夜のみちゆき



 黒山の人だかり、と聴く事は有るが、実際にはそれほど黒くも無い。
 石や玩具で遊びあう幼子であれば、黒髪を跳ねる度に輝かせたりしているものだが。学生や大人の群れともなれば、帽子を被っている事が多い、ぼくも同じく。
「そこの……もしもし?」
「はい」
 すぐ隣、至近距離から発せられた声の為、おそらく自分宛てと思い返事した。
「ああ、言葉分かるっぽいね。あのねえ、あんまりマジマジと見ない方がええよ、仏さん」
「何故ですか」
「なぜって……そりゃ……」
 声を掛けてきたのは、中折れ帽に薄手のトレンチを着た中年男性だ。
 暫し云い淀んだ後、その〝仏さん〟を一瞥し、改めてぼくに視線を戻した。
「今周りを囲んでるのは役人、調査員だけよ。死因もはっきりしてないのに、不用意に近付いたら危ないでしょ、縁起も悪いし」
「あなたも調査の方ですか」
「いや自分は其処に勤めてる、只の会社員。全く、入口に良い感じの木が有るからって……いや、会社の人間じゃないだけマシか。従業員が職場で吊るとか、そんなだったら一瞬で尾ひれの付いた噂回るし」
 木が、という言葉に触れたぼくは、ひとつ気になり仏さんをマジマジと眺める。
 確かに、首に痣の様なものが見えた、既に紐は外されたという事か。
「死因は首吊りによる窒息ですか」
「見た感じはね。でも外傷も何も無いのに死んでた場合、それこそ気を付けなよ、病気かもしれん。準備無く関わったら、何を感染(うつ)されるか分からんよ」
「ところで縁起が悪いというのは」
「あんたぁ、見た目によらずお喋り好きね……」
 いよいよ回収に移ったか、袋に包まれ仏さんは見えなくなった。
 作業衣の一名が此方に来て、隣の男性に何やら伝えている。
「病気でも他殺でも無いとよ。やいやい、ようやく仕事に入れそうだ、まさか昼までかかると思わんかった」
「お疲れ様です」
「ちなみに縁起ってのは、何でもかんでも基本繋がってるから、近付いたら自分も寄せられちゃうよって事。だから弔い作業をするでもなけりゃ、部外者はわざわざ近付くもんじゃないってね。あんたの国じゃあ違うのかい?」
 別れ際、口早に語る男性。片手を上げ、朗らかな挨拶を残し社屋のドアを開けていた。
 ぼくは人の掃けたアプローチで、件の木を見上げ想う、何をだろうか……
 そうだ、ライドウだ。


 待ち合わせの多聞天に戻ったが、彼の姿は無い。
 以前も一度だけ、ずっと来ない時が有った。あの時は銀楼閣へと確認に向かった覚えがある、結局ライドウは余所に監禁されていたのだが。
 幾つかの可能性を巡らす……ぼくが人波に身を任せ、瞬間風速の高い場所にふらふらと離れてしまった為、約束の時間に来ていないと思われたかもしれない。
 しかしぼくが見当たらなかったとして、ライドウは帰るだろうか。いいや小一時間は待つだろうな、最長で三時間待たせた事もある、流石にあれは立腹の様子だった。そして待ち合わせ場所の娯楽性が低い場合、本を携帯する様になった彼、速読癖も相俟って〝一冊では足りぬ〟と呆れていた。
(訪れたかどうか、それだけ視るとしよう)
 石虎の片方に寄り、眼をじっと見つめる。縒り合う意識の束から気配だけを摘まみ上げ、覚えの有る質感を探す。
(居た)
 いつもライドウは吽形の石虎に寄って待つ為、こちらの方が読み取れると判断した、どうやら正解らしい。此れを右側に待機するのは、恐らく抜刀し易いから。
(立ち去った)
 懐中時計を幾度か気にした後、外套の影が境内を抜け往くのが判る。
 という事は銀楼閣に帰還したか、はたまた別の用事に向かったか……いや、予定時刻からそれほど経過していない、次の予定が詰まっているとは考えにくい。


 積極的に干渉するつもりは無かったが、多聞天まわりの悪魔に堂々と尋ねた。
 得体の知れぬ不穏を感じるのか、硬直のまま動かぬ者も居れば、昏倒してしまう者も居た。
 正体を極力悟られぬ様にしたいのは、伝播からライドウに知れる事を避けたいから。
 ぼくの事を「ヒトの形をした何か」もしくは「悪魔寄りのヒト」と捉えているとは思うが、正確な答えが解っては関係性も変わるだろう、彼がサマナーだからこそ。それには未だ早い、出来ればもう少し違う形で明かしたくもある。
『其処ノ宿ニ入ッテ行ッタヨ、同ジ様ナ黒イ恰好ノ連中ト』
 送迎車に並び停まるオボログルマが答えてくれた、ライドウのオボログルマと違い声色はしわがれ、車体も歪み褪せている。全ての感覚が鈍っている為、ぼくへの警戒も働かないのだろうか。
「ありがとう」
『四人デ泊マレル客室ナンテ、有ッタカネェ』
「勘定に含まれていないので」
『オヤ……サマナーダカラ、テッキリ』
「ぼくはサマナーとは違うかな」
 つまり、ライドウの他に二人居る。
