ぼくは開け放った窓の格子を、誰かの真似をして指先で撫ぞり遊んだ。
一見無意味な行為だが、指の腹で感じるのは、物の質感。
素材、感触、温度……
触れるまでは判らない、何事もそうなのか。
かもしれない、こうしてヒトの形で触れるまでは知る事も無かった。
「……冷える」
褥からのそりと寝返り、シャツ一枚に帽子ひとつのライドウが呟いていた。
ぼくの金糸が、さらりと靡く。風が部屋の中に舞い込んでいる、という事が判る。
「おはよう夜」
「半分は覚醒してたよ、誰が熟睡するものか。しかし……夜におはようとは妙な台詞だね、フフ」
「閉めた方が良いのかな」
「君が風に当たりたいのなら、そのままにすれば良い。僕は羽織れば調整出来るからね……」
エネルギーの余力と、身体的な疲労は別なのだろう。付き合う内、徐々に分かった。
ぼくからMAGをたっぷり吸ったくせに、些か消耗気味という体のライドウ。
あんなに腰を振れば当然だろう。闇雲に動かす訳では無く、的確に……ねっとりとしたあの動き。
此方への労りなど無い、己の快楽のみに従う、あの狂った腰つき。
貫かれながらも、搾取しようとする獣の眼。
そう、君は性行為がそれほど好きでは無いのだろう、夜?
「ほう、この高さだとかなり葉が近いのだね」
「秋風にさざめくと、まるで窓の外が燃えている様に錯覚する。寝ぼけ眼では尚更、火事と見紛うだろうね……いや、僕は寝惚けているつもりは無いが」
「街から少し外れるだけで樹が多い、此処は《田舎》というもの?」
「《郊外》が正しいだろうね。そこの枝なんか、時折野生の動物が駆けているよ」
「ああ、そういえば先刻見た気がする。あれがムジナというやつかもね?」
「……どうだか、そんな丁度良く現れるとも思えぬけど」
他愛も無い会話、酒、煙草、賭博、愛撫、喘ぎ。
恐らくすべて、恋も愛も無い。
付き合えば付き合うほどに、分かる。
君にとっては、逢瀬やセックスすら戦いなのだ。
利害の一致で開戦し、その立派な得物でまず威嚇し、快楽の矛先を定めて一突き。
相手が遊女ならば、堕とし蕩かせば勝ちであり。
相手がぼくならば、自らを坩堝として満腹になった時点で勝ちなのだろう。
「しかし、本当に錯覚かな」
窓辺で涼む仕草のぼくだが、試しに不穏と思われる言葉を吐いてみた。
案の定、布団に包まっていたライドウがじろりと睨んでくる。
「それは何を意味する」
「いやね、遠くの方に……真朱に染まったものがゆらゆらと、見えた気がしたのだよ。しかし時間帯からして、只の夕焼けかもしれない……ふふ、錯覚だ、うん」
押し黙るライドウ。
君が口を開くより先に、遠くから鐘の音がした。
カンカンカンカン、けたたましく。
「どうしたの」
ぼくの呼びかけに答えもせず、ライドウは布団を蹴飛ばす。
その脚のソックスガーターには、管と小さなナイフが携帯されている。裸同然に見えて、常に臨戦態勢ときた。
歩み寄って来ると、大胆に窓から身を乗り出す。
「肌を見られてしまうよ、夜……それか、ぼくが付き落としてしまうかもしれないよ」
その横顔にキスをしようと唇を寄せれば、落葉の如くするりと抜けていった。
枕元のホルスターから管を抜き取ると同時に、既に召喚している。
『キャウ〜ン!ライドウ装備ハドウシタ、身軽ソウ』
「其処の窓から出て、先に現場を調査し給え」
『何ノ現場?』
「火事だ、場所は人の流れか心を読め。消防隊が見えたならそれを追えば良い話だが、可能ならばそれより先に着け」
『消火ハ無理ダゾ』
「現場を見張るだけで良い、野次馬の顔を記憶しろ……さあ往き給え」
イヌガミの額をひと撫でし、そのまま窓の方に追いやるライドウ。
戯れが足りぬらしい犬は、鼻先を名残惜しそうに掌へと擦り付けていたが、やがて発った。
それを確認しつつ、スラックスに脚を通すライドウ。
着替えも早い、あれよあれよという間にマントまで纏った。
