(畜生……胸糞悪い……普通にヤれば良かった)
昨晩の名残が、精神疲労を催している。
俺のなけなしのお強請りは、大爆笑した夜で無為に終わった。
腹を抱えて笑いながら、ベッドから転がり落ちる始末だ。
そこまで笑う事無いだろうが、しかもちゃっかりゴムまで装着して戻ってきやがった。
意地が悪いにも程が有る、俺が気分じゃなかろうが器が欲しい時は生でヤる癖に。
「どうしたのだい、折角の予選だというのに気もそぞろで」
観戦にはしゃぐどころでは無い、目の前を通過するマシンにつられて沸き立つ観客席。
その足下に光る指輪が落ちてはいないかと、隙間を縫って俺は視線を泳がせるばかりで。
踏まれて砕ける石とは思わないが、案外細工は華奢なので金属部の破損が不安だった。
「功刀君」
「試合は観てる、ただちょっと、眩暈がするから……下向いてるだけだ」
「君が昨日応援していた選手が抜かれているよ」
「何っ」
夜の肩を押し退け、上背の高い異国人達に苦心しつつ背伸びした。
だから妙に盛り上がっていたのか、此処は丁度抜き易いカーブに近い。
「うぉ」
急に視界が高くなったので何かと思えば、夜が俺の臀部に腕を添わせ、そのまま持ち上げていた。
あっさりと片腕でやってのけるものだから、少しヒヤリとする。
周囲の視線は殆どがコースに向いている、それでも日本人の唐突なウエイトリフティングはビビるだろう。
若いままに半魔と化した夜は、異国人からすれば子供同然。
それが異様さを強調する、擬態ってのは外見変えるだけじゃないだろ。
俺の様な……斑紋やツノが無いからと、油断し過ぎだ。
「おい、背負うとか肩車にしとけよ、こんな……片腕で」
「肩車は背後の客に迷惑だろう、それにがっつりとMAGを吸われそうで嫌なのでね」
確かに肩車よりはやや低い位置だが、殆ど変わらないだろう。
モミアゲの目立つ耳元に口を寄せれば、イチャついているバカップルに見えるのだろうか……
最悪だが、こんな喧噪の中……流石の俺達も、声は近い方が聞き分け易い。
「こんな所で食事しないぞ俺は、そもそもあんた昨晩はロクにMAGを――」
と、群を抜いて甲高い音、すぐ近くを滑走している空気振動が俺を惹きつける。
見下ろす路面に靡く色は、俺が応援している選手のマシンとは違う。
「なんだ、どうしてだ」
「納得いかない?」
「だってあの選手……昨日も下位だったし……これまでにも、あんな走り見せた事無いぞ」
首位争いは、緑と赤がよくぶつかりあう。
しかし今日はぶっちぎりで、黒いマシンが先頭だ。
「解説も驚いているね」
夜を見れば、耳元に何かがハマっている。イヤホンだ……此処で中継を聴いているのか。
ただそれは恐らく異国語だし、周囲の観客が発する野次も俺には分らない。
「……マシン変えたとかも聞いてないし、いきなりこんな速くなる訳が無い」
「能力が開花したのではないの?」
「そんな唐突な訳あるか、それなら昨日の走りの時点でレベルアップしてるだろ」
再び目の前を通過する、周囲の野次も一際大きくうねる。
黒いマシンを凝視する俺の項が、かあっと熱く痺れた。
空気にぶれていた動体の色形が、固定される。
集中して目視すれば、ある程度鮮明に判る。自身も動く事の多い戦闘中より、はるかに易い。
(なんだ……違和感を感じる)
何処か別の視え方で、そのマシンと……選手を捉えている、この眼が。
まるで悪魔と対峙している時の感覚が、一瞬で過ぎ去って往った。
「もう良いかい功刀君、少し向かう所が有るのだけれど」
「……あ、ああ」
するりと降ろされた俺は、すぐに袴の崩れを直す。
やはり面倒が多いので、ホテルに帰るまでに軽装を手に入れたい。
「何だいその手袋、寒いのかい」
訊かれてから、夜の視線の先を辿る。
俺の手に注がれているそれを引っ剥がす為、適当な言い訳をしないと……
「万が一擬態が解けても、手はこれで見えないだろ」
「他が丸見えだけど」
「両手で顔を覆えば良いじゃないか」
「ツノはどうするの」
「……あんたが外套でも羽織らせてくれたら、大丈夫だろ」
「やれやれ、君の為に真夏だろうが外套を着ておかねば」
放っておいても年中着てるくせに、とは突っ込まずに、口を噤む。
皺の寄った袖を整えた夜が離れようとするので、思わず後を追った。
夜は相変わらず人混みを掻き分けるのが上手で、その十戒の如し道を俺は進むだけだ。
「来てもつまらぬと思うがね」
「俺、此処の言葉話せないんだぞ? 置き去りにしてよく平気だな」
「特徴的な格好をしているから、捜すのは楽さ」
「なんだよ、そんな理由で和装させてるのかあんた」
「試合の決着は観なくて良いの? 恐らく瞬間までに僕の用事は終わらぬよ」
