蟲の飛び交う集落、建造物すらがじがじと喰らうその羽蟲達。
爛れた空はいつも以上に紅い色をして、この世の終わりを連想させる。
既に脈が絶えた大地は、住人達に活力を送る事も無い。
いよいよおかしい空気に、俺とライドウはこの日、ずっと屋外に出ていた。
外の蟲達が、突如集落を襲ったのだ。環境音すら無いこの街に、悲鳴と咀嚼音が響いていた。
『キリが無いわよ』
集落でいくら荊鞭を振るおうと、周囲に当たるだとかをきっと気にする事も無い。
外に出ている住人は、蟲に喰われてばかりだから。
『ねえライドウったらあ』
アルラウネの不満気な声に、ライドウがしなる荊を棘も厭わず掴み引く。
「主人が良しと云うまで振り続け給え」
切れ長な、孔雀睫がはためく…サマナーの微笑。
『……ん、もぅライドウったら、頑張っちゃおうかしらぁ…んふふ』
有無を云わさない威圧と、妙に色めいたテノールで云い聞かせるライドウ。
微少のMAGだろうと薔薇を咲かせたアルラウネ。
(単純…)
奴のああいう仲魔達を見ると、苛々する。
当のアルラウネは、ライドウの頬に軽いキスをして、建造物の窓に伸ばした荊で瞬時に跳ぶ。
それを追う様にして、複眼をぎょろりと光らせる蟲。
『ワタシの蜜を吸って良いのはライドウだけよ?アナタ達はお呼びでな・い・の』
窓に腰掛け、深窓の薔薇が邪悪に微笑む。羽ばたき寄る蟲達に、拡散させて打つ氷塊。
アルラウネのブフ・ラティは蟲の羽を停止させ、ボトボトと地に叩き伏せさせる。
ひくひくと足を蠢かし、ギチギチ歯を鳴らす蟲達。仰向けに転がり、うねる胎が気色悪い。
俺の逸らした視線の先、ライドウが空を見上げて哂っている。
「見給えよ功刀君、天が割れている」
云われるまま上を見れば、いよいよ亀裂が拡がり、言葉の通り割れている。
『アバドン事件のアポリオンを思い出すな、胸糞悪い事この上無い』
蟲をひょい、と飛び越えながらゴウトがライドウの足下に駆け寄った。
『ライドウよ、空間の歪みが何処かしらに発生しているやもしれぬ、よくよく確認しろ』
「成るべくして成った…と云ったなら?」
『何…?』
「フフ、脱出の為には傷口を広げなくてはなりませぬ童子」
黒猫に哂い、ライドウは胸を細長い指でするりと撫でる。
「アルラウネ、戻り給え」
一声発し、入れ違いにMAGの光が帯となる。
『ご無沙汰!』
舞う薔薇の花びらが、深緑の木の葉に取って代わる。
さざめきうねる旋風、ぎょろりと光る眼が俺達を見下ろした。
「久しいねヒトコトヌシ、早速だが仕事だ」
『何!?』
召喚されたヒトコトヌシは、名前の通り一言ずつしか発さない。
自然と横柄な物云いになるので、俺は顔を顰める。
それに、ヒトコト大風で身を裂かれた記憶が有る俺としては、仲良く出来る筈もない。
「天の割れ目が見えるだろう?無風のこの地に、飛行の風を起こしてくれ給えよ」
『…遠い!』
「へえ、この程度の距離も飛ばせぬかい、ケチだねえ“いちごんさん”は」
クス、とライドウが嘲弄すれば、木の葉が渦巻き鳥の形を取る。
『乗れ!』
巨大な鳥は、ライドウと俺と黒猫程度なら容易に積載出来そうだ。
「クク、御苦労」
満足そうに哂いつつ、ライドウはヒールの踵をひしめく木の葉に掛けた。
タタッ、とそれに追従するゴウトが、俺の傍を通過する際にボソリと零す。
『あのヒトコトヌシは“いちごんさん”と呼ばれるのが嫌いでな』
成程、ライドウの意地の悪さが垣間見える。
乗れと促された訳では無いが、文句される前に俺もヒトコトヌシへと歩み寄った。
が、スニーカーを引っ掛ける前に、止まった。
「ライドウ、見に行かなくていいのか」
「何をだい」
白々しい。
「…タチバナさん」
勝手にライドウが命名したその名を出せば、奴の形の良い唇がニィ、と歪んだ。
「折角頭上に路が開けたと云うに、君は何を云っているのだい?」
「此処の住人、皆倒れてるじゃないか」
「それが?君の困る事が有るのかい?」
「無い…けど……あんた、あんなに馴れ合ってたじゃないか」
僅かばかり私情を込めて糾弾すれば、あはは、と声をあげるライドウ。
「気になるのなら、確認しに行き給え」
「別に、気になるとかじゃなくて…!」
「では百二十秒待とう、一……二……」