管のホルスターなどは、一瞬で後ろ手に結ばれる。ぼくは先刻、あれだけ焦れた真似をさせられたというのに。
「ぼくらも野次馬に行くのかい?」
「実にキナ臭いのでね」
「燃えていたら、当然臭いだろうな」
しがない返事も無視されてしまった、どうやら結構急いているね。
事後の情緒も無いままに、階段を駆け下り街路の人混みを掻い潜るライドウ。
通行人が彼を避けるのか、彼が絶妙に躱しているのか……これはいまいち判断出来ない。
「君も人の流れを読んでいるの?」
「というより、燃えている場所の見当はついている」
「へえ、どういう理由で」
「云ったろう、キナ臭いと」
足早に進み続け、暫くすれば例の料理店だった。
轟々と燃え盛ってはいるが、建物全域という訳でも無さそうだ。
黒山の人だかりを掻き分けずとも、ぼくとライドウはまあまあ見渡す事が出来る。
『ライドウ、来タ来タ』
「御苦労、中に人は居るのか?野次馬の顔は覚えたか?」
『中ニハ誰モ居ナイ、皆逃ゲタ!野次馬ノ顔ハ覚エタ!』
「今後ひと月は忘れるな、火を放つ者は現場を眺めている事が多い。今後も度々見る奴が居れば、僕に伝えろ」
MAGを褒美に与え、イヌガミを管へと戻すライドウ。代わりに召喚したのは、水を湛えたアズミ。
成程、少ないコストで目一杯に活用するのか。
育成上手で、適材適所が出来なければ成立しないやり方だ。
『んっまーライドウちゃん、久し振り!それにしても熱いねぇ、ちょっと火力強すぎやで!』
「ざっとで良い、消火してくれ」
『えぇ!アルラウネぇは!?』
「“蔦が焦げちゃう”とか云い出しそうだからね、なので文句も云わずテキパキ動く君を召喚した、期待している」
『ちょっとちょっと!おばちゃんは焼き魚になっちゃってもええん!?でもその評価は嬉しいわぁ、美味し〜い匂い漂わせて、頑張っちゃおうかねぇ』
氷結の術を撒き散らすライドウの仲魔に、この場のどれだけの者が気付いているのだろうか。
消防の車からも水が放たれてはいるが、そちらの方は焼け石に水。
実体の無い対象、つまりは幻に水をぶちまけているかの様だ……
「わざわざ消火活動とは、帝都の守護者も大変だね」
「だから幾度も云ったろう、臭い火だと」
「普通の炎では無い、と?」
「これはMAGを燃料にして発現する焔のニオイだ。中で鞴として煽ぎ続ける悪魔が居れば、只の水では何時まで経っても消えぬだろうね。道中既に臭っていたよ、風に乗って――」
と、喋り終える前にその場を離れるライドウ。
近くに居た女性に話しかけている、まだ年若い風貌の相手。
逃げ延びた者だろうか。髪はやや乱れ、ほんのり頬が煤けている。
おもむろに、ライドウは懐から何かを取り出し……女性に渡した。
よくよく見ずとも判った、あれはぼくが買ってやった手鏡だ。
巾着から取り出し、まだ新品のそれの両面をひらひらとさせて眺める女性。
戸惑いつつも惚れ惚れしている、品物にかライドウにか。
鏡の反射は、炎の眩しさにも負けず空気を裂く。
女性はうっとりと、火事の熱に中てられた様にも見える。
そして当のライドウは、あっさりと此方に戻ってきた。
「この状況で軟派とは、恐れ入るな」
「馬鹿、胎を見給え」
云われるがままに、再びあの女性を見る。
炎の照り返しで、本来の色が判らない着物。その腹部が、大きな卵でも抱えているかの如く膨らんでいた。
「火災現場で妊婦を軟派したのか、夜はなかなか罪深い」
「だからねぇ、軟派では無いと云っているだろう。妊婦が火事を見ると、産まれた子にコトヤケが出来てしまう」
「コトヤケ?」
「赤痣の事さ、ただし鏡を懐に持てばそれは回避出来る」
「その為だけに貸したのかい」
「いいや、くれてやった」
「仲魔への土産にするのではなかったのかね」
「それはいつでも構わない、優先順を考えればおのずとこうなる。それに君から与えられた物を褒美としてやっても、ねえ?」
ほら、ぼくの推測は恐らく的中だ。

