もう、あれからどれだけ経ったろうか。時間の感覚なんて鈍っている俺には、知る由も無い。
偶に覗きに往く…保管されているライドウの分身。悪魔の術か、きいきいと揺れる籠で、人形みたく横たわっている。肉体は衰えず、腐敗していない。傍に行って、指先で少し押すと、籠が揺れる。中で赤ん坊がもぞりと動いて、それの作用で動いている錯覚に陥る。
女神が微笑んで、ベール越しに唇を撓ませる。
『お名前は如何されます?』
「何云ってんですか…生物でも無いのに、無意味でしょう」
『あら、人間はお道具でも何でも、名前は付けますよね?』
「呼んで反応する訳でも無し…俺にはそんな感覚、ありませんから」
云いつつ、指先は籠を自然に揺らす。どうして、こんな事…してんだ…俺は。
来る日も来る日も…
「紺野…夜」
ぼそりと呟いたら、女神がハッとして俺を見つめてきた。
「どうせ、あいつの分身でしょう…なら、それで良いんじゃないですか」
もうしばらくして、まだ帰らなかったなら…俺もいよいよ、先行きを考えた方が良いだろう。そう思って、籠の揺れを止めた。
と、その指先がびくりと跳ねた。自然な反射。
(…何か、来た…)
『矢代様!?』
「ついて来ないで下さい、消されたくなければ」
白足袋のまま、雪の絨毯を敷き詰めた庭に飛び降りる。
駆け抜けると、椿の花弁が白にはらりと落ちていった。ぐにゃり、と次元が歪む。
結界が希薄な所に向けて、身体が引き寄せられる。周囲の白が、反転したかの様に暗がりに染まる。久しい感覚に、身体の血が疼く。
異界に誘われた。いや、異界…というより、完全にその人物の作った空間に。
『やあ、少し見ない間に艶っぽくなったね?矢代』
前方から伸びてくる赤い影を眼で追う。その先には、畏怖すべき存在が、悠然と微笑んでいた。
「か、閣下!!…直々に、ですか…」
どうしよう、どうすれば良い?何から説明する?何から言い訳する?何から謝罪すれば良い?謝罪?何故俺が――…
『あぁ、そう強張らずとも良い……ふふ、可愛いな、相変わらず』
金髪が暗闇に輝く、反射でもなく独りでに。綺麗な翼は、俺を更に小さく思わせる程に、荘厳だ。
『ライドウに聞いてはいたからね、その身には何も驚かぬ』
チラ、と俺の胸元を見た、その視線にすらビクリとしてしまう。今、ライドウという共謀者すら居ない俺は、酷く怯えていた。
「ライドウの奴、閣下に報告していたの…ですか」
『ああ、君等に課していた雑用は、彼が片していたので問題無い』
「は!?ぁ、あ、あいつ独りで…ですか?」
ぞわぞわする、何も知らなかったのは、俺だけか。だから、あんなにも…多忙だったのか。俺を置き去りにしていたのか。…俺の為に。
『ライドウが君で遊んでいるのは承知の上だったが…まさか今回ね…』
ふふ、と笑う堕天使、その笑いに不安が過(よ)ぎる。
『人修羅を解放してしまえば楽になるぞ、と助言してやったのに』
ルシファーが角を撫ぜるついでの様な動きで、指をくい、と動かす。
黒い空間に、黒い何かが放られた。空間の所為か、音すらしなかった。
『君なら容易(たやす)かったのにね…なにせ、君を崇拝する悪魔達だったから』
ルシファーの声が途切れなく聞こえてくる。
『位だけは高い彼等の使役に、流石の十四代目も堪えた様だ』
黒い何かの正体は、一目で判っていた。
『無理な契約は身を滅ぼすと…この里はそんな事も教えていなかったのかね?ふふ』
けど、判りたくなかったんだ。
「ぁ」
『何を急いていたのやら…らしくもなかったよ、夜』
俺の足下に放られたソレからは、生気を感じない。
『お前の代わりに師団を率い、ケテルを防衛したのだ…処分くらいしてやりなさい』
そう云って、嗤って消えた。同時に波が引いていく様に、暗闇が撤退していく。
白い雪景色が再び姿を現した。
「ぁ、あぁああぁぁぁあああああ」
先刻から言語回路がイカレたのだろうか。俺は意味の無い奇声を発して、よろめいた。傍の木にがさりと肩から当たり、その枝を揺らした。