これまた勝手にカウントを始めるライドウに、俺は納得出来ないまま踵を返す。
「本当に先に帰ったら憶えてろよライドウ、絶対ぶっ飛ばす」
吐き捨てつつ、足はあの建造物に向かっていた。
(助けてやりたい訳じゃない)
ライドウが、生きる路を選択させていた理由を知りたかった。
彼女の自殺を止めていた理由を。
「……」
胎動もせず、息を殺している廊下。明滅していた花灯りは、既に消えて。
殆ど暗闇と思うが、俺の悪魔の眼が、壁を透過する薄日を拾っているのか、視える。
部屋から這い出たのであろうタチバナが、廊下に上半身をぴったりと寝かせたまま、絶えていた。
「…タチバナさん」
返事は無い。
上半身の薄い纏いすら剥ぎ取って、極微量でもいいから、と、まるで床を抱く様にして。
死にたくない、とでも云いたげに、死の部屋から這い出ていた。
パールヴァティに愛らしく結ってもらった翠の髪が、踏み荒らされた花畑が如く、解け散って。
透き通り煌いていた眼は、透明度の低いガラス球。
俺は、その亡骸に別れも告げれずに、ただ黙って、残りの秒数を意識する他無かった。
「おかえり功刀君、残り三秒だったよ、危なかったねえ」
ヒトコトヌシの上で脚組みして哂うライドウの背後に、応えもせずに飛び乗る。
『飛ぶ!』
ぐわ、と浮遊感が身を一瞬強張らせた。ヒトコトヌシが離陸して、紅い空の中を舞う。
蟲や住人の散らかった大地は、死屍累々としていた。
以前ちらりと聞いたアポリオン騒動の帝都も、こんな具合だったのか、と、ぼんやり考えた…
…考えたかった。先刻の映像を遮断したかった。
……出来ない。
気が散ってしょうがない。問い詰めてやりたい事が、どうしたって脳裏を行き交う。
「功刀君、次は帰りの詞、間違えぬ様」
前方に乗るライドウ、声は哂っている。
きっとまた変な世界に辿り着いたとしても、脱出出来る自信が有るのだろう。
そんな奴に、噛み付く様に問う。
「おい、ライドウ」
ライドウの相槌を待たずに、黒い背中を睨んで。
「タチバナさんが死ぬの、予定通りだったのか」
天の傷口が近付いてくる、異界に揺らぐ現世への歪みにも似ていた。
「ライド…」
「また漂流したいのかい」
前方に跨る黒い外套が捲れて、隙間から刀の鞘がぐぐ、とこちら側に突き出る。
俺の脇腹を抉る様に傾き、圧迫した。
「嫌ならば、早く唱え給えよ」
小さく首だけで振り返るライドウ、長い睫が目立つ横顔。
有無を云わせぬその声音に、俺は言葉を呑み込んだ。
「…… 」
元の次元へと繋げる呪文を囀って傷口を広げれば、ヒトコトヌシが滑空し、その勢いのまま上昇して往く。
揺らぐ紅い空に、巨大な…長い胴の白い蟲を見た気がした。
『掴まれ!』
木の葉にしがみ付く不安定さは、眼の前の閃光に呑まれれば気にもならない。
次元を泳ぐ際の、皮膚が引き攣るあの感触…
どさり
はっ、と、気付けば掌と膝に、接地の感覚。
瞼を開けば、蠢く草木…でなく、植物柄。少し毛足の長い、豪奢な臙脂と紺の絨毯。
此処は、何処だ?
「俺…また、間違えて――」
冷や汗の滲む気持ちで、四つん這いに蹲る姿勢から立ち上がろうとすれば。
舞い散る木の葉の隙間から、黒い外套を靡かせたライドウが飛び出し、俺の髪を鷲掴んできた。
「いぎっ!?」
ぐい、と引き寄せられ、すぐ傍をMAGがたなびき、空気を震わすテノール。
「我等が眼前に張り給え」
俺はライドウを睨んだ眼で、そのまま指先の管を追う。
指令の通り、俺達の手前に張られた障壁…召喚され、張ったのはネビロス。つまり、外法の壁か?
ヒトコトヌシの葉は、俺を抱えるライドウの胸元にぞぞぞ、と吸い込まれていく。
「ライドウ…ッ」
「君は耐性が無い足手纏いなのだから、少しは察知する努力でもしたらどうだい?」
既に空いた手で抜刀し、臨戦態勢のライドウ。
ようやく俺は脳天の髪を解放され、びしりとデコピンで突き放される。
「いっ…!てめ…どうやってムドの先読みしろってんだ…!」
「相手の唇が呪殺の詞を紡いでいるだろう?読心よりも早い……それより御覧、功刀君…フフ…これは実に都合が良い」
「何が…」
ライドウの示す先を再度振り返れば、障壁越しに蠢く肉塊。
巨象の様な体躯だが、頭と四肢は確認出来る。あれは…人間…なのか?
