「夜」
君の名前を呼び、ぼくは堪らず身体を起こした。ああ、背中が疼いてしょうがない。羽が生えそうになるのを、数秒の集中で抑え込む。これを興奮というのなら、ヒトが云う所の勃起なのかもしれない。ライドウの台詞が、堕天使たるぼくを……わたしを、貫いたのだ。
「ぼくが悪魔でなければ、共に居られないというのかね?」
「そんな事は云ってない」
「ならば気にせずにおいで」
表情を失くした君は、やはり一層美しい。失くしたというよりも、未だ全てを持たないのかもしれない、知らないのかもしれない。あの休日に見た通り、サマナー以外の部分は傷だらけで音飛びし放題、殆どが不協和音なのかもしれない。
「悪魔も人間も大差無いとは君の論だ、それに従えば良いだけだろう。人間相手にだって、これから基準を作ってゆけば良い。それにね、白黒つける事が出来ない人間なんて、とても大勢居ると思うよ」
それこそ悪魔、神でさえ。
「だから夜、ぼくが何者かなんて本当はどうでも良い、そうだろう?」
「…………ククッ、尻尾は出さないときた」
ほら見た事か、此方の好奇心に鎌をかけていた。これだから侮れない、デビルサマナーめ。しかし、今回ばかりは見せ過ぎたねライドウ、窓を閉め忘れては侵入されて当然。それがどれだけ高い位置に在ろうと、翼を持つものには無関係だ。
「さ、二度目。ぼくを求めていたと云いなさい」
覆い被さり上から呪いを吐く、出来る限り雑に。あまり真剣に行なっては、本当に契約を結んでしまう恐れがあるだろう。力量差などは関係無く、ぼくが己の気紛れを信用出来ないから。
「君の意のままに云うのは癪だな」
枝垂れるぼくの髪を指先に掴み、目の前に遊ばせるライドウ。
「この髪、一糸くらいくすねておけば良かったと、痛く後悔した。擬態して、鏡でも見れば会える」
「それはぼくに非ず、君でしかない」
「それで構わぬ、君の真似をするのさルイ。どれだけ僕が君を認識していたのか、確認するのだよ。そうでもすれば、頭から消せた筈。幾ら模倣しようが、心髄は宿らぬ。云われた通り、僕は君を……あまりにも知らないのだから」
「一糸と云わず一房でもどうぞ」
許可した途端、髪を手綱が如く繰るライドウ、そして引き摺り下ろしたぼくに縋りついた、抱擁というには硬すぎる。頬が擦れ合い、もみあげがちくりとした。
「どうせ知れる事も無い、詮索する気も無い。なあ僕の中に入れよルイ、嫌でも僕の呼吸と熱と、生体エネルギイを感じさせてやる。其方に知る気が無くとも、僕を押し付けてやる、君の好奇を充たすのは僕であると──」
言葉が途絶えたと思った矢先、また唐突に喋り出す。
「仕置きの真似事なぞ君には似合わぬ、あれは欲を伴うからこそ身が入り、相手を脅かすものだ。君のは仕置きでは無い、ただの摩擦だ。僕の望みを叶えたと云うが、思い上がるな。本当に僕の意思を、欲を読み取っていたとすれば……四十と云わず、百、それこそ僕が悲鳴するまで穿って然るべきだ」
「だからね、夜。それを君から要求させる事で、ひとつの仕置きとするのだよ」
人心掌握に長ける様で、自身が軸となる場合は慧眼に霧がかかるらしい。だから答えを教えてあげたのに、ライドウは無反応だ。触れ合う胴から伝わる心音、助走が如く加速してゆき、やがて飛び降りた。
「……君に犯された日、激しい拒絶と虚脱を覚えた。そして君が渡航してからというもの、その日の事ばかり思い出す。今までずっと、他者からの情欲は僕を貪り利用する煩わしいものばかりだった、それだというのに。ルイ、君からは……どの様な理由や形でも構わない、僕に注いで欲しいと、そんな莫迦げた事まで考えてしまう、今も」
