コッペリアの柩



「なんていうか、これはディ○ニーランドだろ」
その、あまりに陳腐な表現。
「君はこの半世紀で何を培ってきたのだい功刀君」
「修学旅行で連れてかれた」
「寺を見ようが、幼い頃の学童には意味も解らぬだろうよ」
「行ける範囲のテーマパークに連れてくなよ、って正直思った」
「我儘だね昔から」
「集団行動は疲れる…ああ、でも」
つまらなそうにしていた視線が、ふと見上げた先。
骨組みの隙間を覆うガラスが、曇り空を透かしていた。
「ネズミの形の風船は引っかかってないな、その違いは判る」
「…何、どういう意味だいそれは」
「良いよ知らなくて、どうでも良い事だ」
「どうでも良い事を反応も要らぬのに発するのかい君は?」
「うっさいな本当に…」
これは、そのテーマパークに今度行かねばな、と少し感じる。
ディスティニーランドとは別物だろう。
「このアーケード街、随分と立派だけど…用事あるのか?」
怪訝な眼で、僕に追従する功刀。
くすんだ海松色のモッズコートという、大分地味な服装で。
まあ、実に彼らしいが。
その丈なら、万が一斑紋が浮き出ても大丈夫だろう。
御誂え向きと云わんばかりに、フードまで付いている。
「エマニュエル二世アーケードだ」
「悪魔関係あるのかよ」
「ルイヴィトン、プラダ、グッチは揃っている」
「悪魔じゃないだろそれ」
「傘でも買おうかな、モー・ショボーがモガの真似事して襤褸にしたままなのだよ」
並ぶ硝子に映り込む君の憂鬱な横顔を見て、ふと思い出した。
独りほくそ笑んで、口ずさむ。
どうせ仏蘭西語だ、そこまで悪目立ちもしないだろう。
「Me'lodie d'amour chante le coeur d'Emmanuelle」
(エマニュエルの心は愛のメロディーを歌う)
は?と此方に視線を寄越す功刀を後目に続ける。
「Qui vit corps a` coeur de'c,u」
(心は失った体の為に鼓動する)
また何か歌ってる、と君は苛立つ。
そう、君には知り得ぬ異国の言葉だからこそ、愉しいのだ。
「知らないかい?」
「知らねぇよ、外国の歌なんて…母国の流行歌にだって弱いのに、無茶だ」
「フフ、だろうね」
ヒールを鳴らして、祝詞の様に歌い上げる。

「Tu es encore
 Presque une enfant
 Tu n'as connu
 Qu'un seul amant」

(貴方は まだ殆ど子供だ)
(貴方は たった一人の恋人しか知らない)

「おい」
プラダの傍に差し掛かり、傍から突然詠唱中断の声がかかった。
「何か?」
「それ…えろい歌だろ」
あまりにも意外な台詞に、愉しくなってディスプレイの前で立ち止まる。
金の鎖のプリントが、ぐるりと黒い傘に巻きついている。
如何にも豪奢なその色合わせを見ながら、傍のじとりとした視線をこの眼で掬う。
「よく解ったじゃあないか功刀君」
「そういうの歌う時、凄い愉しそうなんだよ、この悪趣味」
「此処の名前で思い出してねえ」
「恥ずかしいから、こんな道端で歌うなよ」
「この傘、買おうかな」
「おい、聞いてるのかあんた」
当然、この距離で聴こえぬ筈無いだろう。
溜息の君を引きずりまわし、帝都を闊歩した頃を思い出す。
僕と君の間に、あの黒猫様も居て。
君は今よりも、更に距離を開けて追従していたね。

