ブルー・スピン



 天が海の青を映すのか、その逆か。海鳥と並び飛べばこそ、判らなくなる。
 そういえば以前、ライドウが云っていた。レイリー散乱という現象だったか、この青は光と大気が見せる幻惑の色という事だ。つまり天に色は無いという事であるが、ぼくには其れが〝ヒトの勝手な解釈〟に聴こえた。
 雲を抜け更に上昇すれば、濁色の狭い宇宙が広がる、一般的な人間にとっては其処が終着点。しかし次元を切り替えれば別世界が、それこそ彼らが長年「天界」と称してきた光景も在る。正確に云えば雲上という事もないのだが、常に見下ろす形で人間達を眺める天使達は、つい錯覚してしまう、本当に上に居るのだと──
 
 近い位置で息づかいが、物音がし始めた。察知したぼくは、ひらり翻り〈器〉へと舞い戻る。見渡す限りの青はフッと閉ざされ、瞼を開けば窮屈な室内。いいや、これでも部屋としては広い方と知っている、空と比べてはいけないね。
「ルイは眠りを知らぬと思っていたよ」
 まだ起き上がってもいないのに、ライドウが声を掛けてきた。眠っていないよ、と答えようか迷ってやめた。どうすれば人間らしいのか、ぼくなりの工夫をしたい気分だった。
「夢を見てたよ、海を往く夢」
 ぼくが云った途端、失笑するライドウ。さては信じていないな、まあ上出来な方だろう、人間もこの手の冗談はよく云う筈だ。
 海は海でもシーツの海、ぼくはのそりと肘をついて半身を起こす。昨晩は酷い荒波をつくっていたライドウ、起きてから何をしているのかと思えば、絨毯の上で鍛練していた。動作の詳しい名称は分からない、人体に負荷のかかる体勢を維持したり、反復したり、愉しいのか疑問なその行為。
「ライドウこそ、寝たのかい? この部屋、ベッドもしっかり二人分有るのに」
「君が目を閉じてから少しばかり」
「あれだけ動いたのだし、運動不要に思えるが」
「僕の日課に口出ししないでくれ給え。それか君が此のトレーニング分、僕と毎日〝つきあって〟くれたら置換になるかもねぇ?」
 くつくつと哂ったライドウは、身体を支えていた片腕を唐突に曲げ、そのまま絨毯へと仰向けに転がった。豪奢な柄の上においても飲まれぬ華を持つ人間、しなやかな、狩りの得意な獣の筋肉をしている。一糸纏わぬ姿に見えたが下着は締めてある、そして脇には刀と銃。ああ……帽子は被っているか、あの天面の裏側に管が一本。防御はともかく、臨戦態勢ではあった様子だ。
「ぼくがお相手せずとも、日々の戦いが充分維持してくれるのでは」
「かつては修練に加え行なってきた、今は調査と任務に加え行なっている。つまり此れを止めればマイナスとなる」
「人間の身体は、それ如きで衰えるものかね」
「己が身に問うてみれば? 君が人間ならね」
 云いながらライドウは答えを知る気も無いのか、すっくと起き上がると、ハンガーに掛けてあるシャツを羽織った。袖に通していない腕で、窓を開け放つ。白いシャツは一瞬だけ靡き、すぐにライドウの肌へと落ち着いた。
「こないだも海を見たがったろう、最近そんなに海がお気に入りなのかい」
 呟きながら、いつの間にか煙草を咥えているライドウ、シャツの胸ポケットには潰れた箱煙草が覗く。火は如何するのだろう、ぼくに寄越してくるだろうかと観察を続ければ、彼はマッチ箱を手に取り、瞬く間に着火した。何処から取り出したのか一瞬分からずにいたが、よくよく見ればライドウはテーブルに座っている。ああ、其処に置かれていた備品だろう、灰皿も有る。
「気に入っているといえば、そうかもしれない。海の表面は常に変化し続ける、つまらない筈が無い」
「幾つかの状態は系統化されている、大体見れば飽きるさ」
「先日〝綺麗な景色を──〟と云っていたよ君、つまり飽きていないのでは」
「どうでも良い事は憶えているのだね、ルイ」
 寄せられたガラスの灰皿は光を反射して、壁紙を虹に彩る。煙草の灰を落としたライドウが、またそれに口付ける。ニコチンの匂いに雑じって、海の匂いがする。海上の霧とは違う、手繰り寄せた糸の様な煙が、ぼくの方にも流れ来る……
