは全く無いです、そもそもあんな悪魔みたいなのと雷堂さんを一緒に捉える方が難しいです」
「そうか…“矢代”君…君は自分が悪魔だというのに、随分と人を棚に上げるな」
そのぶしつけな言い草に、口調は確かなのに、と
疑惑と共に面を上げた。
俺の頭から、足の先まで血の気が引いていく。
その書生の顔には、傷痕が無い。
まるで金魚みたく、口を、ぱくりぱくりとしてしまう。
言葉すら出ていなかった。
「酸素が足りていないのか?だからこんなに馬鹿なのか?」
穏やかとはいえぬ、その笑み。
「だから勝手に出歩いて、逢瀬をするのか?」
「あ…あ…」
本当に、冷や汗が滲んでいる。
何故この男が此処に居る?依頼は済んだのか?
そもそも何故俺が此処に居ると分かった?
その男の背の向こうに、もう一人書生が姿を見せた。
「矢代君…平気か?」
俺の向かいに座る人物を察して云ったのだろうか。
そんな気遣いの言葉すら、俺は受け取れぬ程に狼狽していた。
驚いた。
まさか席に戻って、もう一人の自身に出くわすとは思わなんだ。
人修羅の向かいに座る光景は
先程の自分達を第三者から見ているような錯覚に陥らせる。
「来たか、雷堂」
此方を向かずして云う“ライドウ”には返さず
「矢代君…平気か?」
彼に…人修羅に問い掛けた。
(可哀想に、酷くうろたえている…)
それはそうだ、あの主人に出歩いていた先で遭遇したのだ。
あのデビルサマナーに。
「雷堂、君はその愚図の隣にお掛けよ」
「…その様に仲魔を呼ぶものでは無い」
ライドウの指示に、釈然としないが従う。
隣の人修羅に視線を送るが、余裕は全く無さそうだ。
やはり契約上、逆らえぬ…そういうものなのだろうか?
「葛葉様…双子様でいらっしゃったのですか!?」
驚いた女中が、お品書きを手にしていつの間にか佇んでいた。
「いや、これは…」
「ええ、其方は僕の兄です、宜しく…女中のお嬢さん」
勝手に兄にされてしまった。
しかしその方が話は楽である。
口説くかの様な所作に、女中は赤面してライドウを見ている。
確かに、あの笑みと甘やかな口調で云われては
ご婦人方ならひとたまりも無い、かもしれぬ。
「僕は珈琲とトーストで、そっちの小さいのも珈琲」
そっちの小さいの、とは人修羅の事だろうか。
流石に憤慨したのか、むっとして向かいを見つめていた。
「“兄さん”もお好きなのをどうぞ、僕が出しますので」
そのライドウの台詞に、少々寒気を感じながらも
女中に注文をした。
食物が喉を通るのか分からなかったので、お茶だけにする。
注文を受け終えた女中が席を離れて行った…
普通ならここで場の空気が軽くなり、会話が始まるのだろう。
しかし、女中の離れたこの席は一気に泥に包まれた。
「我が勝手に誘ったのだ、アカラナ回廊で偶然逢ったのでな」
まず、これを先に云っておこうと思い述べた。
我から誘ったのだ、貴殿の悪魔は悪くない、と。
「其処は問題では無い、誘われようが誘おうが、結末が問題だからね」
外套の首元を弛め、トランクに掛ける彼を見て気付く。
出先から直接此処に来たのか…
「功刀君、君はそんなにこっちの帝都が好きなのか」
「…別に帝都がって事は」
「では云い方を変えようか…こっちの葛葉雷堂がそんなに好き?」
「な、馬鹿じゃないのかあんた、それ…どういう好き、だよ」
更に狼狽する人修羅。
其処は普通に友人関係と取って良いだろうに。
普段から余程変なからかいを受けているのだろうか。
「彼に友人の様な付き合いを強制したのは我だ…ライドウよ」
横槍と云う名の助け舟を出す。
ライドウは人修羅をねめつける様に見つめたままだ。
「いや、俺が…友達ごっこ、したかっただけだ、ライドウ」
それを跳ね除けるかの様に、人修羅は否定した。
我に矛先が向く事を阻止しようと、必死なのが伝わってくる。
妙な沈黙の葛葉ライドウが、不気味だ。
すると女中が注文品を持って席に来る。
「有難う」
さらりと云うライドウの横顔を見て、少々呆れてしまう。
