蝕甚


秒針の音を…ずっと昔から聞いていた。
金の太陽は、そのからくりにてただ廻る。
紡がれる音は鼓動の様で、我の心の臓を安定させた。
母親というものの…子守唄か、心音か、胎動にも聴こえていたのかも知れぬ。



八咫烏は太陽の中心におわすのです

貴方が共に置かれた、その時計は…それを象徴しているのでは

やはり貴方様はヤタガラスに来る宿命だったのです

冠する名も、まさしく陽の者の如し

さあ…明様

明様

十四代目…

十四代目…雷堂…!!











「雷堂さん…?」
秒針の音では無い。
だが、心地好い音色。
「あ、の…大丈夫ですか?寝てませんでした?今」
「いいや、すまぬ…少し物思いに、身体を空けてしまっていた様だ…」
人修羅が傍に居る。
紛う事無き、君が。
「でも、全然…しっかり寝ているところ…見ませんでした、以前から」
「寝ずとも動けるのでな」
「じゃあさっきの何ですか?」
「それは…」
「わざと、かと思いました」
少し溜息混じりに、人修羅が呟いた。
その言葉に、思わず笑いが漏れる。
「そうか、それもあながち間違いでは無い」
人修羅の背に、帯を回したまま、ぼんやりとしていたのだから…
「もういいです…自分で着れますから!」
いよいよ痺れを切らして、人修羅は後ろ手に回した指で帯を掴んだ。
しかし、それはしゃりしゃりと涼しい音を立てて逃げる。
「独りで綺麗に結べるのか?君は…」
とてもそうは思えぬ。
君に、だらしなく崩れた帯で、此処を歩いて欲しく無いのだ。
君の事を指して嗤う者が居れば、斬ってしまいそうだ…
そんな暴力的な妄想に囚われながら、我は帯をぐい、と引き締めた。
それに一瞬息を詰める人修羅。
「力み過ぎだ、矢代君」
「キツイ…」
「息を吐いて、楽にしてくれ」
「向かい合って結ぶ必要あるんですか?後ろで…お願いします」
「何故だ?」
「…な、何故って、そんな」
しどろもどろになって、眼を逸らす君。
「嗚呼、指先が遠い」
我はうそぶいて、ぐい、と人修羅の身体を引寄せた。
強張る君の筋肉。
互いの右眼が熱い気がする。
指先で、ゆっくりと結び目を折っていく。
やんわりと、格子柄の帯を弄ぶ。
もどかしげな君が、肩を震わせているのが、良く分かる…
「おはしょり直しだ…失礼」
結び目の下に指を潜らせて、すい、と横に滑らせる。
手の甲に、やわらかく臀部の感触がした。
「ぅ…」
喉奥からじわりと滲んだ呻きが、耳元をかすめた。
左の眼で見れば、人修羅は頬を紅潮させて向こうを向いていた。
「辛いなら、悪魔の身体でも良いぞ?君が人修羅と皆承知している…」
見当違いな事を云う我は、意地が悪い。
最近頓着な気がする…


「あの、雷堂さん…俺がこんな歩いちゃって、本当に大丈夫なんですか?」
張られた板を、室内履きの足袋で鳴らす人修羅。
夷然として、我を見つめるその眼の色。
「ヤタガラスの…此処では、それなりに利く」
「俺、前あんな仕打ち受けたり、暴れたりしたのにですか?」
「君の力を知るからこそ、目の当たりにした層は口出しせぬ…」
君を連れて来いと命じた御上達以外は、黙っているしか無いだろう。
「似合っている」
傍の君にそう伝えれば、少し眉根を顰めた。
「話逸らさないで下さい、雷堂さん」
「そう云うな、我にしては吟味した纏い物だぞ?」
君に似合うだろうか。
持ち出す管を選定する時よりも、考えた気がする。
「すっごい丈をはしょったのが、俺を微妙な気分にさせてるんですが…」
「ふ、我より高くあっては少々可愛げに欠ける…それで良い」
「俺、男なんですけど…」
アカラナから帰り、血汚れも落とした君は、人に擬態した…
どう見ても、健やかなる青少年。
「君は藍色が似合う」
そう云うと、一瞬眼を見開いた。
何かと思い、その左眼を見つめる。
すると、少し俯いてぼそりと零す。
「それ、ライドウにも云われたんで…」
「そう、か」
「あの男、滅多に褒めないから…雷堂さんにも云われたし、信憑性有りますね」
本当の感情を“信憑性”という結論で片して、君は笑う。
「ああ、似合っている…本当に」
今すぐ、その着物の衿を掴んで
先刻、綺麗に形を作ったばかりの帯を解いて
君の肌を包む藍色をはだけてやりたくなった。
彼も認めるその色に包まれて笑う君を、赦せなかった。
「でも、冬に藍色は少し肌寒いですね」
「…濃い色目だ、そう外れてもいないだろう」
「雪の中でアルラウネとか召喚されていると、こっちが風邪ひきそうで」
「蝉の鳴く暑い日差しの下に、甲冑の天使を召喚する我は非道か?」
「ひどっ」
「ふ、我も日差しの下外套だ…相子にしてくれ」
視線を泳がせていた君は、段々と口元が綻んできた。
会話の端に、時折雑じる懐かしそうな間が痛くて
我もついぞ無い位に口を働かせる。


