項を掴む手、囲まれる、泥人形の海。
苛む声と、血濡れの金属が、容赦なく振り下ろされる。
「あ、ああ…俺は、俺は違うっ」
幾度もこの場面を見ている気がする。
そして、幾度も…
「功刀矢代」
泥を突き破る、勇ましくも危なげなその手指。
「おいで」
ああ、駄目だ、この手を取ったら。
夢から目覚めたら、またあんたは―――!!
「っは、っはあ、はあはあっ」
胸を掻き毟り目覚めれば、熱くない。
向こう側で本を読むライドウが、鼻で笑った。
「ぁ、っ…く」
誰の所為だ。と、何処かデジャ・ヴを感じながら睨み上げる。
問うてくるその顔は、眼は、俺を真っ直ぐに見つめてくる。
「夢見は?」
「……っ……良くない」
「あ、そう…フフ、可笑しいねえ、もうラウルの呪いは消えた頃なのに」
その言葉にハッとして周囲を見渡す。冷たい硬質な空間…底冷えした密室。
「業魔殿…」
「あのまま君を抱えて運び込む羽目になったよ、礼のひとつでも云ってみたらどうだい?」
「って、あんたいつから居たんだよ!」
本棚にもたれて、例の日誌をぱらりぱらりと捲るライドウ。
その頁にある記述の数々を、今どうやって呑み込んでいる?
見知らぬ記憶?それとも…
「此処で、うつらうつらと、眼が醒めれば…妙に肌を曝した己が居てねえ…」
「…覚えてないのか、その前の」
「察しはつくさ、胎が少しばかり君ので滑っていたからねぇ?ククッ」
叫びかけて、唇は閉じる。俺から誘った事を思い出して、何も云いたくなくなった。
「仲魔に聞いた、ざっと把握はしているがね」
棚に仕舞われた日誌の背表紙、それを長い指で辿ると、振り返る奴。
冷たい床、器具達、互いの間に流れるそれも、どこか冷え冷えとしている。
俺の心臓だけが、忙しないのか。
「此処で君と…どういった経緯か知らぬが、致した訳だ…“記憶の巻き戻された僕”が」
「…あ、あんたが、毎度の如く俺を」
「記憶も無いのに?十四代目に成る前の僕が、素知らぬ君をかい?」
ああ、やっぱりいつものあんたが其処に居る。
底意地の悪い言葉で、俺を詰る、忌々しいデビルサマナーが。
「まあ、結果としては君にとっても吉と出たのでは?そのまぐわいがどうやら記憶を醒ました様だし、ねえ?」
すっかり、記憶は戻った…という事だろうか。MAGの交配が引き金となったのか?
最初にカルパで契約した時にも似た、それで。
「しかし、激しかった様だね?着衣が酷く乱れていた…フフッ」
「…あんたが、いつもと同じで俺を引っ掻きまわした、それだけ…だ」
この手術台で致された行為を覚えていないらしい。俺はそれに酷く安堵して…
(あの、気味悪い位に優しい愛撫も、何もかも?)
