狐の化身
烏の羽衣纏いて哂う
その姿、闇夜の如し
悪逆非道ながらにして烏の手脚なりけり
この國(くに)はその様な翳りの妖(あやかし)に護られている…
砂上の楼閣よ

                『悪魔草紙〜陰徳篇〜』より



帳下りて草紙綴らん



「で、其処に《よめごの間》という処が在ってね…」
「…」
「ふふ、実に悪趣味だと思わないか?」
朝霧が、格子窓の向こうに漂う。流石に少し気怠いのか、やや途切れ途切れにライドウが述べている。
「どっち…が…」
「何?」
「それを、悪趣味とか…人の事、云えるのか」
先刻目覚めたばかりの俺は、それこそ絞り出す様にして吐き出した。
いつから気を失ったのかすら分からない。記憶は酷く曖昧だ。ただ、ようやく表皮が整ってきた脚を見る限り…昨晩は手酷く扱われたのだと察した。
「失敬だね…僕は君を利用しているだけ…慰み者の様にはしないよ」
くすくすと哂って、立てた片膝に煙管(キセル)を掴んだ腕を乗せるライドウ。
すぅ、と毒を吸って、その先端が熱に光る。
「何が、だ…っ」
横たわるまま、俺は歯痒くて指先で布団を握り締めた。
それなら、何故俺の腰はこんなに重い?股の間の残滓が、乾燥してかさつく?
睨みあげる俺の顔に、ライドウは吸った毒霧を吐きつけてきた。その煙たさに咽かえって、口元を思わず覆った。
「っげ…ふっ!ごほっ…!」
「一応夫だからねえ…遊郭で発散していた分は、今後君にお勤めしてもらわねば」
「っく…そ野郎がっ」
今の紫煙でか、昨夜酷使されたと思われる喉の所為か、俺の悪態はかすれて弱々しく情けないにも程があった。
「十四代目」
…と、急な別の声に、俺は身体を強張らせる。襖の向こうから聞こえてきた。
「何だ…」
紫煙では無く、底冷えする空気に白い息を吐いてライドウが応える。
「御支度が出来ましたので、報告に上がりました」
向こうからの声は、酷く無表情だ。俺は、肌が見え隠れする乱れた着物を、胸元に寄せ集めて警戒した。
「了解した、すぐ向かう…」
ライドウは煙管を傍の盆に叩きつけて、垂れた前髪をすい、と横に払った。
俺を見て、口の端を吊り上げる。
「夫婦なのだから、朝餉(あさげ)も同席し給え」
その、いちいち夫婦という関係を浮上させるこの男が腹立たしい。
「俺は、食べない…そもそも必要無い…勝手に、行けよ」
視線を逸らして、撥ね付ける。すると着物の衿を正したライドウが、俺の身体に腕をくぐらせた。慌てて拳を叩き込もうと暴れたが、手首を切れ長な指に捕らえられる。
「なら、勝手に連れて行ってあげようか?」
そのままいけば横抱きにされる、この体勢。
「退け!自分で、立てるっ…」
肩を怒らせて、その腕からするりと抜け落ちる。
脚先に、確かめる様にゆっくりと力を込めて、そのまま布団に立った。まだ、少し違和感がある。内部で骨が馴染んでいないのか…女体が治癒を遅らせるのか。そんな身体に苛々しながら、ライドウを睨んだ。
ライドウは相変わらずの哂いで、そのまま襖に手を掛ける。
「腰が重い?」
「黙れよ」
「フフ、ついて来給え」
何事も無かったかの様な、身綺麗な成りで奴は廊下をつかつかと進んでいく。
俺は、脚の痛みと…腰の内側に感じる残滓が気になって、とても同じ速度で歩けなかった。曲がり角にライドウを見失い、それにどこか安堵して…壁に腕を着き顔を俯かせる。
「は…ぁ」
もう、このまま曲がってもライドウが居なければ良いのに。
そう夢物語を脳内に描いて、痺れる脚を見つめていた。
「!?」
唐突に、がくん、と視界が流れる。
「ぅ、わあッ」
不意を突かれて声を上げると、脚に抉るような鈍痛が奔った。
「ひぐぅ!」
(蹴られた…っ)
膝からくの字に折れ、前のめりに倒れると感じた瞬間、掬い獲られる金魚の如く、俺は腕に収まった。
「遅い、暮れてしまうよ…この愚図」
頭上からの声音は、悦楽に歪んでいる。俺を嬲る理由が出来て、きっと歓んでいるのだろう。
「い、い…自分で、歩く…」
しかし、先刻の様に跳ね除けても、今の脚は痺れ震えてばかりだ。崩れ落ちたところを、足蹴にされる自身の姿しか、想像出来ない…
「そうそう、大人しく抱かれておいで…」
その嘲笑と同時に、横抱きにされて廊下の景色は流れていく。
「…DV野郎…」
ぼそりと、腕の中から呟けば、ライドウはクスリと哂った。
「どういった意味だい…?」
「…勝手に調べろ…説明する義理は無い」
黙る俺に、少し間を置いて、ライドウが鼻で笑った。
「功刀君…少し訂正させて頂こうか?」
その愉しそうな声で、俺は何となく感付いた。この男、先の時代の概念にも精通しているから、どこか癪だ。