「ぼくからの行為は暴力とは違うと、そう感じるの?」
「暴力でさえ良いと云っているんだ、まだ解らないのか!」
人間の細かい事は、本当に解らないよライドウ。君の自尊心を詰れば、仕置きになるかと思ったのに。覚悟した君は折れる事なく、ぼくを吸い込み始めた。高慢と威圧を纏いながらにして、自らを捧げるその姿勢、本当に自覚しているのだろうか。潜む魔性に惹かれ集うヒトや悪魔を〝愚かで野蛮〟と哂うのなら、君は些か性質が悪いね、知っていたけど。
「分かったよ、君の気が済むまで抱いてあげる」
ぐいと引き剥がし、正面から覗き込む。ようやくまともにぼくを見たライドウ、睨むでも眺めるでもなく、それは共に遊び歩く時の眼をしていた。
雨雲が立ち去ったのか、窓の四角は美しいSteel blueで、カーテンも両端に留まり息を潜めている。汽笛が微かに聴こえ来るので、思わず船を確認したくなるが、少し堪えた。音からして遠いだろう、海上まで飛んでしまえば、その間にライドウが起きるかもしれない。いや、まだ起きない事がおかしい。以前は確か、この時間帯に鍛練していた。
「ライドウ」
傍らの少年を揺さぶり、耳元で呼ぶが起きる様子が無い。マットレスが代わりに返事している。昨晩、散々軋ませたのは使用済みのベッドだったが、事が終われば未使用の方へと二人して移り、そのまま寝た(ぼくは眼を瞑っていただけ)糊のきいたシーツは第三者の臭いも無く、それに安堵したのか、君は数秒足らずで寝てしまった。
「夜」
再度呼んだが、やはり無反応だ。そういえば人間というのは、起こすタイミングによっては急死したり、夢魔に攫われるという話を聞いた。周囲に悪魔の気配は無いが、はたして〝ぼくの目の前で〟そういう事が実行されるのかは気になる。ライドウが仲魔を召喚する時も、可能な限り人間のフリをしているが……感覚を通じ合わせた途端、バレるだろうね。
好きに寝かせておけば良いかと、ぼくだけでベッドを離れた。自分の鞄を掴み上げ、窓辺へ行く。外は一面の青だ、建物や外灯は同系色に沈み、水没した都市のよう。
テーブルに置いた鞄をぽっかり開き、手を差し入れる。指で闇を掻けば、徐々に感触がまとわりついてくる。幾つか当たる中から、息づくものを引っこ抜いた。最初は軽く暴れたが、もう片手でふっくらした胸元を支えると、急に大人しくなる。
「しばらく散歩しておいで」
ソレを窓の外に放せば、おぼつかぬ羽ばたきで空を舞い往き、やがて消えた。
「本当に奇術師にでもなるつもりかい」
「おはようライドウ」
鞄の金具を嵌めながら、ベッドへと返事する。一糸纏わぬライドウが、寝そべったまま此方を睨んでいた。
「どう見ても鳩だった、まさか鞄の中にずっと入れていたのか?」
「寝惚けているの?」
「その窓辺に、羽根の一二本落ちていそうなものだが」
「ライドウもおいで、外の青さが美しい」
「話を逸らすでないよ」
気怠そうな声の割に、すっくと起き上がる君。そして、ぼくの傍までつかつかと歩み来る。丸腰なのに……と思ったが、そういえばぼくも裸だ。君が普段以上に縋るものだから、こちらの着衣を邪魔に感じているのかと思って、すべて脱いだのだ。
「日課は? やらないの?」
「君のタフネスには恐れ入るよ。正直、下手な運動よりも応える」
「つまり、鍛練はサボタージュするのか」
「余韻を潰さまいとする情緒くらい、酌んで欲しいものだね」
背中の傷を、わざわざ残す君の事だ。忘れたくないのだろう、受けた愛憎のすべてを。それが安らぎの為でなく、復讐の為に活かされるのだから、退廃的としか云い様が無い。
「あの男、とうとう戻って来なかったな……」
