違う、相手の出方を見ているだけだ。
相手の答えに踊らされるこそが、馬鹿げている。答え方を変えるだけで、所謂イエス・ノーは最初から決まっている。
『見えたぞ十四代目、次は広い所にしてくれ』
コウリュウの鳴き声に前を向けば、沈む陽光が浮き上がらせる帝都の光。
…嫌いでは無い。
「銀楼閣の屋上で」
『まだ路上に人が多いであろう』
「ガス灯の光に紛れましょう」
『そうか?また適当に応えてはおらんだろうな』
「適当は、好い塩梅と同義ですよ」
『笑わせないでくれい十四代目よ、笑った際に革鞄が吹き飛ぶぞ』
歩けばそれなりの広さだというのに。龍の体躯で降り立てば、やはり狭かった。
帽子のつばを掴み一礼すれば、暗い雲間を掻い潜っていくコウリュウ。
やや久しい景色を歩きつつ、扉を開けて下へと降りる。
(板…)
等間隔に、階段に細い木の板が渡されている。
その隙間を普通に足運びする。眼を凝らせば、板には車輪の跡がある。
跨いで抜け、事務所の扉をノックし、開いた。
『!?十四代目……』
尾の先までびりりと震わせたゴウト童子が、ソファ上の毛布に包まっている所をするりと降りて来た。
僕の足元まで来ると、翡翠の眼がじっと確認の為に見上げてくる。
「偽者では御座いませぬよ、童子」
『…早かったな…というより、よく帰ったな』
「ええ、色々ありましてね」
『里には』
「帰還し、まず里へ報告に立ち寄った為、此方に参るのが遅れました」
『居らぬ間、帝都に脅威が無かったから良かったものの…はぁ……ともかく、鳴海が帰ったら顔を見せてやれ』
「おや、鳴海所長を扱き下ろしている割には心配なさっていたのですか」
『違う!あの昼行灯に油でも注いでやれと云っているのだ』
僕が居てこそ、昼行灯ではなかったか、あの人は。
童子は、きっと毎日あの顔がうだうだと悩んでいるのでも見せ付けられ、嫌になったのだろう。
『そういえばお主、書物はどうなった…お主の身が此処に在るという事は、まだ向こうの国か』
「いやはや、それが残念な事にですね、僕は別段向こうにずうっと滞在しても良かったのですが」
ソファに脚を組んで着席する、ゴウトが僕に続き、隣に来た。
膝上を空けても乗りたがらない。
「僕を迎え入れた一族の屋敷が全焼してしまいましてね」
猫の眼が鋭くなる。
「勿論書物もすっかりと燃えてしまいましたので、僕はこうして戻ってきた訳です」
『放火か?それとも事故…』
「さあ?僕はシュヴァルツバルトを散歩していたので、その時には居合わせておらずですね」
『………そうか』
お前が殺したのだろう、と、訊けば良いのに。
それを問い質せば、僕が臍を曲げるとでも思っているのだろうか。
「今、此処に滞在しているのは?」
『まだゲイリンの十八代目だ、色々世話を焼いてくれておる、感謝しろ』
「そうですか、ま、彼女には美味しい日々だったのではないでしょうかね」
ストーブに火を点け、ぼんやりとした暖気を浴びる。
じっとり湿ったままの制服が、熱を持つ。
『…おい、アレの脚だが…』
「はい」
『治る気が無いと、ああも治癒は遅いのか』
「胎内を循環するMAGが組織を構成しますからね、感情で巡りも左右されましょう」
トランクを開き、整備道具と手拭いを膝上に広げた。
脚のホルスターからリボルバーを抜き、着水の具合を確認する。
『向こうに……何と説明された』
「何がです」
『何故、書物と引き換えに…お主だったのか、を、説明されなかったのか』
「僕が葛葉のライドウとして活躍している話を聞き、その上でのスカウトというやつでしょう?能力の有る者を一族に迎え入れ、相続争いですよ、結局は」