「こういう場合はね、GVだよ…gender violence」
「知ってるなら、そう云えよ…」
「一方が他方を暴力によって支配する状態を指す…家庭外で、ね」
そう云いながら、ふと歩みを止めたライドウ。
「…いや、そう云えばもう夫婦だったか…それならDVだな、君の正解だ」
当たっても何も嬉しく無い。にやけるその面に、俺がその暴力という制裁を喰らわせてやりたかった。
「…っざけるな…俺はあんたとそんな関係に成ったつもりは…」
すると、廊下の板を啼かす音が、少し先の方から聞こえてきた。それを鼓膜と感覚で察知して、俺は言葉を呑み込んで顔を背ける。こんな情けない姿、この里の人間に見られる事自体、腹立たしいのだから。
押し黙り、ライドウの胸元に視線を向け、そのまま瞼を下ろした。狸寝入りと扱き下ろされようが、もう知るか…
「十四代目、お早いですわね」
「其方こそ、霧けぶる刻限からお勤め御苦労」
相手は、俺のイメージとはだいぶずれて、若い女性の様だった。
「まあ、その胸に擁(なづ)くは娶ったばかりの奥方ですか」
「ふ、まあそういう事だ…」
その意味有り気なライドウの含みに、俺は少し頬が熱くなる。
勿論、それは同時に頭にも血を上らせる。
「重みの無さそうな、華奢な身体ですこと…」
「胸が無いのは確かだ」
その断言が、妙に腹立たしい。胸なんて有って堪るか、と思うのに。
「何と云いますか、少年ですわね…女性の柔軟さは無い様な」
女性の声に、突っ掛かりを感じて、俺は少し耳を澄ませた。
「わたくしの方が、抱き心地では上だったのでは?十四代目ライドウ様…」
その艶めいた声の張り。
(この女の人…俺が起きてるの、分かっていてか…!?)
今更ライドウの女性関係に呆れる事も無いが、まさかこう…相手から、ありありと発露されると妙に焦る。おまけに、初夜直後の人間に云う内容では無い。明らかに、俺へ向けられるその感情に鳥肌が立つ。寒さからでは無い。
「異論は無い」
すっぱりと、女性に答える俺の主人の声。その平静っぷりに、やはり呆れそうになる。同時に、形容し難い怒りが込み上げる。
「んまぁ、嬉しいですわ」
どんな顔で、やり取りを交わしているんだ、この色ボケ達。
「しかし、柔軟さを求める訳では無いからね…僕は」
そのライドウの発言に、瞬間空気が変わった気がする。
「…ライドウ様?」
「こんな開けた場所で公言して…自らの首を絞めても知らぬよ」
揺れから察するに、ライドウは歩みを再開した。
「ああ、それに君…柔軟なのは構わないが、アリオクみたく弛んだ入口、何とかしたら?」
「!!」
その発言に、俺は思わず一瞬瞼を上げた。瞬間的に見えたのは、嗤うライドウの冷たい相貌。
「頭も下も緩いなら、この少年の方が幾許かマシというものだ…」
「っ…十四代目…」
「では、然(さ)らば」
「…わたくしを娶らなかった事…黄泉まで憶えておくんなまし…」
「垂れ気味の胸も存外好い事だけは憶えておいてあげよう」
もう、無茶苦茶だ。女性に対して云う発言か。それに、娶らなかった事…って、どういう事だ。まさか、本来の婚約者か何かだろうか?
「功刀君、どうして震えているのだい?嫉妬?」
俺の思考を引き裂く、その問いかけに眼を見開く。
「寒いんだよ!身体が…弱ってて…」
「ふぅん、あ、そう」
「…さっきの人…」
「あぁ、他の里のサマナーだよ」
「此処じゃないのか?」
「男女は基本、分かたれるからね…そして、高い能力者同士が掛け合わされる」
その動植物的な表現に、眉根を顰めてしまった。
「な、掛け合わせって、そんな…云い方」
「誤りが有る?雑種が成らぬ様、異性は同じ畑に置かれない…」
語るライドウの視線が、虚空を少し睨む様に細まる。
「そうして交配を繰り、強い血を残したがるのさ…里というモノはね…」
なんだ…それ、まるで
「フフ…悪魔合体と、殆ど同じだろう?」
思っていた事を先に云われ、俺の言葉はそのまま消えた。
「そういうものさ…婚姻に幻想を懐く君は、実に可愛らしいよ…半人半魔ながらね」
「この!ば…馬鹿にしやがっ…」
「別に、馬鹿にしているつもりは無い」
そうぴしゃりと返され、俺は逆に戸惑った。なんだろうか…里の在り方を…いつも不平不満で括るこの男。本当は、一番理想を掲げているのは、ライドウなのでは無いだろうか…?
そこから、交わされる会話も無く、景色は流れ往くのみだった。未だ早朝で踏み荒らされない庭に、白く施された化粧が眩しい。視界に映った柊の赤い実が、ふと連想させる。そういえば、昨夜乱された着物のままでは無いか…
少し脚先を垣間見れば、赤い染みでも有りそうで。それを気にしながら、俺は憎い男の腕に揺れていた。