君が憤慨した理由、それは“葛葉ライドウとしての君”の見栄がさせた事だったのだろう。
「葛葉ライドウが護らなければいけない存在」である帝都人が、下らぬ理由でぼくを貶した。
それが許せなかったのだろう?
ぼくが葛葉の責務に「下らぬ」と感想を述べる、それを避けたいのだね?
君が思うのと、ぼくが指摘するのでは、天と地程の差が有る。

「しかしこんなに轟々としていると、天まで色が届くのか。ちぎれ雲まで朱に染まっている」
「あまり安穏な台詞を吐かないでくれ給え、一部の輩に絡まれる。僕の仕事を増やすでないよ」
「燃えるこの色……鮮烈だね。夕暮れの空の様な、はたまた色づいた紅葉の様な。ねえ夜、君はどちらが好き?」
「…………前者」
呆れつつも、はっきりと答えを返したライドウ。
時折見せる素直な言葉が、ぼくの好奇心を疼かせる。
「そうか、ぼくも空が様々な色に偏光するのを見るのは……割と好きだよ、夜」
ぽん、とライドウの肩を叩くぼく。
瞬間、建造物を舐めていた炎が空にざあっと解けた。
周囲の人間達が、一斉に息を呑む。
ライドウは一瞬ぼくに視線をくれたが、直ぐに火元を辿ろうと顔を背ける。
鎮火した家屋は、ほんのりと煤けている様にも見えるが……焼け落ちた筈の柱や梁は元の姿をしている。
騒然とする野次馬達。それでも次第に興味の失せた者から、場を離れ始めた。
『ライドウちゃぁ〜ん、なんやコレ、幻覚かいね?』
「……調査しておく、甲斐の無い仕事をさせてしまったね」
『いんやいや、じっくり炭火で焼かれんで良かったわぁ!あ、そいえばねえ、なんか火ぃ消えた時にチラっとだけど、動物居ったで……燃えもせんで』
「何の動物だ」
『ん〜……ムジナってやつかねぇ?タヌキかもしれんけど、ま、どっちでもええわ。それじゃ、またおばちゃん喚んでねぇ、アルラウネぇよりは雑用でもケチつけんから』
ふわふわと出てきたアズミを管に仕舞うと、いよいよぼくに向き直る君。
何とも云えぬ表情。哂うでも無し、怒るでも無し、アルカイク系にも非ず。
「夕暮れ空がこの建物に滴り落ちたのかの様だった、紙を舐る様に焦がす焔の如し……ね、夜」
「先刻の窓辺でムジナとでも喋っていたのか?真人(マツト)ムジナは人を騙す怪……悪戯好きの君と気が合いそうな奴だよ」
「あっ、でも空の色なんてものは無くて、まがいものだっけ……どういう現象名だった?」
「……レイリー散乱」
些かぶっきらぼうに答えると、君は辺りをぐるりと歩いて回った。
既に火は跡形も無いし、店主や従業員が首を傾げながら、おずおずと店に入って行く様も見える。
その中にはあの妊婦も居た、店主と睦まじそうにしている。
この店の女将だったのか、なるほど……因果が有る。
「しかし、本当に燃えた様に見えたねえ。夜の云った通り、活けられた彼岸花が原因かな?」
「“様に見えた”か……フフ……ぶるのは止めろと云ったじゃないか」
「何が可笑しいのだい。良かったじゃないか、君はこのお店に憤慨していたろう?慌てふためく様子を見て嬉しくは無かった?」
「さあね、とりあえず妊婦ごと燃えなくて良かった。身籠った女性が無念の死を遂げると、魔物になり易いからね。そうなると、僕の仕事が増えて面倒なのだよ」
「あの奥方から、金髪碧眼の赤子が産まれなければ良いけど?」
「ルイ」
「何?」
「確かに、他人事であれば面白い展開だ。だが、余計な真似をするなよ」
「ふむ、心外だな。ぼくには特別な技能なんて無い筈だよ……」
ライドウの足取りは次の行先を決めてあるのか、実に機敏だ。
夕焼け空が色をゆっくりと変え、背の高い建物の影をもったりと伸ばす。
そこらじゅうが、見覚えのある焔の海に見える。ぼく本来の住処でいうと、あの辺りが郊外だろうか。
「しかし良いな、ビモクシュウレイな書生から鏡のプレゼント、良き思い出となっただろう」
「やり場に困っていた物が、さも慈善活動の様に消費出来て良かったよ」
「困っていたの?」
「だって、君からの贈り物には違いないだろう。土産にするのも手元に置くのも、釈然としない」
「他の鏡よりも高かったのに、号外新聞の様にさっと手渡すのだから参るな。どんな細工の鏡だったか君、覚えているのかね?」
確認の素振りで、問い質す。
今更気になってきたのだ。一瞬だけ見た、あの文様の名称。
花弁の渦なのか、獣の毛並なのか。動きのある、触りたくなる柄。
「僕が見繕ったのだから、無論」
「なんという名称の文様?」
「あれは《むじな菊》という。八重菊の様な花弁の並びが、ムジナの毛並に見える事から――」
答えたライドウも、余りのムジナ続きに可笑しさが込み上げたのか、鼻で笑った。
「全く、君が妙に話を展開するものだから。今回の火事が不始末か、放火か、ムジナか、悪魔か、夕暮れのせいなのか……真実が分からなくなりそうだ」
「君にとっては、どれであろうと構わないのだろう?」
「まあね、究明と解決が僕の仕事だから、原因がどれであろうと僕自身には関わりが無い。悪魔が関われば警察よりは役立つ、只それだけさ」
喋る内に、見えてくるは新世界。
まだ酒も入らぬ二つ身で、軽くじゃれ合い街路を往く。
「先刻、君の眼が朱く見えたのも焔か夕暮れの錯覚かね、ルイ」
「ぼくの眼が朱く?朱色の眼をした人間は、まあ多くないだろうね」
「ルイ、お前には本当は全ての色が無いのかもしれない。この世に映る存在では無いのかもしれない、僕にしか視えておらぬのかもしれない」
「急にどうした?」
しおらしい、とは云い難いが。
覇気も無くぽつりぽつりと呟く君は、珍しいので興味をそそられる。
「ゴウト童子は猫にしか見えぬが……君も本当はムジナか何かで、僕を騙しているのかもしれない、とか……いつも考えているのさ」
「いつもぼくの事を考えているの?」
「曲解するでないよ、そもそも先の事件だって君がきっかけではないか。その筈が、周囲は君を囲む事もしない。君と居ると、時折僕は異界に居る心地になる……昔、童子に向けた言葉が跳ね返る……君が風車なのでは無いのかと……」
「風車?」
「いいや、忘れてくれ給え……」
今宵は何を喉に通そうか、やはり適当にソーダ水で良いかな。
あの場でぼくが興じるのは、葛葉ライドウと夜の話なのだから、飲料は何でも良い。
君の羨む金の指輪を、いつもの様に天井のランプに煌めかせよう。
光物を狙うカラスの眼を、ぼくは酒の肴にする。
「お前はあぶくの様に、いつの間にやら消えていそうさ……そうして、それに気付く者は誰も居ない」
「君だけが知っていれば良いのでは?夜」
「……そうだね、同じ穴のムジナ同士が共有すれば良い」
扉の前で立ち止まり、アプローチの段差に乗った君。そうする事で、ぼくと同じ目線の高さとなる。
ニタリと哂いながら、耳に噛み付いてきた。
直後、反撃される前に店へと滑り込む、全く狡い仕草ばかりだね。
それにしても、今の返事に気を良くしたのか?どうやら機嫌は直った様子だ。

