「ちょっと待てよ、じゃあ、俺の眼の前に居るあんたは何だよ、亡霊か?」
鼻で笑って蓮茶を啜れば、冷たい。
いつの間にか、聞き入っていたのだろうか。その事実に気付かされ、少し歯痒い。
「フフ…何だと思う?」
上品に啜り、ニタリと哂うその顔は、白いが死人の色では無い。
それを睨んでいた瞬間、ぱた、と、どこか鈍い音。水の中に居る時に聞こえる様な。
「あぁ…雨、本当に降ったね」
長い睫を上に開き、ライドウが頭上を覆う傘を見た。所々ほつれている布地の穴から、水が滴る。
くい、と残りを一気にあおると、帽子を被り直して背凭れの外套を腕に掛けていた。
「ま、て、待てよ!俺まだ呑み終わって…」
云っている暇があるのなら呑み給え、というその視線を拾った俺は、やはり苛々しながら蓮茶を流し込んだ。
とっくに冷たくなったそれは、喉を通り越して強い薫りを呼吸に混じらせる。
「喉奥から蓮の花でも生えそうだ」
部屋に戻る階段の途中、思わず発した。
「その蓮華座の上にでも寝るかい?」
「煩いな、この亡霊」
「フフ…事実、葛葉という名の亡者にも等しいがね」
開かれる部屋の扉、香の匂いがツン、と薫る異国の装飾。
中央のテーブルに、花瓶に活けられた生花、茶器と蒸篭が置かれていた。
竹細工のそれの蓋を持ち上げてみれば、桃の形の饅頭。
「一番高い部屋にしたからねえ、ほら御覧、寝台の素材も桃木だろう、そこそこの魔除けにはなる」
云いながら、ライドウが持ち上がった蓋の隙間から指を入れ、ひとつ取っていった。
「寝る前に喰うと太るぞ?」
「僕では無いよ」
「は?」
「気付かないのかい?フフ…本当に君は愚図だね」
途端、振りかぶるライドウ、身構える俺。
その、投げられた桃饅頭の軌道を読めば、俺の頭スレスレで背後に飛んでいた。
「悪いが、今宵は交渉の気力も危ういのでね、それで勘弁してくれ給え」
ライドウの視線の先、振り返ってみれば、黒い影がひたひたと、長い髪を引き摺って部屋の入口に立っている。
『此処に泊まると聞いたカラ…』
(ヨモツシコメ…!)
引き摺る長い髪が埃まで吸ってそうで、俺は背筋がぞわりとした。急いで間合いを測り、擬態を解く準備をした。
「貴方かな?この部屋に寝る者に跨って、そのたゆたう御髪で四肢を絞めるのは」
『高い部屋ヨ…精力旺盛な金持ちが泊まるカラネェ…』
投げられた桃饅頭をゆらめく黒髪で絡め取り、ニタニタと笑っている。
「おい、ライドウ!あんた前情報あるのに泊まったのかよ!?」
「綺麗な部屋でなければ、君の文句が煩くて安眠妨害されるからねえ」
「悪魔が夜這いに来る部屋なんて反吐が出るんだよ!」
怒る俺を軽く往なして、ヨモツシコメに向き直ると、唇を吊り上げ哂うライドウ。
「桃を投げられたなら、大人しく退散したらどうだい?」
『安眠したきゃMAGか石を寄越しなァ』
「呉れてやったろう、ほら」
話半分にあしらいつつ、ライドウは蒸篭からひとつ取り出した桃饅頭に齧り付く。
それにぴくりと反応したヨモツシコメは、絡めた髪で桃を引き裂いた。
そのおぞましい光景に、俺は擬態を解いて焔を腕に纏わせそうになるのを、奥歯を噛んで堪える。
『ふはぁァ!こりゃ良い!』
割れた桃からは、魔石、それも純度の高そうな物だ。
あの裂け方からするに、恐らくライドウが投げつける前に忍ばせたのだろう。
「水を吸って頭が重くなるぞ?雨脚が酷くなる前にさっさと帰り給え」
『また来るからネェ、綺麗なサマナーの童ァ』
図々しくもそんな台詞を残し、ずるずると髪を引き摺って出ていくヨモツシコメ。
俺はすぐさま扉を閉めるが、少ししてからドタッ、と妙な音が扉越しに聞こえてきた。
「ククッ、挟んでるよ功刀君」
ライドウが、指に付いた饅頭の欠片を舌で舐め取りつつ、また哂う。