安堵して…いる筈なのに。ざわつく。
「単身で、勝手にケテル城に向かったとゴウト童子から聞いてね、何かと思ったよ」
「あんただって何処かほっつき歩いてたじゃないか、里の報告も放置して」
「よくもまあ再びあのローブを纏ったものだ…血吸い蛭の如くMAGを啜るのにね」
「見てたんだろ、そう思うなら云えよ、っていうかさっさと出て来いよ」
台から降りようとして、腕を振りかぶって気付く。
腕に通る二重の黒。
「あっ…っつ……」
動けばキリキリと肉に喰い込み、マリオネットの気分。
そんな俺を見てせせら哂うライドウ。カツリカツリと台まで歩み寄ってくる。
「あの伊太利亜悪魔をおびき寄せる為に、白を纏い馳走を用意し、その身を曝した…」
哂っているのに、眼は酷く冷たい。よく知っている、その表情。
「何の目的があってだい?」
答えようも無い。俺が間違っても、云える筈無い。
「夢から侵蝕された報復に…っひぐ、っ!」
「愚かしいね、それであんな失態を犯したのか…君は」
黒い糸の通った腕を、捻り上げられる。開く皮膚の縫い目が泣く。
「堕天使が嗤うだろうね?こんな体たらく」
「痛い!放せ…!」
赤い涙の滲む、この男の刻んだ刺繍。暗闇でも、俺を完全に創り上げる異常さ。
「僕の記憶が戻っていなければ、あのままマネキンに成っていたねえ…功刀君?」
「は…っ!ぐ、ゥ」
「愚図」
渡る糸を、ピン、と爪先で弾かれる。ふわりと赤いマガツヒが舞う。
「肌を通る紋様にも、着物に施される刺繍にも、意味は有る。魔的な力をもたらす」
「エグい、だろっ、んな…こんなやり方」
「あの場に針は有った、僕の纏う黒い糸も、ね。一番適切な処置と思うが?」
「あ!ふっ…」
囚われる両の肱。黒が重なる、寸分の狂いも無く俺の斑紋の上を走る糸。
じわじわと、ライドウのMAGが…吸ってきた血が、本当に刺青の様に。
「死臭の薫る刺繍を、刺青と思いはしないかい?」
「下らな、い…思わない、っ!いい加減これ、解けよ」
「人修羅の、その身に浮かぶ斑紋の意味なぞ…解き明かされなくて良いのさ。他は知らずとも良い」
途端突き放され、急な動きに俺は項を強かに打ち付けた。
首の突起が冷えた台を抉り、一瞬頭が真っ白になる。
奥歯を噛み締めて上体を起こせば、既に出入り口にさしかかるライドウ。
「僕以外に暴かれたその時は、覚悟し給えよ?折角の秘密が台無しになる事は赦せぬ」
酷く、勝手な支配欲。追う様に伸ばした、その腕の先で哂うデビルサマナー。
「フフ…既に悪魔に戻れるのだから、自分で仕付け糸を解き給え、功刀君」
優しさなんて、無い。
「そうそう、茨の如く烏の羽が毛羽立つからね…きっと痛いだろうねぇ?…ククッ…」
「この、外道…」
「ではね、功刀君、Ciao」
それとなく知っている、確かイタリアの別れの挨拶。ノリの軽い類だ。
妙に人を馬鹿にした様な調子で、それを云って去るライドウ。
「くそっ」
閉ざされた扉に吐き棄て、改めて腕を見る。
暗闇で、俺の形を確かめる様に辿ってきた指を思い出す。
流れ伝った魔力の薫りに、すぐ何者か解った俺が腹立たしい。
刺々しい心のまま、鬱血する縫い目に、指をかけた。
「ぁ、ぅうッ、ぐぅううぅぅうっ、あ」
ぐずぐずと泣いてばかりの其処に、思わず声が漏れる。
赤く染まった腕を見ると、イタリアンのトマトベースの料理を思い出した。
宴で散々に悪魔達の味覚を罵った。でも、本当は解ってる。
味見した瞬間、あまりの薄さに人間を感じなくなる事。
熱さも冷たさも、酷く鈍くなっている事。
(最悪、痛みだけは、鮮明だとか)
思い出すのは、痛み。ボルテクスで受けた刀傷。銃創。
胎の奥底を抉った、あの男の…
「はぁっ…っぐ…最低…最悪…っ」
中でぶちりと千切れた糸を、逆の縫い目からずりずり引き抜く。
慎重にやらないと、千切れる。でも、痛みは長く俺を苛む。
滴る赤が台にぽたりと垂れた。それを見て、着物が汚れはしないかと脱脂綿を探す。
そう、とりあえず、汚れたくない、血まみれが嫌だ。
血をひたすら吸ってきた、あの男の外套の紬糸なんて…
(血を…?)
煌く刃、使役される悪魔達、急所を穿つ弾丸。
(あの男が、敵の返り血を盛大に浴びる事なんて、あったか?)
不敵な笑みを浮かべ、掃討するその姿。
俺を見下して、駄目だと扱き下ろして、横から入る刃。
あ、そうだ……舞う血は…俺の……
「…はぁ…はぁ………お、かしい、っ…頭」
俺の、血だ。
あの男の外套を、黒く仕立て上げていたのは、俺の血じゃないか…?
ライドウが、MAGを乗せて、俺の魔力を流転させただけ。
ただ、元の躯に還っただけなのか、この糸達は。
敵の血肉は避けるくせに。どうして俺のは哂って浴びるんだ?
