「今は何してるのか?しがないサラリーマンって奴です…よくある商社勤めですよ」
「こんな方面に何の用事で?仕事とは思えないですが」
「私の勤め先が販売の関係でして、古い物も取り扱っているんです。その中に懐かしい絹を見付けて…それに触れると同時に、わあっと記憶が甦るかの様で。気付いたら電車に乗っていました」
「本日はお休み?」
「ええ、家族には小旅行に行ってくるとだけ伝えてあります」
「でしょうね、フフ…こんな処、説明しても分からぬ場所だと思いますよ」
向かいの席で、くすりと哂う。黒い立ち襟の影で歪む唇が、やはり重なって見える。
私よりずっと歳の若い青年だが、衣装は何処か古めかしい。
「何故、僕に聴かせる気になったのです」
「貴方が…その書生さんにとてもよく似ていたからです」
「へえ。ところで家業は継がなかったのですか?その悪魔の里とやらに居たのも、一時だったそうではないですか」
「笑われてしまいそうですが、やはり実の親が恋しくて…私は実家に帰りました。そして、話したのです」
「何を?」
「父達が求めていた、袂雀の繭に代わる糸の製造法を」
車窓から見える風景は見知らぬ様でいて、懐かしい。
海馬からじわじわと滲み出し、当時のさざめく波草が甦っては、目の前の風景に置き換えられる。
と、向かいの青年がトランクケースの持ち手に指を絡ませた。
「そろそろ降ります?」
「終点ですからね」
「そういえばそうですね。お兄さんも終点までだったんですね、これは奇遇」
「降りたら何も無い、辺鄙な所ですよ」
「良いんです、辿り着けなかったら暗くなる前に引き返す予定なので」
登山客しか利用しない様な無人駅で降り、黒いマントコートの青年は私の前を歩いて往く。
ほんの少しの獣道が、薄い陽に照らされて見えた。
「父は死んだのです」
「おや、まだ話は続いてたのですか?」
「すいません、もう少しお付き合い願えますか、道中暇なので」
「過労死?」
「いえ、私が伝えた製造法を真似て、精も根も尽き果て枯れ枝の様になってしまいました」
「へえ、それは怖い」
「父が亡くなってから、母はぱったりと暴力を辞め…次いで生きる事も辞めました。私は留め金にはなり得なかったという事です」
「自殺?」
「ええ、服毒死…でした」
この青年は驚きもせずに私の話を聴いて、足取りも緩む事は無い。
もしかすれば、私の探す里の住人かもしれない。
悪魔の里と云っても、それはサマナーが住む処であって、今も普通に存在している可能性が有る。
あの颯爽と外套を翻していた書生さんも、綺麗な金属の管を胸に携えていた。
私には視える悪魔とそうでない悪魔が居たが、彼は出来る限り私の前で召喚を行わなかった。
土産として連れ帰った私を、サマナーに育てたいとは微塵も思っていなかったらしい。
「あれからは、遠い親戚の家で暮らしました。他の地域に行って解かりましたよ、自分の居た処の…何と閉塞的な事か」
「田舎とはそういうものでしょう」
「蚕達を見ていて、昔は得体の知れない嫌悪が有った……その理由を知りましたね。あれは恐らく、蚕が己に重なっていた」
「フフ……出られて良かったでは無いですか、今は平凡な家庭を築いているのでしょう?」
「それはもう…息子達もようやく皆成人してくれて、これで少しは落ち着きそうです」
「本当の家族を得たのなら、それは良かった」
心からの、というよりは、さらりと流す様に云う青年。
哂って流すその姿が、悪魔の里で家族ごっこをしてくれた人に、本当に生き写しの様に酷似して。
しかし生きている筈が無い、悪魔では無くサマナーの人間なのだから。
「それでも、私はあの里の事も恋しく思いますよ。首だけ黒い犬とか、暖かいのにいつもコートのおませさんとか。あの書生さん達の使役していた悪魔は、そんなにおどろおどろしいモノは居りませんでしたから」