雪と一緒に赤い椿が、根元からぼとりと転がった。白の絨毯に伏している、ライドウの横顔にそれが飾られた。散華の如く。
「おい」
揺すってみた、でも、寝起きの蹴りも、何も無い。
「何黙ってんだよあんた、それじゃまるで」
抜け殻じゃないか。


『ヤタガラスから云われましたわ、そろそろ十四代目が帰っても良い頃だ、と』
『ほう、では私共も少し急ぎましょうかね、御命令の通りに…』
背後からのパールヴァティとネビロスの会話。ライドウが死んだ今、あの悪魔達は自由になったというのに。まだ最後に残っている命令があるから、と、憚(はばか)らない。
「俺は頃合見て、城に行きますから…貴方達も、好きにしたらどうです?」
そうとだけ告げて、部屋に戻った。冷たい空気が襲う、空虚な俺の中を抉っていく。
「せめて男に戻してから死にやがれ」
そう呟いて、卓上に置かれたライドウの衣類を見た。真白な経帷子に包まれたライドウは、今、あの揺り篭の傍で寝ている。抜け殻が二体、あの空間に在る。
俺の主人と、孕んだ仔。どっちの名前も紺野夜。
「未亡人とか、笑えないだろ、おまけに人修羅のまんまとか」
夫を亡くした自身の母親を思い出し、更に胸中が締め付けられた。
女神がきっちりと畳み置いてくれたライドウの外套を掴み…肩に羽織って、首元の留め具をいじる。項の突起がぐい、と後ろ衿を押すが、気にならなかった。
「俺以外に殺されて、ぁはは…ざまぁみろ」
外套の重みが、包まれている様で、声が震えた。そのまま、濡れていた足袋を指先に引っ掛け、脱ぎ捨てる。裸足のまま、縁側から降り立ち、白い雪を踏む。
もう、俺を縛るものは、堕天使しかいない。直接的な束縛は、もう無い。何処に往こうが、俺の勝手だ。
「ねえ、どこいくん?」
開けた庭の中央、降りしきる白い風花。その声の正体を考えずに、返答する。
「ケテル城」
「何しにいくん?」
振り返る、俺を見上げる薄闇の双眸。でも、幼い。
「ククッ…ねえ、何しにいくん?」
ずるずると、白い布を纏って、ゆっくり歩み寄って来る。
「…あの男のMAGを蝕んだ悪魔を、殺しに」
「ずいぶん勝手じゃん、部下にあたる悪魔たちなんでしょ?」
「俺はもう自由だ、俺の勝手だろ」
訛りの有る舌足らずだったのが、段々と利発そうな声音に変貌する。白布が、その子供に押し退けられる様にして、身体の線を露わにしていく。
「もう自由?」
少年が哂った。その表情に戦慄して、俺は振り返ったままの姿勢を崩せなくなる。
見覚えのある、俺を哂うその顔。
「まさか、ずっと飼うと云ったろう?」
遠近がおかしい?いいや…違う。俺に歩み寄るにつれ、その身体を成長させる彼。
俺を見下ろすまでになって、一番馴染みのあるその角度から。
「ただいま、矢代」
俺の肩を掴み、ぐい、と向き直させられる。経帷子を纏うこの男は、見紛う事なき…あの、憎きデビルサマナー…
「…な…なん…」
思考が追いつかない俺に、ゆっくりと唇の端を吊り上げるライドウ。
「とりあえず、仮説が実証されて何より…フフ…ルシファーの奴、契約通り死体は此処に届けたか」
指をばらばらと握り、その身体の動きを確認するかの様にしている。
「ネビロスに魂魄を移す術を施してもらった…それだけさ」
「魂魄って」
「ゴウト童子の様に、魂を別の容れ物に宿したという事だ」
「別の、って、あんたその姿………」
そこまで云って、俺は先刻の幼いライドウを思い出し、息を呑んだ。
(俺は…面影のある何かを、揺り篭の中に毎日見てきた…)
勘付いた俺に気付いたのか、俺の手首を握り上へと上げるライドウ。
「注いだ種の情報通り、肉体が伸びてくれると信じていたよ、フフッ」
その言葉に確信を得て、俺は叫んだ。
「あんた…っ!自分の子に寄生しやがったのかよ!!」
「破棄されるだけなら、命を持たぬ仔なぞ…孕ませる訳無いだろう?」
元から、そのつもりで…?
