熱にぼんやりした鼓膜を、冷涼な一滴が打つ。
導火線が如く燃え広がり、焔の路と化した絨毯の上。黒い影が此方に向かって来るのが見えた。
一定の間合いを取った上で、立ち止まるそいつ。
「でも、まだまだ飲めるだろう?」
葛葉ライドウ、と脳内が認識する。どう動くべきか俺が思考したその一瞬、既に黒い影は行動に移っていた。
外套から取り出す何かを、思い切り此方に投げ放ってくる。
思わず頭を庇うが、何かが砕ける様な音が次々にするだけ。続いて、鼻を衝くのはアルコール臭。
『ムハァ、コレ、ハ』
『イカン…クルゾ、クルクル』
ぐらんぐらんと、残っている首が鉄輪の残骸に寝そべる。再生途中の首もその影響か、治りを停止させてしまった。
腕の隙間から覗き見た首の様子に、防御姿勢を解く俺。
次の瞬間、眼の前で垂れていたその首が飛沫を上げて真っ二つになる。
「弱点属性の酒は、悪酔いするのだよ」
述べた後、残りの首をあっという間に斬首するライドウ。
足元を見ると、銘酒らいでんの砕けた酒瓶が散らばっていた。
「流石はヤマタノオロチ、体躯の割には酔い易いねえ……おいアルラウネ、熱燗の気分じゃない…流石に咽そうだ」
『任せて頂戴、冷酒ね、んふふっ』
ひとつ唱えたライドウの声に、追従していたアルラウネがマハ・ブフを放つ。
絨毯は赤から白になり、熔けたシャンデリアの激しい灯も鎮火した。
俺の脳内も、急速に冷え込んだ。いつの間に居たんだ、ライドウ…
「…どうして、あんたが此処に」
「モー・ショボーが飛んで来たのさ、屋敷が燃えていると伝えにね」
そうだ、モー・ショボー…すっかり存在を忘れていた。
血振りをして納刀するライドウの背後で、こそりこそりと顔を覗かせる凶鳥。
『やんっ、もーヤシロ様ったらあ…やっぱりダ・イ・タ・ン』
手袋で顔を覆っている素振りから、首を傾げそうになって自身を見下ろす。
「げ…っ」
思わず声を上げた。身に纏っていた着物は完全に襤褸切れと化し、殆ど炭化している。
下着まで侵食していたのか、本当に全裸に等しい状態ではないか。
アルラウネは平然としているが、俺はお前の様に常時裸では無いのだ。
『あらショボー、滅多に見れないんだから指摘せずに黙って拝んでおくべきだったのよ?お馬鹿さんね』
『だってえ…恥じらう姿も、ス・キ』
そんな事を云いながら、ちゃっかりと手袋の隙間からガン見しているのが丸判りだ。
どうする、どうすれば良いんだ?身体を手で覆うだなんて、仕草を考えただけで虚しい。
「そんなに暑かったのかい功刀君、ま、それはそうだろうねえ…こんなに燃やしてしまっては――」
文句されてもお構いなしだ、とにかく今は剥き出しの肌を隠したくて、他に何も思いつかなかった。
嘲笑しているライドウの言葉が終わる前に、その胴体を抱き込んだ。
これが一番安全な方法だ、ライドウの両腕を抑え込む様にして抱き締めてしまえば、攻撃は防げる。
胸元の管も抜けない、攻撃こそが最大の防御だ。
「…何、してるんだい君は」
ちら、と上目に確認する。ライドウの眼は哂っていない。
「あんたで身体隠してるんだ、悪いか?」
別の意味に捉えたアルラウネとモー・ショボーがてっきりきゃあきゃあ黄色い声でも上げるかと思っていたが。
水を打った様に静まり返っていた。ブフで冷え込んだ空間の影響か?