ヨシツネと呼ばれていた青年も、薔薇を愛でる女性も、扱いからして恐らく悪魔だったが…まるで人間の様に過ごしていた。
里は大きく二つに分かれていたが、悪魔ばかりの上里に悪魔が悪魔として蔓延る事は無く。
殆どを上里で過ごした私は、下里の平々凡々とした様子は結局殆ど見ていない。
だから恐らく、あの里に辿り着いても判らない。
「懐かしいと?」
「ええ……でもきっと、もう通しては貰えないのですよ」
「へえ、何故そう思うのです」
「私は子供という土産として持ち帰られたのですから。今じゃ白髪混じりの初老ですよ?多分、あの奥の方の里には、許された者しか入れないのですよ」
暫く歩くと、辺りはすっかり薄闇に包まれて。青年のマントコートの色が、景色に融けている。
「もう暗い、少し泊まらせて貰っては如何です」
その誘いに目を向ければ、門の灯りが見える。
私の知るあの里なのか、問い質す事はしなかった。
きっと哂って流されてしまうだろう。それに、克明にさせる必要も無いと思ったからだ。
言葉に甘えて後に続けば、星空の下に行き交う住人は少なくて。
家屋の窓からぼんやりと零れる灯りだけが、道に伸びていた。
懐かしい…?いいや、思い違いかもしれない。幼い頃の記憶は、確かに自分でも信用しきれない。
停められた水車をじっと眺めていると、前方で人と話していた青年が私を振り返る。
「貴方が嫌でなければ、養蚕をやっている家が一室空きが有るそうだ」
「構いません、寧ろ簡単にでしたらお手伝いも出来ますが。昔取った何とやら、です」
「客人に手伝わせる様な無粋な真似はしませぬ。来客なんて稀ですからね、連中も気分転換になって良い事でしょう」
がらがらと門戸を開くと、やや大きい家に入る青年。追って庭を通れば、つらつらと長い縁側が向こうの暗がりに見えた。
此処のやっている養蚕は…果たして、上里と同じなのだろうか?
「女性ばかりで申し訳ない、姦しいだろうが許してやって下さいね」
くす、と哂う青年の周囲には、きゃあきゃあと糸紡ぎと機織りの器具を携えた女性達。
どうやら繭の生産から加工まで、全て此処で行っているらしい。
「嫌だわ十四代目たらあ、姦しいだなんて」
「おや、十二人は居るから姦姦姦しいだったかな」
「酷いですわあ、もう紡いでやりませんよお」
「では、僕も報酬をやらぬよ」
「んなけったいなあ」
何の十四代目かは定かでは無いが、どうやらこの青年も里では何かを務める立場らしい。
あの書生さんも、里長と云われていたし…田舎里の割には若者を推す其処に、違和感を感じないでもない。
いや、世襲かもしれない。あの書生さんの息子なら話は繋がる。
「さて、こんなに居るのですから…この中に一人くらい、誰かに似ていたりはしませんか?」
と、その青年は、女性陣に囲まれたまま私に哂いかけた。
真意を図りかねて、少し私は怪訝な顔をしたかもしれない。
「え…?と云いますと?」
「ほら、母親の顔だとかに…ねえ?」
唐突だったので、その言葉のままに私は思わず、女性の波にぐるりと視線を滑らせた。
が、引っ掛かる顔は居ない。他人の空似も無かった。
「いや…居りませんが、どうして急に」
作務衣の女性達が、取り巻いてくすくす微笑む。
青年は異性の中に孤立していようとも、何も動じる事なく佇み私を見据える。
「ギリシア神話のアテーナーは、トリカブトの汁でアラクネーを蜘蛛へと転生させた」
「…蜘蛛…」
「そう、ですから、貴方の母上も蜘蛛女に転生したのでは…と、可能性を述べてみたまでですよ」
上の空で相槌をした。何故ならば、私は服毒死とは伝えたが、トリカブトだったとは一言も告げていなかったから。
そして今、蜘蛛だと云った。この女性達が…それに該当するのか?