「っひ、っ」
勢い余ってぶちりと、また途中で切れた。
黒の残留が怖くて…痛いのに慎重に、ゆっくりになる。
痛いのに、酷く苦しいのに、楔の様に残るのが怖くて。
(ライドウの与えてくる傷)
じわじわと繰る痛みは、生きている、と、実感を与えてくれる…?
(必要とされている証)
「要らねぇよっ…こんなっ、刻みなんて…っ…」
胎から、奴の血潮で刻まれた契約。一番鮮明な記憶に、呻きが口を割る。
頭に血が昇っている所為か…血が一層流れ出す。ああ、駄目だ、拭かないと。
先刻視線を巡らせた際に発見していた、脱脂綿の入った蒼硝子の瓶。
それに指を伸ばす、その瞬間すら糸が指先を引き攣らせる。
抑制される動きで、薬液のひたひたした脱脂綿をきゅう、と搾って赤い腕へ…
「…?」
反射して、機器のアームに映りこんだ俺の首筋。
妙な感じを覚えて、身体を捻って視線だけを流す。
鏡のアームを引き寄せて、項の突起の上辺りを…映し出す…
「……な」
息が、詰まった。
「その傷はどうしたのだ?」
玉座にゆったりと座る堕天使が、此方に向かって悠然と微笑む。
数刻前、逸れた鞭が頬に入ったので、きっとソレを指している。
「十四代目葛葉ライドウとして、機関より受けた叱咤に御座います」
「記憶の無い時の失態を、君は受けに行ったのか?」
さも可笑しそうにその眼がたわむ。
「ええ、何か?」
「いや、君らしいな……」
薄い羽衣が空を舞う。
「少し外せ」
『はっ』
その視線に突き動かされ、左右の悪魔が持ち場を離れて往く。
広々とした謁見の間に、ルシファーと僕だけとなった。
こうなると、奴の口調はゆるゆると昔に還る。僕への嫌がらせか。
「相変わらず鞭が好きなのかな、夜は」
「どう邪推して頂いても結構」
「ラウルがね、憔悴しきっていたよ…これでは当分注文は出来そうにないな」
「それはそれは御労しい、これを機に伊太利亜への帰省を勧めてみては如何です?」
「クッ……はは、君の蹴りが肋骨を相当痛めつけた様子だったが?」
金糸の髪を指先にくるくると巻き、羽衣を腕に遊ばせる奴。
「糸を依代に、魔力を引き出すとは…君の発想は非凡だな、相変わらず」
「ある物は利用するだけです」
「ねえ夜は塗り替えなかったのかい?あの子を」
「フ…どうせ同じ事を、人修羅に吹き込んでいたのでしょう」
そう問えば、ひたり、と冷たく嗤った魔帝。
「いつから戻っていたのか、まだ明かしてないのかい?酷いね、君という男は」
くすくすと、指先で解した金色。それを今度は角に持って往く。
僕と人修羅を縛る、この存在こそ…残酷だろうに。
「まさか、最初にぼくへと連れてきた頃より、既に戻っていたとは思わぬだろうな」
「それより数日後から戻った、と明言してあります」
「その間、記憶の無い演技かい?」
「…彼がどう出るか、窺うべく取った行動です」
「使役するライドウとして?支配する夜として?」
煩い。
「何故、普通の友人なり、恩人なりとして、築き直さなかったの?」
「ならば、今の貴方は僕と築き直す気が持てるのですかね?」
哂って云い返せば、角を撫ぜるその指が止まる。
黒い爪が、カリリ、とその表面を削った。
「成る程」
「気味悪いでしょう?何なら試してみましょうか?」
ルイ・サイファを脳裏に描き、あの頃吸っていた煙草の味を思い出す。
「ねえ、ルイ?」
「ふふっ…今度こそ寝首を掻かれてしまうからな、遠慮しておこう」
ひらり、と手首を振ったその仕草。下がって良いとの合図。
「…失礼致します」
「ふふ…矢代に「またいつでも晩餐会しなさい」と云っておいてくれ」
彼から今後する事は無いだろう、と答えは出ているが、一応会釈する。
胸元へと手にしていた学帽を被り、謁見の間より抜け出でた。
(何が友だ)
お前が笑って云えたモノか、ルイ。