襤褸切れになった着衣らしき残骸を、その四肢に垂らしていた。
「辛うじてヒトガタを残しているが、僕等を吐き出した際に大きく裂けたのだ、もう長く無いだろう」
「は?吐き出した?」
ぱくぱくと、涎を垂らしながら開くは…まるで生き物の口。でも、有り得ない場所に付いている。
人間なら、あれは腹部に当たる位置だ。
『ぅ、うぅうぐぅうう……くれ…もっとくれ、屍肉くれえぇええ』
先刻から、外法の壁がキン、と幾度か鳴っている。呪殺魔法を唱えているのか、裂けた口がごぷりと液を漏らす。
壁が無ければ、俺は床に突っ伏していただろう…そう思えばゾッとした。
「吐き出した…って…どういう意味だ」
「僕等は奴の胎から出てきたのだよ?」
一瞬ライドウの云う言葉が理解出来ず、自身の身体を見下ろした。
確かに、薄っすらと体液で濡れそぼっている。奴の胃液だろうか。
「んだよそれ…今まで俺達、あれの中に居たってのか……?意味が、分からない」
考えた瞬間、背筋がぞわりとして、吐き気が込み上げてきた。俺まで吐き出しそうだ。
「さて、早く始末してやるべきかな」
隣で呟くライドウが、うっそりと哂う。
「始末って…おい、そいつ、悪魔なのか…?俺達に何の関係が」
外法の壁を通り抜けていくライドウ、障壁が水面の様に波打った。
蠢く肉塊の発する呪いは、あの男には通用していない。あいつは、ムドの効かない悪魔の如きサマナーなのだ。
膨らんだ瞼でよく見えてないのか、ライドウがすぐ眼の前に居るというのに、肉塊は直接攻撃すらしてこない。
「脳ばかり肥大して…フフ、持て余し活用されぬ知識ほど無意味なものは無いね……おい、ネビロス」
『はい』
「コレの中からいくつの魂を感じる?」
『ざっと二十名でしょうか』
「そうかい、では間違い無いねぇ……クク」
仲魔と会話したと思った次の瞬間には、刀の切っ先を胎の口に喰わせるライドウ。
腕を傾け、ぐじゅぐじゅと抉り込む。その不快な水音に、俺は堪らず眼を背けた。
『オノレ…デビルサマナー…』
どこからの声か、あの肉塊とも違う微かな響き。
視線を戻せば、ライドウの刀の切っ先に、白い蛇の様な蟲がしゅるしゅると巻きついていた。
あの肉塊の内部から出てきたのか…俺達の様に?
『応声虫…!』
俺の足下からフギャ、と黒猫が鳴いた。
「オウセイチュウ?何ですかあれ…悪魔の一種ですか」
『まあ、近いと云えば近いな…ヒトの胎に住み、その胎に口を作りては、まるでヒトが如く喋り、食物を要求する様になる厄介者だ』
「寄生されてるなら、あのデカイの…本来は人間って事でしょう、助けなくていいんですか」
『ふぅむ……あそこまで進行しておると、乖離は不可能であろうな』
濡れた毛皮がムズムズするのか、絨毯に手脚を擦り付けつつ、ゴウトはあっさり云い切った。
『コノ人間ノ望ミヲ、少シバカリ叶エテヤッタダケ』
ライドウの刀の先で、白い蟲がチロチロと舌を出す。
その舌先がライドウの学帽のつばをパスン、と少し撥ねれば、クク…と肩で哂うデビルサマナー。
「僕の仕事は帝都の治安向上だからね、お前の様な存在は邪魔なのだよ」
『其処ナル帝都ノ人間ガ悪イダロウ?』
「善悪では無い、邪魔だから排除するだけ…僕等を邪魔者と認識したカラダの仕組みと同じ様にするまでさ」
と、その白が纏わり付く切っ先を、突如俺に差し向けたライドウ。
思わず腰が引けたが、俺だって流石に警戒はしていた。角が少しばかりビリビリする。
「功刀君、燃してくれ給え」
「な、なんで俺が!」
『わたくしが始末致しましょうか』
「ネビロス、僕は人修羅に命令しているだろう…頭巾で耳が遠いか?」
仲魔の横槍をへし折るライドウ。やっぱ、勝手な野郎だ…
「応声虫自体は再生能力が強い…良いかい?一瞬で灰にするのだよ」
「……チッ…」
「ああ、それとひとつ、君は眼を逸らしていたので知らぬと思うが、この蟲は媒体の肛門から排泄されたのでそのつもりで」
ニタァ、と哂って、更に俺に切っ先を寄せるライドウ。絶対わざとだ。
「んの…糞野郎」