だとすれば、此処は間違い無く…

「……父ちゃん?」

呼び掛ければ、哂った顔のまま小さく小首を傾げる青年。
「貴方は、懐かしんでこの里を探し求めたのでは無い。記憶が不鮮明な部分を怪しんで、此処を訪ねたのではないか?」
「やっぱり父ちゃん?でもどうして身体が…貴方の歳は…」
「僕の質問に答え給え」
ぴしゃりと跳ね除けられる。その冷涼な声音に、周囲の女性達も一斉に震えた。
いや、彼女等は悪魔、蜘蛛女だ。
紡ぐのはジョロウグモで、織るのはアルケニー。この里が編み出した、類を見ない製糸方法だった。
幼い私は、あの書生さんに連れられ…この異様な養蚕の光景を目にしたのだ。
「…そう、そうです。私はこの里で知った事を、確かに父達に伝えました……そして、悪い方向へと転がった」
軽い眩暈を感じて、額に手を当てた。
「両親は…私が殺した様なもの、なのです」
「実際どの様な物だったか、再確認したかった?」
「…かも、しれません」
あの頃、小さな私の背を軽く押し、語る書生さん……此処での父。
その綺麗な横顔を思い出し、眼前の彼に重ねた。

彼等が作った新たな手法。
それはまず、使役する蜘蛛女達に上等のマグネタイトを喰わせるのだ。
恍惚とした蜘蛛女達は、その魔力の潤いに胎を膨らませる。
まるで孕んだかの様なその下腹部の先端から、しゅるしゅると白い糸が吹き荒れる。
サマナーと睦んで出来るその糸は、頑丈で柔軟で、何より美しく煌めく。
蜘蛛女達は、自らが吐き出した糸を紡ぎ、織り、精を注いでくれたサマナーに貢献するのだと。

「教えて頂いた事は、何でも話しました。だから、アラクネーの逸話も。トリカブトの毒で蜘蛛に転生する話を、母にも…」
何とか手に入れた数体のアルケニーやジョロウグモの使役に、父は耐え切れずマグネタイトは枯渇した。
今度は蚕では無く蜘蛛、それも女性型の悪魔に執着する様になった父の姿を、母は必死の形相で睨んでいた。
見かければ、それがどんな小さな朝蜘蛛だろうが容赦無く殺し。
家周辺の蜘蛛の巣を、嵐の前には箒で引っ掻き壊す日々で。
私に相変わらず浴びせる熱湯の火傷の痕が、まるで脚を開いた蜘蛛の様な形を描けば、その肌に爪立てて引き裂いてきた。
「本当に君は善意から伝えたのかい?」
は、っとその声に眼と眼を合わせる。気付けば、青年の周囲にはぼってりと胎を膨らませた蜘蛛が数匹。
節足の先を床板に引っ掻けて、這う様な姿勢で私を見上げて嗤っている。
顔だけは女性のままの、それはまさしく悪魔と呼ぶに相応しい形。
「結局君の父も母も、何ひとつ変わらなかったのだろう?君は幼心にそれを恨んだ…」
「だから私が両親に伝えたって云うんですか!?」
「恐らく君の両親は、君ではなく“君の知る情報”を温かく迎え入れたのだ」
ああ、どうだったろうか。伝えたが先か、恨んだが先か。
「いや、いいや違う、私は……あの人達に、幸せになって貰おうと」
「僕は内容の危険性を示唆した上で、君に述べたよ?幼かったなどは、云い訳に過ぎぬ」
この青年の推測は、見てきたかの様なまでに図星である。
蜘蛛達にマグネタイトを与える事が出来る人物は、この里でも限られていた。
それは消耗が激しく、更には上手に使役しなければ、一滴残らず搾り取られてしまうからだ。
そうやって哂いながら教えてくれた人は…すぐ目の前に居る。
「適当なサマナーでは先に廃人になってしまうと、云ったよねえ…?」
「聴きました…」
「きっと、蜘蛛達に嫉妬すると。分かっていながら母に伝えたね?」
「蜘蛛に転生すれば、黄泉で父も構ってくれるだろう、と、一言添えました」
決定的だ。私は父を見殺しにし、母を唆した。
「ほら御覧よ皆、人間の何と弱い事だろうね」
輪唱する様にして、青年に続き蜘蛛達が笑った。
女性の集いに一瞬聴こえるが、くすくす響くマグネタイトの異質な雰囲気が毒を添える。
「頭は白くなり、皺ばかりが増え、それでいて蓄積し得る解の乏しさ。都合良く「愛していた」という幻想を抱くままに老いているのさ」
冷徹なまでに、私に向かって来るその言葉の雨。
ああ、昔と何も変わりはしない…随分と冷たい人だ。何も嘘は無い。