「…雲行きが怪しい」
「傘なら買ったろう?早速使えて嬉しいねぇ」
「まだ降ってない…って、子供じゃあるまいし、早速とか、本当あんたさ…」
「フフ、そもそも君、今はアーケード内なのだから、雨の心配は不要だろう?」
「帰りの空港までずっとアーケード続いてる訳じゃないだ、ろっ――!?」
何かに躓き、二歩三歩と躍り出てから何とか踏ん縛る功刀。
膝に両手をついたまま、その股の隙間から背後の床を臨んだ。
「ぁ…ぶね……何かにつまずいたんだけど」
その視線の先を追えば、モザイクタイルの模様床。
牡牛の画を見て、吹きそうになった。
当の功刀は、大して血も通っていない肌だというのに、顔を真っ赤にさせ述べた。
「どうしてその牛、こ、股間にそんな窪みがあるんだよ!」
「クク、君は旅行先の事を何も調べないのだね」
「あんたが居るから必要無いかと思って…って、だからその牛の!…それ何なんだ?」
ガレリア中心部、牡牛のタイル画に、カツリカツリと踏み鳴らし往けば…
ああ、確かに酷く抉れている。幾人に踏まれてきたのやら。
まるでキリシタンの踏み絵の様な研磨っぷりだ。
「この牡牛の睾丸部分にね、靴の踵を置き、くるりと回転すれば――」
「はぁ!?こ、こうが…ん?」
「願いが叶うのだとさ、フフッ」
「っば、馬鹿だろ…下品…!」
「おや?この窪みが、今まで先人達が此処を踏みしめてきた事を物語っているだろう?」
その、抉れた局部のタイルに、革靴のヒールをがつりと打ち付ける。
「ほら、この様に、ねぇ?」
「う、っ」
そのままコンパスの様にくるりと抉れば、君は呻く。
ヒールで睾丸を磨り潰す錯覚。
「己が玉を砕かれた訳でもあるまい?何故君が呻くのだい?」
まじないの類は様々だが、こういったものは毒にも薬にもならない。
靴先から、霊的なモノも感じないので、信憑性には欠ける。
項垂れる功刀は姿勢を正すと、もう振り返らずにスタスタと先に進んだ。
「君はもう踏まないのかい?牛の睾丸」
「誰が踏むかよ」
「ああ、君は踏まれる方が好きだったか、そういえば」
一瞬止まるが、返答せずに歩みを再開した。
少しは流すという事を覚えたのだろうか。
「なんだ、つまらぬね」
しかし、その握り拳がわなわなと震えていたのを、しかと見た僕であった。