それまで独りか……と思案し始め、今更はっとした。
そうだ、その合間に指輪を捜せば良いじゃないか。
◇◇◇
「Hola, guapa! Estas sola?」
左隣の酒臭い男に声を掛けられたが、俺は無視した。
無視というよりは、言葉も分からないし余裕も無かった。
「功刀君、返事してやらぬのかい」
「嫌だ、どうせロクな事云ってないだろ」
右隣に座る夜が、グラスを煽ってニタニタ哂う。
どうしてカウンター席なんだよ、バルなんかに立ち寄りやがって。
活気の有る……と云えば聞こえは良いが、賑やかなのは昔から苦手だ。
「Conozco un sitio muy bueno. Vamos juntos?」
まだ何か続けている、このまま無視を決め込んだとして、鼓膜に悪い。
同じ様にアルコールを摂取しているのに、どうして左右でこんなに差が有るのだろうか。
「おい……何て云ってるんだ、左の人」
「“お嬢さんお一人? 良いトコロ行かない?”」
「行くか馬鹿」
「Ve te a la mierda! って返してやり給え」
「べ、て、あら……みえるだ? どういう意味だそれ」
「“あっち行けウンコ野郎”」
啜っていた炭酸水を噴き出しそうになった。
危ない、そのまま受け売りで左に伝えていたら面倒になる所だった。
人の気も知らないで、夜はアヒージョのオイルをバゲットにたっぷり染み込ませていた。
パンやドーナツを珈琲に沈めたり、こいつの食事は幼児性を時折匂わせる。
かと思えばお高いレストランでは堂々として、汚さず綺麗に平らげる。
まるで子供みたいだ、実際俺の子供と云っても過言では無いが……
「摘まむかい」
「要らない、エスカルゴは苦手だ」
「オイルは甘いのに」
「もっと穏便に済ませようとしないのか、あんたは」
「喧嘩したとして、負けるつもりも無いだろう?」
「俺は喧嘩しに旅行へ来たつもりは無い、あんたも自重しろよ……里の中ならともかく、此処は外だぞ」
「おや、僕は君に産んで貰うより以前から、この様に酒場を愉しんでいるがね」
「豪語する所かよ」
「君は追加する?」
「要らない」
「Disculpe……un kalimotxo, por favor」
慣れた風に注文する夜は、容姿さえ除けば現地人の様で。
この店内で違和感を発しているのは、恐らく俺だけだ。
左の男は相変わらず勝手に喋り続け、俺の着物袖を軽く掴んで酒臭い溜息を吐く。
葉模様の影に蜥蜴の刺繍を見つけては「ハハ!」とか盛り上がって煩い。
否定する訳では無いんだ、染めと刺繍が立派だとは思う。
夜の選ぶ着物だから、これの品質は間違い無い。
だから汚してくれるなよ、と思ったが……そもそもこの店が汚い。
スペインの基準でいえば、バルなんて何処もこんなものらしい。
高椅子から上は問題無いが、とにかく床が凄まじい。
楊枝や丸められたナプキンが山になって、混雑時にはそのまま放置ときた。
山が高い程、その店が繁盛している証らしいが……俺には居心地が悪い。
「だから大衆酒場みたいな所は嫌なんだよ」
「君も潔癖だね、座っていれば床など見えないだろうに」
「この後降りるだろ、踏みそうで嫌だ……って、あんたの頼んだそれ何だよ、どす黒い血みたいなソレ」
「カリモーチョ。赤ワインとコーラを合わせたジャンキー飲料」
「スペインならサングリアじゃないのか、そんなの家でも飲めるだろ」
「サングリアを出す店の方が少ない事、気付いておらぬのかい?」
聞いた限りでは、カリモーチョは安酒の類だろう。比率を変えれば俺にも飲めそうだ。
いや、絶対飲まないが。
何度だって反芻するが、そんな気分では無い。
結局指輪は見付からず、左手を今も袖の内に隠している。
明日の決勝を見終えたら、恐らく日本に帰るだろう。
会場の落し物に貴金属が届く事は、海外だから殆ど無さそうだ。
夜に一言伝えれば、捜査のプロらしさを見せつけてくれる事だろう。
しかしそんな事をしてみろ、どれだけ酒の肴にされるか分らないぞ。
「早くホテルに戻りたい」
「タパスをもう一つ頼もうと思っていたのだけど」
「食い過ぎだろ、燃費が良い癖に何粘ってるんだよ」
「さっきの用事はね、商談の様なものだったから口車を回し過ぎてねえ……喉も腹もカラカラなのだよ」
本当は喰わずとも平気で数日居られるのに、夜はこの様子だ。
味覚も俺より残っているから、食に貪欲な所はそのままで。
同じ半魔だというのに不公平だと、改めて感じる度に苛々してしまう。
畜生めと視線を逸らせば、フロアの壁に設置されたTVモニターが目に入った。
一面人の海、それを割る様に挿入されるカット、アスファルトにたなびく色の帯。