「それはこの蟲に云っておやり」
外法の壁一枚を隔てて、白い回虫が俺に嗤った。
『サマナーノモ、ナカナカ良カッタガ…オ前ノMAGモ美味カッタナァ?』
あの人間を媒体にしていただけあって、啜っていた生体エネルギーの味は把握しているのか。
「そうですか、不味いって云われるよりはマシですかね」
間近から見据えて、眼の奥に意識を集中する。
俺から滲む殺意を感じ取ったのか、眼前の舌がチロチロと躍り、続いて外法の壁が啼いた。
透明な障壁が視えていないのか、憐れな蟲に胎の底から笑いが込み上げそうになって。
「人間の所為にしないで下さいよ、この…寄生虫が!」
そんな自身の顔を見ずに済んで、ああ、障壁が鏡面でなくて助かった。
苛々するんだ、人間に寄生する類のモノは。俺の中に巣食う蟲を思い出すから。
『ピギィ』
一種の蟲の悲鳴。刀の切っ先が轟々と揺らめき、その灰になった蟲を掃うライドウ。
「おいおい君、玉鋼にしないでくれよ」
熱された刀を鞘に納めて落ち着かせ、俺をチラ、と叱咤してくる。
そんなにヤワな武器、使ってないだろあんた。
「…しっかり加減した…熱消毒にもなったんじゃないのか」
「ま、とても良い貌は拝めたけどね?」
クク、と哂うその声に、はっとする。そうだ、鏡面じゃないから、向かいのライドウには丸見えだった。
何か云い返そうと、気まずい俺が口を開こうとすれば…
激しいノック音、開かれる重厚な扉。
「旦那様!!」
使用人姿の初老の男性が、肉塊と俺達を入口から交互に見る。
「な、ななな何ですか貴方達は!?おまけに土足で!!」
咄嗟に擬態して、ライドウの影に隠れた俺は、思わずスニーカーを見た。そういえば、此処は屋内だ。
あの肉塊は、この家か何かの主人という事だろうか。
「土足にて失礼、自分は築土の鳴海探偵社より参りました葛葉に御座います」
あまりに自然に対応し会釈するライドウに、背中から辟易の溜息を零してしまう。
「鳴海探偵社…ああ、ああ!依頼してあった、あのオッカルト専門の!」
「左様に御座います、此方の御主人が人面瘡にお悩みとの事で、嗚呼これは一大事、と、思わず靴履きのまま部屋に直行してしまいましてね」
ゴウトがフゥ、と呆れている。相変わらずの喋りに、お目付け役まで溜息している事実。
この部屋に出てからの流れで分かったのは、この肉塊が、人面瘡の主だという事。
(悪魔が憑いていたとはいえ、胎内があんな…ひとつの世界みたくなるもんか?なんで…カラダの組織が…人格有ったんだ…)
どんなSFだよ、子供じみてる。
結局俺達は、異次元に漂流したにも関わらず、別件依頼に間に合ったのだ。
…いや、死んでるし、間に合って無いか?
「しかし旦那様は呼吸をしてない!どういう事ですか!」
慌てふためく使用人に、ライドウは学帽を被り直してニヤ、と微笑む。
「実はこのお屋敷に呼ばれた数名が行方知れずとなっておりましてね…風間という刑事と結託し、調査しておりました」
「け、刑事!?」
「貴方は先刻から、呼吸をしておらぬ主人に驚きはせども…その肉塊姿には微塵の疑問も感じておりませんね?最早、人面瘡という規格の姿では無い」
白髪交じりのオールバックを、びくびくした指先で撫でつける使用人。眼が泳いでいる。
そんな初老を虐める様にも見えるライドウが、豪奢な絨毯を一歩、ヒールで踏み出した。
「此方の御主人、己の胎の人面瘡を餌に、著名な科学者・医者などを遠方より呼び、喰らっていたと推察します。知識人の脳ほど美味らしい」
「…なにを、馬鹿な事を!」
「元々悪食だったそうでは無いですか…フフ…やや趣味の悪いグルマンディーズの集いに出席された形跡もある…蟲だとか、人肉だとか、ね」
獲物を追い詰めている時のライドウの眼は、黒曜石に紫が滲む。
人間のくせに、この数日間疲弊も見せず、MAGをじわりと発して唇の端を吊り上げていた。
「応声虫と共生し、欲のままに喰らうイキモノは、既に悪魔に御座いましょう?」
革靴の爪先が、肉塊の口を蹴り上げれば、ぐじゅりと崩れた。
