「まだ春先だというのに揃って烏の行水とはねえ…別にこの里に居るからと、カラスの真似をする必要は無いのだよ諸君」
「へっくしゅ」
「ほらみ給え、僕は別に沼遊びしろとは云い付けなかった筈だが、ねえ正午?」
大事になると面倒だから、と、結局ライドウの庵で身体を乾かす羽目になった。
前は布団なんか無いとか云ってた癖に、押入れから運び出された布団は埃っぽさも無い。
ああ…何となく理解した。ライドウ不在の間は、この少年が此処を使っているのか。
「しかし十四代目、沼の先人達に逢えましたし、これでボクももうひとつサマナーとして成長を遂げた訳ですよね!」
「喰われなかったからそう軽口が叩けるのさ、昔教えたと思っていたが…おかしいね」
「ねえ十四代目、今度一緒に釣りでもしましょうよ」
「次までに風邪が治っていたら考えてあげる」
布団から上体を起こし、ライドウと談話する少年。
なんだ、結果オーライはあっちにとってじゃないかよ、畜生めが。
どうして俺がこいつ等の談笑なんざを間近で感じていなけりゃならない、眼を瞑っても鼓膜が叩かれて煩い。
「して…功刀君」
鼓膜を叩く音が慣れたものになると、俺の身体が反射的に疼いた。
布団の横に胡坐したライドウを睨んだまま、俺はびしょ濡れのハーフパンツを腿に乗せて乾かしていた。
この尻の下の敷物も…リャナンシーからの貢物だったっけ?このスケコマシ、今はガキ相手に…
「君はあの沼の彼等に、何を捧げたのだい」
「……別に、あんたが気にする事じゃない。その子の遊びに付き合っただけだ」
「管を捜す遊びだろう?君が躍起になる景品とは思えぬけれど?」
「勝負事に乗ったなら勝つように……あんただって教育されてきたんだろ」
「そう、では今から虫拳でもしようか、見事勝ってみせ給え」
「は?何だその…むし?」
「じゃんけん遊びという奴さ、では手を出し給え」
すっと差し出される黒い腕に、俺は拳を握り締めた。
この男が、俺の待てを聞く訳無い。しかもこれは罠だ。
「おい…っ、俺はあんたと遊んでやるとは一言も」
「問答無用さ、じゃんけん――」 
罠と解かっているのに、それでも俺の手はライドウの手に動きを合わせてしまう。
「ぽん」
綺麗に開かれた掌……ライドウは、腹立たしい事に今日も末端まで整っている。
俺は身を乗り出し、奥歯を噛み締めながら拳を突き出して…その掌にぐりりと喰い込ませていた。
「君の負けだね?」
「……だから何だ」
「君が勝つまでやってあげようか?ほら、じゃんけんぽん」
「いい」  
「ほらもう一度、じゃんけん――」
「もういいって云ってんだろ!」
拳を更に押し付け、ライドウを布団に追いやる。
脚を投げ出した少年を踏む訳にはいかないのだろう。少し構えてひらりと躱すライドウが、改めて俺の方へと身を寄せた。
「僕はずっと掌だろう、君はずっと拳。鋏の形にして切って御覧よ、どうして出来ないのだい、負けは嫌いなのだろう?」
哂いながら俺の拳に掌を重ね、包む様にしてギリギリと握り込んでくる。
「い…っ」
「ほら!」
いよいよ喰い込む爪が、俺の拳を開かせた。
途端、布団に脚を崩す少年が「あっ」と声を上げる。
「無いねえ、十本」
「っ、ぁ、おい分かったなら、もういいだろ…放しやがれ」
驚きもしないライドウが、途中で切れている俺の指の断面を撫でた。
瞬間、肩が強張り、痛みに喉の奥からひうっと空気が漏れる。
「あ、あの時のニオイ…やっぱり、血の……」
少年を見れば、思ったよりもマトモな反応をしていた。
俺を勝手な道楽に誘っておきながら、あまり肝は鍛えられていないらしい。
この里で育っているから、てっきりライドウ二世みたいなものかと思っていたが…
「ど、どうして」
「どうしてって…十体居たでしょう、だから十本無いんですよ」
俺だって痛いのは嫌いだから、指なんか喰わせたくなかった。
でも水中で悪魔に囲まれた瞬間、咄嗟に差し出せたのはMAGを湛える自身の肉だけだった。
「そういう事じゃなくて!だって、擬態解いて逃げるなり攻撃するなり、すれば良かったじゃないですか!」
「それが俺にとっての負けだから、そうする訳にはいかないんですよ」
それだけ返せば、唖然として掛布団を握り締めている少年。
どうやら俺がヘマするのを見たかっただけで、攻撃的な衝動は無かったらしい。
やはりぶっ飛んでるのは、隣でニタニタ哂うこの男だけという事か。
「それでも、指の無い姿を見られては、僕に笑われると思った……から、隠していたのかい功刀君?」
「…そうだな、あんたは俺が擬態解かなくて哂う…指喰わせたと聞いて哂う……ついでにじゃんけんに連敗だと哂う…パーとチョキが出来ない理由でまた哂う…!」
「クク、哂っておらぬよ、これが僕のポーカーフェイスだし?」
手負い姿の俺を、いつも哂う眼。ボルテクスの頃から見てきたんだ…何があんたを高揚させるかなんて、分かる。
握り拳ならバレない程度の長さは残っているから、治癒するまで隠し通せるかと思っていたが。
そうだ、この男…血の臭いには敏感だった。
「ま、君らしいと云えば君らしいね。身を切り売りして難を逃れる……僕の身の削がれ方とは違って、これまた痛々しいねえ?」
断面を苛めていたライドウの爪が、俺の滲んだ血で赤い。
マニキュアでも塗ったかの様なその艶っぽい指先が、するすると俺の腕まで伝い落ちてくる。
「勝負に勝った、それは褒めてあげようか」
「あんたに褒めて欲しくてやった訳じゃない」
「そうだね、明日頃にはじゃんけんの手が増える程度は…MAGをあげようか」
今この場で、押し付けて来ようとしているのが見える。
俺が毎回拒めないと知っていて、この鬼畜。子供の前で俺にベタベタ触れるな。
でも、今回こそは負けっ放しで堪るか。
「…いや、その必要は無い…」
「へえ、指が使えぬは不便だよ?ああ…でもファイアブレスなら、濡れ衣くらいは乾かせるかな?悪魔じみているけどね、フフ」
一体何と戦っているのか、既に自分でも分からない。視界不良の中、何を捜しているんだ?
あの沼の奥底で、ひたすらあのMAGだけを感じ取ろうとしていた事を思い出して、寒くも無いのに身震いした。
「勝ったら、その子のMAGを貰うって約束だからな」
ぴしゃりとライドウを撥ね付け述べた途端、布団で静止する少年。
俺の声が、嫌に悪魔じみていた気がする。多分、いや絶対気のせいだが。
「…へえ、正午のMAGを?」
「ああそうだ、どんどん吸って構わないって…云った。ねえそうでしたよね?」
布団に呼び掛けると、少年の肩が震え始める。緊張なのか、恐怖なのか。
まだ俺は擬態を解除してもいないのに…なんだか虚しくて笑える。
「指全部生やすくらい頂戴しようかと思いますけど、構いませんよね?」
「えっ、あ、あの」
「だってそういう契約であの遊びしたんでしょう?それ破るんですか?」
膝で敷物の上を擦り、布団ににじり寄った。
怯える少年の眼が俺を映している感覚に、項がビリビリ熱くなる。
散々俺をコケにしたこの子を、今度は苛む側になった昂揚感が血を巡らせる。
「契約違反したら、魂喰われるって知らないんですか」
「だって!だってまさか人間状態のまま水妖に喰わせるとか!思わなかったからっ!」
ああ…駄目だろ、これではまるで悪魔だ…
「ほら、吸わせて下さいよ」
「ひ、っ」
でも、悪く無いかもしれない。
これは芝居、ポーズだ。この少年の望んでいた“浅ましい悪魔”の俺なんだから。
少年の着物の衿を掴み、それっぽく引き寄せる。
吸うと云っても、何処かの誰かみたく卑猥な手段は取らない。そう、これはポーズなんだ…
「悪く思わないで下さいね…君の云う“悪魔”だから、俺もMAGが必要なんですよ」
ライドウも…自分のMAGを要らないと云われて、先刻はどんな気分だったんだ?
その黒光りしてるプライドに傷が少しでも付けられたなら、俺はこの勝負に乗った価値を見い出せる。
「っ、ぐ」
少年の項に軽く噛みつこうかと考えていた矢先、視界が引っ繰り返った。
抵抗されたのかと思ったが、違う。視界にはいっぱいの黒色。
「彼のMAGでは生えて三本程度だ、非効率的とは思わぬのかい」
ライドウだ。
「ぁぶ、っ」
何が起こっている?
ああ、でもいつものMAGだ。それだけはまず知覚出来た。
しかし一気に注がれ過ぎて、まるで脳震盪の様にくらりとする。
息苦しさからして、唇を抉じ開けられている…事は、判ってきた。
「ぐっ、ん、んんっ…ぅ」
急激な魔力の流転に、頭ががくがく揺れた。
ああ、敷物を押し返す様にして、今ツノが伸びたな……
睨むつもりで開いた視界の端、頬を紅潮させて俺達を見ている少年が映った。
くそ…なんて馬鹿馬鹿しい、結局悪魔の姿を見られてしまったじゃないか。
俺の両手首を掴むライドウの手首に爪を立てたくても、指先が無くて失敗に終わる。
まるで縋っているかの様な素振りになって、もう死にたい。
「…っはぁ、はぁっ……」
「ほら、御覧……十本程度、すぐ、生えたろうが」
ようやく唇を解放されて、身体はMAGに充たされているのに腸は煮えくり返りそうで。
あまりな行為を見られてしまった…
いっそこのまま悪魔になって、そこの子供の魂を無かった事にしてしまいたいくらいの羞恥。
「程度、とか、云いながら…かなり消耗したんだろ…見え見えなんだよ、この…糞野郎、変態サマナー…」
「何だい…今度は僕と勝負するかい…いいだろう、ボルテクスから、滅多に無い…良い機会さ」
「まずは、俺から降りろ、それからだ」
「へえ、この体勢から反撃出来ないのか、それは既に未来が無いね」
「っ……せえな!別にあんたのMAGじゃなくたって指くらい生えるんだよ!」
「せめてMAGくらい選り好みし給えよ…この野良悪魔め!」
ばっ、と放された手首。
互いに睨み合い、勝負開始の合図も無く腕を振りかぶった。



