「あの様な事を易々と提案出来るのだから、君は〈生き写し〉が居る事への想像が足らぬ」
「っ、ぷは」
「ねえ、功刀君?」
睫毛の雫に反射して、視界が悪い。斑紋の光が艶めかしい男を炙り出す。
庵に着くなり袴を剥かれ、浴槽に叩き込まれた、しかも水風呂。
夜明けの青に刳り貫かれた窓と、俺の発する光だけが頼りの暗闇。いつか見た水族館の夢の様だ、ただし自分は水の中。
「墓場の土、落とすだけならシャワーでいいだろっ、どうしてあんたに」
「久々に観たくなったのさ。死にかけの君が泉に漂う姿は、まるで海洋生物が如し美しさだったからねえ、ほら」
喉を指先で潰されつつ、再び沈められた。ツノが底に擦れ、息苦しさよりそちらの痛みに身を捩る。水中から見上げれば金色の月が二つ、俺をじっと見下ろして。
(こいつ、苛々してるな)
同属になったライドウを意識すればこそ、苦痛が却って頭を冷やす。
赤ん坊が声を上げた瞬間、くびり殺そうとした俺を見ていたら、また違ったのだろうか。
いや、分からない、未だにこいつの五割も読めない。あっさり人殺しをした瞬間、幻滅される様な気もする、ボルテクスの頃から散々唆してきたくせに。
「げほッ、は……はぁッ、は──」
引き上げられた直後、空気の代わりにMAGを飲まされた。こういうタイミングでやられると、一際濃く感じて駄目だ。項から指先まで、電流が奔る様な刺激。充ちるというより、一服盛られた様な感覚。浅く深く舌ごと嬲られ、濡れたもみあげが頬をくすぐる。
ようやく口を解放され、俺はだらしなく舌を見せた。ひとまず薄めたかった、生気と精気を。
「僕の席を取られたのだから、取り返すまでだ」
仄暗い色に戻った眼で、ライドウが呟いた。首を包む掌が、黒を辿り乳房に下りる。俺はそれを無心に眺めつつ、さっきの墓荒しを思い出していた。
宿る先が有れば、ただひたすらに移るだけなのか、あの赤子は。
「……じゃあ肉体返してもらったら、それでいいのか」
「嫌だね、一度居座れば何が残留するか分からぬ、君には改めて産んで貰うよ」
「生きることも許さないって、つまりどうするんだ、あれは殺すのか」
「元々ヒトとして生じておらぬ、死ぬというのも可笑しな話さ」
云うか云うまいか……墓場から引きずっていた事を、たぶん此処で捨てた方が良い。
「あんたの形してなけりゃ良いんだろ、だったら俺が遺族の誰かと〈器〉を作って、それに移せば済むんじゃないのか?」
胸に食い込む爪が、指の震えが、俺の鼓動を急き立てた。
また酷く冷たい眼で俺を睨んでいるのだろうと、そう思いながら面を上げれば……ライドウはまともに俺を見ず、視線を投げていた、揺れる水面に。
何を考えている……さっさと俺を打ち据えろよ、何をも許す訳にはいかないと、諦めろと詰れ。俺が他と繋がる事を、永劫許さないと暴れてくれ、夜──
「良いよ」
「……は?」
「構わぬと云ったのさ、したければすれば良い」
売り言葉に買い言葉か、別の思惑が有るのか、それとも……本当に構わないのだろうか。
「しかし早い者勝ちだ、此方も好きにさせて頂く」
云うなり立ち上がるライドウ、大きく揺れる水に一瞬身を捕らわれ、俺は出遅れた。
目の前で閉められた引戸を、開いた時には姿も無く。脱衣所の籠から衣類をさらった形跡も無い、一直線に何処へ向かったか、察しはつく。
「ライドウ」
障子が遠くで開いては閉まる音、俺は開け放ったまま裸で駆けた。
「夜!」
部屋に辿り着き、最後の障子を開くのももどかしく、半身で突進しぶち破った。
残骸ごと転がり込み、見上げた先には刃物片手のライドウが。
「やめろっ」
脚に縋りつき、床に引き倒そうとした。
「僕が殺すのだから、君には関係無い」
「中が他人だろうとっ、俺とあんたの間に出来た身体だ!」
「云ったね、つまり君は抜け殻だろうと、己を分け与えし者と見る訳だ。転移先を用意するだけのつもりが、意識を奪われかねない……余所の身内にね」