 数を意識した直後、無意味さにおのずと微笑んだ。現場に何人居ようが、ぼくが何かを練り直す事はほとんど無い。
 宿の入口は大通りからひとつ入り込んだ所に在り二階建て、背面を更に背の高いビルが塞いでいた。特筆すべきデザインでも無い、木造に瓦屋根。
 これは角部屋かな、と思いつつ侵入し受付を確認する。晴美のホテルと違い、大玄関で靴を脱ぐシステムの様だ。脇のベンチに腰掛け、片方ずつ脱ぎながら靴箱を眺める。ライドウの革靴が有った、ぼくの脚を幾度か蹴ってきたそれが。
「失礼します御客様……あのぉ、予約などは」
 受付台から出てきた着物のフロントマンが、帳簿片手に訊ね来る。
「ヤタガラスの者です」
 堂々と嘘を吐いた。
 ここで相手が一瞬黙ったのは対応手段の思考であり、正体への疑念では無い様だ。
「お部屋は二三人向きでして、四名様となると布団を敷く場所が……」
「いいえ、通達が有り参った為、数分で帰ります。部屋だけ教えて頂きたい」
「そうですかそうですか、二階の角部屋です、通りと逆の方……ああそれと一応、室内から施錠出来る様になってますのでね、ちゃんと戸を叩いてやって下さいね」
 正解だ、窓の多い部屋の予感がしていた。サマナー達は窓から悪魔を招き入れたり、己の仲魔を放す事がある。万一の際、窓から逃れる事も容易い。逆に、一切を干渉させない場合は、窓ひとつ無い部屋を好むのかもしれないが。
 ライドウの靴が置かれた直ぐ真下の段に、自分のショートブーツを差し込んだ。
「あっ、上草履は……そうそう、其処の使ってくださいね。それにしても、洒落た靴下履いてますな」
「ありがとう」
 フロントマンに返した後、近くの階段に真直ぐ向かう。
 〝何処がどの様に?〟〝この柄がお好き?〟〝他に洒落た柄を教えて欲しい〟等々、問いを設ければどこまでも話は続くが、現状別の目的がある場合は「ありがとう」と答えておけば良いと知る。それと、いまひとつ趣旨の分からない呼びかけにも、同じく答えておけば良い。
 思えばライドウ不在の場面で、ぼくは沢山の〝ありがとう〟を云っている気がする。これを魔法のワードと勘違いした西洋人、と思われているかもしれない。
(はて、ライドウには云ってきたかな)
 何度か云った筈だが、それは相槌でも無いし、感謝と捉えればノイズが雑じる。ぼくがライドウにそういった類の言葉を投げるのは……彼がどこか、喜んでいる様に見えたから。
(喜ばせたいという事?)
 それも少し、違う気がした。
 階段は段ごとに、それぞれ違う音で鳴く、似ているようで違う反応。上りながら思った、コレに近いと。裸足と、ブーツと、草履と、別の条件で踏みつければ更に違う音だろう。単純に、違う音の出る条件を突き止めているだけ、何故?
(やはり彼に興味が有るのかもしれない)
 人間の殆どはそのようなものと知っている、ライドウも人間の一人、しかしどうしてか、もう少し眺めていたい。人を憎み、人に焦がれる姿は……覚えが有る。
「なあ、あんた」
 廊下突き当り、角部屋前の人影が唱えた。ぼくが二階に上がった時点で警戒を向けて来る、真面目な者だ。
「ルイ・サイファだろ」
 利発そうな通る声、前を開いた黒スーツ、シャツも黒、艶の控えめな黒ベレー、ウエストベルト背面に管六本横差し、比較的若い雄。
「ええ、その通り」
「何しに来た」
「ライドウを捜しに」
 単刀直入というやつだ。すると若いサマナーは、ぼくを藪睨みし数秒そのままで、此方から歩みを再開すれば口を開いた。
「入りたけりゃ入るといい」
「おや、いいのかい」
「……ちょっと耳を貸せ」
 これで密着した途端、胎でも刺されたら面白い。そう思う矢先「あんたに手を出した所で、俺には何のメリットも無いから安心しな」と続いた為、ぼくはサマナーに寄り耳を傾けた。
「丁度良いとこに来た、水を差してってくれよ、水」
「水?」
「あんたの十四代目が今、部屋で可愛がられてるからよ、乱入してさくっと回収してくれ」
「ぼくのものではないよ」
「白切るなよ、あの狐が化かされてるって評判だぜ」
 サマナーの眼がやんわり細まったが、下卑の色は無い。恐らく純粋に、ぼくの様な存在と付き合うライドウが珍しく感じるのだろう。
「可愛がっているという人間を無視し、君が勝手に決めて良い事なのかな」
「御上がヤってる間、部屋に居られたもんじゃない。大体今回だって、十四代目には札渡すだけが帝都の用事で、此処に一泊する必要は無かったのに……ったく」
「ぼくを入室させた事を、咎められないのかね」
「予想的中と、逆に喜ぶと思うぜ」
「予想?」
「あんた、テンノカワの屋敷に来たっていうじゃないか、十四代目が監禁された時。だから今日も、ひょっとして来るんじゃないかと云ってたのさ」
「成程」
「御上も逆上する様なタマじゃないから安心してくれ。第一、逢瀬の約束に割り込んだのもコッチだしな」
