『厄介者?お前ダロ?紺野夜』

即座に抜刀し、神経を研ぎ澄ませる。
その声が何処から来ているのか、感覚を張り巡らせ、視線を流す。
「…何処だ」
『確かに帝都守護はごくろーさんってトコだけど、お前は危険因子だよなぁ』
おかしい、どうして声に角度が無い?距離が無い?
胸元の管を指先に撫ぜ、召喚する索敵の狗。
『アォォオオオン』
「探れ、位置を」
僕の周囲を旋回して、MAGの帯をたなびかせるイヌガミ。
この部屋、いや、銀楼閣全体ですら容易いであろうその索敵範囲。
だというに、イヌガミはどうして一所を中心に彷徨う?
『ラ、ライドウ…』
「どうした、捉えられないのか!?」
『…ライドウカラ』
その狗の眼が僕を正面から捉える。
瞬間、右腕が刀の柄を強く握り締めた。
がくりと肩が上がって、イヌガミの首と胴の境を刎ねつけた。
「っ!?」
キャウン、と、まるで犬そのものみたいな悲鳴でふわりと床に落ちた仲魔。
己の右腕を、急いで左の手で押さえ付ける。
どういう事だ、僕はイヌガミを斬ろうなぞ、考えてすらいなかったのに…
『取引は成立、お前の魂はもうオレのモノ』
脳内から響く…この声。
その台詞から、ようやく正体が掴めた。
「…まだ、早いだろうが…何故」
震える腕を掴みつつ、口にすれば、頭に返される回答。
『お前さァ…何処通ったんだ?身体は確かに老いないがな〜…クケケッ』
「……ク、クク、それはそれ、は…早く、云って欲しかったねぇ」
『次元の回廊を行き来すりゃ、そら魂は老いるよなぁ?エ?葛葉ライドウ?』
笑い声が、嗤い声が、脳に響く。
僕の魂を半分喰らった状態の影法師が、半身から送り込む言葉。
(くそ、読み違えた…)
どうしてそんな事にすら気付かなかった?
それほどまでに、僕は急いていたか?
愚かだ。
『ま、お前の野望とやらは成就させてやるよ…!餞別になァ』
その声と共に、押さえていた左手が今度は勝手に動く。
『お前を嫌ってる烏の連中も、慕ってる一部の奴等もよ』
勝手に、指を鉤みたく曲げ、爪で薙ぐ真似をする手。
『皆皆、お前の身体でぶっ殺してやっからよぉ?気が済むだろ〜?え?』
ぐぐ、と左腕に力を籠めるが、気休め程度しか制御出来ぬ。
「…僕は、確かに憎んでは、いた、が…!」
殺したい、訳では無い。
巣を破壊したい、だけ。
『いちいち言い訳すんなって!全部ぶっ殺したいんだろぉ?お前の精神を殺してきた奴等をよ〜…使役する悪魔で、切り刻んでさ〜…キッ、キシシシ』
「うるさ、い」
『もう殆ど喰ったから解ってるぜ?苦労してたんですねぇ〜葛葉ライドウサン!』
「黙…れ」
『お前の影で良かったぜぇ?だってよ、すっげえ影濃いから』
云い返すつもりで息を吸えば、ギリリと捩じ切られる感触。
引き攣った声と同時に、喉から出たのは赤。
「ぅげ、はぁ、ッ…」