はっとして振り返れば、扉の隙間から覗く髪の毛。
「最っ低!」
即座に開き、乱暴に閉める。背後からくつくつと笑い声。
「あのなぁ、魔石くれてやる義理なんて無いだろ、あんな物乞いみたいな悪魔」
「この部屋で発生する金縛りの原因はこれで判明した。後はこの宿から依頼が来るのを待つだけさ」
水場で手を濯ぐライドウの背中を見て、俺は呆れてしまった。
そう、最初からこれが狙いだったのだ。確かに、人知れず退治するより多くの得が入る。
「チッ、この強欲サマナー」
「金縛りでは死なぬよ、あのヨモツシコメは今まで殺しはしておらぬからね…」
帽子を椅子の突起に掛けて、ひとつ欠伸をしたライドウ。そんな所作まで綺麗なのが腹立たしい。
「桃木程度では防げぬ、と忠告しておくべきかな、依頼を請ける際にね」
寝台に腰掛けるライドウ。と、俺とふと眼が合う。
俺は寝巻き代わりのアオザイを掴んで、立ち尽くす。
「…おい、そういえば、どうしてこの部屋、ベッドがひとつなんだよ」
「一人用だからさ」
「其処、退けよ」
「嫌だね」
一触即発
しかし、俺は見事に叩きふせられ、綺麗な花模様の絨毯に接吻する羽目になっていた。
擬態解除しない身体なんて、所詮こんなものなのだ。
「っ痛……」
椅子に腰掛け、卓上に項垂れて呻く人修羅。
僕は寝台の上に、明日の支度を広げて確認をしている。
窓の外から、しとしとと、方々の屋根や傘を叩く音が、まるで囁きの様で、歌の様だった。
「…なあ、本当にあんた、死人じゃないよな」
ぽつりと吐かれる僕への問い掛けに、管の返り血を拭いながら、哂って返す。
「死人に君の様な存在が使役出来る訳無いだろう?」
「……ああ…」
「子守唄が必要かな?」
「要らない」
「そうだねぇ…先刻の続きでも、夢物語に聴いておやすみ?フフ…」
「だから要らないつってんだろ…本当に……」
突っ伏したままの君の頭に、ひらりと花瓶から零れた薄桃の花弁が吸い寄せられた。
「あんたが聴かせる歌は……」
やや、まどろんでいる。
「いつも…寂し…い…」
寝たのか、狸寝入りだろうか、どうでも良かった。
「リーの身体、相当ボロボロだったそうじゃあないか、脚とか」
「一緒に組んでいた紺が刻んだんだろうよ、おお、恐ろしい…」
「おめおめと、己が悪魔に喰わせた抜け殻を背負って帰ってきおったのか…」
椅子に、まるでまどろむ様に座るリー。その眼は何も見つめておらぬ。
バクに夢ごと喰われた者の末路だ。喋らぬ、喰わぬ、出さぬ、ただ植物の如く、其処に存在するだけ…
あの月の晩、目覚めた僕の眼の前には、リーが転がっていた。
戦ぐ草の布団の上、うっとりと寝ていた。
『結局、こっちの坊やの夢を喰う事になったぁよ』
バクが傍で、げっぷをしながらぐひひ、と鼻先で嗤う。
『なんせお前さんの夢ぁ酷い、下手物もいいトコだぁ…胎が爛れっちまうよぉ』
「…な…に…」
『夢ぁなあ、愉しくて、あったかいのが美味いんだぁ』
つまりは、睡眠した僕のが喰えず、ついに力尽きて眠りに落ちたリーを喰った、という事か。
身体を絡め取っていた影は、既に無く。僕はよろめいてリーに歩み寄ると、最後にバクに云われた。
『お前さんの夢ん中身ぁ熱くて、そんで底は冷え切ってて、毒の味が強過ぎるから喰えたもんじゃぁないよぉ』
「…ぐ」
『生きててたのしいんかい?』
「答えよ、紺!」
背中に奔る痛みで、脳内の回想は幕を閉じた。
しなる鞭を持つ装束の、その頭巾の隙間から覗く口は笑いを浮かべている。
「お前は、リーを見棄てたか…それか、悪魔に差し出したのだろう?」
詰る声に、それでも抑揚は無い。
「あの身体の傷は、お前の所持していた刀だ」
「…その通りに御座います」