「そういえばライドウ、どうしてこの宿を選んだのだっけ、いつもの蕎麦屋は?」
「ほらみろ、肝心な事は憶えておらぬ。すぐ其処のレストランに予約した、その際どうせならば近くで待機した方が良いという事で部屋を取った、昨晩合流しチェックインした、そうして朝が来た、二時間後がレストランの予約時刻」
「学校だとか、いつもの黒猫君は?」
「仕方無いので今回もサボタージュさ、童子には〝監視するにせよ遠巻きに〟と哀願しといたよ、涙ぐましいだろう」
「なるほど立派な不良書生」
「莫迦云え、帝都守護の慰安としては安いくらいさ」
 煙が完全に途絶える、ライドウが灰皿で煙草を揉み消していた。ああしながら、彼の脳裏ではスケジュールが組み立てられているのだろう、常に常に、効率的かつ理想的な計画が。
「ライドウ、そういえば此処の宿泊費は」
「既に払ってある、前金。そもそも君、常にソォダ一杯分しか持ち歩いていないのではないかね」
「前に手鏡を買ってあげたろう、その時にお札を出した」
「そんな事もあったね、すぐ他人にあげてしまったから、すっかり忘れていたよ」
 嘘だろう、君は忘れる筈も無い。ぼくが適当に唱える暫定的な都合や、要望や、選択など、これまでの殆どを憶えている。
「海が見える宿を取ったのに、見ないのかい」
 こちらの内心を汲んだのか蹴ったのか、ライドウが呼ぶ。彼と違い、ジャケット以外はすべて着込んでいるぼく。潮風が撫でてゆくのは首から上、そして手首から先だけ。この身は人間ほど敏感では無い筈なのに、裸身にシャツのライドウが、ひどく気持ち好さそうに見えた、
「あまり乗り出すでないよ」
「何故?」
「下に海軍が居る。君の顔は割れてるからね、無駄な聴取は避けたい」
「普通に観光しているだけだろう」
「フフッ、よくもそんな事が云えたものだ、禍事をふりまく面妖な西洋人と噂されているよ」
「帝都を守護するサマナーは、その面妖な西洋人と共に居て許されるのかい?」
「今更だな、君から僕に接触してきた癖に」
 外の目を気にした次の瞬間には、裸足のつま先でぼくのスラックスを引っ掻くライドウ。ベルトの金具を、器用に外し始めた。ちらりと顔を窺えば、咎められるを敢えて待つ、邪鬼の様な笑みを浮かべていた。
「この後レストランに行くのでは」
「まだ二時間も先だ」
「疲れていないの?」
 蛇の這う音が、しゅるしゅると云った。それはライドウの褌で、机の天板から落ちれば只の布と化す。ぼくのベルトもすっかり解かれており、ボタンを外せば下着が覗く事だろう。人間の服装は、人間の世界で見繕って貰うのが一番だ、間違いが無い。
「一物くらい自分で引っ張り出してくれ給え」
 云いながらライドウは、机の隅に放置された瓶を取る。これも備品の植物油だ、本来は整髪用らしいそれを指に垂らし、平気で自分の孔に塗り込めていた。特に用意の無い場所では、平気でそういう選択をするライドウ。以前「潤滑剤を携帯すれば?」と提案したが、やや不機嫌になり「僕は男娼じゃない」とだけ呟いた、いつもは自らそうであるかの如く皮肉を云い、ぼくを呑み込む癖に。
「早く勃ちなよ」
 ボタンを外すぼくの指を、つま先でせっついてくる。スラックスの前を開けば、容赦無く足裏で揉んできた。
「せっかちだねライドウは」
「君が鈍間なだけさ」
「もしかして孔も、暫く使わないと衰えてしまうの?」
 問えばライドウは一瞬硬直し、次に天井を見る勢いで仰け反り、最後に外に響きそうなほど大笑いした。
「君の云う〝暫く〟の期間は不明だが、僕は常日頃、酷使されているので答えられないね。そもそも排泄だって、使用には該当するだろう」
「では暫く排泄しなかったら、出せなくなるのかね」
「先に死ぬよ」
「それだけで?」
 ぼくの反応が面白いのか、また笑うライドウ。しかし、いよいよ焦れたらしい、指でぐいと紐を解き、ずり下ろしてきた。足裏でぼくのソレを確認した君は、満足そうに目を細めた。