「ヤタガラスの一羽として、十四代目が始末させて頂く」
膝を着いた使用人を、哂うまま見下ろすライドウ。
ゴウトは欠伸をして、一段落と伸びを始めていたが…
俺は、何処か鬱屈としていた。
ライドウの靴先、裂けた肉塊の裂け目から、はらはらと純白の小さな五弁はなびら。
腐臭混じりのその薫りは、何故か白檀のそれだった。
『人修羅の失態も、時には役立つものだな』
「まあ、僕もまさか依頼主の胎内に通じるとは予測も出来なかったですがね」
昨日の薄汚れた着衣を洗濯し、晴天の下に干す俺。見上げた空は紅くない。
離れた所、柵に寄りかかり煙草を噴かすライドウが、ゴウトから俺に眼を寄越す。
「手が止まっているよ、功刀君」
「…あんた、いつからあの世界が、誰かの胎ん中って判ってたんだよ」
「おや?確信は無かったさ」
「どうしてタチバナを生かす事が、出口を作る方法だと……」
薄いシャツを握る指が、少し震えた。あの世界の住人は、皆こんな薄布を纏っていた。
「知らぬのかい功刀君、神という創造主はね…世界の均衡を崩さぬ為に、不要な存在は排除するものなのだよ」
フゥ、と吐き出された紫煙が、上空の雲に入り乱れる。
銀楼閣の屋上は、擬態の肌には寒い。
「神に死を定められた彼女は、きっと役目を果たした後に、消えねばならなかったのさ」
「どうしてだよ」
「アポトーシスを知らぬか」
聞き慣れない単語。ばん、と叩いた洗濯物の水分が眼前に舞う。
「あの富豪はね、知識人を喰らう事で知的好奇心を充たしていた…脳は肥大化し、勿論肉体も象の様に脹れ上がっていた。だが媒体は所詮人間…内部の細胞死を食い止められ、伸びきらぬ肉体は裂けた」
「あんな醜くなったら、もう、人間なんて云えないだろ…」
「肉体という世界はね、毎日誰かを殺して保たれているのさ。生物が巨大化し、成長する過程において…排除される細胞の数知れぬ事。生まれいずる手前…胎内では人間の指の隙間に水掻きの如くヒレがある…そのヒレも、アポトーシスなる細胞達が自殺する事で、五本の指として分かたれる…他にも、オタマジャクシの尻尾…だとかもね。成長するにおいて不要となる部分の徹底排除が、肉体では行われているのだよ」
煙の白い環を、ふ、と吐き出し哂うと、ライドウはカツカツとヒールを鳴らす。
「君の様な人外ともなれば、寿命たるテロメアの環さえ怪しいがね」
吐き出したばかりの環を、したり顔の指先で掻き消し、俺に歩み寄る。
「アポートシスの死により、ヒトの肉体という世界の均衡は保たれる」
長い睫の麓、黒い闇色の眼が、俺を映り込ませると、くす、と嗤った。
「つまりは、自殺する細胞だったのさ、タチバナはね。だから、生かし、世界が崩れるを待った…それだけの事」
「あんなに色々話して、娯楽教えて、結局はそれかよ、相変わらず思わせぶりだよな、この悪魔」
「君が他に手段を提案出来た?随分と同情的だね、これで彼女が悪魔ならば、君はせせら哂っていたのではないかい?」
「っさいなこの…冷血漢!タチバナさん廊下で…」
もう吸えないのに、抱き縋ってたんだぞ。
多分、もっと、生きたかったんだ。
「あんたが余計な事ばっか教えるから!最期が…」
「では君だけあの胎の中で、融けきるまで居残っていれば良かったではないか」
ぴしゃりと撥ね付けられる。どう返せば良いのか分からない。
「最期が辛かろうとでも云いたい?フフ…では、あのまま自殺する様を見送れば良かったかな?しかし、それでは世界は綻ばぬ、僕等は脱出が出来ぬ」
そうなのだ、どちらにせよ、彼女は死ぬ運命を辿る。
彼女だけが世界の為に死ぬか、世界と共に彼女も死ぬか。過程が違うだけ。
『ライドウ、そろそろ行くぞ』
ゴウトの声に、ライドウは煙草を俺に押し付ける。
洗濯物で湿った掌で、消し炭にする必要も無く鎮火したそれ。
「どうして…」
学生服の黒い背中に、吐きつける。
「どうしてタチバナとか、名前あげたんだよ!!」
“永遠”の象徴だ、と。微笑みながら与えていたライドウを、思い出す程に苛々する。吐き気がする。
