名乗るも帯刀するも―
互いに赦された特権。
真名でその身を焦がすが早いか
妖刀に血を吸い尽くされるが早いか
どちらが先に終わるのだ?
帳下りて名字帯刀
牡丹雪が庭の牡丹を叩く。重くなってきた天候に、雨戸が方々で閉められる。
そろそろ戻らないと監視役の装束が煩いかと思ったが、一定の刻限までなら大丈夫だろうと踏んで、陰った処へ足を運ぶ。
朱色の蛇の目傘を畳む。今日着ている着物の柄も、丁度牡丹だった。微かな気配に神経を研ぎ澄ます…首の突起を雪が驚かしても、気にしない様に。
(応えろ…)
低く唸る。正確には、発声していないが。
(ケテル城魔将…矢代が発す…)
ざわり、と周囲の雪が細かく震えて、霞む。
(応答しろ…序列の46番…俺は此処に居る…!)
斑紋が薄闇を払い除ける。着物の小袖から、光が零れ始めた。手にした傘が、びきりと音を立てた。
『矢代様』
びくりと、その背後からの声に、力を引っ込める。振り返れば、薄いベールを纏う女神が牡丹の葉陰から覗いていた。
『帰らないので、心配になりまして』
ライドウの残したパールヴァティだった。
「…いや…独りになりたかっただけです」
身体を再び重い雪が嬲(なぶ)り始める。朱色の傘を頭上に開花させ、女神の傍を通過した。
『身体を壊しますわ、もっと厚着でお出になられた方が…』
「俺の身体なんて、とっくに壊れてます」
『矢代様』
さくさくと白い道を、寝屋に帰る。今日は止めだ…この女神はなかなかに嗅覚が鋭い。四六時中でも無いのに、ピンポイントで俺の事を見張っている。
「お帰りなさいませ奥様」
家屋に入るなり、そんな迎えの言葉。烏の装束達は、俺を男扱いしない。
眼を合わせない様にして、畳んだ傘を黙って渡す。
「湯浴みの仕度なら整えてありますので、ごゆるりと」
「…」
「夕餉(ゆうげ)の仕度も同じ様に」
「俺は食べる必要の無い身体ですから、無意味な事は止めて下さい」
毎度の応酬な気もしないでも無いが、それだけぴしゃりと云う。背後からふわりと揺れるパールヴァティの柔らかな気配。冷たい廊下を絹の足袋で闊歩する、そんな俺に追従する。
『旦那様のお帰りはそろそろだそうですわ』
「…普通にライドウって云って下さい」
イラついている俺の声音に、女神は臆しない。
『せめて湯浴みだけでも如何でしょうか?人間の身体が悲鳴を上げますわ』
「…勝手に入りますから、好きにさせて下さい」
MAGの供給源が傍に居無いので流石のパールヴァティも、四六時中は付かない…
(結局今日も来なかった)
外部の悪魔の声が、あの位置からはよく聴こえる…
この里の綻んだ箇所と思われるあそこから、声なき声を飛ばしていた。普段は煙たがる部下達を、こんな時こそ利用してやるべきと自嘲して。
(肝心な時に誰も傍に来やしない…)
城ではしつこいくらいに、跪いて俺の機嫌を損ねるのに。名乗りを上げる度、自分を殺いでいる気がしてならないというのに…
脱いだ襦袢の薄っすらと織られた花菱(はなびし)が、浴室の灯りに艶めいた。現れる肌に奔る斑紋は、いつもと変わらず俺を憂鬱にさせてくれる。指先から肘、胴へと集中していく茨。だが、それは少し前の俺とは違う箇所へと集まる。
ほんのりと膨らむ乳房を見下ろした。相変わらず、股の間には何も無い。少し曇った姿見を、きゅ…と悪魔の指先で拭う。笑っていない俺が居る。一糸纏わぬ、少女の肢体の俺が居る。それに胸中を掻き乱されていく…
「…ぅ」
胸を、指でぎりりと握り締める、しこる内部が痛い。
「違う」
構わず圧迫を続けると、内部で何かが分断された感触。
「違うううぅぅッ」
爪をアイアンクロウの要領で剥き出しにして、膨らみに突き立てる。抉っていく指先から、引き裂いた肉を鏡に投げつける。しこる部分がぐちょりと、皮から顔を覗かせて垂れ落ちる。
