「やはり…徴収されているセオリーでしたか」
『金目のモン、ぜーんぶヤタガラスが巻き上げたんでしょ?マジでカラスだね』
先輩の部屋は、とてもすっきりしていました。
ちらりと覗き見た事が、以前ありましたが…その時の光景とは明らかに違います。
本棚は歯抜け、禁書とされた各国の叢書を、先輩は所有しておりましたから。
きっと本も、一部奪われたのでしょう。
長い間開かれた形跡の無いレシピの本だけが、ちらほらと端に縮こまっています。
最近、新しい献立を考える事もしていないのですね。
『ねーねー、コレ金目の物じゃないの?動かないの?観賞用?』
「こら、ハイピクシー!勝手に…」
壁際に、オートバイ。鍵は差さっていません。
シートに薄く積もった埃が、功刀さんの無気力を形に見せてくる様で…
そそくさと、そのオートバイから離れます。
「先輩の影が、もうありませんね」
思わず声に出てしまい、ハイピクシーが私の肩に止まりました。
『なのに此処で暮らしてるってさ、案外引き摺ってないって事かもよ?それはそれで良いんじゃない?』
「そう、でしょうか」
『人修羅のやりたい事は知らないけどさ、こーして探偵社手伝ってるんだし、自暴自棄じゃないっしょ』
「…です、ね…そうですね、ええ!」
『そーよぉ、主人があの十四代目でなけりゃ駄目って決まりは無いんだし!』
簡素なベッドに腰掛けて、気持ちを上昇させます。
ふと、薄く開いた窓からの夜風にたなびいて…穏やかな香りがくすぐりました。
ベッド傍の小さなチェスト…恐らく、本か銃が引き出しに納めてあったろうソコ…
「あ…」
小さな陶器皿の上で、灰になったお香。
(Sandalwoodのフレーバー…)
引き摺って、ない?本当に?
その香りが無いと、眠れないのですか?
この寝台が、シーツが、その薫りを纏っていなければ…
貴方は…貴方は…
『凪、ちょっと!』
ハイピクシーの声で、ようやくその白檀の呪縛から抜け出た私。
「どうしました」
『出てくよ、人修羅』
窓から見下ろす深夜の街路。揺れる柳の影が手招きするその風景に…
インバネスコートの人影。
『この建物から出てったから、違いないよ』
「…流石に気配は消してますね」
貴方は怒るでしょうか。
そうです、貴方を、監視しています。
でも、この部屋には、とりあえず証拠品は無さそうで…少し安堵しています。
『どーする?単独捜査したげる?』
「いえ、私も参ります、しっかり眼で確認したいセオリーです」
あの、大きなチェストが在りません。
それだけでこの部屋は広かったのですね。
そんな感想を抱きながら、部屋を後にします…
ひんやりとした夜道、吐く息が白く目立つので、すっかりと息を潜めて追います。
遠くを歩く功刀さんは、足音を殺してます。
薄く残すのは、足跡の道しるべだけ。
『長い、ね』
「…ええ」
やがて、街路を抜け…とても足で歩む距離とは云えぬまで、来ました。
『ねえ、振袖じゃきつくない?』
「緊張感には一役買ってます」
『んも〜愚痴が吐けないのぉ?凪は』
「しっ、ハイピクシー…少し、静かに」
前方の影が、二つになりました。
功刀さん…誰かと、話している?
何も無い道中に感じましたが、いつしか畦道が途切れていました。
桜の樹々が並ぶ特徴的な処…その中央、一番大きな大樹の下。
かなり距離を開けている為、とても読唇は出来ません。
「アルプ」
『っは〜ぁい、ってちょっ、暗ぁ!』
樹に身を寄せ、集中して召喚します。短時間なら、二体は一応…可能です。
「あそこの殿方の会話だけで良いのです、流して下さい」
『そうだネ〜二人とも壁があって、発する言葉流すしかムリっぽいから〜』
(二人共…)
アルプの尻尾をやんわりと掴み、私の肩のハイピクシーが息を呑みます。
『んじゃ、いっくよォ〜』
ゆるゆると、交わされる声が、脳内に反響してきました…
「まさか年の暮れに男に呼び出されるたぁ…深川の番地XX…翁桜なんてぇ逢引の定番」
「普通の人間のフリして女性サマナー軟派するの、失礼ですよ」
「オレのポッケに突っ込んだ此処の地図…随分と用意周到じゃあないかい」
「見かけたらすぐ指定出来る様に、持ち歩いてますから、書き起こした切れ端」
…軟派…まさか、晴海で声をかけて来た方でしょうか。
ポケットに…功刀さんが?そんな、いつの間に。
それよりあの男性…デビルサマナーだったのですか?