「教会なのに、入場料取るとかどんだけケチなんだよ」
「サンタ・マリア・グロリオーサ・デイ・フラーリ教会」
「憶えられるか」
ティッツィアーノ作《聖母被昇天》が拝める教会だが。
僕等のよく知る形の天使や聖人達と宗教画は、大分違う。
四天使の集う絵だったりすると、君はそのつまらなそうに見る眼を…
一瞬、酷く煌かせ、滲ませるね。
苛立ちと、人間への哀れみだったりが、君から立ち昇ると。
そういう瞬間、君を矢張り修羅なのだと感じる。
「だが、美術館顔負けの展示だったろう?金くらい取らねば維持出来ぬよ」
「金銭関わるって、宗教としてどうなんだよ」
「欲に塗れた住処にこそ、こういったシンボルが必要だろう?」
そう、こういう処に住み着くものだ。欲を好む気ままな奴等は。
ちらりと見やれば、こそこそと蠢く、人ならぬモノ達。
磔刑にされるキリストの背後に回り、僕等を見下ろしていた。
「俺は芸術とか、解らない、つまりこの見学は金の無駄って事だ」
相変わらず、擬態したままの功刀は鈍い。
人修羅の時でさえ、鋭くなかったのだから、当然といえば当然だが。
「もう、さっさとホテル入って横になりたい、あんたと歩くと疲労が倍だ」
「馬鹿を云うでないよ、まだまだ動けるだろう?いくら人真似しているとはいえ」
影より此方を警戒する悪魔の衆。
僕を見て、何か話し合っていた。
文句する功刀を先に出し、遅れて身廊の出入り口に立つ。
アーチの下から、話しかけてみる。
言語は様々だが、手始めに今立つ国の言語で話すのが良い。
「(磔刑のキリストが好きなのかい)」
『(カルボナリの残党か?雇われデビルサマナーか?)』
「(へぇ、デビルサマナーとの推測は正しいね、しかしこの国の結社に興味は無いよ)」
『(エクソシストには見えない)』
「(ヴァチカン公認なぞ、百人にも満たぬだろう?)」
『(だな、新人だって、お前みたいな若造な筈無いわ)』
数体、磔刑の十字からふらりと覗かせる。蝙蝠羽…ガーゴイルにも似た形。
大した悪魔では無いが…教会を拠点にしている事からして、拘りは無い様子だ。
「(この辺に強い悪魔は居ないかな?)」
単刀直入に聞けば、悪魔達は羽をべちりと木製の梁に叩きつけ嗤う。
『(強い?そんなの知ってどうする)』
「(スカウトするのさ)」
『(何云ってんだ、見たところ東洋の人間みたいだが…)』
主に喋っていた悪魔の傍、同じ形をした奴が嗤う。
『(東洋の、日本だったら尚の事、ライドウっつうサマナーが居るから無駄よ)』
嗚呼、失笑に抑える事が出来た自分を褒めてやりたいね。
胎の中に爆笑を抑え込み、クスリと哂ってやった。
『(日本で下手に悪魔チラつかせてみろ、取って喰われっちまう)』
「(へぇ、そんなにも貪欲なサマナーなのかい?)」
『(当人が悪魔みてえな人間らしいな…世話になった秘密結社を燃やしたとか)』
「(それはそれは、怖ろしいねえ)」
『(もう今日び、サマナーなんて儲かりゃせん、止めておけ)』
「(そうだね、エクソシストにでも転職してみるよ)」
鼻で哂って、磔刑のキリストから眼を逸らした。
いい加減見上げるのを止めねば、正直息苦しい。
敬虔な信者でもなければ、磔られたあの存在は痛々しいただの罪人だ。
苦手どころか、興味深いが…
どうも半世紀、上界だ下界だのと騒いできた所為か、脳裏に介入する威光が痛い。
この体になろうが、ハマでの耳鳴りは相変わらず止まないのだ。
『(おい若造!俺達を祓いに来たら、そん時ゃ見逃せよ)』
キイキイと喚く悪魔の衆を、振り向かずに、愉しい気持ちを滲ませ答える。
「(どうかな、サマナーと違い、完全浄化が仕事だからね…エクソシストは)」
この脅しに、更にやいのやいのと騒ぎ立てた気配が、ようやく呟き静まった。
『(ナヴィリオの運河に、ちょいとばかし名の知れたニンフが)』
「(ふぅん、居なかったらその時は…)」
云いつつ、外套の下から振り抜いて即座に向けた、黒い得物を。
ガーゴイルもどきは、一挙に飛び立つ姿勢で構えた、が。
『(…てめえ!)』
「クッ、ははっ」
刀でもリボルバーでも無い。
その、先刻購入したばかりのプラダの傘を差し向けたまま、先端で十字を描く。
「(怖いのならば、其処のキリストにでも祈り給え)」
その、上の世界の殉教者にね。
今となっては、天も地も、敵でしか無い。
国という区切りの中、囲われる人間達は何も知らない。
もう、デビルサマナーという職すら、人間の間では薄いのだから。



