出て行ったあんたの腕を、濡らす血が
俺のなのか、あんたのなのか
そんな物を啜りあって
酷い感傷を啜りあって
俺達は何を誓い合っているんだ?




帳下りて腕引き




『奥様!』
「奥様じゃないですッ!」
女神の、その呼び方を聴き、瞬間的に頭に血が昇る。制止に入ったその腕を跳ね除けた。とはいえ流石は悪魔。女神はすぐに立て直し、指先で光を紡いでいた。
「その魔法を止めて下さい!パールヴァティ!」
指先に掴みかかる、するとその温かな光が、掴んだ俺の指から滴り落ちる。これでは本末転倒だ、急いで放した。
『ディアラマ』
水流の様に術者を伝い、俺に駆け上がる。
「くっ、そ……くそっ!!」
身体を包む光に、昔は安堵していたのに…今は余計な光でしかない。
『奥様、どうしてその様に、自傷ばかりされるのですか?』
女神がベールをささっ、と…その輝きが未だ零れる指で整えた。庭の隅、すぐ埋められる様に、狙いをつけておいた場所だったのに。
『どうして、その様にお腹ばかり…』
云い澱んだパールヴァティが、その口をふと止めた。胎を抉ろうとした俺を、見つめるその眼が…何かを確信していた。
「待って…待て…っ…」
踵を返す女神は、俺の制止も聞かずに空間から瞬時に消えた。短い距離だとしても、直ぐに伝達しなければ、と思ったのだろう。
「パールヴァティ…!余計な事、云ったら…っ」
云ったら?何だというんだ。先刻だって、俺より背の高いあの女神に負けていた。
力で押し通せない事を知っていて、ライドウは女神を置いてったんだ。少なくとも、俺に敵意を向けていないあの女神を、俺も殺せる筈は無いから。
「…はぁっ」
どうする、もう一度胎を殴るか?平たいので、宿っているかすら分からない。
なのに、不安で仕方が無い。其処から既に、不安というものを産み落とし続けている。
(そもそも、獣…悪魔と、合いの子だなんて、馬鹿げてる)
なら、悪魔狩人のダンテは?あの人は確か、人間と悪魔の子だ。合いの子が…つまり生るのだという証人。
そんな考えが、もう数日も行ったり来たりしてその往復に疲れ果てたから…ようやく抉る決心をしたというのに。指が少し埋まった段階で、女神が飛び出てきた訳だ…
(まだいける、もう一度で、子宮からブチ抜いてやる…)
引き絞った腕、揺れる小袖に赤が少し飛び散っている。
雪で白く化粧した、里の囲い柵に片腕を押し付け、支えにする。大きく息を吸って、吐いて…下手に魔力を流さぬ様にしながら、目測を視線で。命が宿って、本来温かな掌が撫でさするその場所。
「う、ううっ、は、はは……」
何故だか、笑いが込み上げてきた。
どうして、そんな大切な場所を…抉る羽目になっているんだ、俺は。俺の母親だって、その薄まった肉越しにきっと俺を撫ぜてくれていたろうに。何故俺は、突き破ろうとしている?
(俺は女でも無ければ母親でも無いんだ…)
そう、男だ、こんな事象が、まずおかしい。
(それを…正すだけだ)
一気に、胎に、その鋭くした指先を突き立てる――…
「あぐっ」
響き渡る銃声。胎では無く、俺の指からほとばしる赤。モダンな市松の小袖に赤いドットが入った。
「何をそう不安がっている?」
声の方を、抉れた指を押さえつつ睨み付けた。白い道無き道を、黒い死神が渡り歩いて来る。
「何だ…もう、終わったのかよ……依頼…っ!」
こっちの指が駄目なら、もう片腕の指だ。問い掛ける言葉の尾ひれが弾む。押さえに回っていた指に力を込め、ライドウに背を向けた。胎へとその指を振り下ろす。
途端、がくりと視界が反転する。
「げふっ!」
雪が緩衝材になっているものの、項のアレが悲鳴を上げる。脚を強かに蹴られ、仰向けに転倒したのだった。あの距離を一気に詰め寄るライドウは、やはり俺とは違う。
「依頼は片した…私用で動いていた所を、カラスが飛んできたのでね」
パールヴァティが、きっと伝達用に預けられていたのだろう。
(それなら、丸一日空けたあの日に、知らせて欲しかった)
今更何を云っても、遅いのだが。
ライドウの背後に佇むパールヴァティの、心配そうな眼が逆に俺を惨めにさせる。
「全く…云ったろう?君が身篭る事は無い、と」
哂いながら、ライドウが俺に馬乗りになる。見下す視線が、俺の血に濡れたままの胎に下りて来る。
「そもそも、致したのは初夜のみで、あの時は君に月のものが…」
視線が、胎から動かなくなる。同時に、ライドウの唇が止まった。
「ねえ功刀君、今は来ていないの?」
間を開けてから発された、ライドウの声音の妙な落ち着きに…俺は吐く息が凍る思いで奴を見上げた。
「来てないけど、だから何だ…」
駄目だ、声が震える。
「そういう周期なんじゃないのか?俺が知るか…そんな、女性の」
そこまで云って、口を掌で塞がれた。俺の眼を、喰い入る様に見つめてくるライドウ。もがいても、振り上げた腕はすぐに押さえつけられた。
腰ホルスターの後ろから何かを抜いたライドウに、掌を雪へと縫いとめられる。
「んぐぅぅうッ!!」
掌に刺さっているのは、短刀。それこそベルト幅程度の。もう片腕は、ライドウの腕で押さえられてしまった。
沈黙しているライドウは、ただただ眼を合わせてくる。その様子にようやく感付く。
急いで視線を外そうとしたが、もう遅かった。
頭が朦朧として、身体が脱力していく。
(ライドウ…呼吸を合わせやがった…)
帝都に来てからは、警戒していたのに。こんな…初歩的な術にかかってしまった…ボルテクスで、同じ鉄を何度も踏んだというのに。
衣擦れの音と、舞った光。
「イヌガミ」
そう呟いたライドウの声が、耳を通る。
「んっ、んぅぅううううっうっ」
(やめろ、やめろ…やめてくれ)
覗き見たところで、あんたの望むシナリオなんか展開しないんだ。いや、それとも嘲笑うのか?それとも怒り狂って、俺を殺すか?
「ひぅっ…」
ずっ、と、ライドウの暗闇の眼に呑まれていく。いや、多分…俺が奴を呑み込んでいるのだろうけど…もう、そんな事、どっちだって関係…無い。


