阿闍世のリビドー
「げっ…え、ぅぇええっ…」
こみ上げる胃液、口内は云う程酸っぱくない。
普段から消化する物は少ないからだ。
『矢代様…』
背後の声に、振り向かず、前傾姿勢のまま手を上げた。
「手伝いなら、結構…っ…」
『ですが、御気分が優れぬ様を放っておくのは』
「主人の命令に反する、ですか」
相変わらず撥ねる様な俺の云い方に、パールヴァティは動きを止めた。
そう、それで良い、だって悪魔は嫌いだから。
口を拭って、瓦礫を歩く。
足の下でパキリ、と音を立てて小枝が折れる。
いや、白い小枝は人骨だ。
悶々と立ち込める熱が、この身体でも感じられる。
どうせ周囲に生きている人間は殆ど居ない、擬態はせずに歩いていた。
『酷い有様ですわ』
「別に、人間なんてどうでも良いんだろ…あなた等は」
『何者であろうと、理不尽に屠られるのは痛ましいですわ』
「はぁ……女神っぽい、ですね」
微妙に嫌味な俺の言葉も、その女神は困った様に息吐いて流した。
遠くまで、陽炎の様に空気が、景色が揺らいでいる。
空に稀に見え隠れする黒い影は、一瞬カラスにも見える。
胃液濡れの口を漱ぎたいので、井戸を探すが
そんなのは既に崩落していて、埋まっていた。
川にも死体が泳いでいて、そんな水を身体に入れる気はさらさら無かった。
「功刀君」
声の方向を仰ぎ見ると、黒い外套を無風の戦場にはためかせる男。
「さっさと見つけろよ、何探してんのか知らないけどさ…」
「君がその偽善的な感情で散策していたのが悪い」
「だってさ…息の有る人、もう少しは居るかと」
「フ…その姿の君を恐れて、逃げるか罵倒でもするだろうさ」
ライドウの台詞に、俺の斑紋が苛立ちを隠せず脈動した。
そんなの知っている、俺がどう足掻いたって、悪魔の姿をしている事実。
「そもそも、助けてどうする?眼の前で絶えそうな者を救うなら話は解るが…率先して人命救助なぞしていたら、どれだけの日数がかかる?」
「俺達、時間なんていくらでも」
「僕等の時間は止めてあるだけだ、無駄に割くのは止してくれ給え」
その“無駄”という単語に、カッとなって傍の岩を蹴り上げた。
人間には簡単に持ち上げれない程度に大きな、その岩。庭石だろうか?
それが宙で割れて、隙間から刀を振り上げたライドウが覗いた。
軽々と一閃して、俺を嘲笑っている。
「教科書で見た戦争とは違った?功刀君」
「…っるせぇよ……あんた」
脳裏を過ぎっていた感情を云い当てられ、釈然としない。
「きっと、その力を行使して人助けすれば贖罪にでもなると思ったのだろう?」
云いながら、半壊した建造物から飛び降りてくる。
着地して俺に歩み寄って来るライドウの背後で、建造物が崩落した。
砂塵に紛れながら、俺の眼の前で止まった。
「この辺で消息を絶ったそうだから、まだ探る」
「…」
「のこのこついて来たのなら…少しは役に立ち給え」
気付いたら、膝を折ってうずくまっていた。
「が…っ、ぁ……は〜っ…はぁ…っ」
先刻突っ掛かっていた胃液が、全て出た。
恐らく、胎に膝を入れられた、でもあまりに一瞬だった。
(あの野郎…一瞬、眼が光った…)
俺の与えた悪魔の力で、俺を攻撃するその神経。
あまりに非道で、冷酷。
「ほら、カラスの死骸が腐敗する前に」
振り返り、続けた。
「僕等の里から出た者は、死骸だろうと回収せねばならぬ」
まだ方々で煙が立ち上る地獄の中、ライドウは死神の様だ。
「脳から情報を盗られては困るのでね…たとえ離里し、系譜から外れていたとしても、だ」
強く云い放つ、その眼は真剣だ…
「…んだよ…っ……それ…」
理由が理由で、辟易する。
「ほら、君でも瓦礫を退かす程度は出来るだろう?尽力し給えよ?“人助け”をさ」
哂ってライドウが、前方を駆けて行く。
外套から覗いた、腕の腕章は“サマナー枠”の証。
『矢代様』
「手伝いなら…っ……」
また同じ事を女神に云ってる俺は、どこか滑稽だった。
第二次世界大戦
予定調和みたいに、それは普通に訪れた。