この男は、無自覚の内に口説いている。
(見ている方が焦る…)
多くの女性達を惑わすのは、あまり良いとは思えぬ。
「…あんた、そういえば依頼は済んだのか」
人修羅の質問にライドウは即答する。
「投げて来る訳ないだろう、そこまで無責任なつもりは無い」
「早くないか?」
「あまり君を放置しておくのも問題かと思ったのだがね…アカラナで嬉々としてこっちの穴に飛び込む君を見たのでね」
「何であんたアカラナに居るんだよ、村と関係無いじゃないか!」
「今回は在った、それだけの話だ」
頬杖を付いて、トーストを半分に折ったライドウは
それをあろうことか珈琲にぶち込んだ。
そして珈琲の滴るトーストをもそりと頬張る。
「な、なんて食べ方をするのだ貴殿は…」
思った事を、思わず口にしてしまった。
「失礼、普段は外でしないよう心がけているのだが、多少腹が立っていてね」
その眼に一瞬、殺気が奔る。
「君達も腹に入れておきたまえ、この後体力使うから」
その意味深な言葉に、ぞっとする。
気が進まぬが、出されたお茶をすする。
熱い筈なのに、温度も良く分からなかった。
と、ふと隣の人修羅を見やる。
少し俯いて、屈む様にしている。
「…どうかしたか?」
「いえ、別に」
そんな事無いだろう、微妙に震えている彼を傍に感じる。
「気分が優れぬのなら、外に出させてもらえばどうか?」
「…いいです、多分出してもらえないし」
向かいのライドウは無言だ。
どうしたものかと溜息をつけば、人修羅の方から
からん、とティースプーンが転がり落ちた。
腕を組み替えた人修羅が、誤って落としたのだろう。
あっ、と云い動こうとする人修羅を制する。
「我が拾おう」
「いいですっ!」
強い口調で拒否する人修羅、だが。
「折角だ、拾ってもらえよ功刀君」
ライドウが口を開く。
これには我も賛同する。
「雷堂さんっ」
人修羅の声に妙な焦りを感じた気がしたが
そう思った時には既にテーブルの下へと潜る我が居た。
そこで、銀色に光るスプーンを拾って終わる筈だった。
だが、スプーンよりも先に眼に入ったものがある。
眼を疑った。
ライドウの自分よりも長いのでは、と思わせるその脚が
すらりと伸びていた。
その先には人修羅の…
(こ、この男…!!)
掴んだスプーンを再び落としそうになりながら、腰を上げる。
着席すれば、先程とは打って変わった彼等の表情。
酷く赤面し、唇を噛み締めて此方を見ようとしない人修羅。
逆に、此方を見つめて口の端を吊り上げたライドウ。
「スプーンは見つかった?」
平然とライドウが云うこの間にも、人修羅は脚先で淫行を働かれているのだ。
靴の先で…
思い出し、自分の顔まで熱くなる。
「ライドウ、貴殿の用が済んだなら、すぐ外に出たいのだが」
傍に居る人修羅を、一刻も早く開放してやって欲しかった。
「…いいよ、そろそろ出ようか」
その言葉が、酷く愉しげな事だけは憶えている。
どう躾けようか。
ただそれだけを思っていた。
先刻から、脳裏を過ぎるのはそればかりだった。
久々に長い依頼を終え、少々の疲れを感じていた。
帰り道、そろそろ満ちそうな月を見て
少し足早になっていた。
満月で高揚した人修羅が、おかしな行動を取らぬ確証は無い。
周期を考えていなかったミスを悔い、急いで切り上げてきた。
依頼の最後の辺りなど、もうぶっ通しであった。
行きより何故かトランクが重く感じる。
アカラナに寄って、終える筈だった。
しかし、依頼自体は終えたのだが、別の用件が出来たのだった。
周期の全く異なる次元へと、入ってゆく自分の悪魔。
最初見間違いかとも思ったが、そうでも無いらしい。
追ってきてみれば…確かに、おかしな行動を取る人修羅が居た。
暗い路地の傍を通過する際に、咄嗟に人修羅の首根っこを掴む。
(思い出すだけで腹立たしい、あの瞬間)
その掴んだ人修羅を、暗い隙間に放り込む。
「ああッ」
棄て置かれた木箱や、コンテナ、草木やゴミ。
そんな物に強かに身体を打ち付ける人修羅。