「……悪いよ。僕はね、抱擁が嫌いなのだよ功刀君!」
突き飛ばされ、ヤマタノオロチの亡骸に突っ伏した。
ばさりと被せられた外套を捲って、ライドウを見上げる。
冷たい視線だった。位置的な事もあって、見下されている。
「されるくらいなら、それを貸した方がマシだね」
白檀の匂いがする、香の様なそれは脳に澄み渡る。
鎮心の作用があるのだと、そういえば何かで読んだ…この香り。
「最悪……」
起き上がって、立ち上がった頃にはすっかり興奮状態が治まっていた。
周囲の焼けた跡も、下にあるシャンデリアも、戦っている最中は何も気に留めなかった。
ヤマタノオロチの眼球も、自身の破れた肉体も、今となっては気持ち悪い。
何よりも、ライドウに抱き着いた事実が一番…今の心を抉っていた。
「うっひゃー…こりゃあ結構修繕にかかりそうだな」
「…すいません」
「どうして矢代君が謝るのさ!命有っての、だろ?今は身体を治す事だけ考えていれば良いんだよ」
煤けた屋敷をぶらり、散歩がてらに見に来た鳴海。
「清掃中に悪魔に襲われた」という説明をしてある、つまりこの焦土が人修羅の責任だという事は一切知らないのだ。
人修羅は余程戦いに興じていたのだろう、欠損箇所を更に傷めつける戦い方をした所為で、治りは遅かった。
ヴィクトルに手術させれば即完治する処も、僕が許さなかった。
傷の治りが早いので、おそらく勉強にならぬのだろう。そう託けて、この度は放置してやった。
「うーん…特にこの、シャンデリア…だった物なんか、同じ様なのはなかなか見つかりそうにないからなあ」
熔けただけでは無く、その上で人修羅とヤマタノオロチが揉みあったのだ。
酷く歪なそれは、円だった事すら察し難い形状に変貌していた。
「鳴海所長、悪魔も居る事ですし、暫くは僕が中も巡回しましょう」
「ん、そうだな…空き巣の死骸が転がってたら不味いもんな。矢代君にまたお掃除頼むにせよ、屋敷内の治安確保は絶対だし」
鳴海が気遣う程に、人修羅の表情が翳るのが面白い。
「大道寺さんも、もしかしたら帰ってくるかもしれないしなあ。出来る限り元に戻さないとな、まずは金王屋の主人に骨董の部類を――」
「帰ってくるんですか」
「え?」
包帯だらけの手を着物袖から覗かせて、袴を握り締める人修羅。
鳴海に問い詰める眼が、今にも金色に光りそうで…思わず見つめてしまう。
「此処の家人、帰ってくるんですか」
「…いや、どうだろうな…色々あったから…なあ?ライドウ」
鳴海は、人修羅に問い詰められる理由を恐らくはき違えている。
人修羅は、責任の所在の為に家人の動向を知りたいのでは無い。
「そうですね、いずれにせよ再び此処に戻られた際には、謝罪も兼て僕は挨拶に参りましょう」
「どんだけ先になるか分からないけど、伽耶ちゃんまた髪伸びてるといいなー」
「フフ、それは所長の好みでしょうに」
「お前は短い方が好きなの?」
「さあ?別に僕は、彼女が短髪だろうが長髪だろうが…」
突き刺さる視線が心地好い、人修羅の眼光で肌が痺れそうだ。
「そんな事は関係無いですよ」
愛おしいから、では非ず。
無関係なのだ、実際。彼女は彼女、大道寺の令嬢だという認識しか無い。
それ以上も以下も無く、更に僕には色恋の趣味も無い。
同年代の女学生なぞ、好色悪魔の餌食程度にしか捉えられない。帝都守護という任務においては、注意点のひとつなのだ。
「んじゃ、俺は帰りがてら金王屋寄って交渉してみる」
「ツケを請求される覚悟ですか?」
「残念でしたー最近ちゃんと支払ってるんだなあ、これが!わはは!」
残念ですが鳴海所長、僕が咄嗟にかっぱらってきた《銘酒らいでん》八本分の支払いを云われる筈です。
とは、口にせず見送った。
『ねえねえライドウ、お掃除どうしよっか』
先刻から鳴海が視えぬのを良い事に、天然パーマの上でクルクルパーの仕草を繰り返していたモー・ショボー。