『…あいこ、だな』
障子の隙間からとてとて歩いてきた黒猫が、俺達を見て呟く。
ああそうだ、確かに互いにグーだった。
指が治っても、今は拳で叩きつけてやりたかったから。
「…くそ……この、暴力サマナー…っ…げふっ」
「は……君の顔に、嘔吐しなかっただけ、褒め称えてくれると光栄なのだが、ねぇ…っ」
顔面を潰したらライドウ唯一の長所が消えると思って、俺は腹にしてやったのに。
ライドウの野郎は、バッチリ俺の頬に拳を喰らわせやがった…本当に、最低。
「ど、童子…」
『何、いつもの事よ』
「今度の水曜日は……ボク、安静に寝てます」
『そうかそうか、そうしてくれ。お主こそは、忠誠心溢るる立派な仲魔を従えるのだぞ?良いな正午』
無言の少年、今どんな顔をしてるんだろうか。
気になって、首を捻って布団の方を見ようとすれば…
頭を下げて上体を被せてきたライドウが、耳打ちまでしてきた。
「僕が彼の忠誠心を試したの、分かったかい」
「……何、どういう…」
「彼の僕に対する忠誠心が満点なら、待っている間に君の面倒を大人しく見ていた筈さ」
「…試してたのかよ…性悪…」
「悪魔も人間も、何を基準に従うか解る?」
ニタリと哂った唇が、見えない筈なのに見える。
「最終的な判断要素は、自分が愉しいか、だ」
俺の耳を吐息が擽る、それがおぞましくて心地好い。
ゴウトと少年の方向から見ると、この内緒話は下手すれば睦み合いに見えるかもしれない。
だが、そんな事どうだって良いくらい、今のライドウの言葉は俺に解放感を与える。
「君なら解かるだろう功刀君?忠誠心なぞクソくらえ、そういう事さ」