(あ!あぁあああああああ)

潜り込んでくる、強制的な介入。黒いカラスが、俺の中に飛び込んでくる。促される、暗闇へ、記憶の底へ。
(ふざけるなライドウ!手前!本当に見たら殺すっ!)
吐き戻す吐寫が止まらぬ様に、だくだくと垂れ流すヴィジョン。白い雪、色とりどりの小袖。狐の面、誰も居ない布団。
(ああ、やめてくれ、近い、その辺、嫌だ、いや)
少し戻る。すると、鮮明に浮かび上がってくる。笑い声が響き渡る。暗い中に、赤い格子、閉ざされた房。俺の視界に、向かい合う…オルトロス。
(帰れ!帰ってくれよ!!あんたに知る権利が有るのかよ!!)
赤い格子の向こう、黒いカラスが、ばさりばさりと大勢集まってくる。俺の心の中なのに、酷く重くて、気持ち悪い…圧を感じた。圧し掛かられている。中に、中に入ってくる、錯覚が悲鳴を上げさせる。
(出てけぇええええええ!!)
それは背のオルトロスの記憶に向かって叫んでいるのか。格子の向こうの黒き介入者に向かって叫んでいるのか。
(あぐっ…あ、ひ、ひぎぃぃいッ)
もう、嫌だった。何故、また鮮明に、体験させられるのか。あのいきり立つ二又の怒張と、荒い息、獣臭い唾液。全てが甦って俺を犯していく。もう、誰でも何でも良いから醒まして欲しくて、格子に向かって指を伸ばした。
(は、ぐぅっ…ぁ、あがっ……ぁ…)
霞む視界。格子の向こうに、飛来する黒い影が、ばたばたとぶつかっている。あの隙間にも、見えない壁が有るかの様に。打ちひしがれ、床に落ちていくカラスが、山になっていく。それが、一気にひしめいて、形を成した。
よく知る人間の形に成って、格子をがしゃりと握り締める。
―矢代っ―
そう、唇が叫んだ様に見えた。