「どうした…食べないのかい?」
眼の前で、毎度の様にライドウは飯をたいらげている。痩せの大食いという形容が正にぴったりだ。以前も、俺の作る食事を、そうやって毎度毎度…礼も云わずに喰っていた。俺も、あの探偵事務所に居候させて貰う身として、ただ作った。
別に、互いに思う事など無かった筈だ。
「何が…だ…」
俺は震える声で、糾弾しつつ…木造りも上品な卓をそのまま引っくり返したかった。
「誰が喰うか…ましてや、こんな…こんなっ」
厳かに湯気を立てて、常人なら食欲を刺激されそうなその飯は…
「…ふふ、折角…作られたのだから、無駄にするなよ…功刀君?」
ライドウのざらつく声音と、その飯を交互に見て、頬が紅潮する感覚。
眼の前の、漆の食器に盛られた飯は、赤飯だった。
「何がめでたいんだ、何が…何が…!」
立ち上がり、そのまま退席してやろうと思った。が、先刻崩された脚が悲鳴を上げて俺を引きずり込む。がくん、とバランスを失いそのまま折れて、俺は卓上に突っ伏す形になった。倒れた椀や小鉢が卓上に中味をぶちまけて、派手な音を立てる。指先の斑紋に汁物が濡れて、そのまま掌を伝って手首まで下りて来る。
「……」
俺は何も、もう考える事が出来なくなった。
「おいおい、涙ならまだしも吸い物で小袖を濡らしてくれるなよ?」
ライドウの揶揄に、堰を切って感情が溢れた。
零れた食物を指先に掻き毟って、卓上に平伏すまま、嗚咽が込み上げる。
「ぅ…ぅうっ…う…」
赤飯の豆の香ばしい薫りが、こんなに癪に障ったのは初めてだった。
「なにが…めでたいんだ…なにが…なにが…っ!」
「黙ってお食べよ、君」
「っう!!」
頭の天辺に引かれる感触、そのまま一瞬引き上げられたと思ったら、卓上に顔面を押し付けられた。
「が、ぐぅっ…」
「食べ物を無駄にするなと、いつも君が煩く云っていたよね?」
ぐりりと、卓を舐めさせられる様に擦り付けられる。掴まれる髪と、押し付けられる口元が痛い。
「はあ…っ」
「…っく…くくく、本当いじらしい…可哀想にねぇ…力が出せぬばかりに」
「はな…せ」
「こういう時こそ、僕を撥ね付ける力を欲するだろうに」
「あんた、が…まともなら、本来必要、無い…!」
「人修羅の君はまともな訳?」
鷲掴みにされた髪が再度引き上げられて、ライドウと視線が合った。
ニタリと哂い、その顔を寄せてくる。いや、俺が引寄せられていったのか…?
「はっ…あ…ぁう…っ…や…やめ」
俺の髪から頬に、べっとりと付着した汁物と小鉢の中味屑。それを、その赤い舌で舐め取っていくライドウ。顎に滴る雫から斑紋に沿ってだろうか…眼元までするすると舌は這い上がる。
「ぁあぁぁ………んの…イカレ…野郎ぉ…っ」
俺の悲痛な声など、きっと加速しかさせていない。瞼の薄皮を、虐める様に舐って通過し、額から生え際、濡れた髪を食まれていく。前髪の先まで、ちゅくり、と、音を立てて吸い上げられて…その音に肌が粟立つ。
「ひっ…!ん、んぅううぅ」
仕上げと云わんばかりに、離れる前に唇にそれは寄せられて。食べ物の味が舌先に微かに奔って、すぐにライドウのMAGの熱に変わる。ねっとりと嬲られ、その次の瞬間には、卓上に横っ面を叩き伏せられた。
「がぁッ!……っ…ぐぅ……て、めぇ…」
「もう腹八分目だから、そろそろ仕事に行こうかと思ってね」
あははっ、と、まるで善行でも働いたかの様に哂っているこの男。
俺は、もう立ち上がる気すら失せて、そのまま放心していた。そんな俺に気付いて、そのサマナーはやがて哂いを止めた。じっと俺の眼を見て、内面でも探ろうとしているのか?だが、イヌガミの気配は感じられない。
「…功刀矢代」
俺の真名をフルで呼ばれて、脳が覚醒する。
「此処でね…まともで在ろうとする事が、そもそも間違いなのだよ…」
俺へと伸ばされる指に、びくりと身体が反射をする。が、その指は濡れそぼる前髪に通された。
「君がボルテクスで、ヒトとして在ろうとした…その志…」
「…」
「どうしたらそう思えるのだい?ヒトはそんなに尊い?悪魔より?」
「……元々…ヒトだったから…そう思う、だけ、だ」
そう、元々男だったから、今もそう戻りたい、そう在りたい。
ただ、それだけなのに。
「なら、女人の胎から出でたのかすら謎であるこの僕が…人道を往く必要が有る?」
ライドウの眼が、緩やかに撓んでいく。長い漆黒の睫が、瞬くと、まるで烏の羽でも舞い散りそうだった。
「生まれながらに此処に居た僕に…君は何を求めるの?」
「…」
「捕食する術しか学んでおらぬのでね…君が酷く、滑稽に思えるのだよ…」
「可笑しくて、悪かったな…勝手に哂ってやがれ…」
「滑稽であると同時に、酷く…君を…」
そこでライドウの唇は停止した。俺の前髪は、その長い指に梳かれてゆく。
座布団の上に立ち上がるライドウは、哂いもしない。それに妙な恐怖を抱き、俺は全身で警戒していた。
「…従者を遣わす…身体くらい綺麗にしておき給え」
そう呟いて、廊下側の襖へと脚を運ぶライドウ。脚の薄足袋がちらりと視界に入る。あれは洋靴を履くときのものだ。きっとこの後、いつもの学生服を纏って、依頼をこなしに向かうのだろう。
「次に僕が戻る時まで、君がまともな精神を保てて居れたのなら…褒めてあげよう」
俺に背を向けたまま、そう云い放って…開けた襖を後ろ手に閉めて行った。
「…何が…身体を綺麗に…だ」
何に一番汚されていると思っているんだ。
何に一番染められていると思っているんだ。
俺は…それでも、ずっと…ずっと…男なんだ。
そう、思って、あの憎い男の帰還を待った。あいつの意外そうな表情を、嗤ってやる為に。そして、力を再びこの身に宿して、対等に戦り合える様に。今は、息を潜めて…その刻を待とう。そう…思って、今を過ごす事を考えていた。