「俺じゃない!こんなの俺じゃない!知らないっ」
喚きながら、両の胸を抉り続けると、木目の引き戸が開放される。
『ディアラハン』
ベールの前に綺麗な指をすらりと翳した女神が、挨拶も無しに唱える。俺の胸元から、ついでに裂けた胎までが光に包まれる。赤く染まった姿見の隙間、俺の胸がじゅくじゅく再生するのが見えた。
荒い息を呑んで、其処にもう一度、引っ掻く様に一閃。反動で、自傷行為の癖に尻餅をついた。だらりと穿たれた乳房が、床に垂れ下がる。
『ディアラハン』
女神がベールの向こうから、無表情に俺を見下ろして唱える。浅く息づく俺に降り注ぐ、忌まわしい光。
「はぁ…はぁ」
『あまりされると、お胸の形が悪くなりますよ』
そうとだけ云って、すぅ、と廊下の陰に消えていく。きっと、俺が我に返った事を察知したのだろう。散らばった肉片と血臭の中、俺はばたりと倒れ込む。木の薫りが鼻腔をつく程に、床に縋りつく。
「ぅっ…ぅうっ……」
女性の証は、いくら削いでも削いでも殺げない。周囲には、俺の身体が女性である事が、当たり前なのだ。
「こんなの…俺じゃ…ない…」
きっと、浴室の湿った空気の所為だ、俺の声が泣きそうなのは。
『お早う御座います矢代様、本日も雪が深いですわ』
パールヴァティの涼やかな声に、俺は昨晩の事を思い返していた。きっと、この悪魔は俺を女性として扱う様命令されている。それだけだ、そう、それだけの事。
『ではわたくし、MAGを取り込みに行って参ります』
一礼して、触れずに襖を開けて出て行く女神。布団の上で、しばらく放心している俺。どうせ一日は長い…空虚な此処では、時間の使い道など無い。
襦袢の隙間から、平然と再生された乳房が見え隠れする。それにどこかで絶望しながら、掛け布団ごと膝を抱える。
(あの頃の朝は…無駄な時間なんて無かったのに)
俺が早起きして、まず炊飯器の飯をかき混ぜてほぐし置く。時間指定で洗いあがった洗濯物を、庭に干す。弁当を作りながらニュースを適当に見る。当然母親の分も作る。余分に炊いた分でおにぎり、余ったおかずで朝食。
ここで母親を起こす。帰宅が夜遅いので、あの人はなかなか起きない。身支度を整えて、制服に身を包む。母親の寝室を通過する際、もう一度声をかけておく。絶対二度寝しているから。玄関近くの部屋、仏壇に線香をあげてから、家を出る。
(あれ?考えてみれば、俺が朝から家事やってたんじゃないか…)
休日までそうだった気がする。ああ、母親は、俺に甘えていたんだな…
(全く、調子の良い人だよ…)
思い出して、思わず小さな笑いが零れた。
「…」
この冷えた空間には、他に誰も居ない。炊飯器からの炊けた白米の匂いも、洗濯機の僅かな騒音も。俺が作る飯の炒める音も、TVの不条理なニュースも。
何もあの頃のものは存在しない。身体さえも。
「失礼します」
声に、視線だけを向けた。
「お食事をお持ち致しました」
毎朝のこれが、だから拷問なのだ…
「いらな―…」
でも、今日は何となく、意味も無いのに胎に入れてみたくなった。食べないという行為が、人間らしく無い気が…した。
「…置いといて下さい」
「はい、では此方に」
する、と少し開いた襖の隙間から、盆が入ってきた。さらりと見る限り、白米と汁物と漬物…簡素だが、朝食らしいといえばらしい。
「では失礼致します」
その声と、襖の閉まる音を聞き届けて、俺はようやく動く。小さな卓が在るので、それに盆を置き、少しの間の後箸を握った。
「…いただきます」
毎度自身で作る事が当たり前だったので、久々の挨拶だった。