あの少年が散々俺に提唱した“忠誠心”を
この男は、なにも重視していなかった。

「……くくっ」
それが愉しくて、思わず笑ってしまい…
殴られた頬が引き攣り、激痛が奔った。
「くぅ…っ!」
「君、笑うか食い縛るかどちらかにし給えよ、忙しない奴だね」
とりあえず…次の水曜日は、気分好く過ごせそうだ。



水妖日の正午さがり・了


↓↓↓あとがき↓↓↓
正午(しょうご)君ですが、良い感じに糞餓鬼になってくれたかと思います。まあしかしお子様、完全なる悪意の無さが厄介。
ライドウは忠誠心よりも契約条件を重視していて、前者に捉われるのは旧いサマナーだと思っている。 数値化出来る訳でも無いのに、前者で仲魔や人間を信用する事が危険だと感じている。 なので自身の仲魔との契約内容は、悪魔(契約相手)にとって愉しい・美味しい事が殆ど。 それがボイコットを防ぐ一番の方法と思っている。

福島県の五色沼をイメージしましたが、アロフェンの微粒子よりもMAGの含有量の方が多いと信じたい…
人間であるサマナーよりも、恐らく人修羅の方が長く水中に滞在出来る。MAG=酸素で、それこそエラ呼吸のイメージです。
水妖だらけのマヨヒガ(迷い家)に連れ込まれるプロットも有りましたが、かなり長くなりそうなので少しあっさり目にして仕上げました。
タイトルの読みは「すいようびのひるさがり」です。