「しかしオレがサマナーたぁどういう了見で?ただの喧嘩と思って来た可能性もあるじゃあないかい」
「コート下、管見えましたから」
「おおっとぉ、そりゃいけねえや…なんだぁ、悪魔で決闘でもしたいんかいな?兄ちゃんはぁよ」
「悪魔に興味はありません、俺が用事あるのは…」
ぶつり、と途切れました。
発される音よりも、闘争の心が先走って、心ごと遮断するのです。
『凪!』
小さく叫んだハイピクシーが、小さな指先に電撃を迸らせます。
その揺れる小さな振袖を、はっしと掴んで、引き止めました。
『どぉして!人修羅、人間殺すかもよ!?』
「ノープロブレム、報告では重傷に至らぬ程度と挙がってます」
『でもっ、人間ボコす人修羅なんて見たいの凪!?』
「…傷は…」
『え?』
「傷は、再生します。事実という証拠は、再生しません」
脳内に反芻されるのは、先輩の言葉。
「大事に至らぬならば、外傷という証拠を刻まれる人間が…出来た方が、良いセオリー」
遠くの暗闇で、刃物の煌き。薄い月光に照らされた戦いの図。
あのサマナーが、相手は悪魔と気付くその前に…きっと勝負はつくのでしょう。
でなければ、被害者達の証言には、すぐ人修羅という言葉が挙がっている筈。
「…ほら、御覧なさいハイピクシー」
『うっそ』
ひとひら、薙いだコートからたなびく袖が、サマナーの管を叩き落します。
流れる動きで、でも、それに型なんかは感じられず。
ただ純粋に、人修羅の、本能的な能動。
「一瞬、でしたね」
『あの軟派男、召喚…した?』
「いえ、管を落とされた様子です…でも、例の件と合致するなら、管には目もくれぬ筈ですから』
ヤタガラスから今は欠けし四天王だけに下った伝令。
身内がひとり、またひとりと、襲われるこの事態…
混乱を避ける為でしょう、まだ知れてないので、サマナー達も警戒がありません。
そう、つまり闊歩するサマナー達は、餌なのです。
「…黒なら、刀に手を伸ばすでしょう」
しかし、思い違い…ただの喧嘩と、出来れば思いたい私が居ます。
『あっ』
でも、私の心を裏切るかの様に、貴方は…サマナーの刀に手を伸ばしました。
「デカラビア」
『暗い!瞳孔が急激に!ああゥ』
即座にアルプと入れ替え、その巨大な瞳に目視させます。
「あの遠くの、一番背の高い桜の樹…その麓を見せなさい」
『掴まれぇ〜いィ』
星型の脚を後ろから抱き締め、脳内のヴィジョンを借り受けて…
闇の中の貴方を見つめる。
器官を一時停止させる急所を突いたのでしょうか…
ぐったりと横たわるサマナーのヘンプコートから、引き抜いた刀。
しゃらん、と音さえしてきそうなその抜刀。
功刀さんは、その刀を間一文字に眼前に構え…
(痛いっ)
私の身体では無いのですが、思わず心で悲鳴を上げました。
その、刀の鍔を、ぐ、と…目釘抜きすら使わずに、ぎちぎちと外し始めたのです。
瞬間、より一層闇に光る斑紋。サマナーを倒した時には擬態を解いていたのだと思います。
「デカラビア…もう、良いです、分かりましたから」
『ひとみを閉〜じて〜』
これ以上指先をアップされては、正直私がギブアップです。
あの、整った華奢な白い指先が、刃先も厭わず掴む様子が痛くて。
ばっくりと割れる皮膚は再生すると、頭では理解しているのに。
だって彼は悪魔なのですから…なのに…
「帰還なさい、デカラビア」
『お疲れェ』
管に戻し、視線は人修羅の功刀さんを捉えたまま。
私は振袖の裾を静かに捌き、尾行を再開するのです。