「置き去られた私物は一体どうなるのかね、スーツやサマナーの仕事道具」
「フロントが一定期間預かってくれるだろうさ」
「ところでライドウ、タダで抱かせてあげたの?」
「対価なら未払い、しかし君と一泊してしまったからね……チャラとしよう」
「きっと管の一本くらい、気付かない」
「その様なサマナーが居て堪るか」
「はは」
君はデビルサマナーを美化し過ぎだよ、反証の様に笑ってしまった。他の全てが自分と同レベルとは、流石に思っていないだろうけど。
と、そこで気付いた。テーブルに置いたままの鞄へ手を伸ばし、片手で留め金を外す。指先でぱかりと開き、手首まで差し込めば、あっという間に手応えを感じた。ずるずる引き摺り出すは、くったりと縒れたガウン。ああやはり、中で分離してしまったのか、どうりで鳩が純白な訳だ(気にせず放ってしまったが)
あれでは人間に戻った際、きっと全裸。この時代の人の世では、公にそれを晒す事は犯罪になりがちなので、少し可哀想な事をした。いっそ人間のまま鞄に押し込めば良かったかな、いや鳩胸で突っ掛かり、入る事すらままならないか。
「おいおい君、備品を持ち帰るでないよ。それとも向こうのクローゼットから〝引っ張り出した〟のかい」
「押し戻してみようか、クローゼットには現れないと思うよ」
ライドウはそれ以上訊いてこなかった。テーブル上の灰皿に指を掛けたが、煙草を持ってくるのが面倒なのか、そのまま放す。この鞄から引っ張り出してあげても良かったが、他の部屋から掴んでしまう可能性もあるし、やめておこう。
「先刻の鳩も、妙に真白だったねえ……あんなものはこの辺りに飛んでいない」
「青の中に飛び立つ白、実に清爽」
「箱舟の窓から放した鳩は、妙に持て囃されるが。烏の方は知っているかね、ルイ」
「ノアの箱舟の事? よく知らないな、カラスが何か?」
様々な伝承を、いくつか浮かべてはみた。しかし其処からアタリをつけるよりも、ライドウが喋ってくれた方が愉しい。それに、人間がやたらと派生させた信仰だの神霊だのを、ぼくが把握する筈も無い。いずれ我々の世界に顕在するのだから、その時に知れる事。
「旧約とは異なるアラブの民間伝承だ。最初に偵察のため放された烏が帰還しなかった理由、それは洪水に荒れた水面を漂う〝生き物〟の死骸を食べ漁っていたからだと。この不服従を呪ったノアの声を聴き、神は烏に罰を与えた。羽根は黒く染まり、声はつんざく喚きの様に、そして永久に腐肉を食す身体となった」
「へえ、厳しい」
「君はこの不服従とやらの責任、何処に有ると感じる?」
「事前に約束も無かった場合、ノアに落ち度が有るのではないかな」
地位や親密の度合いも考慮せず、命令者と実行者という理屈で答えた。するとライドウはじわりと口角を上げ、流し目でぼくを見た。どうやら嬉しい回答だったらしい。
「餓えを充たす快楽、それを上回る条件か忠誠でも無ければ、還る訳がないよねえ、フフッ」
「そうだね」
「だからルイ、君が帰って来なくとも、何もおかしくは無かった」
「嬉しくなかった?」
「予想外だった」
「嬉しくなかった?」
「君、時折妙に食い下がるな…………ああそうさ、嬉しいね。だから都合をどうにかする僕の為に、待ち合わせには遅れず来給え。それと、僕がもう要らぬと云ったら、止めていい」
「嬉しくなかった?」
これしか云えなくなった訳では無い、ライドウの感情確認がしたいだけ。一方で君は、どこかうんざりとした表情に変わりつつある。怒らせたとして悲しむぼくでは無いが、感情を揺らす姿にそれとなく胸を躍らせるぼく、表現としてはこれで正解だろう。
「情けなく喚きたく無いのだよ、君の前で」
