「どうしたの?想定外だった?フフ…」
ライドウの声は、よりいっそう、愉しげに。
俺の苛立ちは、胸を蝕んで往く。
(どうしてだ…)
ルシファーと奥に引っ込んだライドウが、暗幕の隙間から出てくる頃には
いつものあいつに戻っていて。俺に暴言のひとつふたつ吐いて哂う…
と、思っていたのに。
共に姿を現した堕天使が、代わりに哂うのだ。
“記憶を創るより、引き戻す方が困難なのだよ、矢代”
傍のライドウの肩に、綺麗な白い指先を置いて、俺に云った。
“契約が果たせぬ様子なら、君と主従の契りを結ぶままの必要は無い…ね?”
どうしたんだ、俺。
聞けば良いじゃないか、あの、ラウルという悪魔が俺に献上した纏いが…
あれが、怪しいのだと。
それとも、貴方様が、仕組んだ戯事なのか、と。
“ね、それとも矢代…”
どうしてあの時、問い詰める事も無く、黙って聞き入った?
どうして俺の命は弄べたのに、記憶のひとつも引き出せないのか?と。
“君達がどのような契約を結んでいたかは…ふふ、知るまでも無いかと、見守っていたが…この際だ”
耳元に掠める、白金の様な黄金色の髪。
鼓膜を灼かに揺らめかす。
ライドウに届かぬ様、読唇をされぬ様、秘めやかに降る言葉。

“ライドウの記憶を塗り替えてしまえばどうかな…?”

脚が、止まってしまう。
あの時の、堕天使の囁きが、鼓膜をまだ揺らしている。
酷い耳鳴りが、止まないかの様に。
「功刀さん?脚、止まってるに?」
聴きなれぬ語尾の癖が癪に障る。
「その訛り、直してくれ」
「どうして?何故君の為だけに?」
「帝都を守護してたあんたは、訛ってなかった」
ただ一言そう云えば、同じく脚を止めたライドウがクッ、と喉を鳴らす。
「成る程…確かに、それは不都合が生じるかな」
首だけで振り向けば、窓から注ぐ、暗黒の日輪の輝き。
でも、其処に浮かび上がる黒曜石の瞳は、俺を貫かない。
「では、十四代目を継続する為…また“夜”を棄てようか」
その声に、体を捻り、向き合えば、つかつかと横を過ぎる。
「紺野」
踊らされる様に、俺は再び向き直った。
「おい!紺…野」
が、ライドウは違う影と睨み合っていた…
『先日は、世話ぁなったな、サマナー…』
ティターンが、同じ魂なのか…恨みの篭る声音で挨拶を始めた。
見目の同じ彼等は、同一の魂なのか一目で判らない。
傍に連なるシルエットは、ガネーシャ…
恐らく、この前の面子で間違いない。
「へぇ、厭に熱心に僕を追う眼があると思えば…人修羅だけでなかったのか」
おい、追ってない、俺は。
『あン?忘れたたぁ云わさんぞ?』
息巻くティターンは、長身のライドウよりも遥かに大きい体。
「フフ、申し訳無い…しかし、記憶中枢に残らぬ程…お前達が脆弱だった可能性も捨てきれぬだろう?」
明らかな挑発に、ライドウの向こう側から殺気が迸る。
『な、何…ぃ…この、人、間…が!』
違和感。
喚いて得物を振り下ろす悪魔達は、そのままに。
だが、外套の下…腕すら動かす気配の無いライドウ。
まさか、戦い方すら忘れたのか?
反射的に、俺の唇が開く。
「触るな!」
叫びつつ、着物の袖から腕を抜き、彼等の左右に撃ち出す灼熱。
ライドウの両脇をすり抜けて、打ち下ろすティターンの両脇腹を焦がす。
『ぐ!がぁあッ』
続けて振るった指先から、柱の燭台に刺さる蝋燭目掛けて放つ着火の種。