愛していた事だけを信じたくて、己に嘘を吐いて生きてきた私と、大違いだった。
「ほんに…うふふ、アタイ等を使役するなんざ朝飯前とか思っとったんでしょうかえ?」
「蚕や愛人と同じ、大勢居れば居る程世話がかかるこっちゃよ?坊や」
「坊やて貴女、もうこのニンゲンはオッサンって奴よお」
けらりからり、広間にこだまする。
それから逃れたくて、煮え湯から逃れたくて、私は数歩後ずさる。
「フフ、あまり詰るのも可哀想かな?何せ…人間の子を攫って、親殺しへと誑かしたのはこの僕なのだからね」
マントコート…外套をひらりと靡かせて脱ぐ、その姿さえ美しかった。
一歩二歩と、迷いも無く近寄って来る、床板は無駄に啼かない。この青年は、里の父は、いつも流れる様な所作で暮らす。
いつかの様に、私の肩に外套を掛けてくれた。
「一張羅でも無いからね。帰り道は寒かろう?餞別にあげる」
「あの頃の私を…誑かしたのは…どうして」
「どうして?君が一体、いつになったら親への憎悪に気付くのかと思ってね、面白そうだから仮初の親になってやったのだよ」
外套が氷の様に冷たい、人肌で温い筈の内側はマネキンにでも掛かっていたと錯覚しそうな状態で。
私は震えている…しかし、寒さとは違う。畏怖に震えが止まらない。
冷たい氷の様な人でも一時は父と呼んだ、その事実が心を捩じり切りそうになった。
幼い私が溺れる蚕の茹で釜に、蜘蛛の糸を垂らした青年の姿が脳裏に浮かんだ。
「確かに…確かに私は!父も母もどうしてこうなんだと、苦しかった、寂しかった、あの人達から気付いて欲しかった!でも訪れなかった!」
あの頃、私を煮え湯から掬い上げて…救いあげてくれたのは…間違い無く目の前の…
この、仮初の父だったのに。
「貴方が私で遊びさえしなければ、殺す事も無かったのです!」
しっとりと白檀の香る外套を、投げつける様に叩き返した。
「化物!人でなしっ!」
床に落ちる外套を見る事もしないで、私に向かって哂ったままの青年。
父ちゃん、と、呼んでみた時に返される微笑みと同一で、ブレが無い。読めない、昔から。
多分、私と出会うもっと以前から、この青年の冷笑は溶けないのだろう。
「父と、一度でも呼ばせた貴方を呪ってやりますよ…!もう…父ちゃんなんかじゃ、ない」
大人気無くも、眼の奥がつんと熱くなっていた。
意識して忘却していた殺しの事実より何より、もっと他に突き上げる衝動が有った。
郷愁は嫌悪と憎しみへと育ち、私は来た道へと戻る為、駆け出し始めた。
重苦しい会話と空の色に反して、心は妙に軽い。
殺したのは…私だけの責任では無い。そう、私は嘘吐きな大人に騙されて、誑かされていたのだ…
それが判明しただけでも、今日という日は無駄では無い。この里帰りは、悲劇では無い。
そしてもう、二度と帰らない。
「大人って、嘘ばっか…」
憎悪の割には、何故か頬を伝うのは滴ばかりで。
思わず昔の口癖を呟いた。







「あー面白かったあ。最近イベントらしいイベントも無かったからなあ」
「それにしても、人間て老けるの早いわねえ〜。こないだ会った時はまだあんなおチビだったじゃないよお」
「ジャリの次の瞬間にはオッサンとは……イイオトコの時期は酷く短い!ほんに、十四代目が小奇麗な状態で悪魔んなってくれて助かったわあ」
きゃあきゃあと姦しい集団に、掌をひとつ鳴らして号令する。
「持ち場に戻り給え、見世物は終了したろう」
「でも十四代目ぇ、折角此処に来たんだからぁ…MAGのサービスしてくれたって良いじゃあないのお」
甘える様にして僕の肩に脚を引っ掻けようとするので、目配せで床の外套を示す。
促された事に気付いたジョロウグモは、節足の先端に外套を引っ掻け、改めて僕の肩に項垂れる。
「どうも」
それだけ受け取る様にして節足を掌で押し返せば、眉を顰めた蜘蛛が女性の顔で拗ねる。
「んもお」
「足りている筈だが?」
「んま、そうですわ。今織ってる分が出来上がる頃、もう一度吸わせて貰ったらそんで良い感じです」
「養分の与え過ぎは駄目なのさ、供給のバランスが崩れては普段の調整も無意味に終わるからね」