「やらないっ、やりたくない、違うんださっきのは、さっきは……俺」
何が違うというのか、自分でも訳が分からなくなってきた。嫉妬と諦観を同時に得たかったのだと、口にしたくない、どうせバレてる。
「とにかく……やめてくれ、あんたの顔してる人間が殺されるの、見たくないんだ」
「僕は平気だが」
「俺が嫌なんだって、云ってるだろ!」
叫ぶと同時に身を離し、脚を蹴り払った。回避するライドウと逆に揺籠を引き、間に入る。
裸身で取っ組み合い、刃物を奪おうと手首を捕らえる。よくよく見れば、これは夜の……器の守り刀だ。普段は揺籠の枕底に隠してある、俺とこいつだけが把握している物。
「魔除けで殺すつもりかよ」
「歴史上、自害の際にも使われてきた筈だが」
「身体はあんただけど、あの赤ん坊はもう別人だ、他殺じゃないのか」
「何だろうと構わぬ、君と違い僕はヒトも殺してきた、今更何だというのかね」
「それこそ今更だ、余計に手を汚す必要無い」
「此処で汚さずして何とする、肉体が僕と等しいのならば、流れる血も汚れも己のものだろう」
滾々と湧き出る殺意が、肌から直に伝わるMAGで分かる。冷静になれと云っても無駄だ、少なくとも俺よりは冷静だろうから。
「もし……もしも〝次〟が産まれなかったら、あんたどうするつもりだ。魂だけ抜いて、せめて器は確保しておくべきじゃないのか……お古が嫌とか、駄々捏ねてる場合か?」
「ならば今すぐ僕を受け入れ、孕み給え!」
「いつもそうしてきただろ!」
吠え返し、噛み合った。濡れた肌が、互いや上下を不鮮明にする。
手首を掴む指を、刃先の方へと滑らせた。紋を血が伝い、淡い碧を朱が覆う。命令も約束も無く、ライドウは俺の真赤な指先をすくい、口に含んだ。
脳裏で〝気安く吸わせるもんじゃない〟と近い記憶が甦り、すぐ云い訳した。気安いものか、利が無いのに与える筈が無い。悪魔として悪魔にくれてやる、過去の自分を消し去る様な行為を、進んでやる筈が無い。
血を、精気を吸う程に輝く刀身、悪魔としての性。痛いだけ熱く、熱いだけ愉しく、愉しいだけ充たされ、過ぎれば酷く渇く。覚える程に、単身ではどうしようもなく、それは人も悪魔も変わらないのだと今なら分かる。
「はっ……は、あっ……はぁっ」
徐に挿入され、身を捩り床板をぎゅうっと鳴かす。何十、何百とやっても慣れる気がしない。刀傷と違うのは、染み出す体液。云われた通り〝受け入れる〟為、一層濡れる股座が憎い。
「ぁぅ、ぁー」
自分と別の喘ぎを聞いた途端、強張り思わず締め付けた。
揺籠を視界に入れるもいたたまれず、真上の男をじっとり睨む。
「フフ……赤ん坊の前で、信じられない事するねえ君」
「……場所変えろよ、床痛いし」
「見せつけてやれば良いのさ、お前の入る余地は無いと」
「はぁっ、何云っ……馬鹿じゃない、のか……ぁ」
あろうことか、片脚を高々と掲げられ、結合の様を晒すライドウ。
羞恥の震えにつま先が引き攣る、角度が卑しい音を立て、俺の耳を責める。興奮ばかりが先走り、却ってソコの感覚が鈍る。
「あぅ、あっ……やだ」
「何が」
刀を放るライドウが、両腕で更に抱き込んでくる、片脚だけを。
「こ、れ、気持ちいの……あんただけじゃ、ないのかっ」
浅い、酷く浅い、焦れる、芽だけくすぐられ、無痛の壁だけ叩かれ続け。
「で……出入りの感覚、しか──」
言葉尻をはじく様に、一息に抜かれた。
陶然とする俺を抱え込み、肩に担ぐライドウ。足先で守り刀を揺籠に寄せ、障子の残骸を蹴り歩き、部屋を出る。
いくら庭園や囲いが有るからと、渡り廊下まで丸裸で移動するのはどうなんだ。肌寒い、実際朝靄も出ている。青い空気に染まる彼岸花は、いつ見ても現実味の無い色をしている、異界の様な。
「ああは云ったものの、やはり気が散る」
「……勝手な奴」
「関係を見せつけてやれど、君の痴態をお披露目する趣味は無いからね」