「魂を抜く悪魔に明け渡したのだろう?邪魔者減らしの為に」
「……確かに、候補生は減る、自分にとっては、得となりましょうね」
ざわめく周囲、だが、そんなものは場を盛り上げる為の鳴り物だ。
背に再び入る裂傷に、床板を爪先で掻けば、横から入る女性の声。
「まあ、お待ちになって烏の一羽よ…その狐は、リーを担いで帰って来たのでしょう、その辺にしてあげて下さいな」
(あいつの、母親か…)
鞭は其処で一旦止み、僕は首に縄を掛けられて、裏口から歩かされた。
(見えぬ所を歩かせようが、こんな事、皆、知っている…)
失笑すれば、背を後ろから小突かれた。電流の様に奔る激痛に、思わず眉を顰めた。
「狐、少しお話しましょう」
懲罰房で横に寝る僕に、格子の向こうから話しかけてくる。
「なぁに構えないで頂戴…貴方の得意な“交渉”よ……」
「…御子息があの状態ですのに…仇に随分と優しい語り口に御座いますね…」
「リーの事は残念だったけど、貴方が少しでも罪悪感を感じるなら、聞き入れて欲しい頼みが有るのよ」
灯篭の逆光でよく見えぬが、薄っすらと微笑んでさえいた…その、母親という生物。
「ヤタガラスから貴方を買い受けたいの」
小さく顔を上げれば、僕が反応した事に更に嬉々とする。
「どうせ孤児……慰み者なのでしょう?それなら、もっと良い条件で、良い血統を与えて人形になれる路を貴方にあげるわよ?」
つらつらと、続く交渉という名の……
「リーの位置に貴方を入れてあげる、有力な資産家相手よ、貴方にもお小遣いが入るのよ?此処では手に入らない悪魔も、玩具代わりにあげる」
「…御子息は」
「リーは帝都の病院に入れます、あれではそう長くないと思うけれど…」
これが子守唄か。
「…ふ…ふふ……」
乱れた着物を直しもせずに、上体を起こす僕、哂いが滲む。リーの母親は、少しびくりと肩を震わせた。
「では、ひとつ願い事が御座います…」
「そう、私に出来る範囲でなら応えるわ」
「リーの携えていた、あの悪魔を下さいませ…」
その翌日、三本松の御前にて執り行われる契約。
ヤタガラスという組織が、いくら手酷くだろうが僕に固執して注いだ英才教育。
それの賜物を容易く手放す筈は無い。御上衆の中には、僕を偏愛している奴も居るのだから。
抜け殻となったリーが、木製の車椅子で穏やかに虚空を見つめている。
彼もまた、この組織から抜ける為の儀を、此処で済まされようとしているのだ。
あの状態では、当人の意思など無視しているに等しいが。
しかし、あれの母親は訪れぬ。約束の刻となっても見えぬ姿に苛々と周囲がし始めた時。
揉み合って、この間に入ってきた人影が二つ…
同じ姿の、女性二人。民族服を揉みくちゃにして、声高に叫び散らす。
「「この贋物!!」」
戸惑う周囲の装束、黙って聳えるままの三本松。同じ姿が二人と居るその異様な光景。
影法師か?と、潜めく声。いずれにせよ、本物は片方なのだ。
「御上様方、ひとつこの紺に意見を仰いで下さいまし」
先日の傷が痛むが、正座の姿勢からすっくと立ち上がり、僕は声を張る。
「魂がうつろいでいようとも、その身体に記憶が御座いましょう」
「紺!座れ!三本松様の御前であるぞ!」
装束の声を払い除け、僕は車椅子に問い掛けた。
「リー!お前の母親なら歌える!だろう?」
しん、と静まり返る空間の中、息を荒げた二人の奥方の、その片方が。
「睡呀睡在那个梦中…」
囀るような声音で、歌い始めた揺籃歌。
ぴくり、と車椅子のリーが、その歌に呼応させ、身体に滞留するMAGをふわり、と放つ。
「マーマ…」
喋る筈の無い唇が、見つめる筈の無い眼が、歌う女性を見据えて、微笑む。
「ほぅら、御覧になられた通りで御座いまする皆々様!」
ニタリと哂う僕に、歌えなかった女性が叫ぶ。