「他の着物は無いんですか」
用意されるのは、絢爛豪華な小袖。振袖で無い理由は、嫌でも解る。この里で、稀に見る女性ですら着ていない程の、愛らしく鮮やかなそれ。
「俺はこんなもの着れません!」
白い襦袢しか許せなくて、俺は着物を撥ね付けた。従者達は、纏う装束の隙間から微かに溜息を漏らす。
「俺はそんな…女々しいもの、着ませんから…絶対…」
薄い襦袢で、部屋の隅、膝を抱えて…震えていた。いくら悪魔の身体とはいえ、力は未だ戻らない。この雪の季節に…暖房も無い日本家屋だ。
(寒い…)
吐息の白さに、今自分がどれだけ無茶な姿で居るのかを思い知らされる。
(俺が着るのは、寒色系で…)
学校帰り無理矢理、新田に付き合わされて寄った服屋を思い出す。これどうよ?と、突き出す服のどれも、ちゃらちゃらしていて、俺は撥ねた。新田とはそもそも、服の趣味が違う。その中で、唯一着ても良いか、と思ったパーカ。確か、アレを着て…病院へ行って…そこで…
「っ!!」
跳ね起きた。
「はあっ…はぁっ」
身体を見る。あの瞬間見た通り、悪魔のままで…そのまま項垂れた。いつの間にか、寝てしまったのか…俺の身に纏う襦袢は、血の様に鮮やかな朱色に変わっていた。
薄く、同色で織られる曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が、この里の物だと認識させられる様で。
「っ…くそ…」
脱ごうとしたが、周囲を見渡す。あの時着ていた肌着は無い。隣の部屋に駆け出し、華の彫刻の愛らしい箪笥を引き出す。一段目も、二段目も、三段目も…どこにも、まともな着物は無い。襦袢すら華の織り。
「畜生がッ!!」
最下段を脚の先で、行儀悪く蹴り戻す。
(何故寝てしまったんだ…俺)
弱る肉体を休める為の防御本能でも働いたのだろうか。ただ秘めるのみの強大な力の所為で、こんな姿なら…
「最悪だ…最悪だっ…こんな……」
悪魔で、女で、艶やかな着物に包まれて。俺は一体、何処に消えた?
襦袢すら纏わずに居るのは自殺行為だ。裸なんて、もう人間の尊厳すら無い。身体の斑紋を曝け出すその行為は、俺を殺す。