「…で、俺はムドって魔法を知らなくって…」
「呪殺を?それは怖ろしいな」
「おかげで何度か逝きかけて…」
「破魔も効くのだろう?」
「そ、そうですよ!仲魔の天使にしっかり云い聞かせておいて下さい」

「管の先端の環って、指入れると危険じゃないですか?」
「何故だ?」
「昔、母親が指輪試着したら、指抜けなくなって〜…」
「…ふ、それは慌てるな」
「ダツエバみたいな指ならそんな心配無さそうですよね」
「指輪をする必要は有るのか?」
「う…」

「学校に…通っていた頃のあくる日…机の中に恋文が有った」
「えっ!?」
「何だ…その意外そうな表情は」
「い、いいえぇ…」
「しかし、場所と刻限の指定…匿名……我は完全武装で向かった」
「え?」
「果たし状かと思った」
「…くっ、ぁはは……何ですそれ」


途切れぬ言葉の海。
外部に出て、渡し廊下に差し掛かる。
ひんやりとした白が左右に広がる。
ちら、と人修羅の足下を見て促した。
「雪に濡れている…滑らぬように」
「あ!」
云った瞬間に、渡り廊下に踏み出した君が視界から消えた。
咄嗟にその身体を受け止めようと、腕を伸ばした。
「な、っ」
が、その腕はかすめて落ち往く。
我の足袋裏で、踏み躙られた雪が嗤った。
「…」
「す、すいませんっ!俺の所為でっ」
情けなく突っ伏して、視線を学帽の下から通す我。
肝心の人修羅は、傍の欄干に腕を伸ばし、引っ掛けた指先で留まっていた。
「…あの、雷堂さん」
「君が…無事ならそれで良い」
「…その格好で、云うの止めて下さい…説得力が」
ゆるりと立ち上がった我を見て、手の甲で唇を拭う君。
可笑しそうに微笑む。
雪の中で、透明度を増した空気から鋭敏に伝わる君が…
本当に、嬉しかった。
まるで、普通の…人の子の様に、我も君も。
君と居る瞬間を手に入れる事が、出来たなど…この上無く…

互いの、右の眼を覆う純白の綿糸が、胸を酷く熱く、不安にさせる以外は。









「君が困らぬよう、話を通してくる」
「…」
「他にも不安事が有るのだろう?気に病むな…」
俺の頬を指の腹ですうっと撫ぜて、片眼で俺の片眼を見つめる雷堂さん。
「君が望むならば…あのライドウとも、再び刃、交えよう」
俺の望み?
俺が雷堂さんに…ついて来たのは…そういえば、真の理由は?
こうして、一緒に歩いて、他愛も無い会話をして、微笑みあう為?
いいや…違う、もっと…もっと…
「君が魔の道から抜け出せぬなら…それも打破…してやりたい」
その言葉に、鼓動が早くなる。
自身の立ち位置より、俺の往き先を優先させるこの人が…
俺は酷く、嬉しかった。
拾い上げてくれて、今はただ、その手に縋る喜びに…
「では、しばし待たれよ…」
「ん、う…っ」
震えていた。