「はぁ…っ、あ…っ」
俺の、嗚咽で眼が覚めた。馬乗りのままのライドウは、黙って此方を見つめている。その沈黙が怖ろしくて、あの瞬間を見られた羞恥に身体が震えて。あんな…人間の尊厳の、欠片すら毟り取られた俺が、虚しくて。
「あ…は…ぁはは…ど、どうだったん、だよ………」
ライドウが何か云う前に、俺から笑ってやった。
「あんた…ああいう下劣な見世物…大好きだろ?」
何故、無表情なんだ。
「「よくやった」って、偶には褒めてくれよ…なぁご主人様?」
そう云いきった瞬間、衝撃に脳内が白くなった。焦点が定まっても、景色は雪に包まれているので、酷く不鮮明だ。続いて口に、鉄錆の味が広がった。
(…ああ、殴られた、のか)
哂いもしないで殴るなんて、どういう風の吹き回しだ、ライドウ。
「ねぇ…功刀君……」
声が、嫌に…優しい。
「悪魔の身体は、早く生す可能性が高いからね…」
横に向いた、俺の顔を、前のめりに覗きこんでくる。
その表情は、口元だけ、哂っていた。
「出そうか」
その言葉に俺は最初、意味を求める事を放棄していた。だが、動き始めたライドウに、ようやくハッとして叫ぶ。
「ならっ、なら胎を割かせろ!」
「…何故、獣を下から通すのは良くて、僕は胎からな訳?」
「な、何云って」
「それに割いたら、一緒に裂けてしまうだろう?中のも」
暗く哂ったライドウが、管にイヌガミを戻した。不安げなパールヴァティにも、すっと差し出される管。
『あの、ライドウ様…』
「君は特に煩そうだから、戻ってくれ給え」
ぴしゃりと命令される女神は、俯いて消えていった。本当に静かになった周囲は、そろそろ夜明けだった。薄い月光が、外灯を必要とさせない。
「功刀君…何故ああなったのか、詳細は後で聞こう」
光る眼を歪ませて、ライドウが股に指を伸ばしてきた。下着の白布を除けて、触れる冷たい指先。
「実例があるのだよ…悪魔と人の子、はねぇ…」
「…ち」
「ああ、違うね、君は人では無かったか」
指が、割れ目に沿う。
「な、何してんだよあんた!まだ胎すら膨らんでないのに!」
「だから引きずり出すんじゃないか…」
ずりゅ、と挿入される指に、身体が強張る。中で一瞬ばらけた指に、吐息が突き抜けて唇を開かせる。
「あ、くぅっ…」
「息、吐き給え」
「抜けよっ!ライド…」
内部の異様な感覚に、声が止まった。冷たい雪の上なのに、汗が滲んだ。
「そ、それより先、とか、おいまさか」
袖を撒くり、肘を雪に着いたライドウ。俺は、自分の脚の間に、薄く哂う奴を見た。
「君の中に、他の因子は要らない…」
「あッ!ぎゃぁああっッ!!」
ぐずぐずと、ライドウの爪先が、中の奥を探る。指が追従して、入り口で引っ掛かっていた親指が割り込む。
「馬鹿じゃないのかっ!?このっ、このイカレ野郎がぁああ」
叫んでも止まらない。引っ掛かっていた親指が、つぷりと入った。すると、一気に中に入ってくる拳。
「ぅ、う〜っ…うぁああっあ」
カチカチと鳴る歯が、情けなくて煩い。
「人修羅なら、この位耐えられるだろう?」
そんな事を抜かしながら、ライドウは更に突っ込んでくる。
「あ〜ぁぁあああッ!!裂ける!裂けるぅううううッ!」
首を振り被って、既に自尊心など打ち捨て、俺は乞う。
「ライドォッ!!無理!!本当に嫌だ!こんなの嫌だあああああッ」
びくびく跳ねる脚を押さえつけ、ライドウが哂った。
「フ、フフ…大丈夫さ……ほら、捕まえた」
奴の手首が入り口のヒダを擦る。分泌液が足りず、擦れると苦痛しか生み出さない。
「がっ…あっ…ふ…」
「…ほら、今出すから」
平然と云って、最奥の更に奥で指が蠢いた。熱い、魔力が、中で流転している…
俺の股から、ライドウの肘近くまでが生まれた様な錯覚を抱いた。
「食い縛り給えっ!」
「〜ッ!!」
ライドウの腕以外の、何かが体外へと出て行った。