あの瞬間、あんたは何を考えて与えたんだ。
「弟橘比売命」
「え?」
「あぁ…やはり解ってなかったのかい?オトタチバナヒメ…」
アハハッ、と背中を丸めて、さも可笑しそうに哂う背中。
「日本で最初に自殺した者の名だよ、功刀君」
思わず火を吐きそうになった。
名前を呼ぶその行為の重さを、俺は知っている。
稀に俺の名を呼ぶ、あんたの声音を、俺は知っているからこそ――…
「…あの世界が、真実人間の胎の中だったのか、はたまた何処ぞの惑星だったのか、確証は持てぬ」
扉を開くライドウが、震える俺に云い残す。
「胎の蟲が治まらぬのなら、忘れる事だね」
扉が閉まり切るその前に、嫌味を込めて“夜”と一声発してやろうか迷って…止めた。
「よぉライドウちゃん!やぁーっぱクロだったろ?え?」
「そうですね、フフ…風間さんの目星は大方当たっている」
葬式だというのに、にこにこと笑う風間刑事に、周囲が少し怪訝な顔そしていた。
「そういやライドウちゃんも狙われてたんだろ?依頼つって呼ばれてよぉ。いやー良かったなあ喰われんくてなぁ?」
「まあ、一度胎内には入ったのですがね」
「んぁ?」
不思議そうに眉を顰める風間、向こう側から部下に呼ばれると、手を軽く上げてから、えっちらおっちら去って往く。
流石富豪、葬儀には各界の大御所がごろごろと来ていた。
僕も刑事も、この面子を眼に焼き付けておく為に出席しているのだ。
この様に培う記憶が、他の事件に繋がる瞬間のシナプスの震えが堪らない。
『我の様な畜生を連れて…お主も白い目で見られておるぞライドウ』
「慣れております故、痛くも痒くも御座いませぬ童子」
『そういう問題か……ん、おい、賑やかいのが居るぞ』
ゴウトの示す先、式場の入口で見慣れた姿の女性が、小さく腰を屈め記帳していた。
薄い萌黄色のスーツでも、茶系で纏めたワンピースでも無い。
「タヱさん」
その背に声を掛ければ、はっと振り返って笑顔になるタヱ。
「ライドウ君!あらあらゴウトちゃんも?」
黒いタイトな衣装だった。だが、手提げにはちゃっかりと手帳が忍ばされている。
「葵鳥さんが記帳ですか」
「んもぅライドウ君たら、こんな所でまで楽しい事云わないの!」
どの様な伝手かは分からぬが、この記者の事だ。きっと怪異と知り、参列しているのだろう。
「どうやらね、趣味の悪い金持ちだったみたい…悪食らしくてね…ワインを水の様に呑むから、胃に穴開いたんじゃないの?」
「血の杯でしょうかね」
「やだ、ライドウ君、おっかないわよ」
あながち、間違いでも無いと思うが。あの赤い雨は、しっとり錆の香りがした。
「あ、ほら…見て」
こそこそと、内緒話の様に声を潜めるタヱ。
「この屋敷に招かれて行方不明になっちゃった人達の親族よ、あそこに居るの」
その眼を追うと、屋敷の者に詰め寄る人間達が、ちらりと見えた。
「今回亡くなった御主人、胎に人面瘡が有ったとか…って、まっさか人面瘡が人を喰らう訳無いわよ…ねえ?」
「さあ?どうでしょうね…人面瘡の食の好みと云うより、媒体の嗜好が大きいと思いますがね」
「えっ?なになに、さては何か知ってるわねぇライドウ君?葵鳥さんに教えなさい」
「先日珈琲を淹れて差し上げたでしょうタヱさん、あの豆はアカラナという回廊を通って遥々入手した特上の」
「ぁーはいはい分かった分かりました!今回は深追いしない、しないわ、聞かなかった事にする…!」
「フフ、また淹れて差し上げますよ」
頬を膨らませつつも、すぐに笑顔に戻ると、小走りに駆けて行くタヱ。
『やかましい女だ、ああだから事件に巻き込まれるのであろう』
「人を喰らわずに得ようとする好奇心なれば、健全でしょうに童子」
『フン…』
この屋敷の、既に亡き主人は遺骨だ。
肉塊姿を晒せる訳も無く、骨の姿で一同にお披露目し、お別れの会。
焼却炉にて焼かれた際、あの異世界も…喰らわれた魂達も…灰になり空に融けたのだ。
それを知る由も無い遺族達は、追い返されていた。