『ねぇ、人修羅、何処行くの、なんで鍔取ってんの』
「…」
『ねぇ、凪』
「年が、明けますね」
『え〜ホントだぁ…どんだけ歩いてんの全くさ』
帯締めに潜ませておいた時計をちらり、と手に取り、新しい年を確認しました。
私は、雪道を黙々と歩む人修羅の後姿を…
ヤタガラスのサマナーとして、追い続けます。
と、少し上を見た貴方が、駆け始めます…日を気にしているのでしょうか。
伴い私も、トリグラフを召喚し、後ろに騎乗します…
「志乃田…名も無き神社でしょうか」
『そりゃ悪魔でもなきゃ徒歩はキツイわ』
ハイピクシーも、私の肩に腰を下ろしたまま…
ざっ、と馬が止まり、トリグラフが私に振り返ると同時に頷きます。
背中越しに、功刀さんが境内に入っていく姿が見えました。
「有難う、お戻りさない」
横から腰掛けていた私の下、帰還と同時に消滅する馬。
とすり、と雪面に着地した私は、既にひやりと湿ったブーツで接近します。
『鍔、何の為なの』
「恐らく、あれはライドウ先輩の鍔です」
『え…何ソレ、どーいう事』
「ヤタガラスが徴収した先輩の所有物の中に、沢山の鍔を確認しました」
『なんでそこらのサマナーが使ってんのよ』
「競売にかけられたから、です」
『ええっ、何ソレ、遺品じゃないのぉ?』
肩で騒ぐハイピクシーに、教える私も…苦しい。
決して、長い尾行の所為でもなく…振袖の所為でもなく…
「先輩に身内は居ませんでしたから」
『…ヒトの…親、とか?そーゆうのが?って事?』
「ええ、私にも居ませんが。つまり遺品はヤタガラスの物、という事になります」
先輩の管も、武器も、本も、道具も。
全て、全てがヤタガラスの物。
それが金でやり取りされ、カラスの胎を肥やすという結末。
『じゃ、ちょっと待ってよ、人修羅、それ』
「恐らく、知っています」
功刀さんが、再びまともに探偵社で生活出来る様になるまで…
囚われていたヤタガラスの里…其処が競売の会場でした。
「呪いが罹った物は、人修羅に持たせて解呪したと、装束が申しておりましたから」
『そういう事出来たの、人修羅って』
「正確には、功刀さんにぶつけて相殺させているだけです」
『げぇっ』
「…里での、功刀さんの立場は弱かったですから」
鳴海所長と、私とで、どれだけ説得したでしょうか。
人間には危害を加えない。探偵社では鳴海所長が面倒を看る。
そして、私ゲイリンも監視にあたる、と。
(それなのに、功刀さん)
競売にかけられ、競られて往く物達が、赦せなかったのでしょう。
先輩の、忘れ形見達が、貴方から奪われて往くその…
「現場は記憶しました、血が覚えています」
お狐様が見えてきた辺りで立ち止まり、端の樹木に隠れます。
管から光と共に星の影が現れました。
「里に、見た件をお伝えなさいデカラビア」
『遠いィ』
「時間はいくらかかっても良いのです、出来れば…道中あの負傷者にディアを」
『注文多ィ』
「ごめんなさい、でもあのまま凍死されても、功刀さんの罪科が重くなるだけですから」
被害者に死なれては困りますから。その結果だけは…残したくありません。
そんな、私自身の望みのまま、召喚したデカラビアを送り出します。
『凪、は…人修羅を里に突き出しちゃって良いの?』
肩から飛び上がるハイピクシー、その揺れる振袖に、先輩の指を思い出しました。
今度はしっかり見届けるのです。
「眼を反らす事は赦されないのです」
功刀さんが、その衝動に駆られて、サマナーを…人間を傷付け続けるならば。