「鈍間は撤回してやろう」
「要望通りの硬度?」
「何だいその云い方、そこまで繊細な調整が出来るものかね……」
 ぼくの腰にすらりと回される脚、引き寄せられるままに侵入してゆけば、波音よりも微かな溜息が君から零れた。涼し気な姿とは裏腹に、中はじっと陽を受け続けた浜辺の様。
 視線を上げれば、水平線がちょうど見える。さっきは何処まで飛んだのだろう、視界一面の青だった、つまり陸地からはそこそこ離れていたと思う。
 ライドウはあんな事を述べていたが、一緒に飛べば夢中になるだろうな。趣の違う青に挟まれ、天地さえも判らなくなり、無重力を漂う心地。風を白インクで描き込んだ様な海鳥がよぎり、潮騒と輪唱するセイレーンの群れを通過する。星に負けじと輝くセントエルモの火、それに紛れ遊ぶカストルとポルックスに、どこか可笑しさを感じながら…………ああ駄目だ、君はきっと肉体に戻りたがらない。
 そこで唐突に夜の海へと切り替わる、目前の窓はカーテンに覆われていた。ライドウが後ろ手に閉めながら、ぼくを締める。そのまま睨まれたので、微笑み返して云う。
「見ないのかと誘ったのは、君なのに」
 光の閉ざされた中、一瞬目元をひきつらせたライドウ。薄暗くなったからと、少し油断していたね。ポーカーフェイスに終わらず、身体ごと崩してあげたくなる。穏やかな波の様に、君を少しずつ少しずつ穿って。
「……ねえ、ライドウ」
 砂の城を壊し、海に帰るのだ、気紛れのままに。
「ぼくは今度、海を渡る船に乗るよ」
 
 
 不味そうに食事するライドウを見たのは、初めてだった。いや、口に合わないのであれば、それに関し語るところだが、それさえも無かった。創作フレンチの味は、ぼくにはよく分からないから感想を聴きたかったのに。そうして食事を終えた途端、何処に行くのか訊かれた。君の好きに決めて良いよ、と云えば「渡航先の事だ」と返されたので、適当に「欧州なら何処でも」と答える。
 会計を済ませた君は、ぼくを連れて港の事務局に入り、手続きをしてくれた。チケットさえ未購入であったぼくを哂いながら、ライドウは「見送りは都合があえば」と残し、その日は別れた。
 出航は三日後であったが、ぼくにとっては一瞬というもの。目的も無い旅だ、中身を飛ばし大陸を下見しても良かったが、それは控えた。人間の様に、酷く効率の悪い日々を過ごしてみたかったのだ。
 
 
 出航日、雨天。ぼくはいつものスタイルに、蝙蝠傘を差してみた。彼はどうしているだろうかと、銀楼閣の前を確認がてら通ってみれば……通り沿いの窓が突如開き、上から名を呼ばれた。
「ルイ」
 意外や意外、ライドウが居た。ぼくの予測では、出航直前にふらりと現れるか、もしくは来ないと思っていたのに。
「おはようライドウ」
「おはよう雨男」
「海の青も褪せている事だろうな、残念」
「これでは汽車も混む、送ってやろうか」
「君の時間は大丈夫なの?」
「ちょうど空いた、それだけだよ」
 云うなり飛び降りてきたライドウ、接地直前に召喚術を施し、MAGの乱反射が落ち着く頃にはオボログルマが停まっていた。ぼくは傘をたたみ、助手席にお邪魔する。
「海風にばかり当てて平気なのかい、この車」
「舐めたらしょっぱいかもね」
「今日も黒猫君に哀願したの?」
「マタタビで機嫌を取っておいた」
 なるほど、適当を並べているな。君からはそんな匂いもしないし、そもそも上司の機嫌を取るなんて想像もつかない。しかしぼくにとって、本当の事などどうでも良かった。おそらく、君にとっても。
「そうだ、マッチを擦る練習をしたんだよライドウ、お披露目しようか?」
「今は結構」
 時間帯のせいか人通りも少ないので、車はすいすいと進んだ。舗装の雑な郊外から先は、少しばかり揺れる。今日のライドウは、どこか口数が少ない気がした。
「ありがとう、この調子なら出航時刻よりだいぶ早い到着になりそうだ」
「僕との待ち合わせもこれくらい余裕を持って準備してくれ給え」