丁度観光人も居らず、愉しい交渉が出来た事に僕は気分が良くなった。
軽やかに靴を、床の紋様に泳がせる。
「…遅い」
その身廊床は、やたらと靴の音を響かせたのか。
門を潜る前に、向かいから苛立つ声が僕に向かってくる。
「何か居たのか」
「まあね」
「…どっちだ」
「所謂“悪魔”だよ」
天使と答えなかった事に、少し胸を撫で下ろす君が憎い。
未だに下の…魔界の名残が強いのか。
今では敵だろう?そもそも、君が最も嫌っていたではないか。
悪魔、というその属性を。
「天使よりマシとでも云いたいのかい君?立派に悪魔だね」
「だって、天使って…人間相手にしてるみたいで嫌になる、戦いに発展したら気分悪い」
「上、見て御覧」
丁度、ジョヴァンニ・ペーザロの記念碑に差し掛かったので、促す。
「宗教・価値・調和・正義」
「…何だ」
「その四つのアレゴリー、君なら何処に己を置く?」
見上げた先、それ等をモチーフ化した彫刻が並んでいた。
中には、悪魔の様な姿の生き物も居る。
「ねえ、功刀君、君は己をどれに該当させるのかな?」
「どれ、って…」
船着場までの道中、意外と考え込んだ君の結論。
揺れるゴンドラを眼の前に、小さく吐き出した。
「…何処にも、属さない」
「へぇ、どういった理由で?」
櫂を持った女性に運賃を渡せば、腕がどうぞと指し示す。
そこで、ようやく現状把握した功刀が振り返った。
「おい、そういえば目的地は」
「オナヴィリオ・グランデ」
「…一体いつになったら横になれるんだよ…」
「ゴンドラで寝たら?君の身長なら横になれるだろう?」
それに怒った功刀が殴りに振りかぶった瞬間、ゴンドラが揺れた。
不安定な足場に、自分で揺らしておきながら恐怖する功刀。
「おや、泳げなかったかい?」
「不衛生だろ、水路の水なんて」
「潔癖だねえ、で、理由は?」
ゆらゆらり、ゴンドラが水面を掻き分ける。
元より静かな陸から解き放たれたなら、一層と静かになる。
櫂のギシつく音だけが、呼吸の様に空気を震わせた。
「宗教・価値・調和・正義…って、人間らしい、よな」
コートの裾を、緩く掴んだ君が、小さく笑った。
それは快活なものでなく、あくまでも自嘲気味に。
「神様信じて、価値観持ってて、互いの正義感ぶつけ合って、でもそれは…」
櫂の動きに合わせて、君の視線が波間をたゆたう。
「自分の居心地の良い調和の為…なんだろうな…勝手な」
「それが、人間が人間である所以かい」
「俺はどうせ中途半端者だろ、だから、何処にも居ない」
曇り空の石灰色が、水平線を虚ろにしている。
ぼんやりと光を拡散させる陽は、いつぞやのボルテクスにも似て。
「何にも賛同出来ない、何も信じられない、俺は…」
彼の横顔に斑紋が、一瞬滴った気がした。
「どのアマラ宇宙でだって、独りなんだ、そういうもんだろ…」
「宗教の根源は神だ、当然、悪魔も含め」
脚を組み替え、つま先で功刀の膝を小突く。
「っ、痛いだろ、てめ…」
「神々も、価値観の違いから対立し、勝手な正義を振るう…調和は乱れ、副産物が生まれる」
小突いた先を、するすると下に降ろして。
その、抱えられた脚を伝い落ちる。
「副産物は似て非なる…そう、人間という存在だ」
「人間…」
「だからこそ原罪を持っているのでは?」
「後ろめたい作品って事か」
「そうだねえ、例えば…」
恨めしげなその眼に、ニタリとほほえむ。