「ライドウが予定時刻を勘違いしていた訳ではないと」
「そんなヘマするかい、あの男が」
 引戸に手をかける直前、サマナーが肩越しに振り向く。
「見返りも無く機関外の奴に股開くなんざ、可笑しな話だ。ルイ・サイファ、あんた十四代目にとんでもないブツを与えてるんじゃないのか」
「あげた方が良いのかな」
 一瞬笑い、咳払いで誤魔化すサマナーが戸を開く。上草履を脱ぎ置くスペースに二人納まると、引戸に有る閂をかけていた。確かに簡易的であり〝一応〟の施錠といった風。
「御上! 来客ですよ」
 サマナーが手の甲で、襖を数回叩く。せっかちなのか、既に上草履の片側を半分脱ぎながら。
「どちら様」
 返る声に対し「ルイ・サイファ」とあっさり打ち明けられ、続けて襖も開けられた。
 サマナーは遠慮無く畳に上がり、蠢くものへとぼくを通す。
「ほら見ろ、来たじゃあないか」
 ライドウを抱え貫く男は大笑いし、大層上機嫌な様子。はだけた着物に丸腰で、行為を止める事も無い、ぼくを警戒していないのだろう。見縊りというよりは、単なる楽観か奇矯を感じる。他者が介入する事さえ、イベントと思っている笑いだ。
「どうだ十四代目、彼氏も含めて三人でやらんか?」
「僕が向こうに気をやる間、萎えてしまいませぬか」
「二体同時に操るのは十八番だろ?」
 否定も肯定もせず、口角を上げるライドウ。外套と装備一式は、座卓の下にまとめ置かれていた。あれ等が無いと只の学生の様にも見え、国の倫理でいえば目の前の光景は不純となる。
「ほれ……つっ立ってないで座ったらいいよ、べるぜぶう様」
 御上と呼ばれる男が、おもむろに呟いた。久々の名称にコメントするべきか迷ったが、探り合いをする気も無い為、座卓隣の座布団に腰を下ろした。
 片脚をスラックスから抜かれ、黒猫褌の隙間から一物を挿入されているライドウ。対面の交わりだ、求められれば唇を預け、貪られつつ揺さぶられ。
 こうしてライドウが犯される姿を見るのは、初めてだった気がする。間接的に視た事は、幾度と無く有った。
 しかしぼくの思う所は、寄せては返すを繰り返し……黒猫褌を見れば〝あの黒猫君には今回、どの様に云い訳してあるのか〟だの。御上の体型を見ては〝ベルゼブブといえば、アレが人の形を取った際に近いな、この男〟だのと、赴くままに気を遊ばせ。この調子では恐らく、彼等のプレイを盛り上げる玩具にもなりようが無い。鈍いと散々叩かれるぼくも、これは察しが付いた。
「お前の彼氏は冷静だなぁ、別に指咥えて見てろだなんて指図しちゃあいないが、興奮の素振りさえ無いとは恐れ入った」
「そんな関係では」
 褥に押し付けられたライドウが、抑揚も無く答えた。
「抱かせといて何をまた……まぁそれ云ったらワシも彼氏って事になっちゃうな、そりゃ不味いわ」
「里に育てて頂いた自分には、不服を唱える権限も御座いません。御上の皆々様が望む様、自分の事はお呼び下さい」
「はは、その手にゃ乗らんぞお前、これまで何人喰い殺してきたんだ、えぇ?……まぁ、殆どは自滅だろうがなぁ、はは…………はっ、はァ……ッ」
 いつの間にかライドウの褌は剥ぎ取られ、スラックスもつま先に引っ掛かるだけ。御上の肉瘤がびたびたと、彼の臀部を打ち付ける音だけが響いた。
(側面から見ると不自然だな)
 眺めていて感じた、人間と人間は〝交尾〟に向く形をしていない。やはりその予定は無かったのではないか、与えたのだから知っていた筈なのに。
(そういえば、挿入する所が違ったな)
 気付き、思わず笑いが零れた。ほぼ同時に御上が呻き、下肢をぶるりと震わす。
 ライドウの眼は人を通さず、天井を真っ直ぐに見上げていた。喘ぎこそしなかったが、呼吸の乱れを微かに感ずる。
「ふーッ…………おい、ちょいと、サイファさん」
 ぼくを唐突に呼んだ御上は、ライドウの脚を片方ずつ肩から下ろすと片手を扇ぎ、此方へ来いといった具合のジェスチャーをした。
「綺麗にしてやんなよ、指でいいから」
 御上の発言に、ライドウが一瞬だけ強張った。ぼくはそれを確認すると、膝を擦りつつ彼等に接近する。
「注いだばかりなのに?」
「だって腹痛くするでしょうが。なにお前さん、いつも出してそれっきりなの? 輪姦(まわ)したら投げっぱなしの爺さん共じゃあるめえし」
 げらげらと笑った御上は、たっぷりした腹を揺らしながらやや前傾し、ライドウの腿を叩いた。
「ほれ紺ちゃん、四つ這いになり。ワシの指より彼氏の指の方がイイだろ?」
「……指に大差は有りませぬ」
「じゃあやって貰ったら分かるわ、ほれ穿ってやんなよサイファさん」
 ぼくは別に構わないのだが、ライドウに抵抗が見られた。しかし拒絶の様さえ羞悪と感じるか、ぬっと上体を起こすと、体を翻した。下半身だけ着ていない状態は、少しだけ新鮮な眺めだ。
