指がじんと痺れを伴う。ふと気付けば、何も手にしておらぬではないか。
少し先に、ガマが倒れている。奴の手にした暗器に絡め取られ、刀は指から飛び立ったのだろう。
『ラ、ライドウ……その子……っていうか人修羅ちゃんよね?一瞬で……』
アルラウネの戸惑う声と視線は、僕のすぐ傍に佇む人修羅に向けられていた。
斑紋の燐光が暗がりにか細く光り、その色自体は儚げだというのに。
左右逆のままの下駄でぱたぱたと駆け寄り、しゃがみ込んでガマをじいっと眺めている。
僕は我に返り、空虚になった手をホルスターに伸ばす。
「功刀君、すぐにソレから離れ給え」
リボルバーを撫でつつ接近した、ガマはヒクヒクと痙攣して未だ起き上がる気配が無い。
すっくと立ち上がったのは人修羅だけだ。
「どっちかしんじゃうまで、つづけるんでしょ?」
屈託も無く云い放つと、ガマの首元に爪先を引っ掻け、毬のように撥ね上げた。
それを今度は上から打ち下ろす……アイアンクロウだ。激しく裂傷したガマの着衣と肉が物語る。
しかし人修羅は傷付けた反対に即座に回り込み、返り血ひとつ浴びていない。
「いじわる」
ぽつりと呟く人修羅と、ただひたすら弄ばれるガマ。
何かあればガマを射撃する予定だったリボルバーを放し、その指で管を叩く。
アルラウネとイヌガミを有無を云わさず帰還させ、僕は武器も手にせずつかつかと迫った。
襤褸雑巾の様な人体を、確認するかの如く下駄でぐりぐりと踏みつける人修羅。
傍に立った僕を見上げて、無邪気に微笑んだ。
「ライド――……」
その小さくすべらかな頬を、思い切り平手で打ち据える。
たった今、人修羅の名の通りに慈悲も無い暴虐を施していた子供が、容易く弾き飛ぶ。
倒れ込み空を見上げる眼は、何が起こったのか理解出来ないとでもいう様に暫く茫然としていた。
そして状況を解したのか、火がついたかの如く泣き始めた。
凄惨なガマを跨ぎつつ、轟々と治まる様子の無い焔に近付いた。
しゅんとした兵児帯を掴み、無理矢理立ち上がらせつつ、僕は罵声を浴びせる。
「いたずらに手を汚すな!」
「だって、ひっ、うっ、だってぇ」
泣き止まない、寧ろ悪化し、此方の鼓膜まで焦がしそうな嗚咽。
酷い焦燥感が胸を刺す。ふいごとなっても構わない、この口は止まらない。
「君には関係ない事だった……それだというに手出しする必要があるか!余計な恨みを買うな!」
「だってっ……このひと、ライドウのこといじめてた」
「……いじめ、だと?」
「このひとも、ほかのくろいかっこのひとたちも、ゴウトもっ……ライドウなにもしてないのに、いじめるんだもんっ!」
脚が震える、喉の奥が熱い、眩暈がする。
何を云っているのだ、人修羅……功刀、お前は。
「僕は……っ、僕は虐められた覚えなど無い!」
「ライドウしんじゃうまでけんかするなら、やーくんがこのおじさん、おきなくなるまでボコボコするからっ……だから、ライドウいなくなっちゃやだあ、ぅえぇ〜ん」
再び振り上げていた手の行き場を定められず、わなわなと幼い頭に載せた。
硝煙と血とMAGに塗れた指で、子供らしい猫っ毛をくしゃりと掴んだ。
こんな子供からの同情の施しで、僕の自尊心はズタズタだ。腹立たしい、狂おしい。
しかし、この手でもう一度叩けば癒されるのか?