暗闇の廊下が煌々と照らされ、ライドウの傍の床を穿った巨人が鮮明に見えた。
『ヤァ…ヤシロ様ァ…これぁ一体…!?』
鉄仮面の下から、くぐもった問いが聞こえる。
だって、だろうな、可笑しい話だ。
今まで軽蔑して、喧嘩を無視していたのに。
それがたった今、喚いて止めに入ったのだから。
「俺の眼の前で、喧嘩は…止めて下さい」
静かに、平静を装って云い放つ。
煙の燻る腕を扇いで、袖に納めた。
いつまでも素肌を晒す気になれない。
蠢くティターンの傍、ガネーシャが大きな耳をはためかせ、鼻を上げた。
『しかしヤシロ様、我等の将たる貴方様を貶めているのは、このサ――』
「黙れと云っている!!」
声を張り上げて、履いた下駄で紅い絨毯を踏みしめ叩く。
洋服の方が好きなのに、また和装で来ていたか、と、今感じた。
そうだ、今まではライドウの見繕った物を、ただ黙って着ていた気がする。
洋装で此処に居る俺を見ると、悪魔達は俺単独だと認識し…
和装で来れば、デビルサマナーの気配を察知するのだ。
閣下の戯れで着崩れようが、それを正せる、ただ一人の…
俺の。
「俺の…契約者だ」
もう一度踏みしめれば、少し離れた箇所で石畳が亀裂を作った。
「勝手に殺したら赦さない」
それだけ云って、照らされた廊下を足早に抜けていく。
唖然とした悪魔達の横、下駄の音を絨毯に染み込ませ。
…追従するヒールの音。それの方が高く鳴る。
「クク…過保護ではないのか?人修羅…」
ぞわり、と総身が粟立つ。
その言葉は、俺が…先日…
どうして、どういう事だ、さっきから、おかしい。
ライドウの云った事、俺の云った事、どうして逆転している。
「ねえ、聞いているかい?フフ…」
背後から、突起の下の衣紋…抜きをぐい、と掴まれる。
「着崩れてるよ」
すぅ、と通る指に、何かが張り裂けそうになる。
「ねえ、そういえば功刀さん、僕が触れるのは平気な訳?」
耳を刺す、詰る様なライドウの声。
珍しく雷鳴の轟く魔界の空が、窓から見える。
灯された燭台からは既に遠く、薄暗がりにその雷光が奔る。
「俺に…」
背中で、詰り返す。
「俺に、どうやってMAGを与えていたか、忘れてんのか…あんた」
握った袖先は、適当に拝借してきたライドウの着物。
センスの無い俺の、適当な合わせ。
帝都守護に不必要なまでに洒落た、あんたの配色でない、平凡な…
「僕が?悪魔に流す様に、空気と融かして…では非ず?」
「それは、戦っている時だ」
「なれば他にどうやって?もっと必要なのかい?僕のMAGが…」
フフ、と、ライドウの哂った吐息が、突起をくすぐって身震いした。
「管に入らぬだけで、随分と特別待遇ではないか…一体どのような契約を結んだ?」
只の、悪魔として、使役する対象としての問いかけ。
俺に、今までしてきた仕打ちを、本当に記憶の底に沈殿させたのか。
「云ったとして、今のあんたがそれに従って動くか分からない」
「では何故…君は僕にそこまで固執する?既に君の知るライドウでは無いのだろう?フフ」
ぐい、と顎を持ち上げられる、爪先まで鋭利な長い指に。
「その薄気味悪い斑紋も、人間離れした金眼も、まさか僕が寵愛したと?他の仲魔より、特別に?」
塗り替えて…しまえば
「ねえ?功刀さん…人修羅の君と、デビルサマナーの僕に、使役関係以外に何か?」