俺は、曼珠沙華の朱い襦袢から…女郎花(おみなえし)の黄…藤の薄紫…何も考えず、黙って纏った。それに意識までは染められまいと、そう強く思って。周囲の眼に、怒りを覚えながらに…華を纏って。
(だからどうした、俺は…俺だ)
幾日かして、その華に腕を通す事が…そこまでの苦痛を伴わないという変化にすら気付かずに。


「ねえねえ悪魔の奥様」
ころころとした、弾む声。それに眼を向ければ、廊下側の障子向こうに小さい影。
この里に子供は…居るには居るが、珍しい。
(そこの子も、ライドウみたくおかしくなっているのか…)
ぼんやりと失礼な事を思いながら、俺は気を紛らわす為の書物を置いた。ライドウが記した書物で…腹立たしい事にまあまあ面白いので、読んでいた。
「何をされておりました?」
影に答える。
「…読書」
子供を無視するのは、流石に気が引ける。
「何を読まれておりました?」
「…《悪魔草紙〜陰徳篇〜》」
「ああ!ぼくも読みました!面白かったです!」
それに少しぎょっとした。とても子供の読む内容では無い。
「…こんな物、読まない方が良い」
ぼそりと俺が呟く。なら何故俺は読むんだ…と、矛盾を感じつつも。そこに突っ込む事は無く、無邪気に子供は返してくる。
「でも、凄く悪魔の勉強になるから、此処では推薦書物であります〜」
「こんなエロ…破廉恥な場面がある本を、君みたいな子供に?」
「何事も勉強です〜」
その回答に俺は溜息を吐く。淫靡な場面が、時折雑じる…この草紙…
だが、別に俺の毛嫌いするタイプのものでは無かった。その行為には、何かしら意味が含まれていた…伏線なのか、感情なのか。何かを匂わすその陰徳行為は、酷く悪魔的で…人間味もあった。妖しい文体に、思わず冷や汗が出る程だった。
俺を苛み、刻み犯す…あのデビルサマナーの姿がありありと浮かぶ描写。
「十四代目は本を綴るのもお上手で、素晴らしいです」
「…ん」
創作された物まで貶(けな)すつもりは無い…ムカムカするが、紛れも無い事実なのだから。
「最新作、もう読まれました?」
「…最新作?」
「ええ、半分悪魔で半分人間のイキモノが出てくる巻です!」
―…慟哭がする、同時に眩暈も感じた。
「それ…何処にあるの」
なるべく、恐怖を与えないように、だが催促する様に問い質す。
俺の声は、怖い震えを帯びていたと思う。
「んと…こないだ書いてたのは、ちらりと窺いましたよ〜」
「何処で?」
「そのお部屋の机ですよ」
その回答に、俺は即座に相槌する。
「有り難う、俺…少し離れるから、これで」
当然、会話を打ち切る為だ。
(机に、確か引き出しがあった)
他人の机を漁る趣味は無かったので、放置していたが、そんな事云ってられない。
あの男、まさか俺をモデルに酷い話でも書いていたのか?だとしたら、その原本は引き裂いてやらないと気が済まない。
今日着ている着物は、桜に雪が飾られた、まだ落ち着いた部類の柄だった。それを翻して、引き出しの隅から隅まで、腕を突っ込む。数段目、紙の感触に引きずり出せば、洋墨で記述される何かが姿を見せる。――これだ…半人半魔。
明らかに、俺の様な存在を指している。机に肘をついて、それを捲る。血走っているであろうこの金眼で、凝視する。相も変わらず達筆で、少し眼が疲れる。上手過ぎるのも考え物だ。
直しが少ないのは、恐らく構想がライドウの脳内で固まっているからだ。その文章を、俺の脳内で解きほぐす作業に移る…