……苛立ちが加速する予感がして、回避した。僕にも明確な理由が分からない。
そもそも、最初に叩いた事さえも……衝動的であった。
「子供が殺しだなどと、生意気にも程が有る。こんな馬鹿な事で……君の矜持を穢さないでくれ給え」
「ライドウいなくならない?けんかはおわり?」
「そうだ、君が殺す必要は無い」
涙をいっぱいに湛えた金色の眼が、くしゃりと撓む。
嬉しそうにひっつき始めた、つい先刻に己を引っ叩いた張本人の脚に。
理解しているのだろうか?いいや、愚図だから、恐らく無い。
「ライドウって、コンノっていうの?そこのおじさんがよんでた」
「耳ざといね」
「ライドウじゃないの?」
「ライドウは職業の様なものだからね」
「しょくぎょう……おしごと?コンノって、やーくんのクヌギとおなじだよね?じゃあしたのなまえなあに?」
刀を拾い鞘に納め、焼け爛れた蔦の結界を抜ける。
置き去った人間達の事は、寺院の悪魔達にもう任せる事にした。
遠巻きに縁側から此方を睨む黒猫、彼への説明も考えなくては。
「ねえねえなまえ」
「煩いねえ、僕は今から再び風呂に入るよ。臭くて敵わないよ全く、蓮の香りも判らぬ程に麻痺してしまった」
「やーくんもはいる!」
「君は汗もかいてないだろうに……そういえば何故、蟇蛙達の中から本物を探したのだい」
「ゲコゲコうるさくておきたらね、いっぱいカエルさんいてね、でもほんとうにないてるのはいっぴきだけだったの。そしたらカエルのにせものいたー」
「あれは本物だよ」
「にせものでしょ?だってカエルさんじゃないもん」
「だから、あれはガマ達の中の本物なのだよ……いいや、もういい。世界広しといえど、しょっちゅう有る事案では無いか」
追及したところで、僕には永劫具わらぬ感覚なのだろう。
人と悪魔の境界をむざむざと見せ付けられる思いに、普段も君が憎々しい。
「でね、オオバコのはっぱさがしたけど、それはみつからなかったの……」
「はあ?何、それは捜してたのかい君?」
「うん、ライドウのいってたふっかつのてじな、やろうとおもったの」
呆れた。あの蛙の総攻撃を受けつつも、そんな事を考えていたとは。
僕を捜していたのも、恐らくはオオバコの葉の在処でも訊ねるつもりだったのだろう。
「おいおい手品じゃないよ……ふふ、ははっ、あっはははっ」
「あーライドウよろこんだ!わーい!」
「馬鹿、今回は相当疲れた。もう夜も終わるから、風呂の後に薬を飲むのだよ?」
「ねえねえなまえ」
「最初に訊かれてから既に述べたよ、二度は云わない」
「えーっ、いついったの?あっ、わかった!“ひろし”でしょ?」
「違う」
薄靄のかかる蓮池と、華美では無いがしっとりと趣の有る寺院。
避暑地の様な其処で目覚めたは良いが、記憶が飛んでいる。
以前、賭け麻雀で飲む羽目になった件を思い出させる……これは二日酔いの類の頭痛だ。
『大変申し訳ありません、陰陽を調整した酒が荒らされてはいけないと思い、そちらの防衛に手一杯でした、育児放棄ではありません』
謎の謝罪を繰り返すオオクニヌシを後にして、夜明けの竹林に踏み入れる。
里周辺もそうだが、こんな同じ様な風景ばかり……何故ライドウは平然と進むことが出来るのか。
ぼうっとしていると、自身から蓮の香りがする気がしてならない。
「というか、なんで俺は裸一貫なんだよ。あんた俺に何かしただろ?」
「失敬な、治してやっただけだよ?」
「何をだよ、記憶が途切れ千切れで……ヤタガラスの連中に囲まれてた気がするんだけど、どうなんだ?」
「蛙には囲まれていたね」
そう云われると、そうだった気もする……が、この男の都合好く運ばれているに違いない。
突っ掛け代わりの小さい下駄と、着物は明らかに子供のサイズで上っ張りにもなりやしない。
仕方が無いのでライドウの外套を借りはしたが、こんな変質者の格好で外を闊歩し続けるのは御免だ。
「ゴウトさん、事情を説明してくれませんか」
『……まあ、いつもの通りお主はよく泣かされておったわ』
「ちょっと説明になってないんですけど」
『寧ろ我が訊きたいわ、あれから如何様に経緯を踏めば可愛気が失せるのか……』
何故か溜息を返される始末、俺が何かしたのか?
暫く歩いた先、やや開けてくるとライドウが管を光らせた。
黒塗りの車が召喚され、助手席がタクシーの様に自動で開いた。
ライドウの仲魔のオボログルマだ。雑魚の様にボロくない、どちらかといえばヤクザっぽい。
見た事は有ったが、乗せられるのは……実は初めてだった。
運転席にはライドウが乗り、走り出せばハンドルを握っている。
この男、車も運転出来るのか?まあ、今更驚きもしないけれど。
「こんな竹林の中、車で走って平気なのか?」
「少し揺れるがね……君があまりに不埒な格好なものだから、これで送ってあげるよ」
「いや、だから俺には覚えが……っツ!」
「ほら御覧、だらしなく喋っているから舌を噛んだろうに……はい」
ぽい、と投げられたのは飴玉……ではなく、金丹。
何だ?この出血大サービスは。俺の口内は事実、出血中だが。
訝しみながらも口に放り、舌上に転がしてみる。
甘い……人修羅になってからも、これは間違いなく美味しいと感じられる。