「やはり、中身が無い」
放心する俺に、濡れた腕を雪に突っ込んで拭うライドウが呟いた。視線をもう一方の腕の先に投げる。よく分からない、小さい何かがぶら下がっていた。
「……」
自身の呼吸の音だけが、鼓膜を撫ぜる。俺の、得体の知れない身体が、得体の知れない何かを産み落とした、のか。
「そ、それ…し、死んだのか」
まさか、胎が脹れていた訳でもないのに…あんな、具体的なモノが出てくるとは思わなかった。恐怖が、身体を支配する。
(何、何だよ、俺が悪いのか?俺が殺したってか!?)
「中が無い、と云ったろう?」
振り返ったライドウが、奥歯を噛んでいた俺に云う。
「御覧…ただの容れ物だ…」
眼前に垂らされたそれは、あのオルトロスの面影がある。だが、眼の様な器官も瞑ったままで、息も無い。いや…魔力を、生命力を感じない、微塵も。
「異種での交わりは、殆どこうさ…」
袖を戻しながら、俺の掌の短刀を引き抜いた。
「いっ…!」
「注がれた種が発芽して、中身の無い身を結ぶ…」
「……それ、魂が無いのか」
「そうだよ、だから云ったろう?君と子は生さぬと、ね」
その台詞に、一瞬違和感を覚えた。
「ほら、そちらの手は使えるだろう?墓穴でも掘ってやり給え」
俺に顎で指図するライドウに、本当は振り上げた拳を見舞ってやりたかった…が。大人しく、傍の椿に囲まれた雪を穿った。舞い散った雪が、下の土と混ざって濁る。
「コレに罪は無いからね、まぁそもそも生まれてすら無いのだが」
その穴に、小さな獣を放ったライドウ。とにかく、がむしゃらに胎を割こうとしていた俺が、まるで矮小(わいしょう)な様で。なんだか、酷く気分が悪い。腕を突っ込まれたよりも、胸糞…悪い…
「あの、さ…あんた、俺からその…出来たやつ、引きずり出して、満足…?」
「どういう事」
「ほっといても、いずれ出てくる予定だったんだろ…」
魂すら結べぬ、俺の胎から。
「だったら、ほっといてくれりゃ…良かったのに!」
惨めだ。あんな陵辱の果てに生まれるのが、更に抜け殻で。それを引きずり出されるなんて―………ああ、抜け殻…そうか。だから都合良くて、それを知っていてライドウは、俺を選んだのか。万が一出来ても、魂が無いから。
「…云ったろう?」
穴に土を掛け、綺麗な雪をかぶせてなだらかにしているライドウ。まるで雪遊びの子供みたいに、その指先がはしゃいでいる。
「君の中に僕以外を入れたくないとね」
傍の木の椿を、ぶちりともぎ取って、その脹らみに供えている。
(あんな程度で、報われるのかよ)
俺は哀悼の意を、表面に出したくない。だって…それはあの、操られた獣と俺の、おぞましい証拠の墓だ。
(知ってる、そんな事)
あのオルトロスだって、人間の俺に普通発情しない事くらい。あの雪の下の抜け殻に、何の罪も無い事くらい。
(知っている…!そんな事!!)
憎い悪魔を…その悪魔を悪魔たらしめる存在が。サマナー…人間…だった、事。
「さ、功刀君…夜が明けたら、行こうか?」
外套をばさりと翻して、ライドウが昇り始める陽を背にし、俺に語りかける。
「男子禁制の里に」
その顔は、酷く愉しそうに哂っていた。背筋をぞわりと、這い上がるものがある。あの顔をするライドウは、とても…残酷な事を考えている。