『…血縁の必要性は、無いと申しておったか』
ほら、遠回しだろう。
「ええ、特には。手続きさえ済ませれば、赤の他人の僕でも、あの一族の一員と成り得る事が可能だそうで」
『そうか……』
「ファウストの血を継いでいるだとか、眉唾な事も云ってましたねえ…フフ、化かされたのでしょうかねえ、僕」
『ヤタガラスに、命じられたのか?』
一歩踏み込み、僕の脚を前足でぐ、と押す黒猫。
僕は濡れた部品を磨き上げながら、その猫眼を学帽の影から見下ろした。
「書物を向こうに存在させておくな、とは云われましたね」
『……お主が訪問した先の一族は……昔、ヤタガラスと縁有って…今では、警戒し合う仲だったのだ』
「へえ、つまり僕は敵地にたった独り送られた訳ですか」
『…いや、そのだな、ライドウ』
決定的な何かを隠しているな、烏め。
このお目付け役も、情は捨てろと云う隣から、人道的な観念が無ければ勤まらぬとでも云いたげに稀にこうなる。
「御安心下さいゴウト童子。彼等が何者であったとしても、後悔も何も抱いておりませぬ故」
ストーブに“燃料”を追加しようか迷ったが、猫の眼が有るので止めておく。
トランクを閉め、リボルバーを戻して立ち上がれば、下の方から薄く響く扉の音。
じっと押し黙る、僕も童子も。
微かな会話が聴こえ来る、僕は耳を澄ませる。
板がぎしぎし、軋む音。事務所扉の近くを通過する際に、一際大きく響いた。
「今晩は何にしましょう、功刀さん」
「お仕事あるでしょう凪さん…食事くらい、自分でどうにかしますから」
「まだ商店、ギリギリ閉まってないですよね?希望が無ければ勝手に考えてしまうプロセスで…えーと、今って何が旬なのでしょう」
通り過ぎて往く。
板の軋む音と、扉の音を聞き分ける。恐らく、僕の部屋だ。
トランクを持ち上げ、ゴウトに一瞥呉れて…多分、僕は哂っている。
『おい、十八代目には間違っても“感謝”以外するなよ』
「如何いった意味で御座いましょう、童子?」
『いいや…』
ストーブの傍に丸まった、もう返答の気は無いらしい。
出来るだけヒール音と気配を抑え、僕は事務所から出た。
暫し待てば…思った通り、スキップでもしそうな勢いで十八代目が部屋から出、降りようと数歩下って来た。
そうして、僕を見付け…その眼が、笑わなくなった。
「…せ、先輩」
「葛葉ライドウが十四代目、本日をもって再び帝都守護を着任致す」
刀を真一文字に、鞘ごと掌に携え、上階に向かって礼をした。
は、と我に返った十八代目ゲイリンが、帯刀した小太刀を同じ様に扱い、僕に礼をする。
「御勤め、お疲れ様です…先輩」
「君も御苦労だったね、凪君」
「いえ…っ、広い帝都を任されて、とても良い経験が積めました!」
「へえ、そんなに愉しかったかい?」
歩み寄れば、太陽の陽射しの様な彼女の眼が曇る。
僕をそのまなこに映すだけで、薄い色素の眼が暗くなる。
着衣が黒いからだとか、そういう問題では無い。
尊敬の色に隠れた何かを感じる。
「僕が帰って、そんなにがっかり…?ククッ」
この上背に、ヒールだ…別に、威圧したい訳では無いのだがね。
「が…がっかりだなんて、そんな訳ありません!」
ポーカーフェイスが成ってないね。
買い物籠を僕に押し付け、桜色の唇を、一瞬震わせるのが見えた。
「荷物は」
「…まだ、運び込んで無いです」
「そうかい、もう少し暗いからね、槻賀多までの電車も無くなる時間帯だ…これを使い給え」
ホルスターから引き抜いた一本を渡す。
「オボログルマだ、とは云え調整済みだからね、乗り心地は悪く無いよ」
「あ…」
「僕の云っている意味、解るね…十八代目?」
御覧?怖い顔はしていないだろう?