 ぼくは左の手袋を外し、指輪の無い中指を孔にあてがう。未だ緩くなっているのか、本人より抵抗も無い。肉に温められた精液が、指に絡んでじっとり滲出を始める。根本まで埋め、ゆっくり関節を動かした。連動する様に、ライドウが布団の敷布を掻く。
「ほらっ、矢っ張りイイんじゃないか」
 御上がはしゃいだ声を上げた。ライドウの胸を撫で回す掌をそのまま滑らせ、彼の股座を揉んでいる。
「サイファさんは知らんかもだけどね、本来こいつぁ不感ッ狐(こ)て揶揄されるくらい、抱かれてる時には勃てなくてねえ、まあ良くて半勃ちよ。自慰させたら普通に勃起するで、不感症ってよか周りがド下手糞なだけかもしれないけどねえ、ってワシもかい!」
 褥に笑い転げた御上は、着物をぐちゃぐちゃにしながらライドウの下に潜り込むと、伸ばした両腕で臀部を抱き寄せた。僕の指は爪先辺りまで抜け、代わって別の粘着質な音が。
「んむんんむ……ん、もが、ほれもっと指突っ込んでやんなよ、彼氏ぃ……」
 ぼくが彼氏か否かはさておき、これは実際ライドウを楽にしてやるのが最善な気がして、再度指を埋めた。
 御上にしゃぶられ、ぼくの指に内を探られ、これで性から逃れようとは流石のライドウも困難らしい。
「ひ…………っぐ──」
 微かな喘ぎの瞬間、ぼくの指はぎゅうっと締め付けられた。熱は外へ外へと逃げ、一番下の男に飲み干されている。首を傾け、軽くぼくを振り向いた君の眼が、学帽の影で恨めし気に光る。
「んはは、まさか十四代目のが飲めるとはなぁ。あっ、今日の為に溜めてたんだったら悪かったなあ」
 唇を舐めずり満足気な御上は、ふうふうとライドウの下から這い出る。ぼくも役目は終わったと悟り、指をずるりと抜いた。すかさず横から「どうぞ」と手拭いを渡された、あの若いサマナーだ。
「はーやれやれ…………で、何枚欲しいんだった?」
 着物を脱ぎ捨て、替えの褌を締め始める御上。ライドウに確認を取りながら、客室用の浴衣に袖を通している。
「最低四枚は」
「はいはい……って相手四つ足だろう、予備無くていいんかい」
「御厚情痛み入ります、しかし一つ仕損ずる時点で意味を失くす札でしょう」
「おおっ、よしよし引っ掛からない! そうそう、だから順番決まってんのよねえ……ちゃんと説明してんのに、解かって無い奴が適当にベタベタやっちゃって、それで〝効かない〟とか抜かすもんだから始末におえんのさ」
 若いサマナーが革鞄から出した紙切れを受け取り、扇の様にあおぐ御上。
「ま、話も聞かん上、予備が成立すると勘違いしたまま雑に扱う奴なんて、一発死んじまえばいいの!」
 肩を弾ませ笑いながら、御上は枕を蹴った。下から唐突に現れた管と財布を拾い上げ、後者を開く。
「紺ちゃんには幽霊札じゃなくて、お駄賃あげようなぁ」
 云いながら、既に装備を整えたライドウの胸元に袖を伸ばす。ホルスターと学生服の隙間に、護符の様なものと一緒に紙幣が挿し込まれた。
「有り難う御座います」
「とかナントカ云っちゃって、金よりブツでもっと寄越せと思ってんだろ? 一気にあげたら遊んでくれんだろうし、そもそも札は一気に沢山用意できん」
「大事に使わせて頂きます」
「まだ小遣いタンマリ有るのよ。それこそお前が掘られる以前の、小っさい頃から賭けとったから……そっちの一番乗りはワシとの自負が有るわ。んまあ見事十四代目になってくれちゃって、可愛い可愛いお前は全く……ひひひ」
 ライドウの頬とモミアゲをぐいぐい撫で擦ってから、ようやく離れた御上。ぼくの近くに座ると、座卓に肘をついて煙管の用意を始めた。
「今日はもういい、お行き」
 云われるライドウは畳に跪き、頭を下げた。お開きという事だろうか、あの若いサマナーも部屋の出入口に控えた。
「サイファさんもだよ!」
「ああ」
「ああじゃないよ、すっかりくつろいじゃって。ほれ、往っちまったよ十四代目」
 居心地の良し悪しも分からなかったが、どうやらその様に見えたらしい。これは恐らく、ライドウに続くべきなのだろう、同じ速度で。
「しかしサイファさんよ、出ていく前にひとつ良いかね」
「何か」
「その上等な口金のボストンバッグ、お前さんが良けりゃあ、ちょいと中を見せて欲しいんだけどなあ」
「構いませんよ」
 ライドウが見えなくなった所に声を掛けられた為、彼が居ては不都合な内容かと思えば、そんな事も無かった。目に付いたものを、思い立った時に手に取りたい人間なのだろう。
 ぼくは体に添わせた鞄を膝上に移し、ベルトを外し口金を弾いた。
「……えっ?」
 空っぽの暗闇を覘き込んだ御上は、暫し呆然と無言。
「満足頂けましたか」
「あぁ……う~ん、やばいねえアンタ」
「と云いますと」
「コレが術でもやばいし、素でもやばい。さっきライドウに結構渡したから、この後のデートはその金使いなさいよ」
「いつも奢ってくれます」