俺は知っていたし、簡単にそれを避けられるとも思っていなかった。
歴史の大きな改変は、そもそも不可能らしい。
そういうものだとルシファーは云っていた。
ライドウも、口裏を合わせた訳でも無いのに、そう云って哂っていた。
ライドウと、ヤタガラス…下里の一部のサマナー達。
彼等は“サマナー”として戦場に駆り出されている。
一般人における“徴収兵”とは違い、比較的安全。
前線で砲弾も火も浴びる一般兵士と違い、日陰で働くからだ。
要人の守護、スパイの炙り出し…
捕虜の脳内を探ったりもするらしく、なかなか趣味が悪い。
…ライドウは、里への干渉を軽減させる為に、率先して軍部に取引を持ち掛けた。
外界の激動に、翻弄されない為の…狡猾な逃げ。
「あんた、勝手に動いて大丈夫なのかよ」
前方の焦土の海を泳ぐライドウに、呼びかけた。
「今日にでも戦の終結が云い渡される筈だからね…少しばかり早めに自由行動させて頂いている、それだけさ」
「日本の負けって、そんなの一目瞭然なのに…こんなだらだら続けて、馬鹿みたいだ」
「僕等サマナーは云われた仕事なら完遂した…軍に文句は云わせぬよ、フフッ」
「あんた、自分の護った帝都がこんな結末を迎えて、嫌にならないのか?」
一所に留まり、じっと山になった死体を眺めているライドウ。
視線を逸らさずに返してきた。
「これが帝都の歩む道なれば、見届けるまでだ」
「アカラナの砂時計で、もう見知ってたんだろ?」
「そうだねぇ、断片的に、ではあるが」
外套を翻し、MAGの光を陽炎に融け込ませる姿。
相変わらずこの男の召喚姿は、華麗で腹立たしい。
「出でよ、矮小なる神の遣い」
管から呼び出されたのは、ヤタガラス。
一声甲高く啼けば、それが合図となり方々から黒い影が群れて来る。
「其処なる山は我等が同胞の所属する隊だ…」
肩に召喚した一羽を停まらせて、俺に云っている…のだろうか。
向き直ったライドウの横顔が、冷たく哂った。
「馴染み深い屍肉を漁り出し給え」
その号令に、ヤタガラス達が一斉に山を啄ばみ始めた。
食べてはいないが、啄ばんでは崩し、放り投げる。
粘着質な着工音に、思わず眉を顰める。
放られて、俺に飛んできた一体を横に薙ぎ払った。
受け止めずに、そうする俺も共犯者だろうか。
いや…もう亡くなっているんだ、まだ…赦される。
クチバシの先端を白く皮脂で濁らせたヤタガラス達。
山の半分まで削り、各々が動きを停滞させ始めた。
ライドウの召喚したメインのヤタガラスが、引きずり出すそれ。
山の頂に跳躍したライドウが、足下をじっと見つめていた。
「…違いない、御苦労」
掴んだままだった管をひと回し、指で弄ぶと
ヤタガラスは黒い羽を散らし還っていった。
「運ぶよ」
適当な蛮力属を見繕うライドウを見て、まるで物でも運搬するかの様な発言に苛つく。
「いいよ!俺が担ぐから…」
何となく腹立たしくて、その頂に俺も飛び立った。
着地する瞬間の靴底の感触が、重苦しい。
ライドウの視線の先を追えば、まだ年若い青年が埋もれていた。
「機銃掃射でも喰らったか…穴だらけだよ、それでも担ぐかい?」
「…別にこの人だって、望んでこうなった訳無いだろ」
腕を突っ込みその身体の下から持ち上げる。
襤褸切れになった兵服が錆色に濁って、まだ乾ききっていない。
「人間が人間殺してる方が、正直多いと思う」
呟いてライドウの後に続く俺。
『悪魔が人様を憎むのは、そう多く無いですわ』
女神の言い分に、やはり同種族における争いがこの世の常と思い知る。
腕でしっかり支える、肩の死体。
そう、国の為、なんてのはその瞬間を逃れる為の言い訳で
本当は誰も前線に行きたい筈無いってのに。
「どうしてこの人、サマナー枠で出兵しなかったんだ…」
『離里してますわね、先刻のご主人様の口調からすれば…』
「あの里、別に好きじゃないけど…そういう恩恵だけは受けれますよね」
『まあ矢代様、今更ですわそんな事』
「世界から隔離されてる、やっぱあそこだけ時間が停滞してるんだ…」