「僕こそ、君の産み落とす罪に他ならぬだろう?」

はっ、とするその顔。諦観なのか、享受なのか。
いつまで経っても、僕をそうやって見てくるね。
「ほらね?後ろめたいだろう?」
問えば、その瞬間、大きくゴンドラが揺れる。
水先案内人が振りかぶる櫂が、激しい飛沫を水面から引きずり出して。
たゆたう水は生き物の様に、櫂を遡り、その女性の腕へ。
「夜!」
功刀が叫ぶと同時に、彼の手前へ躍り出た。
傘を、その骨組みから流し込んだMAGと共に開花させれば
襲い来る飛沫は鉛弾の様な音で弾かれる。
魔力で鋼の盾となりし傘は、無傷だ。
一瞬しか出来ぬ芸当だが、その一瞬さえ合わせれば良いだけの事。
大正時代によく振るった刀と同じだ、傘とて。
「ほら、役に立ったろう?買って正解だ」
「な、お、おい…っ、その人…」
防いだのは、水銀が如き雨だが。
「悪魔…なのか」
「水に好かれている、ニンフ…ネレイドだろう」
船着場、一目で感じた。
魔の者を誘う、その船。まるでカロンの様に手招きする、その腕を。
手にした櫂が掻き分ける水は、寧ろ己から身を呈し、船頭を先導していたから。
「悪魔は悪魔と惹かれあうからね」
背後の君が嫌がる台詞を選んで吐き出す。
眼の前の女性は、潤った総身を震わせ、じっとり響く笑いを上げた。
『(アナタが私のアミンタになってくれるの?)』
異界の運河に呑まれ始める周囲。うねる黒き水面に気配を感じる。
外套を翻して、背後の功刀を片腕でそのまま。
「っわ!お…いッ!?」
「船酔いせぬ様にね?クク」
肩に担ぎ上げ、傘を片手にステップを踏む。
『(ま、残念、既婚者)』
指輪でも見えたのだろうか、ネレイドは櫂を横に薙いだ。
それを後ろに飛び、かわす。
「わ、ああっあ」
妙な声を上げる功刀、肩で暴れるのが厄介だ。
「案ずるで無いよ」
ゴンドラの先端から更に後ろへ飛び、移るは他のゴンドラ。
異界とはいえ、そのまま形は投影されている。
人の世界に影響しない程度に、暴れさせて貰えば良い。
現世では、運河を行き交うゴンドラの、幾つかが順に揺れたろうね。
飛び石みたく、ひらり、そこからあそこへ。
『(待って、サマナーでしょう、その芳醇な霊力、吸わせなさいよ!)』
無風、櫂も漕がさずに、その水に運ばせるネレイド。
ひとつ、大きく放ってきたその刃。
薄く閃かせた水は、簡単に足場のゴンドラを断つ。
その追撃を、大きく跳躍してかわす。橋の上に降り立ち、哂う僕。
「さて、どうしたものかね、功刀君」
「俺はジャイヴトークなんて知らないから、あんたが交渉しろよ」
「ジャイヴトークだと…?本当君は…ククッ」
「ん、だよ…ってかおい、降ろせ!」
あれは伊太利亜語だよ、と、教えるのは止めにした。
肩にぶつかる感触は、男の薄い胸だと訴えてくる。
いざ女体になったとしても、そう大差無いが。
「僕の悪魔になりたいのだとさ」
やや改変し、君に伝えた。
「あんたの…悪魔に?」
いきり立つ功刀を、するりと外套の内に収め降ろした。
と、僕を突き放すより早く、外套が揺れる。
置き土産に託されたのは、海松色のコート。
『(水の都よ、逃げ場は無い、私の庭よ)』
追ってくるゴンドラが水流に巻き上げられ、同じ高さまでのし上がって来た。
水の翅を双椀に纏いし精霊が、激しい音で橋を叩く。
広がる水溜りに足先を取られぬ様、更に向こうの橋へと跳んだ。
迫る触手が如し水の腕、そのひとつが、首許まで伸びて。
つい、と逸らしたので身には届かなかったが、欠けた音が聞こえた。
「おや、これは…良い硝子店を紹介してもらわねば」
重厚な橋の屋根に手をかけ、するりと腰掛ける。
砕けたループタイの留め金を指先で弾いて、悠長に脚組みしてやれば。
虚仮にされたと憤慨するネレイド。
『(本当の意味で水先案内ならしてあげる)』
「(ベネチアングラスの留め金なんて洒落てるかもね)」
『(魔力が滲んでる…契約の証かしら?その指輪も砕いてやる)』
たぷん、と胸元を震わせて嗤うと、その身をばしゃりと歪ませた彼女。
櫂と一体になり、大きく振りかぶってくる。
「(アミンタでは無いね、そんな純粋か?)」
その一撃をかわさずに、解りきっているからこそ、ただ哂う。
「(コッペリアが良いな、僕はね)」
爆ぜる水、焔に包まれ霧と化す悪魔。
上着を取り払った、その薄い布地の下に輝く斑紋。
「ねえ、僕のコッペリア?」
マグマ・アクシスを直接ぶつけた彼が、ふらつく前傾姿勢から
じろりと僕を横目にねめつける。
「誰だよ、それ…」
「変人の作った人形が人間になる話」
この分厚い屋根、レース刺繍の様な格子窓。
きっと溜息橋だろう、異界とて形は同じ。
「大団円も悪いとは云わぬが、僕はコッペリアを容易く人間にしてしまう程――」
ひくり、と君の斑紋が息衝く。この人間という単語にだろうか?
「優しくないからね」
黒革の靴先で、外套の襟を持ったままくるりとトゥール。
元の位置にてぴたりと止まり、黒い空気に体をひたりと包ませた。
「ああ、折角遭遇したのに、殺してしまうなんてねぇ」
「あんたがさせたんだろ」
「僕は君に攻撃の命は下してないが?」
久々の、君の斑紋姿、すらりと伸びる黒い角。
その琺瑯質の様な光沢に、やはりうっとりする。
「この橋の下、あのネレイドのゴンドラが浮かんでいる…其処から這い出せると思われる」
「海外来てまで異界になんざ留まりたくない、さっさと出るぞ」
ん、と腕を差し出す功刀。
どうやら僕に突きつけたコートを返せと云いたい様子。
僕は含み笑いし、コートをちらつかせてやる。
「女性の形をした悪魔だったが?容赦無かったねえ?」
「水に形なんて無い」
「マグマ・アクシスだなんて、太っ腹ではないか、久々だというのに」
「久々だから調整が出来なかった」
「フフ、意外だ…あんなちゃちなモノでも、叶うものなのだねえ」
「さっきから煩いな、何だ、何が云いたいんだ!」
いよいよ腕を突っ込んできたので、僕はトン、と橋から落ちる。
下の三日月の様なゴンドラの、端っこに爪先を降ろすと
大きく沈んだ…が、すぐさま浮上する。
向かいを見れば、その先端に君が立っている。
「何が叶ったんだよ」
金色の眼で、僕を真っ直ぐ見つめてくる。
君から擬態を解いて、その焔を揮わせるだなんて、本当に久々だ。
「ま、悪魔は一夫一婦制という決まりは無いからね…」
眼前に翳した手、その指に光る環の傍から、君の金色が見え隠れ。
皆既日食のダイヤモンドリング。
その美しさに、やはり唇の端は吊り上がって仕方無い。
「…勝手にしろ、使役悪魔にだって、女性多いのは知ってる」
軋むゴンドラの中央に、亀裂が奔る。
ゆらりと揺らぐ人間の世界が、其処から見える。
その世界を請いつつ畏れる君が、擬態をゆるゆるしながら歩み寄る。
「旅行先で悪魔増やそうが愛人増やそうが――」
その、ぎらりと光る金色に惹き寄せられるがままに。
「ん、はァ、っ」
口移しのMAGを与えた。
「ねえ、この頭上の橋…溜息橋というのだがね」
「ぁ…はぁ」
「この下で日没時、接吻すると…」
「返、せ、コート返せ」
「永遠の“愛”とかいう錯覚が――」
「黙れ!!」
奪われたコートで、その横顔は見えず終いだった。