内臓を潰される様な痛み、自由な右手が胸に伸びる。
刀が、赤い水溜りにカラリと落ちた。
『憎悪に滾ってるヤツ…業の深いヤツ…どいつもこいつも影が濃い、乗っ取り易い…ヒヒッ』
「は…っ………は……」
『そろそろ全身が本当の意味で自由になるだろうよ!そしたらお前、まず手始めに…』
床を荒い息で見つめる僕の眼前に、左手がすい、と翳される。
『この手の悪魔からぶっ殺そうか?』
心臓が、抉れる痛みに軋む。
『お前が妙に執着してっからさ〜オレも妙に気になるんだよぉ、アイツ』
「お、い、貴様」
声が鮮明に響く、僕の海馬から引きずり出される、人修羅の記憶。
『聞いてたぜ?上で待ってんだろ?まな板の上の鯉みて〜にさ、ゲヒャヒャッ!馬鹿みてー』
「貴様の、為では、な、い…っ」
『じゃあ誰の為だってんだよ?お前?んなわきゃねーだろ?キシシ…』
右腕が動き出し、赤く濡れた刀を手にする。
その刀身に映る僕は、酷く青ざめて死人の様だ。
『お前なんざ誰からも愛されちゃいねーから、とっとと入れ替われよ!狐!』
「…を」
『お前が現に居るとオレが此処に居られねぇんだよ!燻ってんならさっさと消えちまえ!』
「人修羅…を」
刀身に映る僕が、口の端を吊り上げた。
「人修羅を殺すのは、僕に、させろ」
影法師の声が、止んだ。
荒い呼吸の僕が、少し息を落ち着けた頃にようやく響いた。
『オレが殺すよか、そっちのがオモシロソウ…』
右腕が、不自然な痙攣を止め、感覚が元に戻る。
『イイぜぇ…それ、ノったわ』
右腕が、僕の意思で動く。
『そ〜だなぁ…犯しながら殺せよ、得意だろ?人の皮ぁ被った悪魔がよ』
「っ、ふ、ふふ…よく、解ってるじゃないか」
『お前の影だぜぇ?愉しいの優先だよ!じゃなきゃ意味ねぇだろがよ!ドス黒い魂なんだから…相応に生きて死ねっ!キャハハッ』
「そう、さ、破壊のみが僕に赦された、道だ」
知っている、そんな事は。
それの為に生かされていた、それが存在意義だと。
奪われる者から、奪う者に成った瞬間…僕は知ったのだ。
僕がこの先、死ぬまですべきは、完全なる使役。
デビルサマナーという業は、隠れ蓑。
僕の…復讐の為の。
嗚呼、赤い焔は、里を燃す僕の妄想。
『さあ、上に行け…あの悪魔を殺せ…!』
「…クク」
『オレに奪われる前に、奪っちまえ…アレの魂を!』
背中を押す影法師の声。
云われなくとも、解っている…
彼を、他に殺される位なら…
あの美しい斑紋に、刀の切っ先を通してみたい。
捌いて、開いた肉は、人間のモノと同じだろうか?
知りたい、その中まで。
それをした時の、僕を見る眼を。
その瞬間、憎しみが宿るのか、それとも……
(それとも)
数歩踏み出し、翳した右手の刀。
暗い部屋に、ぼんやりと浮かぶ、微かな魔力を滲ませた銀色。
僕にこぞむ黒き姿を…薄く、照らし出す。
「僕は…」