唇の端が上がるのが、自分でも嫌という程判る。
こうして、すぐにお帰り頂く理由は、説明しない。
して、たまるか。
「…あの、貸して下さった御本、とても面白かったです」
「そうかい」
「ファウスト氏と同じ言葉を、唱えたくなってしまいます…功刀さんと居ると」
「へえ、しかしそれではサマナーとしては危ういね」
僕に面と向かって云うとは、豪胆な娘め。
「……あの、功刀さんに、宜しくお伝え下さい」
深々と礼をして、受け取った管をホルスターに差し込む彼女を見て…
更に、此処に置けぬと、思った。
独逸で、燃え盛る屋敷と人を見ていた時よりも、今の方が胎内が熱い。
下る十八代目と逆に、上へと脚を運ぶ。
もう気配も隠さぬ、高圧的に踵を鳴らし、僕の部屋だからノックもしない。
振り返る顔、僕を捉えた瞬間、その眼が見開かれた。
「よ、夜!?――」
「何をのうのうと甘えている!!」
窓際で黄昏れる君の乗る、その車椅子を思い切り蹴り飛ばした。
がしゃんと盛大な音を立て、床に突っ伏した君。その脚に巻かれた包帯を、屈み込んで無理矢理剥ぐ。
「待ても出来ずに…代わりに動く脚なら誰のものであっても構わぬのかい…」
「……っ、う…」
「要らぬだろう?人間を補助をする椅子なぞ…君は、悪魔なのだから」
車椅子の車輪が、くるくると、異国の観覧車の様に廻り続けていた。
「だ…って、あんた……帰って、来るのか……もう、分からなくて…」
打ち付けた頬を掌で包み、僕を睨むその眼。
「待て…なんて…云わなかった…っ」
それを聞いて、じりじりと這い上がる心の何かが。
(言葉にしなければ、解らぬのかお前は)
列車を塞き止めた君の脚を、指先で撫で…未だ生え揃わぬ先端を弾いた。
痛みに声を引き攣らせる君を見下ろしながら、僕は立つ。
勢いのまま土足で部屋に入ってしまったが、それすら如何でも良い。
寧ろ、好都合だ。
「僕が戻らねば、あのまま十八代目の悪魔にでもなっていたのかい?」
寝台に腰掛け、脚を組み、その片方を君の鼻先に揺らす。
「ほら、脱がし給え、靴」
「どうして…んな事俺が!」
「その脚では立てぬだろう?あと指先だけ、されど指先だけ…踏み堪える事が出来ねば、人は立てぬ」
ぴくり、と、君の肩が震える。繊細な睫が一瞬伏せて、再度僕を睨み上げた。
「云ってたでは無いか、一発殴らせろ、と」
「……黙って殴られるあんたかよ」
「今、立つことが出来るなら、打たれてあげる」
唱えた瞬間、床に這い蹲ったまま、僕の革靴を脱がしにかかる人修羅。
我武者羅にぐいぐいと左右に動かし、外すとそれを背後に放る。
投げられた靴は車椅子に当たり、車輪の回転が止まった。
薄足袋の小鉤を開いて往く、一箇所が解れる程に酷く乱雑に。
その、男性にしては華奢な指先が掴み縋る。剥き出しにされた僕の爪先に舌を這わせて、咥え込んだ。
「ん……んぶっ…ふ…ぁ」
爪先から流し込むMAGでさえ、その久しい味に酔い痴れているのだろう。
こういう時、そこらの雑魚の様な貧相な味のMAGでなくて、良かったかもしれないと思う。
…生まれに…感謝すべきか?
いいや、馬鹿げている…違う…僕という個体が、生まれ持ったものであり。
出所など…関係無い。
親など。
「はぁ、ん、んぢゅっ、ふ、ぅ――ッ」
爪先から這い上がってくる、ぞくりとさせる、君の熱い様な、冷たい様な舌。
惑いつつ睨むその眼は、やはりお気に入りだ。羞恥に塗れ、視線を逸らす瞬間に青臭い色気を感じる。
指の間まで、貪欲に舐め取る。その動きに釣られて、MAGが垂れる。
僕の脚が唾液塗れになるにつれ、君の脚先がじくじくと形成されていく。
そう、君を形成しているのは、僕のMAGだ、ボルテクス以降、ずっと。
他の仲魔と比べ、不明瞭な契約を結んでいるだろう?