止めなければなりません。
『良いじゃんっ!このまま黙ってなよ!だって凪、人修羅の事ッ』
「人間を襲い続ける功刀さんを見ていたくありません」
『…それだけ?』
「はい、私は師匠の遺志を継ぎ…人に仇なす悪魔は、処理します」
視線の向こう、私が追い続けた…師匠…先輩…そして…人修羅。
(賽銭を、入れるのでしょうか)
一般参拝客の居ない此処では、飾りに等しいその賽銭箱に。
功刀さんが、ふらりと歩み寄って往きます。
そして…何か、呟いたのです。
最初は唇の動きだけで。しかし次には、鮮明に空気に流れたその声音。
「嘘吐き」
どきり、と鼓動が波打つ。
私に、向けた言葉かと、こちらに気付いているのかと。
その恐怖が身震いさせました。
ですが、その後に流れる喘ぎが…それを錯覚だと教えてくれました。
「嘘吐き…嘘付き嘘付き」
くたり、と、上半身を追って、その賽銭箱の上面に項垂れた人修羅。
「五蔓入れたじゃないですか、何も効果無い、嘘付き…っ…何が神社だ…」
五曼…金額と思われるのですが、かなりの大金。
「誰も四肢を拾っちゃくれない、あいつの入れた金、全部返して下さいよ、なあ神様、なあ」
呪文の様な呻きに、混じる悲壮が。
「死んだッ…五体満足ですらなかったっ!」
がつり、とブーツの爪先で、賽銭箱の側面を蹴る貴方。
振りかぶった上体で、頭を抱えて恨みを奉る。
「神様…ヤハウェ……ルシファー…」
むくり、と亡霊の様に起き上がった人修羅。
「ライドウ…」
ぼそり、と一言残して入って往くは、拝殿。
それを確認し終えた私は、一歩踏み出します。
『止めてよ!行かないでよ凪!話し合いには応じないよきっと!』
ハイピクシーの振袖の色が、少し鮮やかです。
ほんの、ほんの少しだけ夜が明けてきたのでしょう。
「ハイピクシー…私は、師匠も尊敬しております、が」
あの厳しい顔の中にある、優しい心を思い出します。
「ライドウ先輩…紺野さんの事も、尊敬しておりました」
『あの二人、真逆じゃん』
「師匠も、先輩も、己の生きたい様に生きて逝きましたから、似たもの同士のセオリーです」
自分の夢を託して、勝手に先立った師匠。
残された私に、問答無用で押し付けたのです。あたたかな傷跡を。
それに縛られない筈、ありません。ずるいです。
「先輩も、ずるいです」
仲魔の為に命を賭すは、愚かしいと…云いながら。
「功刀さんの為に逝かれたのですよね」
人修羅を紹介されたあの日から感じました。
先輩のペースは、乱れていましたね。
樹海を、乱れぬ足取りで歩んでいた先輩が。
ただ、ただ一人の半人半魔に…その足を早めた。
『殺されちゃうよ…』
「本気でかかれば、この拝殿は葛葉の一族に味方します」
『だって、人修羅…おかしいよ、あんな人間ボコすの嫌がってたのに』
「罪悪感が消え去る前に、問い詰めます」
拝殿に踏み入れると、一瞬にして空気が変わりました。
『何か壁あった…今?』
「ええ…しかし、葛葉は問題無く入れる…そういうバリアらしいですね」
龍のアギトに近い、けど違います。きっと独自に張ったもの。
貴方をそこまでに駆り立てる何かが、既に芽生えている証拠。
板の間に上がる際、ブーツを爪先で脱ぎました。
足袋の先で、薔薇が咲き誇っています。
「でも先輩、私もみすみす負ける気はありません」
人修羅の魂に根を張っている、貴方の“死”が。
(何に負けないと云うのでしょう)
人修羅に?それとも…人修羅を未だ捕える先輩に?