塗 り 替 え て し ま え

「忘れた、んだな、あんた」
俺を知るあんたでは無い。
つまり、俺の発言に矛盾は、生じない。
何を云っても…何を…塗り込めても。
持ち上げられて、締まった喉笛が苦しげに啼く。
予定調和みたいに、俺が呟いた。
「あんたは…変態で、サド野郎の、スキモノだ…っ」
覗き込んできた好奇の眼を、歪んだ俺の視線で絡め取る。
「俺を…悪魔の俺を、お…」
ああ、堕落する。
「お…」
でも、耐えられない。
既成事実が欲しい、どうしても。

「犯した癖に」

自分で云っておきながら、吐き気がした。





「矢代くぅ〜ん」
間の抜けた鳴海の声。
でも、それは俺に気を遣わせない為だと、その位は把握してる。
「はい」
洗い物のキリが丁度良く、蛇口を捻って水流を止める。
たすき掛けを解きつつ、所長のデスクに近付いた。
「俺、ちょっくら呼ばれたから出るね」
葉巻をがりり、と灰皿に磨耗させて火を消した鳴海。
書類やら何やらを鞄に揃い入れ始める。
「あの、いつ戻りますか…」
「ん?寂し〜い?」
「ち、違います!飯の関係で、です」
俺を子供みたく扱うこの人は、偶にやっかいだ。
「気にしないで良いよ、矢代君とライドウとゴウトちゃんの分だけ用意しな?」
席を共にしないこの数日、見ていないから仕方ないと思うが。
鳴海所長、ライドウは数日、俺の飯を食べてませんよ。
“他人”の作った物、警戒してますからね。
きっと記憶が還った事すら知らないと思う。
「んじゃ、行ってきま〜す」
「お気をつけて」
「火打石は?」
階段下から悪戯っぽく聞いてくる鳴海に、呆れて返した。
「大正のこの時代に…?」
「あはは、嘘嘘!いやね、向かう先が空気悪そうだから、厄除けしてもらおーかと」
ひとしきり笑い上げてから、扉を開く彼。
「ヤタガラスん所行って来るね」
ばたり、と閉ざされた扉を、黙って見ていた。
磨り硝子から零れるあたたかな陽射しが、眼に痛い。
反転して、俺は上に向かった。
ノックしようか迷っていれば、中から声が。
『どうした、いつもの通り入れば良いだろうに』
ゴウトの溜息混じりの号令に従って、ノックとほぼ同時に扉を開く。
『…チッ、ライドウの奴め』
寝台のヘッドから飛び降りた黒猫、その眼は険しい。
『定期報告をすっぽかすとは、十四代目から降りたいのか?あ奴』
俺の脚の間をするりと抜け、ふうっと鼻を鳴らす。
「十四代目の自覚が無いのでは?だって、記憶が飛んだ訳ですし…」
俺の声に反応して、威嚇してきた。
『誰の所為だ?』
「はい、ご尤もです」
お目付け役は、俺に同情はしても手助けはしない。
俺だって、別にそれに憤慨しない。
『仲魔を連れ、帝都をブラついておるのか…里にも行かず!』
階段をするすると下りていく、その黒い毛並みは逆立っていた。
下階の窓の隙間からぬるりと抜け出す姿を見て、自分は独りになったと認識する。
無人の事務所、ライドウの部屋で、ぽつりと佇んで。
「プーリャ州…」
《新式世界地図》なる背表紙に眼が赴いた。
ライドウの本棚からそれを引き抜いて、中表紙をはらりと開く。
小洒落たゴシック体のタイトルが、擦れた印字で刻まれている。
相変わらずこの時代の本は読み難いが、世界の形は変わっていない。
それとなくブーツの形を探せば、イタリアがあった。
(ヒールの部分…プーリャの悪魔…)
ちら、と本棚を再度覗き見る。
《以太利ニ於ケル千七百九十六年戦役》
《伊太利語独修》
あの男、そういえばいくつかの国の言葉を話せたっけか。
そこまで完璧になる必要があるのか?デビルサマナーの葛葉として?
語学の本を手に取り、世界地図は寝台のマットに投げた。
意味不明な文字の羅列をはらはらと捲り、単語の頁で指が急制動させる半紙。
[夜]は、La notte――[ラ ノッテ]
ああ、でも、今の夜じゃない、あいつは。
襲名前なら、昨夜、だろうか。
[昨夜]は、ieri sera――[イエルイ セーラ]
(…何調べてんだろうか、俺)
動物、の項で、二箇所に釘付けになった。
和名が黒く染められた、二つ穴。
洋墨がブラインドした単語。
la volpe――[ラ ヴォルペ]
un corvo――[ウン コルヴォ]
慟哭する。
急いで見なかった事にして、頁を進める。
すると、やたらと抽象的な単語の羅列に呑まれ始めた。
夕刻の陽が、頁に落ちる…

diavolo

「…っ」
あの男、この単語を見る度、俺を思い出すのだろうか。
(どっちをだ)
人修羅を?功刀矢代を?
そう感じた瞬間、抑えていたものが溢れ出す。
まだ満月の光は、朱の雲が遮っているのに。まだ、夕刻なのに。
「ぁっ、あ、ああっ、ぐ」
ふらふらと本を胸に抱き、傍の寝台に突っ伏す。
今日、月が満ちるのは解っていた。抑え方だって、知っていた。
ただ、悪魔の衝動の、枷が…居ない。
「く、そ…野郎がぁ…ッ」
掻き毟るシーツ。その指先に黒いラインが伸びて往く。
昔のあいつが撫ぞった、黒い道筋。
あの悪魔を恨むべきか、戻らぬライドウを恨むべきか。
抱いた本をそのままに、片手で、苦しいこの肉を、持ち堪えさせる。
大人しく、あのまま奴の寝台に突っ伏して、無理矢理眠っていれば良かった。
さっさと、あの悪魔を…とっ捕まえて、問い質せば良かった。
どうして俺は、こんなに惑っていた?
「は、あ…ぁっ」
せめて、狂うなら、真夜中に―――



白い烏〈前編〉・了


↓↓↓あとがき↓↓↓
お約束ネタですが…
ここまで積み上げたからには、やってみたくなるというもの。
当たり前の様に受けていたものが消えうせる空虚感。
都合良く利用したいからか、都合良く再構築したいからか…
珍しく二部作になってしまいました。


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