「美味しい…?」
「ん、はぁ…んぷ、っ…はーッ……はーッ」
「クク…五本…揃ってきたねえ」
その方が、都合が良いからだ。
知れぬ部分が多い程、どうにでも辻褄合わせが出来るからだ。
「っ、この…!」
僕の爪先から、銀の糸を引かせつつ罵る唇を開いた人修羅。
片脚が膝を着き、その視線が上がる。
立ち上がった君は前傾姿勢を振り被り、引き絞った腕を突き出してくる。
斑紋の手が間近に来ると、避ける気も何故か失せた。
(このまま、宣言した通り殴られてみるのも一興か)
すれば、また後で…君を躾る理由になる。
言葉は要らない、互いに思い当たる何かがあれば、それで済む。
それは、利害の一致。
君が必要とする僕、僕が必要とする君。
互いに都合好く捉え、邪魔なものを排除してきた。
温かな寝床なぞ、要らない。脚を引っ張るだけだ。確かなものより、虚ろう何かを利用して生きるのが、僕なのだ。
そう、僕には
「んぐ、っ」
要らない――
「ふ……は、ぁ、ん、んっ、ん」
人修羅の拳が逸れて、傍のシーツに埋まる。
噛み付く様な、接吻。顰められた眉が、あたかもさせられているかの様な表情で。
しかし、僕はこの間、一寸たりとも動いてはおらぬ。
たった今、脚を舐めたその舌先で求めるのか、と、胎に蹴りでも入れてやろうかと思った。
「あふ、っ」
「下手糞」
すっかり擬態を解除した君の角を掴み、喉を晒させる。
その白い喉笛をじっとり舐め上げて、耳元で囁いた。
「もう忘れたのか、こうするのだよ…!」
「んん――ッ」
噛み付き返す。狭い唇は相変わらずで、逃げ惑う舌も変わらなかった。
そういえば、蹴ってやろうと思っていた筈だ。
何故、首に、背に、手を回しているのだ…
まあ、良いだろう?だって、理由の説明は要らない。
言葉にする必要は、やはり無い。
潤う君の斑紋の光が、応えている。止める必要は無い、と。
このまま、繋ぎ直して、また元の日々が戻るだけだ。
ヤニの臭い、でもそこまで下品じゃない葉の匂い。
混じる様にして、香木の様な薫りがする。
次に、鼓膜を幽かに震わす音。
水音、雨樋を叩くそれがしとしと鳴る。
ああ、だからこんなにも香りが鮮明に漂うのか。
「う…」
自分の呻き声と共に眼を開く。大した光量も無い、陽はまだ昇っていないらしい。
薄暗い部屋の中、自分の指先を見れば、相変わらず黒い斑紋が伸びている。
駄目だ…いくら部屋の中とはいえ、いきなり他者が入り込んできたら、どう説明する。
「気分は如何だい」
「…最悪」
「君から誘ったではないか、随分だね」
「あんたが舐めろって、脚ぶら下げたんだろ」
腰が、引き攣る感覚がする…だるい…
久々だった所為か、少しだけ…あの行為が激しく感じた。
指先まで充ちる魔の力は、この男の使役下に再び入った事を意識させる。
「どうして帰ってきたんだよ、ドイツは飽きたのか?」
「…そうだね、飽いたよ」
煙草をぐしゃり、と揉み消すライドウ。あれをする位なら、俺に灰にさせて欲しい。
その切れ長な指先がヤニ臭いと、白檀が薄れて気分が悪くなる。
「ヤタガラスのサマナーを嫌う連中も多かったよ」
「…そうか」
「一部は取り込まんとし、一部は毛嫌いしていたね。中でも、つい最近無くなった家長がねぇ…随分と忌み嫌っていてね。子供をヤタガラスに奪われた、デビルサマナーは追い出せ!と、声高に叫んでいたそうだよ」
それを聞いた俺は、表情を変えずに居れただろうか。
云うべきなのだろうか、その家の事を…その子供の正体を。
「フフッ…ま、あそこに長居していても、派閥と相続の争いに呑まれるだけと悟った訳さ」
「だから帰ってきたのか?」
「…御不満かい?」
「凪さんの介護、もっと甘えとけば良かった」
「フン」
小馬鹿にした失笑を聞き流しつつ、俺は起こされた車椅子をぼうっと眺めていた。
言葉にすべきなのか?
しなければ、俺はまた…瀬戸際になって、自己嫌悪する己を見るハメになるのか?