「でも、サービスしてくれたらもっと艶っぽ〜いイイ糸が紡げそうじゃないですの?」
「今の出来で充分、いつも御苦労」
軽く足の先端に接吻し、にたりと哂いかければひくりと胎が蠢くのが見えた。
楽なものだ、手懐けるなど昔から容易い。
「あっ!ズルいわアンタだけ!ねえ十四代目ぇアタシにもお」
寄って集って僕からMAGを搾取せんとする蜘蛛達を、外套を羽織って掃う。
「僕に糸を付けるでないよ、帰って何を云われるか分からぬからね」
そう唱えれば、黄色い声音もやがて静まる。
皆、アレの嫉妬の焔は恐れているのだ。
「人修羅様にもそろそろ新しいお召し物作りましょか?最近こっちの里に来ないでしょうあの方」
「んなアンタ、オンナノコじゃあるまいし、着物じゃ機嫌は取れんわよ」
「物じゃなくって気持ちの問題よお。物がたとえしょぼくたって、十四代目の口上で価値はグンと上がるでしょ」
「んん?ってか今って雄?雌?どっちのお身体なんだろ」
いや、やはり面白がられているのかもしれない。
どれだけ年月が経とうと、人修羅は女性悪魔におちょくられてばかりだ。
「どちらとて、君等には関係無い」
云い残して勝手口に向かえば、背後からはひそひそと皆で話す声。
僕の聴力が、人間よりは少しだけ優れているという事を知りながらにあの声量。
「「君等には関係無い〜」だってさ」
「ま、そらアタシ等には人修羅は関係無いけどさ。どっちの性別だって、さほど着物に変化無いし」
「けどねえ?」
「ネエ?わざわざ云わんとでも…うふ」
「相変わらず冷たいっちゃねえ、ショボーはそこにベタ惚れぽいけど。人修羅もそこが良かったんかしらね?うふ」
好きに推察し、語らえば宜しい。敢えて云い返す事も無く、扉を閉めた。
表に出て空を見れば、既に山の影は夜空と同化し始めている。星空が輝くには、阻む雲が多くて難しい天候。
昔に比べ野犬の類は少ないが、はたして無事に帰り道を辿れたのかね…と、先刻の彼を思って失笑した。
駅まで着けば、とりあえずベンチに横になって休憩くらいは出来る。明日の電車を其処で待てば良い。
(今宵に限っては、悪夢を見るだろうがね)
突き返された外套は羽織るだけにして、留め具も掛けないまま社に向かう。
堂々と土足で立ち入り奥の扉を開けば、鼻腔を擽る雨の様な薫り。
水を与えられた曼珠沙華の列が僕を迎え入れ、庵へと向かわせる。
「お、旦那、丁度良いトコにお帰りで」
へらへらとした声音で、曲がり角から僕を呼び止めたヨシツネ。
黒髪を適当に束ね、擬態姿に甚平という軽装。本来の重装備とはえらい違いだ。
「俺の甚平縫ってくれるように、下里ん蜘蛛女共に依頼しといてくんね?そろそろボロくなってきてよ」
「そのくらい己で伝え給え」
「だってアイツ等、旦那の頼みじゃねえと働かねえもんだから」
「知らぬよ、ユニクロでも勝手に行けばどう」
「はあーっ!?俺ぁ人混みがこれでも苦手で…ってちょい、待ってくれって旦那ぁ!あの店に甚平なんて有るのかよ!」
しかし追って来ない。僕の気が乗らぬ時は何を云っても無駄だと解っているのだ、ヨシツネは。
付き合いが長いと、向こうも懐柔されてくれるので楽である。
「また薙ぎ倒して、じゃじゃ馬め」
モー・ショボーの通った風の獣道を辿り、僕は住処の庭に顔を出す。
傾いた様に並ぶ草木と曼珠沙華から抜け出せば、縁側に仁王立ちする奴が僕を睨みつけていた。
「それを近道に使うのは、何処の野郎だ?」
「知っているかい?山深き森林内に唐突に現れる彼岸花の郡、それはね、其処にかつて人里が在った事を示唆しているのだよ」
「訊いてない、話逸らすんじゃねえよ」
庭から庵に入る僕を、ちくちくと視線で責める。
御構い無しに外套を脱ぎ、片手で人修羅に放った。
「靴は自分で玄関口に移せよ」
「良いよ、また庭から出て行くからね」
「俺が気になるんだよ!くそっ……」
かっかしながら、僕の靴を屈んで掴む人修羅。その袴の翻りを見て、着物の事を思い出す。
しかしジョロウグモとアルケニー達の想いを余所に、僕はもっと気になる事を問い掛けた。
「ねえ、ユニクロって甚平売ってるのかい」