「船は待ってくれないが、ライドウは待ってくれる」
「人間相手にそれを続けてみろ、信用を失うよ」
「ぼくを信用していたのかね、君」
 てっきり鼻で笑われると思っていたのだが、ライドウはそれ以上続けない。ぼくに一目もくれないで、運転に集中していた。フロントガラスを叩く雨は、静寂を程好く解かす。
「このまま速度維持にて直進、ハンドルは預けろ」
 ライドウが唱えた、これはぼくに対する命令ではないな。
『リョウカイ』
 オボログルマの返答を確認した後、ライドウは運転席の窓を全開にした。外套の内で、銃弾を詰め替えている。かと思えば次の瞬間には身を乗り出し、窓の縁に腰かける体勢をとった。
「そんな事しては、濡れてしまうよ」
「露払いさ」
「ワイパーは動いている様子だが」
「君は前方確認だけ頼む」
 銃声が数発、続いて鳥の様なモノが次々と墜落してくる。死体はこのまま直進すれば乗り上げる位置だ、運が悪ければ車体にも降って来るだろう。
 ぼくは云われた通り前方だけを見て、悠長に構えていた。すると激突する事もなく車が避けた。運転席の方をよくよく見れば、ハンドルに掛けられているのは足袋の片脚。席の足元にはローファーが片方転がっていた。死体を避けると同時に、足袋がハンドルを躍らせる。雨の畦道に連なる黒は、三本足のヤタガラスだ。
「お待たせ」
 上空の露払いを終えたのか、ライドウがようやく運転席へと身体を下ろす。帽子と外套は、しっとり暗色に落ち込んでいる。
「よく分からないが、お疲れ様。今のは多分、蛇行運転というやつだな」
「酔ったかい?」
「アルコールも無いのに、どうやって?」
 問いに問いで返せば、ライドウは暫く沈黙したのち哂い「船乗りに訊かれた際は〝酔っていない〟と返し給え」と呟いた。
 
 
 それなりの時間を走り、ようやく港に到着した。小雨が海を叩くせいか、やや霧が濃い。灯台の光はじりじり遮られ淡く、あれなら人の目にも優しく映りそうだと思った。
「事務局に休憩所が有る、其処で待つと良い」
「ライドウは?」
「時間が許す限りは居るつもりだよ」
 道端に車を停車させたライドウから、先に出ろと促された。差しても無意味かな、と思いつつも蝙蝠傘を開き降りる。案の定、霧は傘の横から下から、容赦なく肌をくすぐる。
 オボログルマと軽いやり取りの後、彼を管に戻すライドウ。霧にMAGが淡く溶け込み、色付き綿菓子の様だった。ふわふわと作り出されるアレを初めて目にし「本当に食べ物なのか?」と訊ねたら、ライドウが買ってくれたのだっけ。ちょうど多聞天に屋台が並んでいる日で、それが何の催しだったのかは知らない。霞を食べているのが良く似合う、とライドウに評されたので「これはカスミという名前なの?」と訊いたが、答えは綿菓子だった。
「随分と大荷物だね」
 トランク片手のライドウに、上から傘を半分貸してあげた。
「この後、定期報告会が有るのでね」
「なるほど、だからご機嫌斜め」
「察しの悪い君に、僕の機嫌が分かってたまるか」
 煉瓦づくりの立派な事務局は、どこか冷え冷えと見える。扉を開き入ったものの、ライドウが後に続かない。ぼくは逆回しの動作で外に出ると、再びライドウへと傘を分ける。
「入らないのかい?」
「外の方が落ち着く」
「ではぼくも外で待とう、君と居た方が面白い」
 雨の音か波の音か、じんわりとしたノイズが常に付きまとう空気。人影か鬼火か、見え隠れする影もおぼろげ、気配は儚い。
「それにしても今回はタイミングが良かったね、ライドウはいつも忙しそうだから」
「そちらが暇人過ぎるだけさ」
「ねえ、乗船チケットはいつ出せば?」
「乗り込む際に確認される」
「ねえ、ぼくがいつ戻って来るのか、訊かなくて良いのかね?」
「君が真実を云うとは限らぬ、どうでも良い事だ」
「ねえ、さっきから君は追われている?」
 一瞬だけ、気を乱したライドウ。しかし観念したのか、いつもの哂いで返事をくれる。
「里への定期報告会が昨晩だったから」