そういえば、ライドウは最初の頃、その類を云わずに喰い始める癖があった。行儀が悪いとねちねち云い続けた俺は、脚を踏まれながらも止めなかった。すると、いつの間にか云うようになっていたんだっけか…
(あの男、ワケが解らないよな…)
俺の意向なんざ、無視するのが当然といわんばかりの態度。だが、稀に…本当に稀に、聞き入れる。半殺しに嬲っておいて、助けるそれと似ている行為。
箸で掬った白米を咀嚼しながら、ぼんやりと思っていた。
かぱりと開けた汁物の椀蓋を置いて、啜ろうと椀を手に持ち唇へ。舌先にぬるいそれが触れた瞬間、視界に入ったモノに気付いた。
「!!」
弾き飛ばした椀が、傍の壁にぶつかった。畳を濡らすそれを見ながら、俺は散乱した具の一部を凝視する。爪のついたそれ。
「ぅッ、げ…げぇッ」
込み上げる吐き気と戦いながら、それを確認した。何かの動物の足の様な…毛足はそんなに長くない。この里の事だ、呪術とかにでも使用する贄の小動物だろうか。
「はぁッ…あの…装束ッ」
大して味など感じないのに、気持ち悪い後味の口内。溜まった唾を、庭先の白い雪に吐き捨て、廊下を駆けた。この離れまでの廊下は長い。すぐに追えば追いつく筈。
裾が乱れるのも厭わず、むしろ襦袢のまま全速力で。カルパで追われた時と同じくらいの速度だ。
(居た)
向こうに帰るその装束、曲がり角に消えたそいつを追う。
「すいません!貴方―――」
角から躍り出ると、その装束は待ち構えていたのか歩みを止め、俺を見つめていた。
「…美味しかったです?」
女性の声でそう云って、三日月の様にしなる口元。
それに身体がざわついて、怒りが滲む。
「…あんな幼稚な嫌がらせするくらいなら、直接文句云って下さい」
押し殺して述べれば、装束はせせら嗤う。
「兎の小足は幸運のお守りですわよ?」
頭巾部分をするりと外した彼女、何処かで会った気がする。その声には、酷く聞き覚えがあるのに…
「貴方に幸運を差し上げましてよ?人修羅…!」
その外した指先が、腰の辺りに滑り込む。発露するこの空気は、MAG。
咄嗟に身を後退させて、拳に力を入れる。と、その後退した先、背に何かが当たった。びくりとして振り返ると、いつの間にか居る鬼の様な悪魔。
『ぎゃはっ、気ぃ取られ過ぎなんだよおッ』
首をそのまま腕で絞め上げられ、爪先が床から離れた。
「ぁがっ…ぐうっ」
覚えの無い展開と喉の苦しさに、眉を顰めて女性を見た。
「人修羅…是非いらして頂戴な…私の里に」
それにハッとした。
あの、廊下ですれ違った…違う里の女性だとようやく気付いた。
「見張りのパールヴァティはどうしたワケ?」
「MAGの供給係をちょいと話に連れ出して、時間かせいだの」
「軟派?嫌だわ逆軟派なんて!はしたない」
「うふふっ」
黄色い声が交わす内容は、どれも陰りが有る。
結構痛めつけられた俺は、それを無心で聞き流していた。連れ去られた訳だ…こんな形であの里を脱出したい訳ではなかったのに。
「でもあの里、警戒薄いのでなくって?」
「十四代目が不在だと、案外そんなものよ」
「あぁ〜流石はライドウ様ですわん」
先刻から、この房に出入りしているのは、皆女性だ。ライドウの云っていた通り、此処は女性が大半を占めるのだろう。デビルサマナーの女性なんて、凪しか知らない。そんな俺は、この女性達を認めたく無い衝動に駆られる。
「人修羅って再生だけは本当、早くって」
廊下ですれ違った、あの女性サマナーが俺を見た。
「連れて来るまでに手脚を折ったのだけれども、内部で折れただけなら、直ぐくっついてしまうのよ」
「嫌だ、本当に半分人間ですの?」
「気味悪い」
そんな事、自分でも思っている…云われずとも。視線を逸らして、身体の状態を確認する。動きはする様だ…でも、周囲を取り囲むのは女性とはいえサマナー。