一拍置いてから、怪訝な表情で振り向く人修羅。
「何だよ唐突に…あんたそういう所の服着ないだろ」
「どうなの」
「俺は人間の街どころか、最近は下里にだって行ってないんだぞ、知るかよ。それに今は夏じゃない」
と、外套を両手で広げた人修羅が、更に眉を顰めた。
黒い布壁の向こうで、ぼそりと呟かれた言葉が僕の鼓膜を揺らす。
「…臭い」
「へえ、何のニオイだい」
「蜘蛛の処行ってたろ、あんた」
「フフ、妻の素振りで嫉妬でもしてみるの?」
「するかよ、家畜に嫉妬なんか」
彼にしては反射的に怒らなかったと感心したが、述べている事は相変わらず冷淡だ。
悪魔に対して、恐らく死ぬまでああなのだろう。
「そうだね、他では生きられぬ様に使役している」
「残酷な奴」
「おや、僕だけがそうさせた訳では無いだろう?自然と出来上がった形さ」
住人は里の中で番い、子孫を作り、また番う。
君は僕と番い、生まれた僕とまた番う。
此処が一つの蚕室の様なものだ、と、ふっと感じた。
それをあの子にも云った事があった気がする、かなり昔の事だろうが。
「この里の人間は、生まれた時より里の物、僕等の子なのさ。どれだけ老いようが、大人になぞ成れぬ。思い悩む観念が育たぬ繭のまま、外に出られぬのだから」
「あんたはそれを非道と思わないのか」
「外に出た者を糾弾はせぬだろう?」
そう返せば、君は下げた外套の襟の上から、僕をやぶ睨みする。
「そもそも、外で暮らそうと考える奴が、居ない……」
「そうさ、外の世界を知ろうが護るべきは此処での己だと、そういう固定観念が生まれる。濃い血は呪い、悪魔とは違うこれもひとつの使役だろう?」
こういう事を述べる僕を見る君の眼は、冷めてて少し心地が良い。
それでも縋る他無い君こそを、まさに僕が使役しているという心地に酔い痴れる事が出来るから。
「…なあ、蜘蛛達のMAGは判る、糸引いてて納豆みたいにしつこいからな」
「他に何か?」
外套の襟元に顔を埋めた君が、そのままもごもごと返事する。
「何か…オッサン臭いっていうか、ポマードっぽいというか……」
おやおや、と哂ってしまった。
一瞬肩に掛けただけなのに、人間の移り香とはそんなに強いものだったか?それとも人修羅の鼻が良いだけか。
幼いあの子に掛けてやった時は、それはそれは生ぬるい蚕風味の煮え湯の香りだった。
虐待を受け入れるまま、素直に親を想う子供の姿。人間が、嘘を吐けない純な年頃。
「もしかして、加齢臭って奴か?でもあんたからはしないし…まさか、そういう相手と、何かしてきたのかよ」
「僕にその冗談かい?それは冗談にならぬから、つまらないね。御上共の様なしわがれ相手は、過去に腹一杯させられたさ」
人修羅もそれは無いと踏んでいるのか、それ以上の追及はしてこない。
が、矛先は別の推測に向いて、詰め寄る様に僕に歩み寄る。
「おい、歳取ってないだろうな、あんた」
人修羅の声音に恐怖が滲んだのは、どれくらいぶりだろうか。
ぞわりと爪先から天辺まで、熱く血が通る音を内部に聞く。
端的に云えば、興奮したのだ。ボルテクスの頃は頻繁にあった、この昂揚感。
カグツチの影響では無い、僕のバイオリズムは人修羅で決まるものだったから。
「どうだろうかね?フフ…君が拒絶してばかりでなかなか行為に及ばぬと、僕も下手すれば老化するかもね?」
「…あのな、産むのが楽だと思うなよ」
「痛いのだろう?僕は知る事の永劫無い感覚だがね」
しかし、その苦痛を知りながらも独りでは生きられぬが故、歯を食い縛るのだ、君は。
「最近、そこまで拒否したか?俺…」
「忘却する程、退屈させたかい?もっと激しくするべきかな?」
「そんな要望出してないだろ。どうしてあんたはいつも自分の良い様に解釈するんだ、苛々してしょうがない…!」
憤慨して、僕を責める君。
罵倒されようが詰られようが、僕は昔からそんな事には慣れている。
人間の頃の様に飲食し睡眠を摂り、人間の様に住処を持って暮らす。
ただ使役するだけならば、シトリの様に蔵か、それとも管に仕舞ってしまえば容易い。
何故この様な「ごっこ遊び」をしているか、君も半分程度は理解し始めたのではないか?