「ハハハハハ」
 笑ってばかりで、煙管は指先に弄ばれるまま。つぼに入ったというやつか、ぼくが肩を叩かれ退室する際も、背後でまだ笑っていた。


「一階廊下の共用洗面に居ると思うぜ」
 退室を促したのは、例のサマナーだ。助言からして、ぼくを見送るのは階段までらしい。
「ありがとう」
「こちらこそ。お陰で短めに済んだ、あれでもな」
「君はいつも参加しないの」
「十四代目とは関わりたくない」
「上司の命令でも?」
「あのヒト調子は良いが、泣いて嫌がれば勘弁してくれるぜ、多分」
「君は泣いて嫌がった事があるの?」
「無えよ! 普通に拒否して済んだから!」
「ライドウでなければ平気だった?」
「確かに、そうかもな。上司の興を削ぐ事は、本来避けたい。でも俺は見てきたからな、狐に狂わされた連中を……今でこそ平気な素振りしてるが、あの御上だって最終的にどうなるか。俺だって分からん、まじまじと見続けたら体が反応しそうで、正直恐ろしいぜ」
「嫌いな人間が凌辱される様であろうと、興奮に狂うもの?」
「嗜好の個人差でしか無いだろう。少なくとも俺は、十四代目が嫌いだから避けてるつもりは無い。破滅したくないが故、忌避対象になっている。何はなくとも、あれと関わるのは縁起が悪い」
 〝縁起が悪い〟というフレーズは、数刻前にも聞いた。
(死体と同じ扱いを受けている、ライドウ)
 以前、自ら死人と云っていた覚えが有る。成程、実際その様な眼で見る者も居るのか。
「何笑ってんだ……ったく、散々な遊びに巻き込まれといて、よく平然として居られるもんだ。そうそう、あんたも下で改めて洗った方が良いぜ、左手」
 じゃあな、と踵を返される。
 ぼくは独り階段を下り、廊下を黙々と歩いた。水音が近付いて来る、薄日の射し込む明るい洗面は横長で、そこにぽつんとライドウだけが居た。左肩に外套を掛け、何かをもそもそと咥えている。
 並び立ち、じっと横目に観察していると、ライドウはカランのハンドルを捻りつつ、タイルに吐き出した。ああ、歯磨きというやつだ。
「歯ブラシ、持ち歩いてたの」
「此処の備品、使い捨て。帳場に一声掛ければ購入出来る」
「へえ使い捨て、つまり一回きりという事。なかなかしっかりとしたブラシに見えるけど、人間の歯を磨いた程度で傷むの」
「萬歳歯刷子(ばんざいはぶらし)だよ、既に旧型だから安価で済むのさ。個包装のまま保管可能、消毒の手間を考えれば捨てた方が早い」
「また詳しい」
「出張時、トランクに数本入れるから」
「施設に必ずしも有るとは限らない為? 宿に泊まれるとも限らない為? 急に口を汚染された時の為?」
 幾度か口を漱いだライドウが、ぼくの脛を軽く蹴った。硬いトゥでなく、上草履だから感触が違う。それにしても鋭い打ち付けに感心し、足下を見てから気付いた。ライドウの指先は、がっちりと鼻緒に噛み合っている。
「なるほど、この様な履物を出された場合、二股の靴下が有効なのか」
「今日は足袋だけどね…………ところで君は、いつもの靴下を突っ掛けているのかい。それは歩きづらいに決まっている、下手すれば擦り切れて穴が開くよ」
「替えは有る」
「其のボストンに数本入れてあるのかね」
「そうだよ」
 出す事ならば出来る為「有る」と答えて良いと思った。
 ライドウは追及のそぶりもなく、失笑しながらぼくの左手首を掴むと、流水に寄せる。
「身体と違い紙幣は洗浄できぬ、さっさと捨てに行きたい」
 手首から滑り落ち、ぼくの指の谷間から節、爪の表面から先の裏側まで、余すところなく撫でる君。特に中指を、丹念というよりは神経質に磨いていた。
「黒蛇の指輪は」
「今回は連れてこなかった」
 硝子を透過する陽射しが、金色の中の五芒星を輝かせる。曲面は水滴を、また別の石の様に着飾った。
「此れもそう、填まる先は薬指から人差し指まで、その時々で違う。指輪の位置を固定しないというのは、意図が有るのかねルイ」
 装いは内に投じてあり、引き出す際にこの〝人体〟に添う。洋服は分かり易い、帽子に関しても頭はひとつだし、手袋も靴も大体は左右が決まっている。
 しかし指輪のように様々な大きさと相性の有るものは、転がり落ちた指先へと喰いつかせていた。手の装飾品であれば掌から顕れ落ちるる為、親指が選ばれる確率だけは低い。
「意図は無いよ」
「適当な奴」
「此処に立ってから、ソォダ水の香りがする」
「歯磨粉の薄荷だろう、其れで磨いていたから。香りに覚えが有るのは、あの炭酸水にも薄荷糖を溶かしてあるから」
「同じ味がするという事? 舐めてみても?」
「味なぞ無いに等しい、香りと刺激の差さ。其処の円缶だよ、どうぞ御勝手に────」
 云われた通り、舌先に感じる味は違う。香りの方も、ライドウと白檀の要素が混じり、そちらの方が主張した。