帰路のエマニュエル二世アーケード。
すっかり日も暮れて、煌々と照る店の灯り。
それ等に包まれながら、功刀はスタスタと、一直線に。
牛の床に闘牛が如く近付いて、何をするかと思いきや。
周囲も一瞬眼を向ける程に、思い切りその抉れた箇所を踏みにじった。
しなる鞭の様なフェッテで睾丸を抉る、僕のコッペリア。
「十四代目葛葉ライドウ死ね、十四代目葛葉ライドウ死ね」
呪文みたいに小さく唱えて、ようやくその脚捌きを終えた彼。
やや息を切らせ、妙なしたり顔で見上げてきたが…
「おやおや、何故真名で祈らなかったのだい?」
功刀の嗤いは、潜んだ。自分でも意識してなかったのか?
それこそ僕がしたり顔になってしまうね。
「もう“葛葉ライドウ”なら死んでいるだろう」
そう、今は好き勝手啼き暮らす、一羽の烏に過ぎない。
「あ…」
「云って御覧よ?紺野死ねでも、夜死ねとでも」
「…っ」
「ヴェニスに死す、かい?あれも淫蕩の滲む話だねぇ…」
睾丸の上で地団駄する君は、頬をやや紅潮させ、僕を睨み上げた。
「……他と、娶ったら…そういう契約したら…」
君の睨む視線が、じりじりと僕の指先の環に流れた。
「あんたの睾丸潰してやる」
ほら、やはり、勝手は赦されないではないか。
そう、コッペリアに縛られているのは、他ならぬ主人なのだ。
人間になってしまったら、主人より解き放たれてしまうだろう。
それを畏れ、主人は人形の糸に雁字搦めにされて、己の首を絞めている。
「ク…あははっ、それは困るねえ、君も純粋なMAGが得られぬかも知れぬね、それでは」
「“あの手段”で得る必要性は全く無いだろ」
潰されようが再生する、君の血肉を得た、この肉体ならね。
アレゴリーに該当せずとも、その存在を赦し合える。
その為に用意したろう?あの紅い華咲き乱れる里を。
「溜息橋はね…」
「は?もういい、その話、掘り返すな」
「尋問室と牢獄を繋ぐ橋なのだよ」
「え…」
「現世にて拝む、最期のヴェネツィアの景色に溜息するから名付けられたそうだ」
「本当かよ、それ…またあんたの適当な御伽噺じゃ」
「その下で永遠が約束されるなぞ、滑稽とは思わないかい?」
「…牢獄なんて、いつも居る」
ぼそりと呟いた君の横顔は、憂鬱で。
しかし、その脚はしっかり、その牢獄へと還るのだ。
主従の契約を結んだあの日から。
伴侶の契約を結んだあの日から。
君は溜息と共に、何度でもその眼を、焔を燃やしてきたね。
「“秋の日のヴィオロンの溜息の”――」
「…それ、学校でやった気がする…誰の詩だったか」
「忘れてしまったのかい、現役だったろう」
「半世紀近く経ってるんだ、仕方無いだろ」
「今の世は、君が現役だった時代な訳だが?」
「ああもう!だから、詩人が誰かって聞いてるだろ」
「呑んだくれのゲイ詩人」
「…またあんたはそう……あ」
立ち止まる君の、その眼球に映り込む金色。
擬態しているのに、その色に輝く理由を視線で辿れば…
「何、君が見繕ってくれるの?」
金色のベネチアングラス。その琥珀の色の輝きがディスプレイされている。
丸いそのブローチに、紐を通して僕の首を括ってよ。
里を離れていても、繋がれる感触に酔い痴れたい。
「何故その色にしたのだい?堕天使の指輪、もう羨んでおらぬけど?」
「ま、だ何も云ってないだろ…!」
やはり地団駄を踏んだ君は、居場所など無いと云いながらに…
やはり僕の傍で溜息し、扉に近付き吐き捨てる。
「あんたの金だ、さっさと勝手に買ってこいよ」
「洒落?」
「煩いな!」
君の溜息と共に生まれる僕が、君を僕の造り上げた牢獄に住まわす。
君という牢獄にて生を繋ぐ、このただひとつの橋。
人と悪魔の間を、溜息で胎動している僕等。
そのまま朽ちる橋は、柩になるだろうか。
「夜」
…いいや、考えない。
「…どうした、寒いのか……俺が産んだ、体の癖に」
拗ねた表情の君の横顔で、脳裏の靄を振り払う。