それより、云ってやりたかった。あの人修羅が…もっと凄い事を述べたと。
「俺の事“愛してる”と、云った…」
震える声で、着物を開いて、熱にうかされた様な上気する頬で。
滑稽だろう?まるで馬鹿げている。あの瞬間、本当に笑った。
いざ優しくすれば、戸惑って違うと喚くし、本当に…愚かな奴。
カツリカツリと石畳を啼かして、城の廊下を闊歩する。
ジロとねめつける視線を幾つか感じた、先日…人修羅の焔に炙られた巨人と象。
黙して通過する。双方とも、きっとその瞬間思い描くのは、あの熱い焔なのだ。
静かに、この城の悪魔達を威圧するのは…音も無く揺らめく焔。
脆弱な形の中に、在るその魂に焦がされている。
悪魔も、サマナーも。
『ああっ!クズノハ!!まぁた貴様はノックも無しに!!不躾にも程がありますヨ程がああ!』
紅茶を注ぐ伯爵が、部屋に入るなり怒鳴り散らす。
「伯爵!溢れますよ!」
傍に腰掛ける人修羅が叫ぶと、そのティーポットがカクリと上に跳ね上がった。
『こ、これは失礼を!ヤシロ様!!』
「中国茶じゃないんですから、ソーサーまで注がないで下さい」
『大変申し訳御座いません!!もしその御指が濡れた場合には!私に是非拭かせて頂きたく――』
恍惚と語るビフロンスを無視して、新たに注がれた紅茶のカップを手にした人修羅。
その金色の眼が、ちら、と一瞬此方を見た。
蠢く喉笛の白さが見えない、着物の衿に巻物がしてあるから。
『しかし此度はコレ、いつもの茶葉ではありませぬがヤシロ様!御心境の変化でしょうカ!?』
「…どうでも良いでしょうそんな事…余計な詮索しないで下さい」
冷たく云い放ち、カップをソーサーに戻す彼。
テーブルの上、並ぶ小奇麗な陶器に並んで見える茶葉の缶。
「“TE' ALLO ZENZERO”?」
読み上げれば、伯爵が僕を見上げる。
『先日まではアッサムやダージリンでしたのに、コレは何ですかね?』
「“テェ アッロ ゼンゼロ”…生姜紅茶だね、伊太利亜産の銘柄とは、これ如何に?功刀君」
淹れたてなのに、即座に啜っていた。きっと熱さは薄く感じる程度なのだろう。
「イタリア産の物仕入れたから、ついでに…」
「あの宴、そういえば君が食事は用意したそうだが…?」
「伯爵に協力して貰って、俺の時代から直輸入」
その言葉が嬉しかったのか、ティーポットを抱えたまま伯爵は小躍りした。
『いえいえヤシロ様の御命令とあれば薬草であらずとも食材までキッチリ入手してみせましょおオ!!』
「煩いです」
『大変申し訳御座いませんヤシロ様!』
そのやり取りを鼻で笑いつつ、人修羅の向かいの椅子に腰掛けた。
人修羅の姿…黒い着物、烏の濡れ羽の色。合わせた襦袢…半襟は白群、水の色。
ただ、普段と違うのは、その首。角すら覆い隠す布。
「悪魔のくせに、寒いのかい?」
「…擬態したら、寒いから」
「今は悪魔だろう?外せばどうだい」
「巻き直すのが面倒だから…」
一応、形だけは用意された僕の分の紅茶。だが手は付けない。
『生姜ですか、寒気を伴う風邪とかの症状には効果が御座いますねぇ!ま、人間にしか該当しませんからネェ!ヤシロ様は…』
はっ、としたしゃれこうべ。ようやく禁句に気付いて、その虚で人修羅をギギギ、と振り返る。
「俺は風邪でも無いし、完全な悪魔でもありませんから」
カチャン、と、再度啜っていたそれをソーサーに置く人修羅。
激昂するかと思ったが、その金色は酷く静かだ。
「伯爵、すいませんけど、ラウルの処に行ってくれますか」
『ぇえあ、ハイ!あのうつけの処にですか!?』
「きっと骨と宝飾の山に埋もれて、靴があると思いますので、探してきて下さい」
『靴!?あの宴の際に履かれていた?』
「はい、イタリア革のヒールブーツです」
ポットをテーブルにひょい、と置くと、フリル袖を揺らして颯爽と駆け出すビフロンス。