「ねえ、功刀君、春は遠いね、少々肌寒くはないかい?」
その声に振り返れば、既にちゃっかり学生服の黒を纏うライドウが、哂って何かをチラつかせる。
ボロボロの、本みたいな何か。
「…何だ、それ」
「燃してくれ給えよ、暖を取るくらいの役には立つだろう」
灰皿に放ったそれは、年代物の書物に見える。
骨董にも見えるそれは、果たして重要な物ではないのだろうか。
「おい、これ…燃やして大丈夫なのか?」
「寝起きで火が点かぬかい?伴奏でも必要かな」
トランクからすらりと取り出す物を見て、更に唖然とした。
艶やかな色目の、ヴァイオリン。
「どうしてそんな物」
「独逸の土産だが?ヤコプ・シュタイナーのれっきとした逸品だよ」
「はぁ?」
「おっと、胴にその襤褸本を入れていた所為で、調律がおかしくなっているね」
キィ、と鳴らし始める…が、調整の音すら不快感は無い。
構える姿が様になる。性格さえ抜かせば、やはりこの男は美丈夫という類の存在なのだ。
「ねえ、早く燃してくれ給え」
ちら、と目配せしてから、何かを弾き始める。
(弾けるのかよ、嫌味な奴)
それが何か解らない俺は、あの日観たファウストを思い出す。
「ベルリオーズの《鬼火のメヌエット》さ」
弾む弦、掻き鳴らす弓が優雅に、それでいて力強く律動する。
あんな遠くの席から眺めていた時よりも、楽器の音は鮮烈に感じる。
遮らない声、深すぎない心地良いテノールが詠う。
聞ゆるは戦か 歌か
天にある心地せし日の
優しき戀の歎きの聲か
あはれわれ等 何かを願ひ 何かを戀ふる
ああ、奥底の感情は言葉として具現しない。
ボルテクスから、そういえばそうだったじゃないか。
腕を翳し、ライドウの弾き語る声に耳を澄ませて、ゆらゆらと鬼火を踊らせる。
灰の皿の上、轟々と燃え朽ち往く書は、やがて紙切れになり、炭化した。
ゆっくりと弓を引き、肩からヴァイオリンを外すライドウがニタリと哂う。
「本当はどんな物かと、己の手で保管してやろうかと思い、引っこ抜いて来たのだがねぇ…フフ…やはり消すべきだと考えを改めたよ」
「盗んできたのかよ」
あの、例の術書かよ、やっぱり。
「おや、独逸の家は燃えてしまったのだから、所有権は消えている」
「ヤタガラスの持ち物じゃないのか」
「クク…家と共に燃えたと伝えたさ、しかし内容は滞在中に読み上げ…しっかとこの頭に有る、と説明した」
弓で学帽を軽くノックするライドウ、ドアはノックしなかった癖に。
「そして、替え玉はしっかりと置いてきたさ…少しばかり要点を挿げ替えた、成立せぬ術を記述した写本がね」
「は?バレないのか、そんな内容で」
「あんな細かい術、誰も実践せぬよ、今の御時世」
「嫌がらせかよ、呆れた…」
何かもうどうでも良くなって、シーツに包まった。
何だよ、俺が必死で止めなくても、結局は同じ顛末だったって事だろ。
「楽器の中までは調べなかったねえ、カラスも」
「本当あんたって…狡猾だ」
「そういう僕だからこそ、君も使役下に下ったのだろう?」
自信たっぷりに、妖艶に哂うライドウ。
不貞寝する俺の額に指が触れてきて、一瞬跳ね返そうと思って、止めた。
「デビルサマナーである事を批難されるのは、心地良くなかったね。僕はサマナーとしての誇りは持ち合わせているつもりだからね」
「…あっそ」
「どうせ、使役する悪魔も下賎な衆なのだろうと云われたよ」
「悪魔はそういうものだろ、何か違うのかよ」
前髪をそっと払う、俺の眼を覗き込む暗い闇色の眼。
「“僕の悪魔”は、共に《ファウストの劫罰》を観る程度の知性と品位は兼ね備えている、と答えたさ」
雨音だけが響いていた。
揺れる視界、別に銀楼閣は揺れていない。
「……クッ、何だよ、それ」
可笑しくて、俺が思わず肩を震わせ笑っていただけだった。
俺を見つめるままの顔も、不遜な笑みを浮かべていて。
「ねえ、君が燃した…この世から消したのだよ、あの書物を」
責任転嫁かよ、と思ったが、その続きを聞く為に黙っていた。
「だから、あれと引き換えに生った仔も、もう居らぬね」
「…」
「カラスに育てられた、只の捨て子が…この僕さ」
「……どうして、俺に燃させたんだ」
囁く様に、詠う様に、俺の鼓膜を震わせる。
「Verweile doch, du bist so schoen」
ほら、な。
俺に理解出来ない言葉でしか、あんたは感情を吐かないんだ、いつも。