「痴態ってなんだよ人をスキモノみたいな云い方しやがって、あんた自分のセ……性行為の趣味が良いとか思ってんのかよ」
「成程、君は己の方が上品と思っている訳だ」
「いいからさっさと済ませてくれ」
運ばれた先は寝室で、既に敷いてある布団の上に降ろされた。どうして都合良く褥が準備されてるんだよと疑問を抱いたが、ライドウの帰還に合わせて自分で敷いた事を、ようやく思い出した。
「今度はしっかり、奥まで刺してあげる」
どうせこうなると思っていたんだ。
仏間の畳上で、ふと思う。人が生まれた時と、死ぬ時と。思えば下里の家には、両極端な時に訪問している。今年生まれたと思った者が、気付けば成人し、系譜の子と思えば孫であったり。記憶力に自信は有るが、一目では錯覚する事も増えた。長期的な交流というものが……僕の人生に訪れた所為だ。
「此れを機に、君達の墓も新しい方へ移す」
「はいっ、お願い致します」
深々と座礼するは、鍛冶師の青年。件の妊婦の伴侶、つまり鰥夫である。
「継ぐ者も居らぬ、最初から夫婦墓で建てるが宜しいかね」
「あの、ひとつ確認しても」
「まだ娶る予定が?」
「いえ、そのつもりは無いのですが、この……」
膝上の黒猫を撫で、青年は言葉を濁した。
「何事も無ければ、君より永く生きるだろう、純粋な猫では無いからね」
「こいつが死んだ時には、自分達の墓に入れて欲しいんですが」
「君が約束を違わなければ、その様にする」
本来は人であったと教えるべからず、人の子として育てるべからず。言語を理解せぬ齢だからこそ、残る事を許した。
「何から何まで迷惑かけちまいまして、本当に……」
「あの鍬、君の作品だろう。大変出来が良い、死ぬまで腕を揮ってくれ給え」
「十四代目……有り難うございます」
再び礼をする青年から、ひらりと離れ僕を見上げる黒猫。翡翠に輝く眼を見れば、小言の幻聴がした。
『人修羅殿に説明なさらぬので?』
仲魔の唐突な問いが何を指すのか、一瞬考えた。赤子の魂を、結局〝他の器〟に逃した件だろう。人として生きる事を捨てれば、手段は幾らでも有る。そう、僕も同じく。
「パールヴァティでもあるまい、お前が気を掛けるとは珍しい」
『憂鬱なまま産み、何か差し支えなければ良いのですが』
「この程度で揺さぶられては困る。それに猫の中身を伝えれば、彼はあそこに通う可能性が有る」
『血を分けた魂でも無いのに?』
「産んだ器に一度は入った魂だ。それに、胎に抱えた者でなくては分からぬ感性もあろうよ」
『……それにしても、再び黒き獣に魂移しする機が来ようとは』
「さていつまで持つかね、MAGを詰め物にした剥製だ、ある日突然崩れるかもしれぬ」
『屍鬼の臓器も、在るだけで機能してはおりませんからな。腐る中綿は、いっそ抜いてしまった方が長持ちする……』
「しかし墓発きというのも、お前には懐かしい響きだろう」
『懐かしさを感じるのであれば、貴方はまだ人にお近い』
操り人形と共に一礼し、部屋を後にするネビロス。
僕は真に〝抜け殻〟となった赤子を見下ろし、外套の隙間に手を差し込む。煙草と迷い、小太刀を抜いた。
先日は抜き身であったが、今は元の鞘に収まっている。敢えて清めず、溢れるだけ血を吸わせた業物。鞘から抜けば、刀身は艶やかに輝き、烏の濡れ羽が如し色。
「……矢代」
呼びながら刃先でなぞる、彼の紋を描く様に。
伝う赤を指先に集め、朝露の様に落とした。
「矢代は僕のものだ」
次が産まれたその時には、お前は用済み。
帰結するが良い、それがお前の血、お前が本来吸う筈だった魂の雫、乳の代わりにそれで潤せ。
僕に成りきらぬ僕よさらば、お前はこの古き身と共に焼かれ、何者にもならぬ。
人修羅の、功刀の血肉となる事さえ許さない、何が宿るか分かったものではない。
「…………骨さえ残してやるものか」
僕も〝嫌だ〟と云えば、叫べば良かったのか。
中身の違う写し身に、視線をくれてやる君を見たくない。
ただ、ただそれだけ。