『では行って参りますぅうぅうう!!!!是非帰還のあかつきには履かせるお役目をォ!!』
「自分で履けます、さっさと行って下さい」
背の燭台を携えて、嬉々として了解をした悪魔。
人修羅に扱き使われる事に快感を見出しているのだ、あの変態め。
「君、僕の靴の一足を、勝手に履いていただろう」
向かいに話しかける、いつも通りの、つまらなそうな顔をしている。
既に抑制は解け、しっかりと伸びる黒い茨、君を苛むその悪魔の証。
「馴染みのある匂いで釣れって、以前からあんたが云ってたからだ」
「釣った魚に喰われるのか君は、器用だねぇ…ククッ」
テーブルの下、脚でつついて、着物の裾を割る。
靴の爪先に感じる素肌。するりと撫で下ろして往けば…ずっと滑らかに。
「裸足かい」
「この後来る予定のブーツを履くから」
「僕のだが」
「手にして持ち帰るのが面倒だから」
「緩いだろう?君と僕では足の大きさが違う」
ヒールの部分で、その甲を軽く踏む。骨と骨の間に喰い込んで沈む。
食い縛った人修羅が、微かな呻きと吐いた。
「痛い…」
「裸足の君が悪い」
「踏むあんたが悪い」
「悪夢に呑まれる君が悪い」
「俺を追い詰めたあんたが悪い」
「人修羅である君が悪い」
「デビルサマナーのあんたが悪い」
ひとしきり罵り合い、少しの間を置いて君が呟く。
「どうして…ヤタガラスの里に行ったんだ…」
「閣下と同じ事を聞くのだねぇ、やはり“親”と似るのかな?」
「記憶無かった頃の行動だろ、知らないの一点張りで逃げれば良かったじゃないか」
本当は、その時既に戻っていたのだよ、功刀君。
「頬に一筋、入ってるぞ、裂傷」
「君ほどの化け物では無いから遅いが、一応完治はする予定さ」
「いぎッ」
ぐりゅ、と離れ際に強く抉って、席を立つ。
「功刀君、アルビノを知っているかい?」
「アルビノ…」
「先天性白皮症の事だが…簡潔に云えば、真っ白な生き物の事さ」
どこか、ぎくりと視線を逸らす人修羅、何か見たのか?そういう生き物を…
「白きモノは、神聖な…崇拝対象、慈しむべき対象、鑑賞され得る美として存在する」
黒い外套をなびかせて僕が云うこの状況が、面白いだろう?
「本来黒き生き物が、白く生まれるとどうなるか知っているかい?」
歩み寄れば、椅子に座ったままの君が首を振った。
「本当ならあるべき要素の欠落したその躯は、脆い」
首の巻物を掴み、引き寄せる。半立ちになり、小さく悲鳴を漏らす君を無視して続ける。
「クク……カラスの者はね、白くは成れぬのだよ」
「く、るし…っ」
「記憶など関係無い、既にこの魂にこびり付いて落ちぬ、他では生きれぬよ、僕は」
ぐ、と若草の色の巻物を掴む人修羅。その薄い織物を黒い茨がしゅるりと解いた。
苦しげに喉を押さえる君、その白い項を見て、唇の端が吊り上がった。
ああ、やはり気付いてないのか、それとも…
「ねえ、まだ糸が残っているが、良いのかな?功刀君?」
その刺繍を指先で確認する、しっかりと、深く眠る君に縫い付けたその刻みを。
業魔殿で、君の体に深く刻み付けたあの手術台で、今度はその項に…
「だから、巻いてたんだよ…っ」
苦々しげに吐かれる感情、人修羅は肩に引っかかっている巻物を完全に剥がした。
彼自ら着付けたのに、今回はしっかりと抜かれた衣紋。
「…俺で抜きたくないから」
ぼそりと呟く人修羅。
「あんたが、抜いてくれよ」
黒曜石の鏡の前、君の金色の眼が、仄かに映り込む。
「フフ、何故僕が?」
「いいからっ…あんたで、抜けよ、此処のだけは」
彼の視線では何と縫ってあるか、見える筈も無い。
反射させても鏡文字になる、そもそも異国の言葉など、読める筈が…
「此処に無くたって、胎にもう、刻まれて…る…解りきってる、事だ」
人修羅の、その台詞。