それに跨るようにして、覆いかぶさる。
「同じ顔の男の元に、足繁く通う仲魔を持つの、気分が悪いと思わないのか?」
痛みから呻く、そんな人修羅の髪を掴み上げる。
「聞こえている?」
「ぅ…」
こいつの着ている物は、僕の着物だがそんなのどうでも良かった。
汚泥に塗れようが血に濡れようが。
藍染の、そこそこ値の張る着物だが、人修羅に審美眼は無い。
適当に見繕ったのだろう。
でも人修羅の履く未来の靴の色合いと、この着物は意外と似合っていた。
(まあ、色なんてどうでも良くなる位、汚れるのだろうけど)
「ライドウ!暴力に物を云わせて貴殿は仲魔を使役するのか?」
暗い路地に、雷堂が入って来る。
邪魔虫め・・・
「僕の悪魔だ、勝手にする」
微妙に斑紋が浮かび始める人修羅を、ちらりと見る。
身体の防衛本能が働いているのだろう。
「悪魔だって痛みは感じるのだぞ!?」
僕の陰が、そう僕に叫ぶ。
それがおかしくて、思わず哂って云い返す。
「痛覚が在るからやっているのだよ」
「な…」
「無ければ叩く意味も無いだろう?」
唖然としている雷堂を尻目にし、トランクに吊るした紐先から
縛り纏めた刀の束を掴んで、人修羅へと向き直る。
「どれが良い!?切れ味重視か?状態異常付与か?」
出先で即対応出来る様に、用意した数種の刀。
人修羅の眼前にそれらを突き出し、選択させる。
痛みに顔を歪めた人修羅が、瞬きをしてゆっくり眼を開ける。
「ざ…けんな、俺が友達作っちゃ…悪いのかよ…」
その台詞に、その単語に
…頭に血が上る。
「他のサマナーに媚びへつらうな!」
一番尺の短い刀を抜き、その身体に突き立てようと振りかぶる。
すると、腕に戒めを感じた。
「それ以上するなら、我がお相手致そう…」
背後から、振りかぶる腕を掴まれていた。
葛葉雷堂に。
「君にした所で、人修羅が何を反省すると云うのだ?」
苛立ちを滲ませ、彼にそう問えば
同じ顔から吐かれる台詞。
「悪魔としてでは無く、友として…彼を苛む存在を捨て置けぬ」
その、あたかも自身と人修羅とで関係を築いたと云わんばかりの
親愛の情に溢れた言の葉。
それを紡ぐ口をたたっ斬ってやりたくなる。
「…僕の仲魔の行動指針は僕で決める」
「彼は半分人間だろうに」
「半身が人なら勝手な行いが赦されるのか?」
いいや、赦しはしない…
心で呟き、人修羅の腕を空いた手で掴みあげる。
「来い“人修羅”…僕等の帝都に戻るぞ」
足元のおぼつか無い人修羅を、無理矢理立たせ
雷堂に云う。
「コウリュウを呼べ、名も無き神社より帰らせて頂く」
僕の声に、雷堂は口元を引き結んだまま動かない。
しかし、観念したのか懐から太鼓を取り出す。
「呼ばねば、貴殿はその状態の人修羅を引き摺りまわしそうだからな」
「御察しの通り、良く理解しているじゃないか」
クク、と哂い返せば、彼の冷ややかな視線が此方に刺さる。
同じ存在ながら、相容れぬ。
(此れは、僕の切り札なのだから…渡すものか)
姿を現したコウリュウの背に乗り
前方に置いた人修羅を見て思う。
他のサマナーに、情を置かせてはならない。
折角…恐怖で、観念で縛り付けてあるこの存在を。
軽々しい友愛等に持って行かれては堪らない。
戯け者共め…
そんな関係、認めない。
契約を結んだ瞬間から、彼の命運を握るのは自分。
この14代目葛葉ライドウ只一人。
異界のアカラナ回廊より、帰るまで胸の燻りは消えなかった。
寧ろ増す一方だ。
「雷堂よ、僕の仲魔が世話になった…金輪際、勝手な行動は慎むように躾て来るから安心してくれたまえ」
別れの際にそう云えば、重い口調で別れを返される。
「…さらば」
だがその眼は、雄弁に語っている。
人修羅を解放しろ、と。
(するか…誰が)
この帝都にだって来させやしまい。
もう勝手にはさせまい。
強く掴み過ぎた人修羅の腕が、異様に冷たくなっていた。
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