やはり破壊しか出来ない

「僕は、勝負に負けるのは、嫌いでね」
映り込む影の位置目掛け、刀を突き刺した。
腰骨の辺りだった、そこをずぶりと刃先で抉る。
よく人修羅に縋らせた腰骨。
『ななななにしてんだ手前ぇえええ』
煩く影法師の警鐘が鳴り響く、同時に痛みが押し寄せる。
「逃がすか…!」
ぞぞぞ、と中で蠢くのが、今度ははっきりと判る。
勝手に駆け出して往く両脚。
『上行ってさっさとオレがアレをぶち殺す!』
慌てた影法師の声に、哂いが零れた。
「クク、逃がさぬと云ったろう?」
人修羅によくした様に、此度は己の両脚の腱を一閃する。
迸る鮮血が、周囲の家具を濡らしていった。
勝手に駆けていた途中の僕は、勢い良くつんのめって転がる。
『げえええっ!!んのヤロォ!!』
駄目になった脚の先から、どくどくと血が伝い流れていく。
が、まだびくびくとしつこく這うこの腿。
右手の刀をくるりと指で持ち直し、上体を捻る。
「行かせるか…!」
右腿から、思い切りその切っ先を突き、引き締まった筋に潜り込ませていく。
「ぁ ぁ あ ぁあっあ゛」
『イカレてんじゃねえのか手前!?寄越しやがれってんだよ!』
どうしても発される雄叫びの様な悲鳴の様な、獣じみた声。
ぶちぶちぶちぶち
千切れていく、僕の脚。
この腿で、よく人修羅を挟み馬乗りになった。
もう、それも出来なくなった。
右に続いて左の断面も露わになって、骨の白が暗闇に鮮やかで。
腿の付け根から先、神経が伝わる構造は途切れた。
「ごぼっ、げ、ふ…っ!…ふ、ふふ!おい、どうした、手脚しか無理か!?」
中で影が位置する箇所を、限定させた。
まだ完全に乗っ取れぬ影法師は、僕と同じく急いたのか、極所しか動かせぬ様子。
この不完全な魂の成立に、勝機を見出す。
「ほらほら!さっさと中で逃げ回り給えよおおっ!!」
胎か?腕か?ぞわぞわと這い登ってくる、蛭みたいに僕を蝕む。
その影目掛け、ぐずぐずと刺していけば、読み通りに刀を持つ腕へと来た。
『欠損したカラダなんて寄越すんじゃねえよ!やっぱ頭オカシイんじゃねえのか!?本当に人間かぁ!?おいおいおいぃぃ』
刀を自由にさせやしない。
「く、ふふっ、逃げ場が、無いのは貴様だ、影法師…!」
『ほざきやがれぇ!テメーだよ葛葉ライドウ!!』
右腕の指先まで来た、蠢く陰り。
柄をぎり、と握り締めたのを確認した瞬間。哂った僕、きっと無意識だ。
「馬鹿な奴」
僕は誰に云っている?僕にか?
『っ〜!!!!』
声が遮断された。
理由は明白。僕が左手で、右腕の肘から先を刎ねたから。
人修羅の斑紋が煌いて、刀ごと僕の右腕を吹っ飛ばす光景。
腕は事務所入り口の傍の壁にブチ当たり、赤い飛沫を散らしつつ転がる。
噴出す鮮血が生温かくて、しかし胸元のホルスターがぎゅうと締め上げる。
肩口に魔力が巻きついて、じわじわと血を引き止める。
(確かに、簡単に死なぬ、な)
ルイに装着させられた黒いホルスターが、失血死を赦さない。
ああ、分かり易い、嫌がらせだな。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
まだ、始末出来ていない。
影法師を具現化させる術を、脳内で探す。
奴が新月に現れるのは、辺り一帯が影となる為。
月の魔力に照らされて、縛られる事を避ける為。
(光、が欲しい)
電灯でも、ただの火でも無い。
魔力に満ちた光が…僕には発せぬ輝きが…