血の味は即刻失せ、甘露な風味が心身共に俺を癒す。
「なあ、何で下駄も着物も小さいんだ?子供用だよな……兵児帯も結び癖がついてる、胴がかなり細い」
「僕の子供時代ってのは君、想像出来るかい?」
「はあ?何で唐突にあんたの話になるんだよ……」
幼いライドウ……は、ライドウでは無いのだろう。
襲名したのはここ最近らしいし、それまでは名前で呼ばれていた様子だし。
いや違う、こいつが訊いているのは、多分そういう事じゃない。
無邪気とか、引っ込み思案とか、やんちゃとか……そういうイメージの事だろう。
流れ往く緑が、ストライプからボーダーになる。竹林を抜けて、一気に田園や棚田に変わった。
陽射しが眩しい。朝になりたての、夕日の色に近いそれが眼を刺す。
窓硝子に反射する自分の眼が金色に見えて、しっかり擬態出来ているか不安になる。
「……駄目だ、今のあんたがそのまま小さくなったのしか想像出来ない」
「フフ、だろうね。僕もそうだったよ」
何だ今の過去形は。
いつも通りの哂いを湛えて、ライドウは胸元のホルスター裏から煙草を一本抜き取った。
呼吸の様に俺が魔力を吹きつけようとすれば、何故かライドウは立て続けにマッチを取り出した。
喫茶店の銘が入ったパッケージに擦り付けると、車内で一瞬影が踊った。
「何あんた、律儀にマッチで着火してんだ……」
「……ああ、そういえばそうだね。そういう気分だったんじゃないのかい」
窓を大きく開かせると、煙草の先から紫煙が逃げていく。
茜の空に解けゆくそれが雲に見え、今が実は夕刻で……これから夜になるのではないかという錯覚を抱く。
「薄気味悪い。さっきの金丹も毒が入ってるんじゃないのか?」
「もう食べてしまったろう?遅いね、先刻受け取った時点で疑うべきだよ」
「そしたらあんたをボコして、解毒符を道具袋から漁ってやる」
「同じ事云ってるし……参るね全く」
「おい、何だよさっきから、どうして俺ばっかり溜息されなきゃいけないんだよ」
「さてと、90km/h出るか挑戦してみるかね。暫く直線だし、この時間帯ならば轢いても鈍間な悪魔だろう」
恐ろしい事を云い出したライドウが、宣告の通りにアクセルをベタ踏みする。
背後の席でゴウトが丸まって、既に諦めた気配を醸し出していた。
「ふざけるな、この悪魔が止まれなくなる可能性だってあるじゃないか、機械とは違うんだぞ!」
「だって君の望み通りだろう?何が不満なのだい、我儘だねえ」
「はぁ!? 」
「しっかりお薬飲めたからね、約束通り全速力で疾走してあげるよ」
意味不明な供述に眩暈がする。
ライドウは煙草を吹かしつつ、ハンドルを片手に哂うだけで。
「それとも、もっと具体的な御褒美が良いかい?」
「なあ、さっきの薬って何の話だよ。俺、何かやばいの飲まされたのか?おいライドウ」
「やばいのを飲まされたから、薬を飲んだのだよ。そうじゃなくてねえ、MAGが欲しくないのか僕は訊いているのだよ功刀君」
「なに両手外してるんだよ!ちゃんとハンドル握れよ!シートベルト外すなよ!」
「オボログルマ、直線の限り真っ直ぐで宜しく」
「悪魔任せにするなよ、信用出来ないそんなの、おいっライド――……」
助手席の背凭れが倒され、下敷きになったゴウトの「フギャッ」という悲鳴がした。
それを気にも留めず、覆い被さってきたライドウ。
「な、なにしてんだあんた、こんな所で不潔だ」
「野外でも無いだろうに、何を恥じらっているのだい」
「ざけんな!車も猫も見てるだろうがっ!」
「車も猫も喋らないから吹聴もされないだろう?問題無いではないか」
「こいつらは別だろっ!」
「煩いねえ……この数日間、蹴れないわ突っ込めないわで苛々しているのだよ」
「俺の記憶が無い期間、あんたと喧嘩でもしてたのか?」
「おいおい君、喧嘩なんてしていない日が無いではないか」
外套の中はほぼヌードなので、この状態で拒絶しまくる俺が滑稽だ。
苛立ちの原因が俺というのも理不尽な気はするが、こいつが俺を苛むなんて思えば日常茶飯事だった。
「本気で嫌がる君が良いよねぇ」
酷くサディスティックな台詞を吐き捨て、燻る煙草を片手に哂うライドウ。
サマナーというよりは、こいつがデビルの方だろう。
「さ、何処で揉み消して欲しい功刀君?金丹もあげた事だし、舌で良いかな?」
罵倒に口を開けば、見計らったかの様なタイミングで突っ込まれる煙草。
のたうつ身体はがっちりと羽交い絞めにされていて、シートに響いただけに終わる。
「フッ……フフ、久々でゾクゾクするよ……やっぱりその眼が好きだよ、矢代」
「はッ、あぶっ、ン」
一番忌々しいのは、己の身だ。名前と舌で意識を逸らされ、MAGに帳消しされる痛み。
確信犯、性悪、サド野郎……十四代目葛葉ライドウ……
……紺野夜
どちらかが死ぬまで喧嘩は続くのだろう。
子供の喧嘩の様に「おしまい」で片付けば、死よりも早く楽になれるのに。
霊酒つくよみ(後編)・了
↓↓↓あとがき↓↓↓
つ、疲れた……最後は結局カーセッ久かよ、という。
あとがきは後日、気が向いたら書きます。新刊の原稿にようやく着手!(注※締切まであと一週間)