 肩の外套からは、別の草の匂いが薄らと。此処に在りもしないのに、過去より滲む紫煙が漂い始め、其処に意識を傾け過ぎれば、今が疎かになる。
(ヒトの体というのは全く)
 繊細なつくりの癖に、調整し割り振る能力が低く、記憶の底も浅く、活動期間も短く。
 真面目に演じ続けたところで、得るものは少ないと、よく思う。
 結局、純粋な薄荷も分からぬまま、ぼくは突き飛ばされるまで吸い続けた。



 旅館を出てから連行されたのは、大衆的な雰囲気の飲食店だった。夕方には早く、昼には遅い。時間を空けることなく営業する店は限られており、そしてライドウが個室の気分ではなかったのだろう。
 店内は屋外よりも騒々しく、これまで利用してきたミルクホール、レストラン、旅館の食堂、屋台店、それらと比較してなお賑やかだ。
 入店するなり一瞥してきたのは店員だろうか、作務衣という着物の上に、更に前掛けをしている。その店員から〝勝手に座れ〟と促され、今度はぼくがライドウを一瞥した。
 食卓も椅子も等間隔とはいえぬ煩雑な空間の中、ライドウは目敏くそして迅速に空席を見つけ出す
 中二階席の影、間の角、テーブル脚にようやく窓の光が届くような位置だった。卓上にメニュー案内も立てておらず、少しばかり見渡す。
 厨房が見え隠れする間仕切り、その上を通る梁に、ひらひらと吊るされる札が目に付いた。一枚一枚に、飲食物の様な名称が書かれており、あれが出せる商品という事だろう。札はそれぞれ褪色の程度が違う為、時折追加されてきたのだと物語る。
「適当に頼んで良いかね、適当な人」
「そうしてくれた方が良さそうだ」
「しかし、今回よくも場所を突き止めたものだ。とても急な話で、何処にも行き先を残していなかったというに。前と同じく事務所に訊ねたところで、所長にも当てがつくとは思えぬ」
「そうだよ、探偵事務所にはお邪魔しなかった。君を見やしなかったかと、周辺で聞き込み回った」
「学帽に外套姿の若造なぞ、そこらに居る」
「君は判別しやすい方ではないかな、背も高い方だ。面立ちは美形と云えば、かなり絞り込める」
「人によって美観は違う、特に同族のルックスに対しては極端な嗜好もあろう、目撃情報の数を多く必要とする」
「横顔を見た者であれば当たり易い。もみあげの鋭い男と云えば、これはかなり決定的だよ」
「フン、僕の偽物でなければいいがね」
 店員が注文を取りに来た。ライドウが四つほど何かを伝えると、再確認をする事もなく相手は即座に去ってゆく。
 もしもこの店が、提供の帳尻を合わせる事に長けていた場合、この狭いテーブルに乗るのだろうか。大皿では三枚でいっぱいになってしまいそうだ。向かい合わせて座る僕たちの距離感も、なかなか近いというのに。
「このような密度の場所、ライドウは疲れないの」
「紛れてしまった方が己を個を認識せずに済み、却って楽な時もある」
 会話しようとすれば、自然と声量は大きくなる。呟く程度の声は、周りに飲み込まれてしまうからだ。
 軽度の交流にさえエネルギーを消耗する事は、店内光景からも目に見えている。しかし今のライドウは、体よりも精神を重視している様子。過敏になっているからこそ、刺激の強い空間で麻痺したいのか。
「どうも投げやりに見える」
「予定を引っ掻き回されておきながら一寸の不快感を引きずる事も無く、残り時間を健やかに過ごせる奴の方が少数派と思うがね」
「本来の予定が崩れた、つまり行きたい所が有った?」
「幾つか候補は有ったが、全てを巡ろうとまでは考えてなかった。そういったものは、己と相手の瞬間的な気分にいくらか任せたいものさ。それに叶わなかった部分を、ほとぼりも冷めぬうちに並び立てては苛立ちを増長しかねない。食事で発散する機を、そんなことで相殺したくは無いね」
 ああ、やはり怒りは生じていた様だ。さっきの客室では、そんな態度を微塵も見せなかったのに。
 しかしあの御上も、彼が全てを納得し受け入れているとは、露ほども思っていないだろう。そこまで人心の読めぬ印象は無かった、ぼくの〝人間に対する〟観察眼だから怪しいものだけど。
「食べ終えてからの予定は」
「日程をそこまで気にするような奴だったかね、君」
 ライドウの云う通り、時間を気にする必要のない人間として、ぼくは存在していた。
 それこそ彼とは真逆だ、ライドウは組織に駒として使われる一方で、健気にも個の時間を奪われまいとしている。単独で済む行為なら、もう少しは楽に、そして無駄無く隙間を埋められたであろう。他人であるぼくと交流することで、それらは難易度を上げている。
「あの黒猫君は」
「君との逢瀬を監視し続ける趣味もなく、出す口も持てぬ現場には居たくないのだろう、御上との個人的な打ち合わせにはついて来ぬ」
「あれって打ち合わせなの」
「名目上そんなところではないかね」
「紙幣とは別の紙をもらっていた」
