赤い沓の後日談(おまけ)です。



年の瀬の仇波



『どうして責めなかったのよ』
「えっ?」
『足ちょん切らなくても何とか出来るプロセスが有った筈ですぅ〜 ってさ』
固く絞った濡れ布巾で、キッチンタイルの水滴を拭った所でした。
アイボリーの中に、時折ブルーのタイルが交じるのです。
この国の柄や意匠は、とても鮮明で綺麗です。
タイルは余所の国から伝わった様子ですが、目の前の柄はとても馴染み深い雰囲気で。
着物を彷彿とさせます、藍染の……
「そういえば、裾が破けてました」
『んっ? そうでもないじゃない、脚絆してたからズボンにはダメージ無いでしょ』
「違います、功刀さんの袴です」
『えーっ、でも駆けつけた時に葉っぱまみれだったし、慌てて来たあいつの自己責任でしょ』
「しかし……来て頂く事になったのは、私のミスが招いた訳で」
『もういいじゃん、ゴウトにも許して貰ったんでしょ! この程度でメソメソしてたらミイラになるわよぉ、凪ってただでさえ泣き虫なんだし』
蛇口の上に腰掛け、脚を交互に曲げ伸ばしするハイピクシー。
私はううっ、と声が詰まります。
反論出来ません、実際キッチンを片付けながらコソコソと鼻をすすっておりました。
とても情けないのです、銀楼閣の片付けは一通り完了しましたが……
とりあえず、まだまだする事が残っているのです。
楽隊の楽器を弁償して、人力車のお客様に謝罪文を書き、金王屋の垂れ幕を洗い、踏んづけた野良猫さんを捜し出して回復を……
「そうだよ凪君、綺麗な肌は水分含有率で左右されるのだよ」
「ぅわッ、先輩」
「何だいその驚き方」
驚くなという方が難しいです、突如キッチンに現れたライドウ先輩は……
前掛け……前掛けをしているのです!
いつもは功刀さんが着けている前掛けを!
「い、今から刀でも砥ぐセオリー!?」
「何故わざわざ炊事場で砥ぐのだい、此処は調理をする場だろう」
「あ、悪魔を料理するセオリー!?」
「それは戦場か業魔殿にて行う事だろう」
学生服の袖を軽く捲った先輩が、綺麗な指を蛇口のハンドルに伸ばします。
ひらりと飛び立ったハイピクシーが、私の肩に避難して来ました。
『何、あんたが料理すんの?』
「功刀君は立てないからね」
『ははぁ、一応フォローはするんだ?』
「出前の取れる時刻でも無い、所長に作らせるよりはマシさ。 それに人修羅を完全に再生させるには、結局僕がMAGを消耗するからねえ……」
『はぁ……消耗デスカ』
呟くハイピクシーが、私の耳を引っ張ります。
何か云って欲しいのでしょうか、今の言葉の意味を追求しろとの事でしょうか。
「せ、先輩っ」
「手伝いなら無用だよ、眺める分には構わないが」
「私も食べて良いですか!」
耳朶をビンタされました、恐らくハイピクシーの意向から逸れたのですね。
一方ライドウ先輩は、いつもの不敵な笑みで私を迎え撃ちます。
「勿論、此度招いたのは僕だからね」
こ、これは……手料理に自信が有る、という事ですね?
それとも、私の舌がグルメでは無いという認識をしているのでしょうか。
確かに、質より量のこの凪……香草の種類や隠し味がイマイチ判りません!
しかし、ライドウ先輩はお忙しい方。しかも炊事は功刀さんに任せきり。
これまで伺った内容から察するに、功刀さんが来る前までは殆ど外食か出前です!
『おっ……これは勝てるセオリーじゃね?』
髪を隠れ蓑にしたハイピクシーが、ぼそっと私の鼓膜に叩き込みました。
一瞬読心を使われたのかと思い、身体が竦みましたが……
ノンノン、落ち着くのです凪。ハイピクシーは外法属では無いでしょう。
「で、では邪魔にならぬ様に、この辺りから拝見しておりますっ」
「どうぞお好きに」
端に寄せられた小さ目な椅子を持ち、私は先輩のやや後方にそれを置きました。
脚を開かぬ様に着座し、黒くすらりとした背を見つめます。
管のホルダーベルトでは無く、今は前掛けの襷が白線を作っています。
特にもたつく様子も無く、てきぱきと食材籠や冷蔵棚から素材を取り出しては洗い、処理していきます……
予習済みなのでしょうか、私は調理本が無ければ思考停止してしまうのですが。
「話しかけてくれても構わないが」
「す、すみませんっ、視線が背中に突き刺さっておりましたか!?」
「出窓の硝子に反射して、丸見えだよ」
よ、良かった……がに股開きをしていなくて、良かったです。
疲れてくると、自然とだらしなくなってしまうので、自分で注意しなくてはなりません。
よく師匠にも云われたものです、稽古の後が特に酷いと。
「あの、功刀さんの容体はどうですか」
「君も見たろう、僕に殴りかかってくる程度には元気さ」
「足は爪先まで、しっかりと治るのですか?」
「当然、でなくては僕も落とさぬ」
「ライドウ先輩は……怪奇事件を解決するというセオリーを第一に、あの方法を取ったのですか」
包丁の音が止まりました。
私は、首を傾げる様にして振り向く先輩の、その整った横顔を見つめます。
刃物を片手に口角を上げているお姿。
とても料理人とも云えませんが、山姥よりは清廉としています。
「君はゲイリンの十八代目として、その問いを投げたのかい」
「……それは」
「それとも、赤い靴を履いてしまった一人の少女として? フフ……」
「どちらであっても、同じ事を訊いておりました」
「そうかい、ならば僕も両方で答えるが公平だね」
刃から、ほろほろと刻まれた根菜が鍋に落とされてゆきます。
それ等はバラバラになり、湧きだした湯を跳ねる音がしました。
私は頭の隅で、ぼんやりと戦闘中の事を思い出しておりました……
腕に何処か、迷いが生じるのです。もう何年も、悪魔相手に武器を揮っているというのに。
昔ほどではありませんが、未だ時折……繋がっているのです。
斬り付けた悪魔の四肢や首が、皮一枚でぶらりんと。
「己の仲魔を犠牲にしても、葛葉又はヤタガラスとしては原因を突き止め、再発を防ぐ事が重要と云えるだろう。 よって、再生可能である悪魔の足を削ぎ落とす事には、何の不都合も無い」
淡々と答える先輩の声は、私に指導する葛葉ライドウとしての声と同じトーンです。
私も教わってきた通りの……それが葛葉一門の矜持、スタンスです。
それを知っているからこそ、あの場で叫び出す事が出来ませんでした。
「で、君は“僕”にも訊きたいのだろう?」
「……はい、先輩の……いえ、貴方の本当の御意見を伺いたく思うのです。 それが私の曇りをクリアにすると信じ、訊ねる無礼をお許し下さい」
私からも、硝子に映り込む先輩が見えます。
ランプがちらちらと明滅して、その口元を暗くします。
「寧ろ、僕が葛葉ライドウでさえ無ければ……好きに切り刻めたというのにね」
鍋から溢れる上気で硝子は曇り……
一切が隠れてしまいました。


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