「そういえば…あんた、子供を連れて来た事、有ったよな」
褥で横たわり呟く人修羅の頬を、窓からの月明かりが照らし出す。
斑紋の光が炙りだされる様にして浮かび上がり、僕はそれを視線で撫ぞった。
別に僕は、普段からその悪魔の姿でも構わないのだが、人修羅は意地でも擬態を続ける。
老いぬ身体、老廃物の匂いさえ無い、時を感じさせぬその肉。
主に滲むのはMAGの香り、その内より出でるエネルギイそのものと、生活の移り香だけ。
料理の薬味の香りだったり、シャボンの香りだったり。それ等は、風と共にすぐ霧散するのだが。
「記憶力の乏しい君にしては珍しいね、何故思い出したのだい」
「俺が、シないからって…あの時云い訳してたろ。どうしようもない云い訳だ…」
「おいおい君、そこまで即物的な物云いをするでないよ。生命維持の為には必要不可欠なのだからね」
「また拒否しまくったら、同じ事するのか」
「あんなの、気紛れさ。生きている子を用意したからとて、君に母性が生まれるとは思っていないよ」
褥から身体だけ起こし、物書き机の抽斗から煙管を取り出す。
「君は男だからね」
貧相な肢体の雌の形をした君に、哂い掛ける。
「人の事女にしといて、よく云うな」
今がちょうど女性だったのが災いし、まんまと僕に抱かれてしまって只今憔悴中なのだろう。
指先に携えた煙管を口先に銜えて上下に振れば、溜息して眼を光らせる人修羅。
その憂鬱な吐息が火を点し、煙管からふわりと煙が立ち昇る。
「野郎が中身の女を抱いて、混乱しないのかあんた」
「せぬよ、だって功刀君は功刀君だろう?」
白い煙と共に吐き出せば、君はその言葉に一瞬息を止め、枕に顔を突っ伏す。
その、黒髪から覗く耳が、ほんのりと赤い。憐れな事に、人修羅となってもそういう身体変化は変わらないのだ。
其処に一石投じたくなるのは、きっと僕のイイ性格がさせる事だろう。
「性別が変わろうが、嘘の下手な子供の様に愚直だものねえ…?」
「…っ、そういう事かよ」
背伸びばかりして、一刻も早く利口であろうとする少年。
真意は塗り固めた繭の隙間から、ゆるゆると滲んでいるというのに。
残念な事に、君は僕に対して天邪鬼だからこそ、更に判り易いのだよ。
「そして悪魔の身、形からも大人になれぬという現状さ。君はこれからも、何もきっと変わらぬよ」
「あんたこそ、ガキみたいな野郎じゃないかよ。云っとくが、大正時代からな!」
「正直だろう?何せ、大人は嘘ばかりだからねえ…」
窓辺の空から、朧月が見える。其処にふうっと吹き掛けて、更に雲を纏わせてみる。
薄暗い部屋の中、傍から僕を見つめる双眸。金色はこれさえ在れば充分。
「大人は嘘ばっか…って。何かそれ、よく聴いた気がするな」
「そうかい?気のせいじゃないの。海馬も不老とは限らぬからね」
「どうしていつも悪く云うんだ。他人に好かれる気ゼロだろ、あんた。だから契約相手しか取り巻きが居ないんだ」
「君が云えた事かい?無自覚よりはマシと思うがねえ」
悪い相手と居た方が、己を可愛がれるだろう?