「次の仕事で使う道具、単なる消耗品、受け渡しであれば一瞬で済む。事務所に僕が不在であれば、鳴海所長に言伝とともに渡しておいてくれたら良いものを。たとえ所長が興味本位で横領しようと、使い処も少ない。ましてやデビルサマナーでもない者にとっては、紙切れ同然さ」
「迎えに行かない方が良かったかな」
「あれの小間使いが気を利かせた流れで、君が入って来た。君達二人に感謝はせぬが、恩には着る。そしてルイ、君が興奮を見せぬ性質で助かったよ。いや、見せぬというより、してもいなかったのかな……ククッ」
「ライドウのまた違う一面が見れて、ぼくに悪い事はなかったよ」
「そうかい」
 相槌に特別な色は無く、感情の発露は抑えられていた。心ここにあらず、とまではいかないが、これは意識を〝閉じている〟気配だ。
(指先まで淡々として)
 着席直後にネックボタンを外した指先は、規則性も無く卓上を叩いていた、たんたんと。
 それにしても、ライドウが煙草も出さずに居るという事は──
「はいお待ち」
 思った瞬間だ。答え合わせの様に皿を置かれ、ぼくは俄かに感嘆の声をあげた。
 店員は一瞬目を丸くしてから、皿三枚のうち二枚をぼくに寄せ、あっという間に立ち去る。
 もしかすると、料理の到着に大喜びしたと勘違いをされたのではないか。ぼくは〝喫う間も無いほど料理が早く出てくる〟という推測が的中し、はしゃいだだけ。
「妙に喜ぶね、食欲を持ち合わせぬ癖に」
「ぼくが感動したのは其処ではないよ。しかし勘違いされたお陰で、ちょっとした気遣いを受ける事が出来た。期待を見せた方に多くの餌を置く、あの動きはぼくの反応によって引き出されたものだ」
「餌という言葉選びが適切で無い。君が与える立場か、与えられた食事に不満がある場合には違和感無く発する事が出来る」
「ならばライドウ、君にとってMAGは料理、それとも餌?」
「人が体の為に飲食するように、サマナーはMAGの為にもう一層、別の取得を必要とする。呼称は状況で換わるだけ、MAGは料理でも餌でも無い、悪魔とサマナーの血液に過ぎぬ」
「君たち特有のエネルギーでは無い、様々な生き物が宿している筈」
「それこそ言葉選びさルイ、普通に暮らす者からは認知もされぬ血だ」
 ぼくがひとつ喋る間に、ライドウは一気に食べ進める。
 フレンチは皿に対し六割程度しか盛られていない記憶だが、此処の料理は〝皿いっぱい〟盛られていた。油や香辛料の大胆さが、口にせずとも伝わってくる。
「分かった、これは支那料理かな」
「半分当たり、安価な材料で済むよう創作されたメニュウが多い」
「ライドウが飲食代を渋るなんて、珍しい」
「選択肢の中で、出来るだけ騒々しく、量も多く、作るのも速い店にしたまで」
「さっき貰ったお金は足りる?」
「三分の一も使わぬ」
「新世界で一番高いアルコールを頼んだ方が、すぐ失くなるのでは?」
「食べ終えるまでに残りの使い道を考える」
 陶器のスプーンで、黙々と料理を刻むライドウ。
 粉から作った紐、豆から作った四角、別の皮で包まれる獣。消化吸収排泄すれば跡形もないというのに、工芸品の様に彩られた菓子が有ったり。
(植物や家畜へ与えるエネルギーに、そのような加工をする例が少ない)
 あちこちで眺めてきた人間の営みを、ぼくも刻んでは呑み込み、確かめていた。
 摂取の形に拘る悪魔は、人間のそういう部分が投影されているのだろうか。それとも人間の過剰な食物遊びは、〝我々〟の様な存在から与えられた欲だろうか。どうだったかな、これに関しては覚えが有る様な、無い様な──
「ルイ、ひと口も食べないのかね、取り分ける為の食器は有る」
「そうだライドウ、多聞天に向かう途中の事」
「人の話を聞き給え」
「死体を見たよ、自殺した人間。もう降ろされていたけど、木で首を吊っていたそうだ」
「身内以外の騒ぐ事ではない、事件性も無ければ焼かれて終わるだけの話。まさか君、回収員か警察に質問責めなどしてはおらぬだろうね?」
「現場が空くのを待っていた人と話した。死体をまじまじと眺めるなと、親切心から教えてくれた」
「葬送の済むまでは穢れに等しい扱いだ。君こそ過去に見てきたんじゃないのかい。即、焼却といかぬ村里に入り浸っていたのだから、目に付く時間は幾らでも有った筈さ」
 ああ、確かにそうだ、最近まで見ていた。しかしそれは死ぬ前の人間、非人とされる生きた人間に向けられたもの。結局のところ生死は問わず、条件により意識される概念なのだろう。
 罪を穢れとするのか、穢れを罪とするのか……両方かな。誰も彼も都合好く、これらを使い分けていたと思う。
 いつの間にやら向かいでは、最後の皿がつつかれていた。赤色の料理は大体の人間が「辛い」と反応する印象を持つ。しかしライドウは食らうペースを乱さず、肌を染める事も無い。色ばかり強く刺激は少ない料理だったのか、それとも悪食のフシが有るライドウだからこそか、判断がつかない。