混迷のままに、我侭に、心のままに、年と年の間々に。
冷えた板を踏み鳴らすのです、貴方の秘密の領域に立ち入るのです。
ヤタガラスのサマナーという、人修羅を監視する役目という、この立場を利用して。
そう、それこそが、この凪と功刀さんを繋ぐ、強い接点の糸だから。
「…あけましておめでとうございます、凪さん」
声と同時に、暗かった奥が、一瞬で煌々としました。
迸った焔が、照明に灯りを点したのです。
「功刀さん」
「寒くないですか、暖房は持ち込んでないんですよ、此処」
「いえ、ケープマントも掛けてますから、平気です」
このケープ、真っ白だったあれです。貴方にも貸したことのある…
貴方の血が、染み込んでいます。繕って、紅茶染めして紛らわし、こうして普通に纏っています。
先輩に撃たれて悲鳴する貴方を庇いつつ…先輩を糾弾していた癖に。
貴方の血肉を少しでも身近に感じたくて。こうして着用しているのです。
「ライドウの鍔の件で俺を追ってたんでしょう」
優しく微笑んで、功刀さんは擬態すらせずに椅子に脚組み腰掛けました。
あの椅子は、先輩の机のもの…その傍のチェストは、間違い無い…
「でも、まだ半分も取り返せて無い」
する、と引き出した薄い引き出し、其処に整然と並べられる黒々とした鋼の細工達。
まるで先輩が其処に居るかの様な、そんな流れる動作。
「手当たり次第、ヤタガラスのサマナーを襲うのですか」
「競られて往った物は、全部覚えてます、サマナーを目視して、その度探ってます」
「結構な数でしたが」
「しっかり焼き付けてありますから、この眼に…他人の手に渡る瞬間を」
くわりと見開かれた眩い金色は、あの日、夕空の逆光で光っていたものと同じ。
「俺がね、殺したんですよ、ライドウは」
「それこそ嘘です」
懐に忍ばせた小刀の柄を、撫でます。
管は使いません、飛ばしたデカラビアと、傍のハイピクシーで精一杯ですから。
「ライドウ先輩が、勝手に庇って絶えたのでしょう」
「…どうなんですかね、実の所、俺も正確には」
このデジャ・ヴ。平然と云う自分が、微笑んでいるのは、怖いから?
「…あの男が死んで、俺は使役という呪縛から解かれました」
揺らめく壁際の灯篭。功刀さんの火で燃え立つ光源。
揺れるその熱い色が、魂を見せるのです、貴方の…穏やかな顔に隠された…
「なら、どうしてこんなに息苦しい」
前髪をぐしゃりと掴むその指は、既に血を止めています。
悪魔である治癒の結果、貴方は傷付くのすら厭わなくなっている。
想いが先走って、本来の意志を見失っている。
「勝手に…死んで!」
溢れる涙は、それでも人間の証。
「最期の瞬間に殺すのは自分だって!互いに云いあって来たのにぃ…ッ!!」
先輩を腕の中で焼いてから、ずっと感情を停滞させていたのですね。
人修羅の光る指先が、その雫をぐい、と払いました。
「俺の身体は千切れても治るのに、どうしてあいつの身体が千切れたんだ」
もう、云わないで下さい。
「俺の再生不可能なとこ傷付けて、笑って死にやがったんですよ、悪趣味な野郎だ」
「功刀さん」
「最低最悪だ、使役悪魔に命投げて、サマナー失格でしょう?あの男」
「まだ鍔、集めるのですか」
「止める気はありません」
「そうですか…それは何故か、お伺いしても宜しいですか?」
ハイピクシーは、震えています。彼から滲む威圧を、自然と感じ取っている様です。
サマナーである私こそ、それを判らぬ筈ありません。怖ろしいです。
それでも尚、立ち塞がります。
一見、ヤタガラスのサマナーとして機能している様に見えるでしょう…
しかし、違うのです。私は、浅ましいです。この立場を欲の為に…
「俺が…こうするのは」
人修羅の頬に光るのは、斑紋?涙の痕?