さあ、炭酸の泡が消えるまで今宵も語り明かそう。
ぼくがふっと消えるまで、君もせいぜい弄り倒せば良い。



-了-



↓↓↓あとがき↓↓↓
要望がありましたので、久々にルイライ。
デートしているだけという、驚愕の内容に。ライドウにもっと我儘をさせたかったのですが、ルイと組ませるとこれが案外……
火事の幻はルイの仕業か否か、特に白黒させずに幕としました。
風車のくだりは、これのひとつ前のSS『ブリアレオスの遺骸』と関連しております。

見出しはいつもと違う趣向で……あの柄が「むじな菊」です。 タイトルの「かいろく」は「怪録」「回禄」両方の意味を持たせて。

* 適当解説 *

《百貨店》
舞治屋百貨店は「松坂屋」をイメージして書いております。当時本当に、屋上には移動動物園の様な催しがありました。「松屋デパート」には吹き抜けがあり、水族館がありました。なかなかゴージャスです。

《回禄》
火災、火事を意味する。

《怪録》
妖怪にまつわる怪異をとりまとめた物語。

《蕎麦屋》
大正頃にはビヤホール・カフェを兼ている所もあった。蕎麦屋だが西洋料理がメニューにつらつらと並んでいたり。 作中に説明があった様に、自由恋愛における性行為の場を提供する所もあった。