「嵌めたわね!この狐!!」
周囲の装束は、その視線を上空に流し、三本松に指示を仰ぐ…が、特に言葉が降る事も無く。
つまりは、好きにさせろ、という事だ。この僕に。
「御夫人…人聞きが悪い…フフフ」
「家に入りたくないの!?血統書付きの狐になれるのよ!?」
「飼われ狐ほど軟な生き物には、成りとう御座いませぬ」
隣を見れば、模擬試合の装備一式を手にした装束が立っている。
それをする、と受け取り、適当な管を指に携えた僕は、女性を見据えるまま、召喚した。
以前も使役したドゥンだった、これは蛋白質の焼ける臭いがきつそうだ。
「ヤタガラスを欺かんとす贋物悪魔は、退治しなくてはなりませなんだ」
「違う!そっちだ!そっちの女が贋物よ!!」
「贋物の母は、間違い無く貴女で御座いましょう……クク」
ああ、胎の底から哂いが溢れ出す。リー、これがお前の縋っていた、母親という生き物だ。
せめてもの供養、最期の揺籃歌を、その抜け殻の身で聴いてやれ。
甲高い断末魔、ちっとも綺麗でない、眠れやしない、その子守唄…
「ドゥンの焔でその贋物…もとい、本当の彼の母親を焼き殺したのさ」
僕を見る人修羅の視線が冷ややかなのは、よくある事。
全て磨き終えたので、僕はそれを丁寧にホルスターに納めていく。
その中のひとつを取り、指先でくるりと回転させて人修羅に聞いてみる。
「この管、何か判るかい?」
「…パールヴァティ」
「正解、何故そう判断した?」
「今の話の流れだと、そうだろ……」
そう、あの三本松の前で、温かな歌声で囀ったのは、リーのパールヴァティ。今日も使役した、可憐な女神。
懲罰房から出でて、すぐに受け取った管。僕は召喚し、一芝居、女神に持ちかけたのだ。
“君のお人形の面倒を看てあげる”
そう、リーは、母親代わりとなっていたこの悪魔の人形。
パールヴァティは、セルロイドの赤子を抱く幼女の心で、主人と接していたのだから。
母を求めていたサマナーと、母親のままごとを愉しんでいた悪魔。都合の良い関係だった訳だ。
「ライドウとなって、帝都でリーと再会したよ…癲狂院でね。彼が朽ちるまでの面倒を看てからは、この女神は僕の使役下」
云い終えて、する、とホルスターに納める。
母親ごっこを愉しんで、歌っていたこの悪魔。本物より余程、母親というソレに近くて。
「あのな、母親全員が、そのリーって人の母親みたいな奴じゃない」
「おや、流石にそれは承知しているさ、親無しの僕でもねえ」
雨の音が強くなってきた。装備を箪笥の上に置き、その傍の窓をからから、と閉める。
湿った風が桃の薫りを運ぶので、少しだけ隙間を残して。
さて、と寝台に振り返れば。
「…退き給えよ、また床に接吻したい?」
人修羅が、寝台に腰掛けて、僕を睨み上げていた。
先刻まで僕の居たその位置にて、やや脚を開き構える形で鎮座し、揃えた指をくい、と仰がせる。
「ちょっと、来い」
「僕に命令?」
「紺野」
その眼が薄く蜜の色になる、雨の雲間に隠れた月の色。
鼻で哂って、数歩で歩み寄り、その顔の位置まで腰を屈める。
「名を呼ぶからには訴えたい事が有るとの解釈にて、君に寄る訳だが?功刀君」
君の黒髪に付いたままの薄桃の花弁を啄ばんで、唇に捕らう僕。
花弁に気付いていなかったのか、少し羞恥した眼に一瞬なったが…そんな君は呼吸を一息吐いて、僕の襟首を掴んだ。
出来得る限りの本気なのだろう、瞬時に僕の頭を己の膝上に叩き付けて。
腰のバンドに忍ばせた刃物に手を伸ばす僕の腕を、咄嗟に押さえてきた人修羅。
「あんたと一戦やらかすつもりは、ない…部屋散らかしたら、余計に金飛ぶし…」
ぐ、と、僕の脚を寝台に引き上げる軟い腕。
「…母親ってのは……俺の知る限りだと」