「どういう事?」
「……ククッ……すっぽかしたのさ」
 なるほど、そして要注意人物のぼくと居るのだから、動向は危ぶまれるだろう。機関に従いながらも反発心を隠さぬ君だ、常に疑いの目を向けられている事は想像に易い。
「御覧、もうお出ましだ。全く、こういう事に関してだけは早いな」
 ライドウの視線の先、街灯に留まる烏が居た。先程のヤタガラスなる悪魔とは違い、ごく一般的な烏だ。翼を広げ、此方に滑空してくると、蝙蝠傘の天辺に着地した。
『ライドウ、この後どうするつもりだ』
「怪しき異国人が日本国を大人しく離れるかの、監視に御座います」
『それは、我を封じ込める必要があったのか?』
「童子こそ、機関の連中に頼んでまで、何をそんなに焦っておられる?」
『それはお主が──』
 笛の音が会話を割いた。いつの間にかタラップがかけられ、船員が佇んでいる。
「出航時間は先だが、乗り込みは可能だよ」
 上司との会話を投げ、ライドウがぼくに云う。そして懐から何かを取り出し、ぼくの鼻先に突き付けてきた。手袋の指先で掴み確認したが、これもチケットに見える。
「提示を求められた際には、君の持つ券と一緒に出し給え」
「分かった」
「ああ、ついでに此れも」
 やや屈み、トランクのサイドポケットに手をしのばせるライドウ。するりと抜き取った物を、こちらに預けてくる。ぼくは自分の鞄を一旦地面に置き、胸元に手を伸ばす、指が軽く触れあった。
「本?」
「船旅は長いからね」
「ありがとう、でも返却がいつになるか」
「どうだって良い、くれてやるよ」
 本を挟んで、手の甲でトントンと胸を叩かれる。合図の様に感じたぼくは、ライドウの顔を覗き込んだ。じりりとローファーのソールが鳴き、背伸びする君。互いの帽子が先に鉢合い、続いて唇が、舌が、幾度も味わったMAGの味が行き交う。
「また遊ぼうね、夜」
 耳元で名を囁けば、その瞬間だけ君の目に精彩が。それを見届け、身を離した。本と引き換えに、傘の持ち手を君に預けて。
「……ルイ」
「何?」
「いや、達者で」
 どこか無感情に、ぼくを呼ぶ声。唇が酷く冷たかったと、今更に感じる。
 烏を載せた蝙蝠傘を差すライドウ、いつもと変わらぬ服装だから、全身全霊黒づくめ。魂に差す影は重く昏く、闇に溶け込む美しき人でなし。
 そんな君を、ぼくは愛しているのかといえば、それは分からない。人間的に云えば〝通りすがりに見た美しく面白い花〟その程度かと思う。だが人は、そんな一瞬であろうと、灼きついて離れない情を得るらしい。名前も思い出せないのに、感情だけが刻まれるらしい、呪いの様に。
 
 
 案内された客室は、想像以上に広かった。ベッドも二つ有る、しかし此処で間違いないそうだ。陸上とも違う不規則な揺らぎは、どちらかといえば面白い。さっき聞いた話によれば、この〝ゆりかご〟と相性の悪い人間は吐き気を催すそうで、難儀な事だ。
 ジャケットをハンガーに掛け、ハンチング帽を傍らに置き、ソファに腰かけた。先日のホテルで座ったものより、少々固い座面。肩の髪をひと払いし、手袋を外した両手で本を持ち上げる。タイトルはファウストだった。既に知っている気もするが、書き起こされたものを読む事は初めてだ。開く前に、地からはみ出る紐に気付いた、ページを真っ二つにする青いそれは水平線のよう。そういえば人間は〝最後どこで閉じたのか〟が、感覚だけでは分からないらしい、だから印を挟むのだと。
 つまり、これはライドウの読みかけという事である。それをぼくに預けて良かったのだろうか。もしかして、続きを読むつもりでトランクに入れた可能性は?
 やたらに広い部屋を見渡し、たった今、彼が居たらどうしていたろうか、そんな空想をする。調度品の質感を確かめ、軽装になればぼくに絡み遊び、飽いたらこの本を読む。雨が上がれば甲板にぼくを誘い、遠くに消えた母国を見てはしゃいだのだろうね、もはや無関係だと。
 脳裏の君に青空が似合わず、独り笑った。