 《荒廃した魔都で…狐の化身が、相棒の猫と共に廻る世》

もう、この時点で俺は心臓が大きく波打った。そう、この狐の化身は、それまでサブキャラだった。それがこの巻では、主役だ。

《狐の化身は己の穢れを拭い去る為に、旅をしている。》《八咫の烏に従い、それの遣わす監視の猫を連れ。》《翳りの魔都を流離う…》

既巻では、確かこんな設定だった。それが…

《悪魔ばかりの訪れた世界…》《朽ちた建造物も、珍妙な構造のものばかり…》
《人間が奢り、世を立て直すその流れ…》《異端の神々が、その世界に集う。》

…ふざけんなあの男、これ…これ…!

《狐の化身は云う「すべて下らない戯事よ、この世すべからく陰陽に分かれるのみ」》《解放を望んで、ただ云われるままに烏の手脚となる。だが、その世界に見つけた生き物に…酷く惹かれる。》《狐の化身は、その刃の尾で彼を刻む。溢れる血に、渇いた喉が潤う。》《その、陰陽のどちらともつかぬ、半端な生物それの秘めたる力、修羅の如し》

俺は、それを読みながら、息すら忘れていた。
きっと、既巻も、あいつの体験に基づいていたんだ…そう、思う。

《修羅は云う「悪魔は嫌」と。しかし、狐の化身はそれを信じない。狐の化身は、人間が好きでは無い、信じたくないのだ。》《矛盾めいた危うさに、その美しい黄金の月の瞳に、狐の化身は溺れ、窒息し、己を見失わまいと牙を立てる。》
 《その修羅の喉笛に喰らいついて離さない。狐の化身は、烏の羽衣で生き永らえるのだ。離れ得ぬその身は、しかし修羅の血で生まれ変わる》
 《そう…狐の化身には修羅が必要なのだ》《それは…その感情は、歪みであっても
 狐の化身が、生まれ出で、未だに抱いた事の無い……―》
そこで、字は消されていた。がりがりと、万年筆の先が潰れたのではないかという程に、幾重にも。たった一文字、真っ暗闇に塗り潰され、消されていた。
俺はよろよろと、机に突っ伏した。冷えた天板が頬を拒絶してくる。でも、その冷たさが無ければ、暴走しそうな程…身体は熱を持っていた。
「…夜…早く…帰ってこい」
誰も居ない空間で、吐き出す。
「また、俺が男に戻ったら…殺り合おう」
自分でも何を云い出しているのか、意味不明だった。でも、わざわざ発する口は、嘘は吐かない筈。
あの原本、塗り潰された文字の数行先に…綴られた文が有った。洋墨の色は新しい。

《その魂、奪い合い、喰らうまで
  いつか訪れるその歓喜の刻を想い
  悠久を生き永らえる
  修羅を娶り契る
  孕むは、仔では無く、欲
  無いもの強請(ねだ)りの喜劇よ
  偽りのめおとを、嗤うが良い
  「これは互いが…人間に昇華するまでの、騙し合いよ」
  狐の化身は哂って云った…》

そう、これは…偽りだから…俺はいつか、きっと戻れる。
草紙の原本を、桜色の小袖に隠した。
十四代目葛葉ライドウ…お前は、歪んでいる。最後の文章、書き換える気は、無いのか?
「狐は…人間には、成れないぞ…」
きっと、俺も…この感情を捨てきらないと、男どころか人間にも戻れない。
早く、殺しあわないと。あの日の憎しみを忘れてしまう、その前に…その刻が訪れる事を恐怖してしまう、その前に。
―だから、娶って逃げたのか?お前は。
だとしたら…狡い…


帳下りて草紙綴らん・了


↓↓↓あとがき↓↓↓
今回はあまり酷い目に遭いませんでしたが…
まあ、今後じわじわと…

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