パールヴァティとのやり取りに、前方のライドウが振り返った。
俺を見て、哂っている。
自然と身体が熱くなり、睨んで返す。
「…何」
「その死体の子…君は判らぬのかい?」
「この人…?いいや、俺は知らないけど…」
子、なんて表現する辺り、ライドウの実年齢を意識する。
そうだ、考えてみれば本当はあの男、三十路超えなのだから
確かにそのライドウからすれば、青年でも子かもしれない。
葛葉の血と、俺の生んだ身体で、あの時から殆ど老いぬ見目が哂う。
「僕がその子の名付け親だよ…」
ライドウの、その言葉。
死体を掴む腕が、震えた。
相当幼い年齢の筈じゃないか、この死体…
どうして徴兵された。どうして青年なのだ。
いいや、そんな事より、今この瞬間脳裏を駆け巡るのは…
里もまだ若い頃の、あの出来事だった。
(まだ、微妙に暑い…)
残暑が日中は尾を引いている、この時期。
人の成りをして下里を歩く。
すれ違う人達は、俺を見て会釈なり道の端に退いたりする。
それが疎ましくて、本当は此処を歩きたくない。
(くそ、何処行きやがった、あの野郎)
心の内で悪態を吐き、微かに脹らんだ胎を見下ろして気が滅入る。
身篭って、こうして里に居る訳だから、俺としてはさっさと出して男に戻りたい。
のに、ライドウの野郎は上里から姿をくらませた。
行き先も告げずに消えられては困る、さっさと出させろ、胎のお前を。
「ほぎゃあ」
ぴたり、と脚が止まった。
今、まさに通過せんとした家屋から聞こえた声。
(赤ん坊の声か…)
胎に抱えているというのに、まるで無関係な様に聞こえる。
ちら、と覗けば、開かれた玄関口に並ぶ靴達。
そのひとつに、見覚えがあって思わず駆け寄る。
綺麗に磨かれた、黒く艶やかな、ヒールのやや高めの革靴。
でも、勝手に上がれる程、俺も大胆不敵では無い。
その革靴をじっと見つめて固まっていると、廊下に出てきた人影。
「ひ、人修羅様…!どうしてウチなんぞに!?」
「あ、いえ、その」
「十四代目でしたら来て頂いておりますよ、あれ?違います?」
「違わなく、無いですけど…」
自分でもよく分からない返答をしている。
「いえ、それが産婆が最近丁度亡くなったので、十四代目にお願いしまして」
「は!?あいつが産婆の真似事ですか!?」
「いえいえ!!パールヴァティ様が出来るらしいんで、手伝いにきて頂いたんです」
「あ、パールか……」
一瞬異様な光景が浮かんだが、あの女神なら違和感が無い。
それはそうだ、俺の初出産だって、あの女神が仕切った。
だからといって太鼓判を押すなんて、御免だが。
「そんな玄関に立たせておく訳にはいきませんよ、ささ、お上がり下さいな!」
「…ライドウに用件伝えるだけですけど、少し失礼します」
人の良さそうな家人に続き進めば、赤ん坊の声が近くなってくる。
ほぎゃほぎゃと、不安定なその声に胸がざわつく。
障子越しに、そのふわりとした泣き声とは違う声が聞こえてきた。
「隔たってる、まぁ、僕が云えた事では無いがね」
「そ、育つのでしょうか」
「何とも云えぬね…まあ、産声が上がったのだし、そう悲観する事も無いだろう」
ライドウの声だ。
「で、其処の君、突っ立って無いで、さっさと部屋に入るなり退くなりし給え」
その台詞が、俺に云われているのだと気付くのに、やや要した。
「失礼します」
障子を横にするすると開いた。
上体を起こした女性の胸元で、柔らかそうな生物が眠っている。
もう声がしないと思ったら、眠りについたのか。
「修羅様まで、ああ、すいません、こんな姿で」
恐縮する女性の布団の傍に、座り込む。
「いえ、その…お、おめでとう御座います」
こう云っておくべきなのだろうか、多分そうだろう、出産は本来お祝い事だ。
そう、本来。
はにかんだ女性が、汗もひいたのか、涼やかな…
それでいて晴れやかな表情で、胸に抱く赤ん坊をゆっくり揺らした。
「いえぇ、女神様に抱き上げて頂けて、この子もきっと嬉しいです」
幸せそう…だ。
「パールヴァティは居らぬ、もう上に帰ってもらった」