「よ る」

ばたん、と開かれた扉。
僕を見たその瞬間、ぶわりと空気さえ変える程に立ち昇る魔力。
そう、其処に姿を現した…光る斑紋の悪魔。
ガタガタガタガタ
その彼の傍に転がっている僕の腕が、美しいその光に炙り出されて見えた。
「よる!ヨル!夜ぅッ!!」
「邪魔するな矢代!!」
飛び出しそうな人修羅に命じる、主人として。
一人の僕として。
「僕の勝ちだ!」
ニィ、と鉄の味を噛み締め、左手で腰からずり落ちたホルスターを探る。
探り当てた特殊弾を即座に歯に咥え、外した回転式弾倉に詰め、振って戻す。
がしゃん、と撃鉄を親指で引き起こし、霞む視界のまま狙い定めた。
「消えろ、影法師…!」
血塗れで発動さえ怪しいリボルバー、引き金を絞る。
具現化した黒い影と共に、僕の右腕を撃ち抜いた。
すると、轟々と燃え、肉の焼ける臭いが立ち込めていく。
同時に、黒い気配も煙と共に掻き消えて逝ったらしい。
黒煙が爆ぜるかの様に現れ、飛散したのを最後に耳鳴りが止んだから。
「ふ、ふふ、ほぉら、僕が…勝った…ク…ククッ」
当然だろう?自ら持ちかけた取引に、敗するなぞ愚かしい。
左手に掴むリボルバーを、床に落としたのかと思ったが
そうでは無かった。僕がぐしゃりと床に崩れただけだった。
瞼はまだ開いているのに、どうしても霧がかかるみたく霞む。
ぐい、と視界が流れて、飛び込んできた金色。
「お…い、何、してんだ、あんた」
僕を抱き起こしているのか、人修羅。
「な、あ、何?何してんだよ、本当に、なあ、なあってば」
馬鹿みたいに、返答すら待たずに繰り返す君。
いつも云っているだろう、少しは読め、と。
「なぁ…なぁ夜」
頬に、生温さの無い液体が降った。
先刻からしつこかった血では、無い。
「蹴れる脚も無いんじゃ、あんた、らしく、無い」
まったく以ってその通りだ。
思わずふ、と鼻で哂ってしまった。
「げふっ!げぇっ、が、ああっ」
それですら器官に響き、咽て血が噴き出す。
ぼんやりと見える君の頬に、それが付着していった。
斑紋が赤く染まって見える…
更に眉根を顰めた表情なものだから、瀕死の君を思わせる、ね。
「何と戦ってたんだよ!?なあ!?」
「…っふ…何だって…構わぬ…だろう」
ようやく発せた声は、僕らしくも無い、張りも艶も無い。
「影…とか云ってた、よな、先刻」
「もう殺した……前々から、君で炙りだせば良かっただけの話、だっ、た」
己の矮小な姿を見られたくなくて、影法師とは基本、戦わせなかった。
そう、あんなに単純で粗野粗暴な影…
僕の、酷く単純な本質を、君に見られるのが腹立たしかったから。
そう、本当は…酷く、単純で、直情的、なのだよ。
まあ…君は気付いていたかも、知れぬがね。
「お、俺、ディアラハン使える仲魔従えてない」
「おいおい…見て、判らぬのか?君、は」
こんな身体、治癒の術でどうこう出来る訳無いだろう。
それすら判別出来ぬほど、どうして動転している?
「契約は、どうしてくれんだよ、あんた」
「…」
「は、はは、馬鹿みたいじゃないか俺、何?一応、水かぶって、綺麗に血汚れ拭って待ってたの、に」
「…へぇ、気が利く、ね、珍しく」
「だ、って、またあんたが切れると思って、また蹴りが飛んで」
云いつつ、僕の背に回されている腕がビクリと震えた。
「…もう、蹴れないじゃねぇかよ……っ!夜!」
どうして、そんなに嗚咽してるの?
「羽交い締めにも、出来やしない…っ……」
「クク、そう、だねぇ」
勝手に動いているのかと思ったが、どうやら今、左腕は僕の意思で動いている。
その、頬の斑紋を撫ぜる様に、雫をするりと指先で拭う。
金色が細められ、続いて君の手指が重なってくる。
僕の身体よりも、今となってはあたたかい。
「でも、左手は残っている、だろう?」
「…ぅ」
「此処まで、奪られたら…勝負に出た、意味も失せる、から、ね…」
「ぅうううッ、あ」
「…ねぇ、功刀君…、何、泣いてるのだい…君、さぁ…」
「あ、あああんた、上で云ったろ、名前忘れてると思ったとか!」
ああ、云った、そういえば。
「憎い名前を忘れる訳、無い…ッ」
また、そうやって“僕”を引き留める。
どうして十四代目葛葉ライドウで居させてくれない。
嗚呼…身体が、痛、い。
「ボルテクスからずっと俺の頭ん中は、夜、夜夜夜」
「…」
「あんたでしか、埋まってないのに!どうして先に退場すんだよ!?」
「フフ…何を、云って」
「俺を殺すのはあんただけなのに、あんたを殺すのは俺だけなのに」
「……」

ああ、おかしいな。
君を殺そうと、純粋に思って、影法師に持ちかけた筈、なのに。
どうしてこうなった?
何故僕は、僕に刀を突き立てた?
何故…
何故……
(あ、あ…そう、か)
僕は
雷堂が…“日向 明”が…
羨ましかった、のか。

「ほら、ね、僕は…破壊、が好きなのだよ」
擦れた声でも、発する事が出来る今の内に…君を突き放そう。
「勝負には、勝たなければ、気が、済まぬか、ら…ふ、げふっ!ごぽっ」
そう、破壊しか出来ない僕だから。
あんなにも堂々と「大切なものを護る」と公言出来る雷堂が…
明が酷く憎かった…妬ましかった…
僕には赦される事のない、その言葉が…