「フフ…あんなに軋んでいた身体が、君を通したお陰か、凄く楽だ」
そのまま羽交い絞めにされ、黒い外套が揺れた。
「功刀君、事は済んだ…シトリは別所にて保管してある、戻してやっても良いぞ」
首の留め具が外れ、解けた外套をライドウが奪ってゆく。黒い闇に身を包んで、いつも通りの哂い。
「ただし、また僕の身体が老朽化したら…容れ物を産んでもらうよ」
「う、産んで…」
「その時は、また女体に成ってくれ給えよ?孕ませてあげるからさぁ」
ああ、この男、肉体という檻から、既に抜け出しているのか。まるで、自分の身体を使い捨ての様に、服の様に、乗り換えたんだ。
「君に僕を孕ませる、と云ったではないか……ねぇ?」
ああ、暗闇が舞い降りる。俺の身体が、ライドウの外套に包まれた。
「君に孕ませるは、次なる転生の為…注いで契るは儀式」
「ラ、ライドウ…ッ」
「…僕が怖い?」
外套で包まれ、その中で腕を回された。あの神酒を交わした際、掻き抱いてきた動きにも似て、ぞくりとする。
「あ、んたは…おかしい…狂って、る…」
それしか云えなくて、腕を押し退ける事も出来ずに俺は…
「君を使役する限り、僕は悠久を生きる事が出来る…悪魔に近しい力でね」
以前より、ずっと、更に強い眼力で俺を縛る。すべてを統べようとする、本当の闇が其処には宿っていた。
「周りが皆絶えようと、僕だけは君と居てあげる…何年も何十年も何百年も、ね」
「…地獄、だ」
「これが僕の導き出した答えなのだから、受け入れ給え」
数刻前まで息子だった身体に、ぐい、と抱き上げられた。横抱きにされ、俺の脚はぶらりと虚空に揺れる。ああ、もう既に抵抗だとか、そんな意思は持てないんだ。
俺は、完全に喰われた。
「最期の刻は、まだまだ先になった訳だ…それまではずっと、蜜月…」
覗き込んでくる眼が、ぼんやり、金色にも見えた。
「どうだい?君に近くなったかな?クッ…ククク」
酷く楽しそうに哂うこの男。
「人間…棄て始めてるだろ、あんた…」
「寿命の檻から抜け出る事が出来た今、未練なぞ無いが?」
なのに、俺は恐怖だけでは無い、何かに身体を震わせていた。人間だったのに、そのラインからこっちへと身を寄せたライドウ。
空虚だった風が、湿り気を帯びてくる。俺の渇いた心を、潤していく。
「今の僕のには倫理も無い、因果律も無い」
雪が降る。
「君を隠世に、僕という幽玄の牢獄に、永遠に入れて…」
葛葉ライドウの、不遜な十四代目が、哂う。
「美しい君を傅かせる、ずっと君に、哂いかけてあげる」
狂喜に哂うその笑顔に、俺はどうしてか…眼の奥から熱くなって、涙が溢れて止め処なく流れた。ああ、これから本当にずっと、使役されるのに。どうしたんだ、俺は。
「感情の正体なぞ、どうだって良い…憎かろうが、恐怖だろうが、ね」
「憎い、俺は……あんたが、紺野夜が、憎い」
「そう」
俺の反応に、やはり安堵しているライドウ。何も変わっちゃいない。憎しみに安堵する、その姿。俺が一心不乱に向ける、出逢った時から変わらない、この眼差しに…
「ならば、僕を謀るその瞬間まで…傍に居てくれる、という事だね?」
絶対に口にされない、あの一文字を互いに求めてなんか、いない。
「狐の化身が、さ…」
ぽつり、ぽつりと零れる俺の戯言。俺は、この外套の暗闇が、好きだったのか。
「―生まれ出で、未だに抱いた事の無い―…その先の言葉」
「フフ、暗記出来る程読んだのかい?暇人め」
「…その先の言葉の正体に気付くまで、しょうがないから…付き合ってやる」
ああ、今、地獄に墜ちた。もう、引き返せない。
ライドウが、口の端を吊り上げて…紡ぐ。
「修羅から生まれ墜ちる度に…己が穢れを祓い削いで、この身、狐から離れん」
唇を寄せて言挙げる。その、少し儚げな表情に、俺は黙って受け入れる道を選んだ。
「狐はもう沢山さ………だから、僕を君と同じ形にしてよ…矢代」
重なる唇は、MAGを交わさない。意味を成さない。重ねる理由が他に有ったのか?俺達の間に。でも、酷く温かい。
やがて、離れていく唇が、俺に辛く微笑みかけた。狂気めいた、嘘の無い言葉。
「フフ、これで涅槃(ねはん)まで寂しくない」
本当に、この男の云う通りで…俺もつられて、笑ってしまった。
そう、この先、置いて逝かれる事も無い。俺が殺すか、殺されるまで、きっと奴は死なない、生み落とす度、近くなる。
孤独しか無かったこの世界に、ようやく安息がもたらされた。ゆっくりと、陽の光が翳ってくる。里に山の陰が、落ちてくる。俺を覆う闇が、酷く心地好い。
戻れない、けれど、それは孤独から永遠に俺を護る。最期なんか、恐らく来ない。
「ああ、帳が落ちた…」
ライドウの言葉にほくそ笑んで、俺は瞼を下ろす。
(ああ、俺の中に夜が来た)
もう、狂った俺は、人間に溶け込めない。きっと互いに夜明けなんか、望んでいないのだと思う。ずっと…俺は夜を生むんだろう、文句しながらも。
俺を包んでくれる闇を、維持する為に。
人間を棄てきれないままに、これからも。
(でも、孤独じゃない…俺は、もう、この先ずっと…そうだろ…夜)
里は静寂の闇に包まれた。


帳下りて社に夜・了


↓↓↓あとがき↓↓↓
本編終了
宜しければエピローグまでお付き合い下さい。



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