精神の弱い君等は、そういう奴の隣が居易いというのに…その癖に文句するのだから。
「…あの子、今頃何してるんだろうな」
「大人になったろうさ、何せ成長する人間様だからね」
子供は、嘘吐きになっていた。
呪う気なぞ、さらさら無い癖に。
でも、それで良い。真実に対峙した際、なすり付けられる何かが結局は必要だったろう。
攫った御代は、先刻払った。これで帳消し、僕等が悪い蟲だったという事で解決である。
「でもあんた、あの期間…割とまんざらでも無かった…っぽいよな…?」
人修羅の確認に、僕は頷く事もせず煙管を振るった。
「偶の部外者は、良い刺激になって愉しいだろう?」
「余所の子供攫っておいて、よくもいけしゃあしゃあと……本当に悪魔みたいじゃないかよ」
「殆ど悪魔の様なものになったろう?僕も」
盆に灰を落として、寝物語に歌う。
「玉繭という、通常より大きな繭が稀に出来る。異質な理由、それは一つの繭に、番いの雌雄が共に眠っているからだ」
「…どうしてそんなの出来るんだ、普通は単体で繭になるんだろ」
「どうして?さあね、己で考え給え」
実際、明確な理由は明らかにされていない。
節が有って糸が取りにくい為、玉繭は廃棄される事が多いのだ。
中の番いがその運命を知る訳は無いだろうが、それにしても理由は謎である。
「あんた、どうしてそれを今話した」
「全く…君は問うてばかりだね、推理せねば脳が退化するよ?」
結局、先がどうあろうと、同じ繭に入るのだろう。
共に眠る理由は、内の番いにも恐らく解からぬのだ。
そうしたいから、している。それだけだろう。
その感情に理由を求める事が無駄だと、今なら解る気がする。
「ただし、僕等の繭に人間は入れぬ。すぐに死に絶えてしまうからね」
管に容れた悪魔のMAGを感じる事は、酷く難しい。
絹糸の壁一枚隔てるのも、それと同じ事だろう。
「あの子はさっさと羽化したのか」
「そういう事さ、僕等が繭に置き去りのまま。この先ずっと何十年も、下手すれば何百年もね」
「それは…化石になるな、俺達」
失笑した人修羅の斑紋の光を、今度は指先で撫ぞってみた。
びくりと反射は有るが、払い除けられる事は無かった。
攻撃かそうで無いかは、流石の君も判断出来るのか。
「居心地悪いけど、あんたが無理矢理俺を容れたんだもんな…不可抗力だ」
「夢の無い玉繭だね」
「どうせ煮殺されるんだろ、夢も何も有って堪るかよ」
「ボルテクスの繭よりマシだろう?死ぬまでせいぜい謳歌しようではないか、ねえ?」
盆に置いた煙管から手を放し、腰の掛け布団で僕と君を、頭まですっぽり覆い包む。
わ、と声を小さく上げた人修羅は、続いて息を殺すかの様に押し黙った。
金色と斑紋だけが光る、存在を互いしか感じられない窮屈な暗闇の中。
小さく「夜」とだけ発したその麓に口づけて、MAGを啜り、同時に与える。

玉繭を割ってみせると、中から融け合う奇形が出てくる。そんな事を脳内が連想し始めた。
このまま…それも、悪くないかもしれない。
年を追う毎に、思考回路も更に悪魔らしくなってきた今日この頃。
あの頃、サマナー達の交易は愉しく、魔の身体を得た僕は少し浮足立っていた。
そして、更に酷く気紛れだった。
魔具や絹と同じ様に、ふとした直感で子供を持ち帰ったが……きっともう、人間は攫わない。
同じ繭では生きられぬと、よくよく理解したから。
煮え湯を飲まされる家には、もう居ないのだろう?無事に羽化出来た訳だ、飼い殺しされる事も無く。
だからずっとさようなら、僕等の蚕。
彼の中の郷愁は化石となり、やがて風化するだろう。

まどろみの錯覚の中、眼を瞑る…
シルクロードの夢を見た。悪魔だらけの絹の道、綺麗な魔の糸が織りなすこれまでの景色。
遠くに見えていた人里は、やがてぼやけて海に沈んだ。
砂丘のど真ん中、君と僕だけが残った。
そのまま沙漠の砂となるまで、ずっと生き続ける夢だった。
これが悪魔になるという事か、と、夢の中で哂った。


玉繭の化石・了


↓↓↓あとがき↓↓↓
書き出しから日をあけてしまったので、いつも以上に纏まりに欠けてます。 「袂雀」は別名「夜雀」。高知県高岡郡での呼び名らしいですが、場所は考えず題材として使いました。
養蚕業に関して少し調べたのですが、なかなか凄い。帰巣本能を殺がれた完全な家畜化を遂げていて、しかも羽化しても飛べない。
「羽化したのか」と、劇中で人修羅に云わせてますが、飛べている訳では無いという暗示です。
ライドウは、使役や婚姻など、契約の形式を取らないと共に居る事に不信を感じる。何をされても親を無償に愛せる者が、理解出来ない(SS「揺籃歌」にもその描写が有りますが…)
多分「私」と過ごした一時は、それなりに愉しかったのでしょう。悪役の必要性を説く夜。

それにしても色々済んでいる後だから、ナチュラルにべたべたくっついてて、書いてて少し恥ずかしいです。

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