「ねえ、君はさっき〝紙幣は浄められない〟という様な事を述べた。でもぼくは、品物を対象としたお祓いを見た事が有る、それは違うのかな?」
「儀式を当てようが、納得いかぬまま所持すれば〝縁起が悪い〟程度には穢れたままだろうね」
「ベレーにスーツのサマナー、ライドウの事をそう云ってたよ、縁起が悪いと」
「僕が関われば死を呼び込み易い、紛れもない事実が有る、数字にすれば更に鮮明さ。ククッ、賢明ではないか、あの男」
「ライドウ、君は自分の事を浄めきれぬと、そう思っている?」
「先刻の見世物を忘れたかね、指だけで参加した癖に…………全身洗浄消毒すれば純潔に成れると、君が思うのであれば〝君は〟そうなのだろうよ。僕にとっては気休めに過ぎぬ、衛生の面でしか意味を成さぬ」
「どうすれば君の穢れを落とせるのかな」
「少なくとも、生きているうちには無理だろうね」
「だから死を望んだりした?」
「肉体と次元を離れたところで、正体を憶えている限りは穢れを持ち越すだろう。死なば皆等しく浄化されると、そんな甘言を吐くのは宗教家くらいさ、それも外道」
「君を止めた事があったね、雪の中。あの時は何故、死のうと思ったの? ぼくとの予定をふいにしてまで、逝ってしまいたい理由が有った?」
「己惚れるなルイ、君の制止で生き永らえたつもりは無い。そちらこそ、予定が無ければ傍観していたのではないかね」
 云われてみればあの瞬間、流れで止めてしまった。
 遊び歩く事と同じだけ、死にゆく姿を観賞する事も興味深い。
「此方の気も知らず、ふらりと異国に往く君だ。僕が死のうと、平然としている姿が目に浮かぶよ。だから、次こそは引き留めに応じてやらぬ」
「分かったよライドウ、今度は一緒に逝ってあげる」
「僕の立場がそれを許さぬと、出航前に分かったろう? この国を私用で離れる事は、ヤタガラスから──」
「別の国に往く話ではないよ、一緒に死んであげると云うの」
 カシャンと一際響いた、皿に投げ出されたスプーンが。
 左手で口許を覆い、肩を二三大きく震わせたライドウ。隣のテーブルから、野袴の脚を大きく踏み出した男性が声を掛ける。
「おい大丈夫かや兄ちゃん。飲み止しで良けりゃくれてやっから、流し込んじまいな」
 ライドウは渡されたコップを毒味もせずあおり、少し咳き込んだ。
「あ、酒って云うの忘れてたっけ、悪いなあ」
「いえ、其処は心配に及ばず……お気遣い感謝します」
 ホルスターベルトの裏、煙草が納めてある方とは逆をさぐり、薄いガーゼを引きずり出すライドウ。口と手を拭い、折り畳んでから膝上に置くと、今度は背面腰辺りから財布を取り出す。
 御礼にと差し出されたのは、件の紙幣だ。しかし相手は事情を知らぬから素直に喜んでいたし、受け取った瞬間から〝只の紙幣〟と化すのだろう。


 足取りからして、何処にも寄らず解散の予感がした。
 空の眩しさは鎮まり、影をよくよく伸ばし始める。
「食事中に咽るなんて珍しい」
「辛味が後から効いてきた」
「いくら君が早食いだからって、辛味というのはそんなに足が遅いの」
「茶番はさておき──」
 ぼくは真面目に訊いていたのに、勝手に戯れ合いとみなされてしまった。
「突拍子もない事を述べていた気がするけど、ルイ」
「一緒に死んであげるって、あれかい」
「フフッ、二度目となればそれなりに可笑しい、が……しかし僕好みの冗談ではない」
「冗談ではなく本当だよ」
「次から笑ってやるつもりも無い」
「それなら猶更、三度目の反応を見ておかないと」
 ぼくは躍り出て、ライドウに立ち塞がる。もし歩みを止めなかった場合は、掴みかかってみるかと考えながら。
「一緒に死んであげるよ、夜」
 真正面から見据えた眼は、確かに笑っていない。
 此処は街灯のふもとでもなく、橋の脇でもなく、まさに路の中心で。水流を割る樹の様に、ぼくらは立っていた。
(またしばらく、会ってくれない日が続くかな)
 沈黙するライドウから感じ取ったのは、いつかの日の様な気……戸惑い、怒り、恐れ。
 戦闘時とは少々違う強張りで、いうなれば本来の君なのだろう。
「明後日──」
 思いのほか早く、張り詰めた糸を弾いたライドウ。視線は合わせてくれなかったが、声はぼくだけを刺している。
「明方六時、三日分程度の荷造りをして志乃田駅に来給え。指定時刻に姿を見せなかった時は、置いて往くからそのつもりで」
「旅行?」
「途中でひとつ、仕事を済ませる予定だが……まあ、旅行の様なものさ」
「それは楽しみだね」
 ぼくは本当に気持ちが疼いていた。
 小さく不自由な器に入っていると、これだけの事で揺れるものがあった。
「適当な奴」
 ライドウは呟くと、今日初めての微笑みを浮かべた。