『あの…奥様もこの後、出立なさるのですか?』
俺の湯浴みを扉の外で監視するパールヴァティの声がした。
「…せめて周囲に人が居ない時は、普通に呼んでくれませんか」
ヒリつく局部のヒダに、顔を顰めつつ熱い湯に沈む。こんな日に限って柑橘風呂とか、ふざけてる。数刻前、目一杯拡張されたあそこが、柚子の香りに悲鳴を上げた。
『矢代様、先日は私が目を放したばかりに…』
「別に貴女の所為では無いし、正直目を放しといて欲しいですよ俺は」
冷たく云い放つ、少しばかり八つ当たりだった。女神のお陰で綺麗に維持された両胸が、やんわりと湯船にたゆんだ。その小さな膨らみを、今でも認められない俺が居る。
『ライドウ様と婚姻されたのが、そこまで嫌でしたか』
その女神の声に、思わず笑ってしまった。
「嫌も何も、俺男ですよ?まさか身体がこうなったから、その気になるとでも?」
『申し訳ありません…ですが、ライドウ様が不在の日々…』
「何です…」
『酷く寂しそうでした』
誰がだよ。
『ファインダー越しに、そう感じました』
「…何越し…って云いました?」
柚子を掻き分けて、浴槽の木目に指を置く。扉の向こうに問い質した。
『隠し撮りしておりました、預かっていたセコハンカメラで』
「はぁ!?い、いつから」
『婚姻の行列からです…晴れ姿を』
「今すぐそのカメラを俺に寄越して下さい!」
扉に向かって、湯船の湯を薙ぎ掛けた。ばたたっ、と戸を叩く水撃は、良い薫りだ。
『なりません』
「パールヴァティ!」
『壊されては、ライドウ様に写真を送れなくなります』
唇が、だらしなく開いて制止する。
『あの方が、好きで依頼の日々を過ごしているとお思いですか…』
扉の向こうの女神の表情、見えなくて良かった。
『初夜からずっと、続く責務に追われて…矢代様と過ごした瞬間は僅か』
「だからってそんな、写真なんか送ってもらっちゃ困り―」
『里に初めて帰る気になった、と…そう仰られたのですよ!?』
…なんだそれ
『偽りでも何でも良いのです!今はあの方の遊びに…どうかお付き合い下さい!!』
女神の懇願と、水音しかしない。
『人間の一生は短いのですから!!』
その言葉が、俺の胸を抉る。そう…俺は、半端な悪魔で……あの男は、人間だ。
そうだ、婚姻したところで、生涯を共にする訳じゃない。放っておけば、あいつはじきに死ぬ。
『依頼の出先で、矢代様の寂しげなお写真を見て…あの方は』
もう聞きたくない。
『そう…仰ったのですよ…』
俺を嬲るあの男が、そんな筈無いだろ…
『初めて、あの様なお顔を拝見しました』
だからどうした!?
「…もう上がりますから、脱衣所の外で待機して下さい」
女神の声は、聞こえなかった事にした。


「湯冷めで風邪などこじらせて、足手纏いになってくれるなよ」
湯上り、襦袢の俺に向かって哂うライドウ。俺は無視して、用意されていた着物に袖を通す。
「戦い方を忘れたから、オルトロスに黙って犯された?」
その問いに、袖の出口を通った拳が返事する。
「フン…完全に鈍っている様子でなくて、安堵したよ」
俺の拳を掌で包む様に受けたライドウ。そのまま、引寄せられた。
「柚子の薫りがする」
項の突起を、空いた手指でやんわり掴んで。
「ぅ…んぅッ」
ぐい、と顔を上げさせられる。唇の感触が、遥か昔のものに感じる。押し退けようと振り被る腕が、取られて。するする、と着物の袖をくぐらされていった。
唇を離したライドウが、俺の唇をひと舐めして。
「柚子、好きなのだよ」
引き続き、着物の衿を合わせて、俺を着付けていく。
「ご馳走様」
仕上げといわんばかりに、おはしょりを作るライドウが…云った。
口元を押さえて、俺はそいつから目を逸らした。
ああ、しっかり食べた後の挨拶を云ったな、とか。
肌蹴させるだけでなく、しっかり着付け出来るんだな、とか。
そんな事は考えない様にして。
「では、行こうか?」
ライドウが、ニタリと哂った。
「君の記憶を葬ってやらねばな」
庭の椿が、ぼとりと落ちた。


帳下りて腕引き・了


↓↓↓あとがき↓↓↓
【腕引き】-かいなひき-
刀で腕を切って血を流し、互いにすすり合って誓うこと。衆道(しゆどう)や男女の仲で行われた。
フィストファックですが…
それと、これは…堕胎になるのかというと、なりません。
中にいたのは、生物にすらなっていなかったので。
という逃げ道です。
次回予告「ライドウ暴れまくり」

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