俺の思考を読んだかの如く、女性の傍に正座するライドウが発した。
「あんたも親子水入らず邪魔してないで、用が済んだなら帰れよ」
「おや?主人の僕を探しに来たのでは?」
「“亭主元気で留守が良い”」
「何だいそれ、ククッ…君が考えたの?」
「違う」
それだけ云って、俺は立ち上がろうと膝に手を置く。
あ、と気付いた女性が俺を見つめた。
「お待ち下さいな、どうか抱いてあげて下さいまし」
そう云いながら、中途半端な姿勢の俺に
胸の、そのふわふわした生物を寄越してきた。
ぎょっとして、でも受け取らなければ落ちてしまいそうで
思わず腕を差し出した。
「ちょ…っと、待って下さい、俺は別に」
「何だか抱きたそうな眼をしていらっしゃいましたから」
「そんな!貴女の勝手な…」
そこまで返した瞬間、びくん、と腕の中で震えた。
「ぇぅ…」
皺っぽい眼元を微かに開いて、その小さな口を魚みたくぱくぱくさせて。
「ぁぁ〜」
起きてしまったのか、そして突如泣き出したその生物。
「ま、待って、待ってくれって…」
気が動転して、眼の前の女性に救いを求める様に視線を送る。
すると、知ってか知らずか、ただただ笑っている。
(どうすりゃ良いんだよ!)
兄弟も居なかった、一人っ子で親戚付き合いも一切無かった俺には未体験ゾーンだ。
「おいおい、赤子をあやす事すら下手なのかい君は」
向かいから哂ってコケにしてくるライドウに、ムカっとくる。
「ならあんたは…」
云い返した傍から、黒い袖が俺の頭上に影を作った。
慌てふためく俺の腕から、その不安の根源が消え去る。
「あらあら十四代目!」
「旦那より早く抱き上げる男が僕ですまないねぇ」
(そりゃ確かに、俺は今女体な訳だけどな)
黒い洋物のシャツに、赤ん坊の白肌が浮き上がる。
抱き抱えるライドウは、別に優しげに笑っている訳では無い。
寧ろいつも通りの、あの哂いなのに、何故だか赤ん坊はぐずりを止めた。
「っおい……どうしてあんたの腕で安眠するんだよ」
納得いかずに下からじろりと睨み上げれば、フフンと哂うこの男。
「赤子をあやす女性を観察していれば、そう難しくない」
ああ、純粋で無垢な赤ん坊は、自分を抱き抱える男の気なんて読めないもんな…
そう自分を納得させて、ライドウの腕ですやすやと眠るソレを見つめた。
この世に生を受けて、泣き叫んで、拾い抱き上げられるのを待つ命。
(ああ、何か、違和感があると思ったんだ…)
俺の股から生まれるのは、動かない。
泣かない、冷たい。
…生を受けてない。
「……可愛いですね、赤ん坊って……知らなかった」
女性に、ぼやけた思考のまま、そう呟いていた。
何だ、ただ真っ直ぐに、そう感じた、生きている赤ん坊に。
「まあ、勿体無い御言葉です、そんな…!」
我が子を褒められ、喜ばない親は普通居ない。
舞い上がる女性の煌く瞳に、あの赤ん坊の未来が明るく感じた。
「このまま御名前も、出来れば頂きたいのですが…」
「名前を?名付け親になれって事ですか?」
「ええ……ちょっとばかり、調子良いですか?」
「そんな事は無いと思いますけど…でもそれなら俺じゃなく、ライド…」
「ふぎゃああああぁ」
会話を割って、その泣きで震撼させる赤ん坊の声。
俺と女性がえっ?と視線を上げれば、ライドウの腕で泣いていた。
「十四代目?如何されましたか?」
女性の声に、一瞬遅れてライドウが返答した。
「…いや、少し先の事を思案していた、悪いね」
少し屈んで、女性に泣く赤ん坊を差し出す。
受け取った赤ん坊の頬に、自らの頬をすりりと押し付ける女性。
「どう育っても、生きてくれてるんでしたら、それで良いです」
呟くその姿を見て朗らかな気分になる反面…
俺は妙な背筋の冷たさを感じていた。
シャツの衿を正し、腰のホルスターを巻き直すライドウ…
奴の、先刻黙って赤ん坊を見つめる眼が…怖かった。
哂っていなかった。
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