ぱたぱたと僕の傍に来て、首を傾げる。
「とりあえず煤を掃う。地下は僕が見よう…召し寄せ易い力場と化している可能性がある」
『びっくりしたよもおー!まっさかヤマタノオロチとか!あっ、でもでも!ヤシロ様の暴れっぷりにショボーカンゲキ!』
悪びれもせずに傷を抉る、流石は僕の仲魔。
拗ねた様な顔をした人修羅。先刻まで刺すような視線を呉れていたのに、今は逸らしている。
『あっ、そだコレ』
徐にコートから何かを取り出すモー・ショボー。それを受け取り、表紙を眺める。
「小枝にしては大きい」
『ちっがーう!物置の本棚から抜いたやつ、まだ持ってたの』
「くすねたのかい」
『後で読もうと思って抜いたの忘れてたや、でも本棚燃えちゃったし、どうしよ?』
「僕の書棚に保留させておこう。此処の修繕が済み次第、戻せば良い」
『はーい!一冊救ったショボー偉い?』
「偉い子は調度品を割らぬ」
『……で、でもシャンデリアは違うよ!』
「そうだね、シャンデリアに乗っかって遊ぶなど…随分と躾の悪い悪魔も居たものだ」
怒りか恥か、袴を握り締める指先が震えているのが見えた。
包帯の白、濃紺の袴の上でよく目立つ。
「ではモー・ショボー、煤掃い宜しく」
『ええっ、埃よりも煙たいよおライドウのいじわる』
「まだ隠してない証拠品が、ちらほらと有るんじゃないのかい…?」
ニタリと哂ってやれば、あっ、という顔をして身を翻す彼女。
脱兎が如く飛んで往くその反応。それが自ら証拠を露呈しているというに、流石は幼稚な頭。
「読むかい?功刀君」
受け取った絵本を差し出す、彼の視線が表紙を撫でた。
「絵本だろ…」
「心優しい夫婦が、人魚の赤子を拾う話さ」
「人魚が恩返しでもするのか」
「そう、人魚の娘はとても素晴らしい蝋燭を作る、夫婦の生活も幸せなものとなった。しかし、行商人に売られてゆく」
「蝋燭じゃなくて、その娘が?」
「そう、異形の者は不吉だと、そしてコレが決定打さ」
親指と人差し指で輪を作って、軽く眼前で振ってやる。
「金かよ」
「そう、人魚は見世物の檻に入れられる事となった訳だ、そして異形の怨念か…町も滅ぶ」
「嫌な話」
はらりと中を覗いて見る。綺麗な表現は童話のそれだが、皮肉にも感じ取れる文面に思わず哂った。
「“人間は、魚よりもまた獣物よりも人情があってやさしいと聞いている。私達は、魚や獣物の中に住んでいるが、もっと人間の方に近いのだから、人間の中に入って暮されないことはないだろう”…だとさ」
人間に近い形の人修羅が、苦い顔をしていた。
モー・ショボーもよりによって、なかなか面白い本を手にしたものだ。
此処の令嬢も、これを読んだのかと想像すれば…これまた哂いが唇を吊り上げさせた。
「町も滅んだ、生まれ故郷の海とて見知らぬ地。帰る場所くらい保留しておけば良かったのにねえ?」
「あんたなら、帰るのか」
「さあ?故郷というものに覚えがない」
あの里だと思ったのか?それは論外だ…と、わざわざ発する事もしなかった。
育った記憶は確かにあそこに有る、だからこそ壊したいのだが。
「君は帰りたいかい?未来の東京の、あの家に」
「…休憩地でしかない。母親も居ないし、あの状態は本来の俺の家じゃない。帰る場所作る為に、こうして使役されてるんだろ…」
「ならば功刀君、尚更この屋敷は直さねばならない。ふらりと帰って来た時に、荒れていては可哀想だろう?」
「どうして俺があんたの面子立てなきゃいけないんだよ」
「帰る家を正常にしておく気持ちが理解出来ない?では、先刻の君の言葉は嘘になる」
絵本を外套の内側に仕舞い、再び苛立つ人修羅に歩み寄った。
「で?僕の趣味が悪いって?功刀君」
「そんなの普段から云ってる、あんたが悪趣味だなんて――」
「では、男性の趣味は良い?」
人修羅が、タマタノオロチに向かって叫んだ罵倒を掘り返す。