「俺が、呼吸していた頃の環境に戻したい、から」
そう云って、真冬の透明な空気の様に微笑んだ功刀さんに、私は不謹慎にもときめいて。
人修羅の、水の色をした煩悶が啼いてます。凄く、綺麗で…
「夜の空気でなきゃ、もう呼吸出来ない、酸欠になるんです、凪さん」
あぁ、先輩と同時に、貴方は既に死んでいたのですね。
もぅ、覚悟は出来ました。
すぅ、と帯から抜き取った、鈍く光る刀身を貴方の光で燻らせて。
さぁ、お勤めさせて下さい、功刀さん。
「人間に牙剥く悪魔は、処分せよとの命です…」
「…凪さんの、そういう真面目な所、好きですよ」
もう、云わないで…その涼しげでいて、残留する切ない声で。
恋でも無いのに、一方的にときめかさないで。
それに、真面目なんかじゃ、ありません。
サマナーは、葛葉ゲイリンは隠れ蓑、フェイクです。
「貴方がヤタガラスの御上に屠られるなら……私の手で、というのは、真面目ですか?」
発すれば、ハイピクシーがハッとして私を見つめたのを、感じました。
でも、続けて薄く笑ったのです。私の真の心が見えて、それでもう…納得したという風に。
「それは、不真面目かもしれないですね」
私の前方に仁王立ち、両の肱をふわりと上げる人修羅。
指先には焔では無く、鋭利な軌道。此処ごと燃す気は、とりあえず無い様です。
「でも、解ります…俺もそう思ったから」
夕焼けの燃える陽と、貴方の火が重なる瞬間、心で謎が熔けて往きました。
それは私の中で…熱い鉛のまま流動し、先輩の魂と繋がりました。
この、狂おしい気持ちは、感情は、孤独な我々だけが知る…暗い愛。
「監視の間だけは、先輩に等しい立場で貴方と繋がれたのだと……さもしい女ですね」
「いいえ、凪さんと探偵社の面々が居なかったら、俺はこんなに落ち着いてなかったですから」
消えそうな微笑に、金色の眼が光る。
「きっと、あのまま里も燃してました、話に聞いてた様に赤い海に、曼珠沙華の様な」
「人間を殺すのですか」
「思い留まれてるのは、凪さんの真綿みたいな厭らしい監視のお陰です」
ああ、やはり酷いです、功刀さんは。
どういうセオリーですか?それは私を泣かす為のプロセスですか?
「凪さんはまだ綺麗だから…その呼気も吸気も、俺には苦しい…夜には、遠いです」
頬を伝うのは、恐怖からの冷や汗だけでは無いと、確信しました。
だって、こんなにも、眼の奥が熱い。私の眼は金ですら無いのに、熱い理由はただひとつ。
「功刀さん…ひとつ、お願いが」
悪魔を抑圧するこの空間、葛葉に力を貸すこの空間。
どうか、少しは長く持たせて下さいね。
「初日の出まで、この凪、五体満足で居られたら…」
背後からの陽は、あともう少しでしょう。
「一緒に初詣しましょう」
傍のハイピクシーが、くるりと回って私の肩からはばたきます。
そう、彼女だって此処で制限を受けているのです、なのに…私の欲望に従う。
主従を通り越した、その依存が……己が命を削っても、共に寄り添いたがる。
ふっと、先輩の声が蘇りました。
貴方にくちづけた瞬間に、初めて聞いた動揺の声を。
“十八代目ッ!!”
驚愕した人修羅から、突き放された事実より。
寧ろ私を驚愕させたのは、その叫び。
先輩が…十四代目葛葉ライドウが、その時、初めて…
紺野というひとりの人間だと、解ったのです。
狐でもなく、ライドウでもなく。
「凪さんが夜の所に送ってくれるんですか?」
「お覚悟、人修羅…功刀矢代」
新たなる年です。
皆様は、どの様に過ごされる予定ですか?
抱負の為に、様々なプロセスで、希望の路を往かれるのでしょう。
紬の振袖に、小太刀揺らし、人修羅と舞う。
先輩が哂ってしていた戯れと、同じ事を今している。
その金色の眼が、私だけに注がれている。
たとえ憎しみでも、悲哀でも、この瞬間、互いは孤独から解き放たれるのですね。
先輩の心を知った今、私の今年は終わりました。
その心を知る事が、人修羅に一番近くなれる気がしていたから。
そして、知った瞬間、敵わぬと思い知りました。
途方も無い孤独の闇を、私は知らないのです…御二人程の闇を。
乙女心に咲いた花は、すぐに舞い散りました
恋願わくば
乞い願わくば
修羅と化す前の、葛藤濡れの人間…“功刀矢代”をこの手で―――
葛葉でない、欲のままの“凪”を、あなたの手で―――
「……常夜の国で初詣、しましょうか」
哀しげで苦しげな誘いに…私は呼吸も僅か、涙で頷きました。
ようやく気付いた事が、あります。貴方は当たり前の様に、囀っていましたね。
功刀さん、でもそれを知る人は、殆ど居なかったのだと思いますよ。
下の名は、夜だったのですね…
和洋折衷、百花繚乱、花鳥風月…四季折々の三六五日を閉じ込めた様な鍔達だけが
私達を見ておりました
それは哀しい社でした
それはかなしい…やしろでした
常夜の社・了
↓↓↓あとがき↓↓↓
2011年正月に配布したものです、特に加筆修正無し。
蛇足かと思ったので、番外編への収録です。