今日の昼に観てきたGPの映像だった。既に編集されている為、結果画面にすぐ飛んだ。
表彰台に上るTOP3、見慣れぬ顔が頂上に居る。
あの妙に速かった選手、名前の表示を見ると《Angel》と有った。
「……エンジェル?」
「アンヘルだよ、この辺の男性名では珍しくも無い……天使という意はそのままだがね」
「綴りも同じじゃないか、ややこしいな……」
「そうそう、この選手に負けてしまってねえ、僕がスポンサーしてたチーム」
「二位と三位のどっちだよ」
「秘密」
「どうして」
「君が露骨に応援しなくなりそうだから、伏せておいた方が面白いかと思ってねえ……フフ」
出た、俺を悩ませる為だけに生きていると云わんばかりの、この言動。
此処で怒り狂っては、こいつの思うツボだ……
そろそろガスの抜けてきた炭酸水で、無理矢理に言葉を飲み込む。
(どれだけ出資しているか謎だが、何処かにヒントが有るかもしれない)
モニターに映る選手達のレーシングスーツを、じっと眺める。
刻まれる名や意匠は、まあまあ知名度の有る会社ばかり。
色々な事に手を出している夜だが、表立った組織は持って居ない。
里は集団だが、手足として従えるのは殆どが悪魔なのでフリーランスに近い。
表面化していないから、メディアから探し出すのは難しいだろう。
諦めて視線を外そうとした瞬間、ビール雨を浴びる優勝者がスーツの首元を軽く開いた。
「あーッ!」
唐突に叫び立ち上がる俺に、周囲が静止する。
眼も耳も熱い、だが今は目立ってしまった羞恥よりも、先立つ気持ちが有った。
(どうして……あんな所に)
よろよろと座り込む俺に、左側の男も軽く身を引いている。
「Disculpeme」
夜だけが飄々と唱え、更に何か一言二言発して周囲を笑わせていた。
俺は言い訳を探しながらも、墓穴を掘りに口を開いた。
「おい、あんた関係者なら……選手と直接話せたりするのか」
「君、そんなに鎖骨フェチだったのかい」
「違う! その……」
駄目だ、あまりに直接的な単語を出しては不味い。
それとも、こいつも気付いたのだろうか?
優勝者の首から提がるチェーン、それに通された指輪に。
「いや、何でも無い……ちょっと、結果に不満が有っただけだ」
追求されるかと背筋が凍ったが、夜は特に返してくる事も無く、懐を探っていた。
すっかり飲み干されたカリモーチョ、指のパンくずは既に拭われている。
「さて、そろそろ行こうかね、君の左耳が腐る前に」
夜は勘定を済ませ、椅子からスッと降りた。
俺も袴を軽くたくし上げ、汚い勲章の山を避けつつ降りた。
左側の男が、酔っている割には真摯な声音で「チャオ」と俺の背に発している。
振り返り、初めてしっかりと顔を見た。白い肌は赤らんで、頬はそばかすが散っている。
先刻モニターで見た優勝者の男と、あまり見分けが付かない。
あのアンヘルという男も、そばかすが目立つくせっ毛だった。
違う所といえば、髪色だけか……この男は金髪で、アンヘルは茶髪だ。
(外国人って見分けが付かないな)
ナンパはしつこかったが、悪意は無さそうだ……意外な事に追い駆けても来ないし。
挨拶くらい返すべきか軽く迷ったが、夜に手を引かれて意識が流れた。
バルの扉が開き、夜風が心地好く頬を撫でていく。
並ぶ建造物の淡い壁色と、反してビビッドな屋根色に異国を感じる。
「……おい、手、もういいだろ」
繋がれた右手から、しっとり伝わるMAGの交流。
「左手の方が良いかな。此方からは目視出来なかったが、触れられた可能性が有るしね……」
そう云って離れていく夜の手を、今度は俺から握り締めた。
勿論、右手で。
「い、いいそんな……触られてないし、あんたがこのまま道路側歩け」
「そうだね、君の存在感ではタクシーが気付いてくれなさそうだし」
「そんなに身長差無いだろ!」
今、左手を掴まれたら不味いんだ……
薬指の空虚さに、気付かぬ夜では無いだろう。
「……おい、途中で服屋に寄れ」
「イブニングドレスでも買うのかい」
「違う! 明日の観戦はもっと軽装が良い、それだけだ」
そのまま繋いでいて欲しくて、そっとMAGを俺から与え続けた、タクシーが停まるまで。
-つづく-
↓↓↓あとがき↓↓↓
数年ぶりに手を入れて、ようやく完成。リクエストして下さったおかげで、日の目を見る事となりました。
暴れたりするシーンは少ないですが、矢代が性懲りもなく掘る墓穴を、どうか覗いてやって下さい。
タイトルの指輪画像は、ダイヤの指輪というある種抽象的なモチーフをO(オー)に充てているだけです。
彼等の結婚指輪はもっとフラットなイメージ。