何を指しているのか、ようやく感付いた彼が少し耳を染めた。
「…し、知るか…そんな事」
「悪魔の趣味は?」
「だから、知らないって云ってるだろ!」
「君は何処に該当するの?」
いよいよ無言になる人修羅。その反らされた顔をぴしゃりと叩いて、此方を向かせる。
「弱点を突き給えよ、マガタマが有るだろう。火炎一辺倒かい、まるで馬鹿の一つ覚えだ」
「…吸収と無効はされていなかった」
「そうして無駄に消費した分は、僕のMAGで補充かい?良い御身分だね。屋敷も焔で舐める様に清掃してくれたし?」
あの時、屋敷に立ち入った瞬間懐かしい臭いに胸が焦げた。
何も厭わず全てを焼き殺そうとする人修羅の姿を、久々に見たのだ。
「燃えても…構わなかった」
ぽつりと零す人修羅。
「…俺がどうしてあんたの女性の家、掃除しなきゃいけないんだって、もう…少しぐらい燃えてもいいと思って…」
この家の令嬢を、僕の女だと?それは愉快な誤解だ。
「だから“やいた”の?」
小さく頷いた人修羅だったが、は、と眼を見開き僕を睨む。
「妬いて無い!」
「焼いたの?と訊いたのだよ」
「どっちだ、字にしなきゃ判別出来ない」
「さあ?」
「はぐらかしてんじゃねえよ!この性悪っ」
拳を振り上げる人修羅だが、包帯の所為か、やや鈍い。
抑制された動きは読み易く、軽く躱してその背後に回る。
革靴のヒールが焼け焦げた絨毯を引き裂いたが、気に病む事でも無い。
背後から抱きすくめる。腕を同じ様に捕えて、攻撃を封じてやった。
そう、僕が封じる側ならば、構わないのだ。
人修羅の声が瞬時に竦んで、息を殺すのが触れる身から感じ取れた。
赤い耳朶にかすめる吐息で、詰る。
「全焼くらいさせてみ給えよ、その程度しかやけなかったのかい?」
擬態している項は黒い突起も無く、白い肌を晒しているが…唇で触れると酷く熱い。
「…あんた…は、どっちに対して腹立ててんだ」
「さあ…」
また此処で、裸に剥いてみようか。そうすれば、人修羅の方から抱き着いてくるのか?
あの瞬間、僕は酷く鳥肌が立ったが…同時に妙に浮足立った。
興奮状態の人修羅のイチモツが、僕の学生服の腿を圧迫していたのだ。
もしかしたら、こいつは憶えていないかもしれない。あんな状態で抱擁してくるなど、普段と羞恥の焦点がずれているのは明らかだった。
しかし、今は素面…さあ、どうなのだい。
「MAG切れの君は使い物にならない…仕方無く、僕は注ぐしか無いという訳さ」
「今からしても良いなら、やる」
「此処で今すぐ、良いの?フフ…」
屋敷全焼させる事なのか、MAGを呑む事なのか、君だってどっちを指しているのかハッキリし給えよ。
強張りつつも、少し顔を振り向かせる君は眼が蕩けている。
かなり消耗したのだろう、胎を空かせている事が判る。サマナーのMAGを吸いたがる悪魔の眼だ。
「帰る場所を燃したところで…僕が相手を追って去ったら、君、どうするのだい」
「あんたごと燃やしてやる」
「半端な燃焼ならば、的殺で殺してやるからそのつもりで」
どちらか試そうか迷ったが…
階段の上で此方を睨む黒猫と、身悶えしている凶鳥を視界の端に捉えて、MAGの接吻だけに留めた。
妬け野原・了
↓↓↓あとがき↓↓↓
冒頭の文は小川未明著:赤い蝋燭と人魚(大正10年)
青空文庫で読めます。
燃やしてしまっても構わなかった、と思いつつ…身勝手な暴走と嫉妬している自分に自己嫌悪する人修羅。
叱咤はするが、別に燃えても構わなかったという本心のライドウ。
中途半端に残る理性が壁。大道寺家の令嬢は、人修羅が勝手に色々想像しています。
因みに白檀の香りは、鎮心だけでなく催淫の効果もある。
勃起状態で抱き着いてしまった事実は、人修羅の黒歴史になるでしょう。
突然の抱擁され一瞬隙だらけになった事実は、ライドウの黒歴史になるでしょう。
最後のいちゃつき展開は、このサイトの黒歴史になるでしょう。