「普段の君からは想像もつかない声色を上げているけど、情けなくなんて思わないよ。それに、どんな形でも構わないと、昨晩云ってた」
「やはりどうしても、己の耳に入ると寒気がする」
「では、ずっと口を塞ぐ形で行おう」
「もう好きにし給え」
ぼくに呆れる君の素振りは、どこか懐かしい。数十日など一瞬である筈のぼくが、何故だろう。ライドウの横顔を眺めど、理由は浮かばない。人間も一瞬に対し、同じ感覚を覚える事は有るのだろうか……
思い巡らし静観を続ければ、徐に腕をぐいと引かれ、浴室に誘導された。どうせ互いに裸なのだからと云い、シャワーをぼくにぶちまけ、泡を飛ばして含み哂い、濡れながらじゃれあっては「あのレストランに行きたい」と呟き、またぼくを引っ張って部屋に、自分は一足早くさらりと水気を落とし、いつもの重そうな装備を纏っていた。フロントは別々のタイミングで抜け、外で合流。水溜まりの隙間を縫い、街角のフレンチレストランへ。本日のランチコースの看板を眺める君が突如、腹を抱えて笑い出す「予約をしていなかった」と。続けて向かったのは路地の片隅小さな屋台、君とこの様な処で食べるのは初めてな気がする、カウンター席の縮小版と思えば良いか。客はぼく達二名のみ、眼鏡を蒸気に曇らせた店主が、鍋を相手にライドウ相手に忙しない。手持ち無沙汰の君が「ノアの箱舟と云えば、箱舟の素材に使われる瀝青(れきせい)というのが有ってだね──」とお喋りを始めたが、想像以上のスピードで料理が出てきたものだから「食後に話す」とだけ述べ、箸を掴んでいた。これは〝中華そば〟とかいうものらしく、ぼくが半分も食べていない段階で「再来一份」と店主に云った君は、追って出てきた同じものを容易く平らげていた。更にはアルコールらしき飲料を追加しているので、ぼくが「朝から大丈夫かい、あの黒猫君は」と訊いたら「上司当人が休めと云った」の一点張り。過去に例がないため信憑性に欠けると思ったが結局、君の中を読めない限り、ぼくも等しく〝知らない〟のだから、おあいこだね。
「そろそろ其方の話も聴かせてくれ給え、欧州をどの様にして巡った?」
「話なんて何も無いよ」
「おいおい無いときた、土産話のひとつも? 何をしに行ったのかね、全く」
「餓えを充たす快楽が無かったので、舞い戻った」
「翼の穢れを畏れるか……フン、ただの気紛れで帰った癖に、はぐらかすな」
堕天使と誹られた気がした、被害妄想というものだろうか。
「そうでもないさ。欲を叶えるも、忠誠を果たすも同じ。己が望みの代償に黒く染まるのであれば、悔恨など有るものか。君は違うの、夜」
「ああ、きっと僕も後悔はせぬよ、既に黒いから畏れも無いしね……ククッ」
「君を応援しているよ、この先も」
帽子の影でほそる眼、グラスの影でまろむ唇。アルコールにか、ぼくの言葉にか、君の上機嫌の理由は判別不能。いや、人間は上機嫌になる為に呑むのだったか、それとも上機嫌だから呑むのだったか。やはり、いまいち解からない。
「あのねえルイ、君は余計な事をせず、暇人で居てくれたらそれで良い。間接的とはいえ前科が有る……帝都で妙な真似をしてみろ、僕もまだ暫くは十四代目という立場を利用したいからね、大目に見る事は無い」
「妙な真似とやらを、これまでもした覚えが無い」
「おいおい、またもや無いときた。槻賀多にも、帝都にも、僕に対しても……いや、もういい、再会を祝し乾杯」
目の前に置かれた空グラスは、一方的な乾杯をされ。二人分を一気にあおる君は、勝手な祝い酒。まるで、此処にぼくが居なかったとしても通用する振舞い。
思わず「幾度も繰り返したの?」と、訊こうか逡巡し、やめた。