僕の背に、整然とした声が掛かる。
「お勤めご苦労様です、十四代目葛葉ライドウ」
振り返らずとも判る、黒い装束に身を包んだ、ヤタガラスの使者。
「名も無き神社より出張ですか、貴女様もお勤め御苦労様です」
フ…と、鼻で哂ってしまう。早速口止めに来たか。
「そのまま聞きなさい。この件の真相は他言無用、アポリオン騒動にて、帝都は蟲に敏感です、ましてや人に寄生する応声虫…混乱を招きます」
理由も知る事無く、闇に消されるのだ。
「被害に遭った方々の親族には、決して漏らさぬ様…」
此処の主人の及ぼす力が、それなりに大きかったのだろう。金融や軍事に携わる重鎮なら、ヤタガラスもカアカア鳴かぬ。
お偉方が人を喰らおうが、これまでの世界を壊さぬ様に…ただ、そ知らぬ者達が闇に葬られるだけ。
「ヒトの胎内だけの話かと、思うておりましたが…」
ゴウト童子が僕を見上げて、威嚇した。“黙れ”と、云っているのだろう。
ヤタガラスの使者の、鋭い視線を背に感じつつ、高らかに唱えてやる。
「予定調和のこの世は、理由も分からず死滅する細胞により保たれている…そして洗脳操作は、大義名分により執行される」
『ライドウ…口を噤め』
「眼の前で呼吸するは“平和なる発展を遂げし帝都”を構成する、細胞達に御座いましょうかねぇ……フフフ」
『ライドウ!!』
いきり立ち突如鳴く猫に、周囲の喪服が一斉に此方を注目した。
僕の背後に、既に使者の気配は無い。
「お悔やみ申し上げまする」
哂いつつ述べた僕を、気味悪いとひそり、さざめきあう細胞達。
それを掻い潜り、帰路を辿る。
追従してくる黒猫の機嫌が悪いのは、伝わるMAGの鼓動で判る。
あの世界の、あの少女の鼓動が、日に日に高まって往くのを感じていたこの身には……容易い。
歩む己の靴先、昨日それが橘の花に埋もれた事を思い出す。
(白檀の薫る橘とは、珍妙だね)
真の薫りすら知らぬまま、消えた彼女に同情はせぬ。
神殺しの一端を担った僕等は、寧ろ感謝されたくある。
外界に這い出たタチバナの花に、彼女の鼓動の余韻を感じた…それは、間違い無く彼女という個の意思だった。
最期の瞬間に残留した思念が、十割十分十厘、後悔だったとは、云わせぬ。
「身体の意図せぬ処、たったひとつの細胞が肉を殺すのであります」
『フン、お主にヤタガラスは崩せぬ』
黒猫と応酬していれば、いつの間にやら近付いてくる銀楼閣。胎動せぬ廊下に鳴り響くヒール音が、大変心地良い。
足下で鼻をひくりとさせるゴウト。
『また何か作っておるか、女々しい奴め、悪魔の分際で…』
鮮やかな柑橘の薫り。その隙間に蕩けるバターの焦げ付く気配。
「マーマレェドコンフィチュールたっぷりのスコーンでしょうかね」
『おいおい匂いで判るのかお主?畜生の鼻に勝って如何する…喰い意地が汚いぞ』
「フフ…きっと僕への嫌がらせで御座いましょう」
『はぁ…?』
人間らしく、確かに空腹を感じる細胞が疼く僕。
扉に手を掛け開けば、人修羅の侮蔑の眼差しで迎え入れられる。
「ほら、当たり」
其れを見下ろし哂って発すれば、溜息と共に着席する君。
焼き上がった粉菓子に、煌く蒲公英色の砂糖蜜。卓上に転がる果実は、橘の実。
「こういう事だけは得意だねえ?鳴海さんが居ないからとて、己の焔で焼いたろう?」
「あんた葬式帰りだろ、塩振ったのかライドウ」
「誰に云っているのだい…そんな事したら、悪魔が寄れないだろう?」
「な…!手ぐらい洗ってから…っ」
カラスを殺す、たったひとつの細胞に…成れるのだろうか、ねえ、タチバナ。
僕は、アポートシスには、決して成らぬ。
わあ、おいしそう、こんな薫りだったのですね
味わい、嚥下する。隣から、彼女の声が鈴の様に囁いた気がした。
「美味しいよ」
あくまでも、その幻聴に囁き返せば。
向かいに頬杖する悪魔が、眼元を染めて視線を逸らした。
「フフ…これが本物の橘の薫りだろう、ねえ?」
「…!」
頬杖の腕を掴み寄せる。塩で清めぬこの身、触れ得ぬという云い訳は通用せぬよ?