今は、考えない。そんな事、神にも堕天使にも分からぬのだから。
今は、ただ、享楽的に。安息の錯覚に包まれて。
踊り狂えば良い。世界の悪魔を辿れば良い。

「この後はジョヴァンニ・ガッリに寄ろうか」
「何だよそこ」
「老舗の菓子屋だよ、マロングラッセが有名だ」
「…!」
「栗と、砂糖、バニラ、グルコースのみ。保存料は入っていない」
「…へぇ」
やっと乗り気になった君、その舌が強く感じれるか、まだ判らぬだろうに。
「MAGより喜んでないか君?」
「どっかのサマナーの受給方法があまりに淫猥だからだ」
頭上の硝子は途切れ、代わりに暗雲が立ち込める天。
アーケード街を抜け、ミラノの帳も下りている街へとくり出す。
ぽつり、と、脳天を冷たい雫が叩くので、外套から早速取り出す。
本来の用途通りに天に開けば…
「…ぶっ」
珍しく、少し破顔した功刀。
開いた傘の布地は、見事に骨組みに垂れ下がっている。
「そんなんじゃ差しても無意味だろ、いくらプラダだって」
「…おいおい、異界では無傷だったのだが」
「あ」
「何だい、何か思い当たるのか」
「さっき…火、少しそっちに跳んでた気がする、マグマ・アクシぃっでえッ」
まさか、本当に調整出来ていなかったとは。
靴の甲をヒールで踏みつつ、溜息が…思わず僕から出た。
「まあ良い、後で買い直せば良い」
「っ痛ぅ……時間と金の浪費だ」
「時間なぞ、腐る程あるだろう?僕等には」
骸骨と化した傘を天に差し、ぎょっとする功刀を見た。
そう、そういう眼で見ておいで。
「入らないのかい?」
その困惑した眼のままに、縋っておいで。
「おいで、矢代」
パ・ドゥ・シャ、惑いつつ寄る金色の眼が一瞬揺らぐコッペリア。
ほら、入ってきた、僕の骨の傘の下。
血みどろの雨にさんざ打たれつパ・ド・ドゥ。

天から降り注ぐ冷たい雨を浴びながら。
無意味を翳す僕等に注がれる、周囲の白い視線を浴びながら。
湿った都を二人で歩いた。
うつろうヒトとアクマの狭間を、ただ、二人で…


コッペリアの柩・了


↓↓↓あとがき↓↓↓
二人には意味がある、骨の傘を振り翳す

タイトルはALI PROJECT『コッペリアの柩』から。

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