(…いや、俺だって身体は…男では無いんだっけか…)
もう、全てが腹立たしくて、逆に笑える。床に転がされた俺を、嗤って見下ろす女性達…まるで、彼女達が悪魔に見える。黒い装束がひきたてる、その姿。
「人修羅…あんたの所為で、あたし達はお払い箱なのよ、お解かり?」
一人が傍に屈み、俺の襦袢の衿を掴んだ。
「あの里の強いサマナーと番になる為に、今まで頑張ってきたのに」
「特に高嶺の花の、十四代目葛葉ライドウ様」
うっとりする彼女達は、それこそ熱病なのだろう。こんな事をして、犯行元がバレたらどうするつもりなのか。浅はかなのは夢見がちな女性のさせる業か。
(いや、俺もライドウによく浅はかだと哂われていたな)
また自嘲して、笑ってしまった。
「何が可笑しいのよ!」
頬を掌に叩かれる。反動で衿が開いた。
「きゃ、おっかしい!本当に貧相な胸!」
一同が笑いに包まれる。俺は項垂れて、掴まれたまま虚空を見た。
「女性の魅力の欠片も無いあんたに、ライドウ様は似合わない」
「あのお強くて高飛車で、長い睫に麗しい瞳!」
「おまけに骨抜きの床業!」
その相槌にうっとりと女性達の溜息が漏れる。俺は空気に辟易しつつも…何となく引っ掛かる点を追求した。
「…貴女達…」
俺の声に、少しぎょっとした彼女達が一斉に視線を注いできた。
「…十四代目…葛葉ライドウの、性格、知ってるんですか…」
途切れ途切れの俺の声に、あの女性が口を開く。
「勿論、高飛車と先刻云った筈ですわよ」
「事を遂行する際の冷然とした、あれが良いんじゃない」
「本当、解ってないわね貴方」
その反響に、俺は鼻で笑ってしまった。
「…番いって…まるで、悪魔合体みたいですよね」
一瞬、場の空気が凍った。
「ライドウの事…種だと思っているんでしょう…貴女達…」
険しくなる表情を見て、それでも止まらない。
「解っていないのは、貴女等の方だ」
かああ、と紅潮していく表情は、恐らく激昂している所為だ。
まあ仕方無い、女性ってヒステリックだろ?俺も今、ヒステリックに彼女達を糾弾している。それでも、ライドウについての解釈を述べたい俺が居る。
「ライドウ…は…そんな完全人間じゃ、無い…」
そう、不足箇所だらけだ。
「ただの、自己中の糞野郎、ですよ」
ただの…欲求の塊で…
我が儘…冷酷非道…戦闘狂…博打好き…酒も煙草も大好きで…
「な、この無礼者ッ!訂正なさい!」
「げふっ!」
衿を放され、胎に脚が入っても、笑いが止まらない。
「ぁ、はっ…何も…知らない…くせに…っ……貴女達は」
咽ながら、俺は何を云っているんだろうか。
「貴女達は…あいつが何を求めているのか…知らないし…今後も知る事は無いです」
俺は、今一体…
「あいつの名前も知らないくせに…」
どんな愉悦に顔を歪ませているのだろうか。
身体を穿つ痛みをどこか遠くに感じながら、俺はぼんやりと反芻(はんすう)していた。
(そうだろ夜…あんたは、名前を呼んで欲しいんだろう?)
《十四代目葛葉ライドウ》の向こう側。
いつもの哂いと違う表情のあいつが視える気がして。一瞬でも垣間見えるそれが、功刀矢代にしか赦されていない…そんな錯覚を起こして。俺は…だから…あんたを稀に、名前で呼ぶのだと思う…
あいつの名を紡ぐのも、あいつの刃として傍に置かれるのも、俺の特権なんだ…
他の奴等では…無い…
帳下りて名字帯刀・了
↓↓↓あとがき↓↓↓
他を見て、その浅ましい独占欲に始めて気付く。
次回、酷い展開。
今回、それの前置き。
追記⇒女性の扱いがあからさま、と云われましたが、お許し下さいまし。女性卑下という訳では無いです。
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