「ほら、MAGも満ち充ちて満足だろう、もう寝給えよ、煩いから」
「な…っ、散々振り回しといて…!」
「お休み、僕のメフィスト・フェレス」
…何を思って、こいつがそう云ったのか、理由は訊かない。
問い質すだけ、馬鹿らしい。好きに解釈するのが、俺達だろう。
「絶対、最後に立っているのは俺だからな……」
今は、殺すとか、そういう言葉を吐く気になれなかった。
それは、押し迫る睡魔の所為にして、眼を瞑る。
悪魔だから、その欲求が激しい筈も無いのに…
「…おやすみ…夜」
寝惚けていたのか、間違えて吐き出した言葉が、跳ね返って己の心を抉る。
昨日までと違う、今宵は腹立たしいこの男が、居る、傍に。
俺は頬の火照りをシーツに押し付けて、睡眠に入る形を取る。
馬鹿げている
最後が来るのを恐れているだなんて
信じたくない
時が…止まってしまえば、その恐怖も緊張も無いのかと思えば
いっそ…楽に…このまま…
「怖い夢を見たからとて、寝言に僕を呼ぶで無いよ。流石に出張帰りで一発交って一発弾って、疲れたからね」
煩い、この外道サマナー。
「では、おやすみ………矢代」
煩い…この…この…
また、異国に高飛びされない様に
そっと指を絡ませて、寝たふりをした。
止まれ、お前はとても美しい《後編》・了
↓↓↓あとがき↓↓↓
また無駄に長くなってしまいましたね。
・ファウストになぞらえて展開させる。
・引き止めたい一心で列車を止める人修羅。
・車椅子を蹴り飛ばすライドウ。
・殴る為に爪先からMAGを舐めしゃぶる人修羅。
これ等を書きたいと執筆を始めたのですが。
肝心な言葉を云わない、というのは、互いにとって都合が良いからです。云う事によって、己の目的と手段が逆転しかねないからです。
それにしても甘くなり過ぎた気がします、最近密着多いですね。
《結局ライドウは親と知っていたの?》
⇒ゴウトや御上の一部がああ云っているだけで、DNA鑑定しなければ確証は持てない。ファウストの末裔かも、定かでは無い。因みに、夜は最初から帰る気満々だった。
《ドイツの家が燃えたのは、ライドウが直接下したのか?そういう風に誰かを手引きしたのか?》
⇒これに関しては、ドイツのパートを書くべきか迷ったのですが、敢えて書きませんでした。ライドウにとって、結局親の情というものは理解し得無い展開になるので…そして、あまり鮮明にしてしまうと、執筆している管理人が後々辻褄合わせするのが大変だからです(おいおい)作中のタム・リンの言葉が耳に痛い。ライドウはヤタガラスに与する今まで通りの路を選んだ、結果としてはそれだけです。ミステリアスな所を残した方が、夜の影が引き締まる気がしないでもないからです。
《「Verweile doch, du bist so schoen」って何って云ってるの?》
⇒独語。タイトルの通り「止まれ、お前はとても美しい」です。ファウストの劇中で“「時よ止まれ」と唱える事が、ファウストが悪魔メフィスト・フェレスに魂を明け渡す詞(ことば)となる”という契約だったので。つまり、ライドウなりの人修羅に対する感情表現…
この瞬間を永遠にしたいと思う事こそが、彼にとっての真の堕落。
《何故人修羅は殴らないでキスしたの?》
⇒一刻も早く契約を交わしたかったから(繋ぎ止めてしまいたかったから)
これは、長編の徒花を書いた際に、実の所管理人にもダメージが有ったので…正直に云ってしまうと、それの修復の為に書きたかったのです。このSSでは、日常に戻ったという事です、いつも通り、傷の舐め合いという日々に。
《いきなりヴァイオリン?》
⇒ヤタガラスに荷物を確実にチェックされる筈なのに、どの様にして術書を持ち帰ったのか…を考えた結果、密輸じみたイメージが浮かび…どうせなら小洒落た容れ物に入れてカラスの眼を欺きたいなあ、という事で楽器にしました。《鬼火のメヌエット》で、少し場面を華やかにしたかった。何でもさらりとこなす嫌味な野郎を演出するのにも一役買いましたが。作品には食事か詠うシーンを入れたくなるのです。
《凪ちゃん可哀想じゃないですか?》
⇒思った以上に噛ませ犬になってしまって、申し訳無い。凪⇒人修羅が好きです(聞いてない)
《冒頭の文は?》
⇒森鴎外訳のファウスト(大正二年発刊)からです。デジタルライブラリーというサイトで、この時代の書物が読めます。全文がまるで詩の様で、言葉遣いも素敵なので興味のある御方は是非。