筋肉の無い、しっとりとした腿の上、僕の頬が寝巻きの民族服に擦れる。
「昼寝だったら、こうして……」
刃物に指が届ききらぬ僕の指先。人修羅の膝を枕にしたまま、結局彷徨い、君の膝頭を掴む。
「子供の髪を梳くんだ……」
僕の髪の隙間を泳ぐ君の指先が、額からこめかみを流れて撫でていった。
「悪魔は知らないけどな……でも、俺は人間だ、親には、こうしてもらった」
「僕は人間だが、知らぬよ」
「俺と同じで、今は中途半端だからだろ」
返答の際に唇から零れた花弁が、ひらひらと床に落ちた。
「これで、子守唄を歌うんだ…」
この感触、憶えは有る。
『お疲れ様です夜様、懲罰房ももう慣れたものでしょう?はは、目隠しで歩けますよね多分』
己の庵に戻って、出迎えた僕の悪魔、相変わらず黒い冗談が冴え渡る。
『夜様?』
その腰にぶつかっていき、床の板間にねじ伏せて、無理矢理に着座の体勢を取らせる。
その、鎖帷子の硬質な膝上に、頭を乗せた。
「母親の真似事をしてみろ、リン」
『…はぁ、帰還早々格闘ごっこかと思えば、即就寝に御座いますか?』
「母親は、子を抱き歌う……らしいじゃないか、しかしその母親という者は、それを放棄していたぞ?」
『全ての母親がそう、とは云えませぬ、例えば、生まれたばかりの子を捨てる親が居る様に』
「フン、僕の親か」
『如何なる理由が有れども、棄てられた事実は変えられませんからねぇ』
額から、僕の髪を梳くグローブの指。
『貴方の夢が喰われなくて、安堵しておりますよ』
使役悪魔の言葉が、妙にざわついていた心臓の足を緩やかな速度にさせる。
「僕の中は下手物だとさ…」
『この里においては、それも致し方無い話です』
「僕をドルミナーで陥れた癖に…あの狸…愚かな奴…母親にも結局見棄てられて…フ…」
『お疲れでしょう夜様、今は夢喰いは居りませんよ、どうぞごゆっくり……ふふ、随分大きな子供ですね』
あんなにも縋って破滅したではないか。母親というものは、やはり不要だ。
瞼を閉じて、革の冷たい感触に沈んでいく。
強制催眠では無い、これはまどろみ。
「……リーの脚を刻んだのは…確かに…確かに僕だに…」
夢うつつ、夢だろうか、それならば、吐いてしまえ、と思った。
「…だって、あの馬鹿さぁ…こっくりこっくりと…すぐに寝そうで…寝たら喰われんのに…愚図だら………」
リンの歌う子守唄は、異国のものだった。きっとそれぞれに、心地良い旋律があるのだろう。
「だから…僕…」
『夜様――』
沈み込む
夢の狭間に…
「夜!」
ずるり、と手繰り寄せられた意識が、痛みと共に覚醒する。
開いた視界、ふと痛みの方を見やれば、僕の腰から拝借したのだろう、小さなナイフを持つ人修羅。
その刃の先は、僕の腿に刺さっていた。
「……あ……いや、その」
先刻の人修羅の声から、殺意は感じ取れない。寧ろ…
覚えがあるその行動に、僕は責めずに問うてみた。
「功刀君、その位置は覚醒し辛いよ…僕だから、すぐに反射で起きたが、ね」
「だって、あんたいつも以上に、妙にぐっすりいっちまってて、その」
ほんの少ししか刺さっていない刃を、す、っと抜かせる。
寝台の上で向き直り、真正面から君の眼を覗き込む。困惑した、迷い仔の眼だ。
「そのまま死んでしまうかと思った――…」
あの時の、僕と同じ事をしている、君。
舟を漕いで、三途を渡りそうな愚図に突き立てる刃は…手繰り寄せる縄…引き止める錨…
ただ、無為に傷付けた訳では無かった。
「フン、大丈夫さ、此処にはバクも居らぬ…ヨモツシコメも追い払った…それで様子がおかしくとも、金縛りさ」
「金縛りって、悪魔絡んでるかもしれないだろ」
「あれはねぇ功刀君、脳が半覚醒状態にあるから起こる現象なのさ…総て悪魔の所為にするで無いよ」