睨んでくる眼の輝きに、一瞬悪魔が過る。それすら今は、芳しい柑橘の色に見えてしまう。
「要らない、放せ、今日は消耗してない」
向かいの君にも、MAGと共にお裾分けしてあげよう。
舌いっぱいの、彼女の薫り。
『おいライドウ、次の依頼が控えておるのだぞ、さっさと喰うなら喰え!』
黒猫の叱咤に、息継ぎの唇で返す。
「どちらをでしょうか?橡蜜?橘蜜?」
『空腹を充たすなら菓子、精気を潤すなら人修羅にしておけ、そしてさっさと済ませろ痴れ者め』
柑橘の果実の様に、君の眼が丸くなった。反撃の腕を、ギリリと締め上げる。
「はぁ!?…ざ、ざけんな…ッ…ゴ、ゴウトさんもこいつの面倒しっかり見て下さい!」
「では、両方にしておこうか、僕はトウテツ並みだからね」
「意地汚いんだよ!こ…の、冷血漢共が…!」
神を殺そう。予定調和を狂わせよう。
僕と君は、きっと悪い細胞。人も悪魔も無い。
まだ、君を生かしておいてあげるから。
だから呼んであげる、その名前。今、舌の上でね…
アマラ宇宙なる御体の、ひとつの世界、細胞という部屋の中。
そんな、どうでも良い、下らない、蜜色の午さがり。
死因、apoptosis・了
↓↓↓あとがき↓↓↓
-サイエンスフィクション-…SFもどき。人体の中を小さくなって冒険する類の児童向け番組を思い出す。
神の胎内のイメージが、宇宙のひとつひとつの世界にあるので。悪魔蔓延る異界とも、また少し違う。
細胞ひとつの死を己が感じる事も無く、そうして躯が保たれている事が、この世と通ずるものがある。冒頭の文は、ライプニッツの形而上学説「モナド論」から(モナドと云うと、ゼノブレイドを思い出す。ゼノギアスのゾハルシステムも、此処ら辺りな気がした)
タチバナとの馴れ合いを丁寧に綴る程、呆気なく死に絶えた際の焦燥感やライドウへの鬱屈とした感覚が強くなるのだろうけれど、これ以上長くするのもどうかと感じ。SSとは名ばかりで、コンパクトに纏めるのが大変に苦手である。(タチバナの細胞としての役割については、割愛してしまった)
ライドウは、どの道死ぬ細胞のひとつを助ける事よりも、有効活用かつタチバナにとっても死の意味を捉える機会を与えた=単なるアポトーシスから個への昇華をさせてやった、とも思っていそう。そのくらいの気概で居なければライドウとして立ち回れ無さそう。
人修羅は多分、自殺を止めてまで馴れ合ってたライドウに苛々してた。タチバナに同情はするが、絶対心の何処かでライドウの行動に理由が合った事に安堵している。しかし無情にも見えるライドウの振る舞いにも、妙な苦しさを感じている。名を呼ばれる際の魂の疼きを知っているから、今回はやや傷心している。最近の彼は、少々行動がガサツである、ゴウトの云う通り主人に似てきたのかも。
胎から橘の花が溢れるシーンが、個人的にはお気に入り。
《応声虫》
人間の腹の中に棲みつくとしばらく高熱が続いた後、腹の表面に口の形をした腫れ物が出来、人の口真似をしたり、食べ物を要求して宿主を困らせる。このため応声虫という名がついた。虫の嫌がる薬を飲ませると肛門から出てきたという。(「神魔精妖名辞典」様より)
人面瘡だとかオッカルトな雰囲気もあり、回虫という説は非西洋科学でもある感じ。このどっちつかず感が扱い易かった。作中でライドウが発した「胎の蟲が〜」は、勿論この奇怪な蟲と掛けている。
《タチバナ(橘)》
ミカン科ミカン属の常緑小高木。常緑が「永遠」を喩える。酸味が強く生食用には向かないが、マーマレードなどの加工品にされることがある。
ナチュラルに千晶の名字と被ってしまった…それに気付いたのは執筆も終わる頃。「マーマレードボーイ」でマーマレードジャムの存在を知り、「デリシャス!」でスコーンの存在を知った、そういう世代です。
《弟橘媛(オトタチバナヒメ)》
ヤマトタケルノミコトの妻の一人。海神の怒りを鎮める為に入水した。日本で最も古い自殺に関する伝承…らしい。ので、今回はそれに掛けてキャラに命名。自殺の第一人者というタチバナヒメと、永遠の象徴を表す橘をひとつにした。
オトタチバナヒメというと、どうにも諸星大二郎著『暗黒神話』の彼女を連想してしまう。繭の様なタイムカプセルから出て、可憐な姿も呆気無くドロドロに溶解してしまうのだ。
《アポトーシス (apoptosis) 》
、多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一種で、個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理・調節された細胞の自殺すなわちプログラムされた細胞死(狭義にはその中の、カスパーゼに依存する型)のこと。(此処まで完全にwikiから)
毎日の、代謝だとか、成長に応じて細胞が自殺をする。(壊死とは違う、それが重要)“自殺という行為を人間が勝手に当てはめているだけ”といえばそうなってしまうのだが、自殺する細胞という響きがとても魅力的で記憶していた。
タイトルの「死因、apoptosis」は、本来死から遠ざけてくれるべきアポトーシスに殺されたという矛盾を孕んだ雰囲気を出したく名付けた。