だから、僕を破壊した
僕なりの、やり方で
君を…

「夜!」
うつろう意識が、呼ばれてふと、覚醒する。
「あ、あり…」
ぎゅう、と、締め付ける、腕。
「ありが、とう」
包んでくる腕は、どうしてか突き放す気にならない。
僕を犯す烏の豚だとか…あの、雷堂の義母だとか…とは、まったく違う。
「それ、破壊じゃ、無いから…なあ、だから、もう自分を、赦せ、よ」
何故君がそんな事を云い出すのかと、疑問がじわりと浮上した。
すれば、後方から感じられる、微かな魔力。
僅か僕のMAGを吸い、かけられた術。
(イヌガミ……余計な、世話、だ)
息も絶え絶えに、何をしてる…主人の命令外、だというに…
僕の感情を、勝手に、人修羅に…流すな。
それを遮断出来ぬとは、もう…僕は…駄目だ、な。
………
どうせ、感情が、だだ漏れなら、僕の真意を教えてあげようか…矢代。
(痛い、苦しい)
(両の脚が無い、駆けれない、蹴れない、君に寄れない)
(右の腕が無い、羽交い締めに出来ぬ、絞めれぬ、撫ぜれぬ)
(視界が霞む、君の顔が、斑紋がよく見えぬ、金の色が遠い)
「…よ、夜……」
(離れたくない)
(ボルテクスから拾い上げたのは僕なのに)
(どうして僕ばかり)
(どうして明ばかり)
(学校に、もう少し、行きたかった)
(教師になりたかった)
「ふ、あ、ははっ…どう、だい?馬鹿げてる、だろ?」
「…ぅ、ううあ、あああ、あっ」
「僕は…僕の、したいように、したまで、だ」
「お、俺、この先どうしたら」
「君の事、は、悪いが…考えて、やれ、ぬよ、ふ、ふふっ」
(アマラ深界)
(夜の桜)
(初詣)
(河川敷の二輪)
(冬苺)
(一緒くたの晒)
「そう、君の事んて、ねえ…ただの…使役悪魔…」
(矢代)
(僕は)
(やはり怖い、死にたく…無い)
「夜、頼むから…もう、言葉に、してくれ、よ」
僕を抱き締めて、震える君の腕と声。
だって、充分だろう?頭には流れているのだからさ。
とても、僕が発して…良い言の葉では無い。
…ああ、身体が、燃えるように熱い。
それなのに、頭は酷く冷たく感じる。
真っ赤に染まった周囲が、連想させる。
曼珠沙華の…海…
僕が捨て置かれていた…あの海に…今、還る。
「ね、え、矢代」
ああ、でも、これだけ確認しておこうかな…
首を少し傾けて、その金色を僕の眼で繋ぐ、昔のあの瞬間の様に。
頬を、何かが伝った気がするが、きっと血だろう。

「僕、君を護れた…かなあ…?」

君の泣きじゃくる声が、あの赤い海で泣き叫ぶ僕に重なる。
嗚呼…その徒花に包まれて、誰を呼ぶのだろうか。
救いの手を、傷つけ合い、確かめ合い、舐め合う。
僕は君を拾うつもりで、僕を拾っていたのかも知れないね。
君は僕の代わりに人間に戻ろうとしてくれていたり、してね。
ねえ、ようやく、解った…よ………







熱いと思っていたのに、どういう事だろうか。
なにやら、涼やかな風が舞い込む。
振り返れば、ブランコの上に立つもう一人の僕。
微笑んで、下の焔の海を眺めている。
「ねえ、その風を追って御覧」
するりと飛び降り、燃える海をかき分けて、此方に来る。
「手脚は在る、僕が思えばね」
はっとして見れば、確かに四肢が在る。
「行き止まりでは無いよ、追って御覧ってば…気付かぬとは、馬鹿だね僕」
ニタリ、として指を向けた。
「ほら、焔は迫る、急ぎ給え」
あの曼珠沙華達が、小波の如く燃え立つ。
その熱に、堪らず振り返りつつ駆け出した。
風は、僕の向かう先を促す、導く。
ボルテクス界の荒野にも似た、乾いた、冷たい風。
行き止まりまで来ると、脚が突然埋まり、下に呑み込まれる。
水の中は羊水の様で、アマラ深界の最下層を思わせる。
「夜」
声がする。
「夜」
懐かしい様な、幾度も聞いてきた、その呼び声。
抜け落ちた先、水の薫り。
嗚呼、涼しい風は、此処からだったのか。
「夜!」
向かいに見える、君の姿。
血の様な赤ではなく、優しい桃の色が舞い散る。
そうか、僕の中に…こんな処が、在ったのか。
しっかり、君も居たのか。
そう、か。
「おいで」
あの時と逆に、君が僕に呼びかけた。
僕は熱から逃れた安堵と、心地好い水音に耳を澄ませ…
君の手をとろう。
「矢代…今、行こう」
どう?上手く、笑えている?






窓の外、新月の中で桜が舞い散る。
少し前、ライドウと見た景色を思い出す。

今、静かに微笑む夜を抱いて
ただただ、暗闇に人知れず散り逝く花を…俺は眺めていた。

その晩、帝都の桜は全ての枝で咲き誇った。


新月の涙(ライドウEND)・了


↓↓↓あとがき↓↓↓
その瞬間に気付いた。
本当は護りたかった。
そんな事、口に出来なくて。
苦しかった。
…今、君に真に微笑もう。

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