「おいおい…あんたそれでもサマナーか…科学と魔術のどっち寄りなんだよ」
「残念、これでもデビルサマナー葛葉四天王、十四代目ライドウさ」
薄く血が滲む脚を組み替え、流れる程でもないので止血もせずに僕は寝台に寝そべった。
ナイフを握り締めるままの人修羅は、叱られた様な…怒っている様な…惑いの表情で小さく吐き出した。
「…その…俺はただ…あんたがもし、幸せな夢でも見ていたら、戻ってこないかと…」
あの時、リンが僕に云った言葉を、云ってみようか?失笑もせずに。
「解っているよ、もう今宵はおやすみ、矢代」
云われた君の表情を確認せぬまま、間隔を半分空けて本格的にシーツに寝そべった。
やがて、背中の方から寝台の軋む音がした。
僕は手を伸ばし、サイドチェストのランプを消した。
雨の子守唄の中で、蓮茶と桃の薫りに包まれて、まるで異国の空気の夜半。
大丈夫、寝ても戻って来れる、まだやり残した事がある、僕は復讐し足りない。
間違いない。母が居らずとも、蹂躙される狐であろうとも、中は既に毒されていようとも、あの感情が理解出来ずとも…
今、生きてて、愉しい
背中からの寝息を聞いて、僕は再び瞼を下ろした。
決着を決めるその刻まで、僕も君を永久の眠りには、就かせてやらない。
その後の事は――…
ああ、もう…寝てしまえ……
揺籃歌・了
↓↓↓あとがき↓↓↓
獏をテーマに、どちらかが寝れば喰われる、という状況を書こうと思い立って出来た話。
獏⇒夢⇒睡眠⇒子守唄⇒母親
この辺をベースに、それと個人的に好きな唐人街(チャイナタウン)の薫り付け。
マザコンの人修羅と、母無しのライドウ、という相対性がポイントのつもり…これは長編等にも云えますが。
引き戻す為に傷付けた、という事が素直に云えない彼等。
《揺籃歌》
子守唄の事。「睡呀睡在那个梦中…(眠れ、あの夢を見て、眠れ…)」中国東北地方で歌われる子守唄で、人により歌詞は違ったりとか…
《辮髪・アヘン・纏足》
日本統治時代に台湾から追放された三つの悪習。それ等が悪習であるのか否かは、何とも云えない。
《蓮茶》
花びらとおしべを茶葉に絡めて、香りを茶葉に移したお茶。朝に開く蓮の花に茶葉を入れ、夜に閉じて薫りを茶葉が纏い、翌日取り出したそれで飲む…という風流な愉しみがあったそうで…一度飲んでみたいです。
《狐と狸》
赤と緑に非ず。狐は変化し、試験を受けて仙狐へと昇格する…書生に化けて、間借りを求めてくる事もあるらしく、もしかして…?なんて思ったりなんかしたりして。
狸は中国だと、山猫の事を本来指していたそうです。ちなみに、狸と狐のどちらが化かし上手かというのは、ハッキリしていないのだとか。
《バイン・ミー・ティット》
米粉を使用したフランスパン風バゲットに、バターやレバーペースト等でパテをし、甘酢漬けの野菜とパクチー、ハム等を挟んで魚醤を掛ける。ベトナムのサンドイッチ。お腹が弱いなら、屋台は選んだ方が良い。
《ベトナム珈琲》
ベトナムの路上カフェで頼むと、なんとセットでジャスミン茶か蓮茶が付いてくるらしい。
《越南》
ベトナム。リーの出身は、フランス領インドシナ・ソ連関係が絡んでいる関係で、仏・露悟を話せるイメージ。
《獏》
バク。夢喰いというと作中の通り危険なイメージですが、悪い夢を喰ってくれる良い存在…らしい。デジタルデビル物語では神獣バクとして出てますが…
《金縛り》
ベトナムでは「マ・デ」。レム睡眠時の身体の誤作動に理由をつける為に、脳が見せる幻覚や思い込みが金縛り(幽霊・悪魔)を形作った…っぽいです。
《桃》
桃の木は魔除けになる。ヨモツシコメがイザナギに投げつけられたのも桃。
《癲狂院》
精神病院。同人誌「白昼霧」に載せた話に出た病院と同じもの、のイメージで。