『別れの際に接吻か、どれだけ乱酔しておるか貴様等』
声に、ハッと見れば、欄干の上を軽やかに黒い影が渡り来る。
その翡翠の眼が、俺を刺し殺す勢いだ。
「俺は、別に求めていませんでしたけど」
『なら払い除ければ良かったろうが?え?…人修羅』
薄く雪を纏った黒猫は、逆立てた毛並みをぶわりとうねらせた。
俺は、少し脚を開いて立つ。
飛び掛られそうな気配すらしたから。
「でも、俺が云う事か微妙ですが云わせて下さい」
『何だ、下らぬ戯言なら捨て置くぞ』
「雷堂さん、俺が居ても普通じゃないですか」
『…』
「さっきだって、あんなに…」
『フ、そう見えるか…?』
俺は、その黒猫の嗤いにぞくりとした。
何か、間違っているのか?
雪の所為では無い寒気が、指先からしんと昇り詰める。
『雷堂はな…貴様が居らぬ時、それはそれは酷いものだったぞ…』
黒が、俺の眼の前まで、ぱきぱきと歩み寄る映像が網膜に焼きつく。
何かの宣告みたいに。
『時を選ばず任務に赴き…その帰りには外套が重くなる程に血を吸ってくる』
「…」
『貴様の名を熱病に浮かされるように囁いては、眼を押さえる』
「…」
『あの眼が、貴様と通じるものと妄信して、叫び続けていたぞ…』
「俺は、聞こえなかった、です」
『眼が熱いと、疼くと云っては悪魔を狩り続ける日々…』
「ぐ…っ」
『俺からも、貴様を此処に置くよう…上に推させてもらった…人修羅』
業斗が、ヒゲを揺らして笑う。
その異様な発言に、俺は思わず後ずさった。
背後の大扉が、背に触れる。
『俺が考えも無しに…貴様をアレの傍に留めると思ったか?』
「なん…です」
『貴様は、雷堂の傍に居て…アレを制御してくれれば良い…』
制御?
『いうなれば…傀儡の黒子をしろ、という事だ』
「なんです…それ…」
『ハッキリ云ってやろう、人修羅よ』
傀儡?黒子?
何を云っているんだ…
俺達は…
『今、貴様が消えれば雷堂は真に狂うだろう…』
「俺達は…」
『貴様がその扉を開けてしまったのだ…情に埋もれる程狂える奴の宿命に!』
「俺達は人間だ!!」
『なれば!奴を捨て置いて帰るが良い…』
冷たい声が、俺の頬の温もりを掃い去る。

『雷堂が狂い死ぬか、貴様を道連れに舞い戻るだろうよ…』

聞き終わると同時に、扉に背が埋もれた。
がくん、と脚が折れて、引き込まれていく。
「す、すまぬ…まさか寄りかかっているとは思わなんだ」
少し慌てた風で、俺の肩を背後から支えた…雷堂。
その手の温かさが、俺の心臓を締め付ける様だった。
「雷堂さん…」
「話が…思った以上に軽く通った…よく解らぬ、彼奴等…」
「あの、眼…」
「身体が冷えているな…待たせてすまなかった」
後ろで扉の閉まる音が響いた。
「業斗…居たのか」
『何が居たのか、だ……ハッ、腑抜けるのも大概にしろ』
「…暗いな」
『何がだ』
「空が…暗くは無いか?」
『片眼の眼帯で陰っているだけではないのか?…さっさと任務に戻れ』
雷堂の声を無視して、業斗童子は尾を立てて欄干に飛び乗った。
少し振り返り…明らかに、俺を見て云った。

『開けた扉は、閉めろよ』

その台詞に、俺は身体からざわざわと…さっきの宣告を思い出す。
「今閉めたぞ、業斗!……全く、どうしたのだ、あの方は」
背後の扉と勘違いする雷堂を傍に、俺は着物の裾を握り締めていた。
「…矢代君?どうした…寒いか?」
こんな、普通なのに…前よりも、落ち着いている様に感じるのに…
「これから鳴海探偵社に向かうが…共に来てくれまいか?」
その言葉に、俺は遅れて返事する。
こくり、と頷いた俺に、柔らかく微笑むこの笑顔さえも…
脆いのか?


次のページ>>