この数日の、偽りの優しさが蘇る。更に遡れば、カルパの契約に…
「鏡の前に往き給え」
そう告げれば、ひたひたと裸足のまま、向かう人修羅。
その後ろに続けば、普段よりも開いた身長の差。
「クク…だから裸足なのかい」
「どうだって良いだろ…はやくしやが――」
少し首を屈めただけで、君の項を啄ばめるこの高低差。角を避けてその上辺を舐める。
「ぁ、っく」
ちらりと視線を鏡に移す。項を啄ばむと、僕から君の顔が見えぬから、鏡まで誘導したまで。
「いッ――」
ぶつり、ぶちり、表皮ごと噛み千切っては、啜る。君の血が滲む糸。
戦慄く両の腕を捕らえて、その指に指を絡ませ。
「はぁっ、はぁ―――ッ」
噛んだ糸を、ずるると引き抜く。鏡の中の君が苦悶に眼を瞑る。
綺麗な黒茨の細い指が、握り返してくる。
「っは、あ、紺、野」
君に施した支配の刺繍を、唇で解く。
「気味の悪い、呼び方をするで無い、よ…っ!」
ずるり、と引き抜けば、マガツヒの光が空気に融け出した。
「あぐぅ、ッ」
「契約名を忘れたか」
見開かれた鏡の金を射抜く。乱れた着物が開いても、矢張り黒い茨を纏う君。
きっとその爪先まで、寸分違わず僕なら刻めた。
他の悪魔が知る由も無い、君のすべてを知る権利は、この僕が有している。
「やっぱ、あんた、残酷…だ…」
力無く歪む金色。ならば、何故優しい愛撫を施した時より、安堵している?
「君を愛してなぞおらぬ、支配しているのだから当然だろう?」
互いの色を塗り替える事も無く。
君に、あの愛撫の瞬間も僕なのだと明かせば、どうなるのだろうか。
里への報告を怠った、逃げる僕も、この僕なのだと…
では、何故逃げ切らなかった?
「はぁ、あ!や、だ、やめろっおい、あ、ああぁ」
「抜いてくれと云ったのは君だろう?フフ」
「そっちは、違…ッあ」
刺繍の傷跡を舐めながら、寛げた下を弄った。
追って下りて来る手指が、重なっても引っ掻いても止めない。
黒曜石の薄暗い鏡に、潤む金色がゆらりゆらり。
悲鳴が喘ぎになり始める、映り込む羞恥に耐えられぬと云わんばかりに唇を噛み締めた君。
その、赤く染まった耳の傍で囁く。
「さあ…契約の刻と、同じ様に」
眉根が顰まる、君。その心音が、人間の形の器官が蠢く鼓動が、僕に伝わる。
その中身まで暴いてやりたい。何処から何処までがヒトなのか悪魔なのか。
その為には、優しい友も、慈しむ想い人も、どれも適さぬ。
完全なる支配を、この十四代目葛葉ライドウという立場でせねば。
「イく時は名前で呼んでくれ給えよ、ねえ」
動揺しつつもそそり立つ君の下肢を開花させてあげる。
「矢代」
毒の吐息で囁けば、指先に感じる君の蜜。
泣き濡れた金色は、鋭く僕を鏡越しに睨み上げている。
噛み締め過ぎて赤く染まったその唇を読唇する。
よ る
それ以上、何も吐かせたくなくて、塞いだ。
僕の選んだ着物を黙って纏う君が、愚かしく滑稽で。
蔑みながら縋ってくる、その華奢な身体の熱き焔が。
酷く……足枷となっているのだ。
漆黒の烏であるべき筈の僕を…惑わす。
舌先に撫ぞった黒き La notte の刺繍
白い烏〈後編〉・了
↓↓↓あとがき↓↓↓
La notte、「夜」の意。
人修羅の項に自分の名前を刺繍したライドウ。
それをくちづけで抜き解く。
それが書きたかった欲望まみれの回。
結局互いに関係を塗り替える事も無く、緊張の糸は解けない。
ライドウは中編では既に記憶が戻っていた、と。
つまりあの優しいまぐわいは……
ちなみに、前編で黒く塗りつぶされていた単語の
la volpe――[ラ ヴォルペ]は「狐」
un corvo――[ウン コルヴォ]は「烏」
です。
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